株式会社KON’STONE

会社を作ることにした。
作るというより、ほとんど作ってもらっているに等しいが。
「株式会社KON’STONE」
コンズトーンと発音いただきたい。
「今の調子(tone)」であり、私の化石好きを反映させた「今の石」という意味もこめられ、それはまた石のように永く在り続けるものであって欲しいという思いに通じている。
さらに欲張りなことに、早口で発語すると「混沌」の響きも幻のように現れるという狙いもある。
だからなるべく「ズ」は軽めに発音してもらいたい。
掴みどころのない混沌と石のように固い秩序を合わせ持った創作物を生み出していきたいと思っている。
社名を考えるにあたっては新規も含めてあれこれ迷ったのだが、結局長年ウェブサイトのタイトルとして、あるいは単行本のタイトルとしても使って来たKON’STONEに落ち着いた。馴染みがあるというのは実にいいものだ。目新しさに追われるよりもずっといい。

さて、この会社。
この私が社長である!と胸を張りたいところだが、私の役職は支店長だ。ウソウソ。「取締られ役」ということになっている。
代表取締役は私の妻でもある者だ。いかにも身内で作った感がするだろうが、その通り。
この時期に何故会社設立なのか疑問に思われる向きもあろうが、別に急に思い立ったわけでもなく、前々から作ろう作ろうと思っていたのが、ここにきて強力な協力者を得ることができ、一気に具体化の運びとなった次第。
この社を共に設立してくれる強力な仲間は、高校時代からの友人である有能な編集者と、私などには絶対にないような交渉力を備えたプロデューサーである。

肝心な設立の目的は無論税金対策だ。儲かって儲かって困っている。てなことを言ってみたいもんだ。
理由は色々あれど、中心にあるのは私の無邪気な欲望だろう。つまりこういうこと。
「自分の会社が欲しくなった」
この他人に迷惑をかける無邪気さは、先にブログで記した「iPadが欲しいったら欲しい!」という駄々と一緒だ。
ま、本当のところは面倒くさがりの私にオムツをあてがうようなもので、権利関係などの管理や交渉ごとを代理してもらい、また今後「小商い」をするために社会的な信用を得るという面もある。
何につけ、世間では個人よりも会社組織の方が通りがいいものらしい。つまり、そんなことも知らない世間知らずだからこそ、小規模とはいえ組織という保護が必要になってきたということだろう。

取立てて大きな事業計画があるわけでもないが、手始めに会社のウェブサイトでの物販からでもスタートしたいと考えている。
目新しいものは出て来ないかもしれないが(私が色々なことで忙しいせいでもある)、懐かしいものや手にしやすいもの、深く今敏監督映画を楽しんでくれる方々や映像を志す人などには意外とためになるものなども商品棚に並べたいと思っている。
フライング気味の告知になってしまったが、発言することで実現化へ加速しようという魂胆でもある。
乞う、御期待。

さよなら三宮、また来て神戸

今日は節分。
あちこちで追い出された鬼たちが街を徘徊していることだろう。
追い出して済むならそれも良いが、こういう態度も悪くないんじゃないか?
「福は内、鬼も内」
知らない鬼より馴染んだ鬼の方がまだましという気もする。

先週の木曜日から二泊三日、「最後」の神戸出張だった。
短くない年月続けてきた「アートカレッジ神戸」アニメーション学科講師を今年度で辞めることにした。
事情は色々で、世間を呑み込んでいる不況の大波によって学校が変形したことが一番大きいが、私の都合でもある。
まぁ「潮時」というのが相応しいのだろう。
卒業までお付き合いできなかった現一年生にはたいへん申し訳なく思う。
いつか業界で会えることを期待している。

在任中お世話になった教職員の方々に、心から感謝と御礼を申し上げます。
アニメーション学科専任の宮澤先生、どうも長いことお世話になりました。仕事でも飲み屋でも。
特に、やはり長い間懇意にしていただいた元校長、元広報課長におかれましては今後も引き続きストレスフルな状況が続くとのこと。どこかの総理大臣が口にして問題になったという台詞を敢えてそのままお送りしたいと思います。
「どうぞ戦ってください」

思い返せば、『パーフェクトブルー』が縁で同校のパンフレット用に取材を受けた時からだから、12年ほどのお付き合い。
当時「15Rアニメ」で少し話題になっただけのチンピラアニメ監督に声をかけてくれたのは当時25歳独身の広報マン。彼もいまでは37歳既婚のタイ式マッサージ師に成長している。
「専門学校広報マン」→「タイ式マッサージ師」
どんな成長なんだ。

レギュラーで講義の出前に行くようになってからでもすでに9年が経っている。短いようで長いことだったよ。
9代もの卒業生がいるなんて驚きである。
上手い子も上手くない子も面白い子も面倒見のいい子も気配りできる子も不思議な子も熱意の子もおしゃべりな子も無口な子も業界に入った子も田舎に戻った子もその他色々な子たちがいた。
ああ、どの顔も懐かしく鮮明な笑顔で脳裏を過ぎる……と言いたいところだが、私は人の顔を覚えるのが苦手だ。すまない。
みんな元気にしているだろうか。
それぞれの場所でそれぞれ目の前にあることにそれぞれのやり方で一所懸命に取り組んでもらいたい。学校で学んだこと一番重要なことがあるとしたらそのことだったはずだ。
現在業界で仕事に精を出す卒業生も少なくないことだし、関わっていた期間で少なからず学生のレベルもアップしたと思う。
わずかばかりでもお役に立てたのではないかという多少の自負はある。
実際、最後の授業で見せてもらった学生の映像は数年前に比べても格段に上がっていた。たとえば関わり始めた当初の2年生と現在の1年生では、はるかにいまの1年生の方がアニメとしてというか映像としての格好は付いている。
もっとも、レベルが上がったということであって、ハイレベルではないのだが。
学生は毎年入れ替わるのに、それでも確実に何かが伝わっていると思うと、関わった甲斐もあったいうもの。

必ずしも入ってくる学生の質が高くなった、ということではないと思う。
もちろん中にはとても上手な子もいたし、そういう子を中心にしてグループ制作で見栄えのいいものが出来たこともあったが、そういうことではなくて、アベレージが高くなったのは、大袈裟に言えば「伝統」みたいなものかもしれないと感じた。
別に2年生が後輩に指導したというようなことではない。あくまで推測でしかないが、自分たちの直接の先輩が作ったものを目にした後輩は「自分たちもその程度のことは出来る」という信憑の上に課題に取り組むことになるから、先輩の作品のクオリティが上がればその分、後輩のパフォーマンスも上がるということなのだろう。
「同じ学校の先輩」という身近な人たちがなしたことを「自分たちもその程度のことは出来る」と考えることに何か具体的な根拠があるわけではないが、身近な人が出来るのなら自分も出来るような気になるものだろう。何より「自分たちには到底出来ない」と思って取り組むよりは到達度が上がるのは道理に思える。
それまでは無理といわれていたことでも誰か一人が達成すると、次々と他の人間も可能になる、というケースは時折耳にしたことがある。
女子フィギュアスケートの3回転だとか、女子テニスにおけるサーブの高速化とか。
イメージを先取りすれば肉体が後追いできるようになるのかもしれない。
しかし今日日の学生は、マスコミやネットを通じて同世代ですでに自分たちよりはるかにレベルの高い、優れた作品を発表している人を多数目にしているはずで、それが牽引力として効果が薄いということは、よその学校や自分から遠くにいる者が優れた作品を作っていたとしても、それはやっぱり「関係のない人」と映るのかもしれない。
それじゃ上手くならないよ、そこの君。君だよ、君。
アートカレッジ神戸の在学生にはもう一度、是非伝えておきたい。
「自分はとても下手くそだという危機感くらい持ちなさい」
ま、在任中ずーっと言い続けてきたことだけど。

学校内でも様々なことがあったが、学校外を背景にした想い出も数多い。アートカレッジ神戸の仕事だけでなく、アニメーション神戸の用で来たこともあった。『千年女優』を素晴らしい舞台にしてくれたTAKE IT EASY!さんも神戸の劇団。
神戸とは浅からぬ縁である。
私は、釧路と札幌と東京でしか暮らしたことがないが、それ以外でとりわけ愛着が深いのは神戸しかない。
神戸は最初から印象が良かったが、いまでは大好きな街である。
長年神戸に通わせてもらったおかげで。三宮には多少の土地勘も培われた。もっとも、ほとんど飲食屋だけだが。
美味いものを随分食ったことだよ。
「彌(わたる)」のアワビと神戸牛とか「ビフテキのカワムラ」のアワビと神戸牛とか「あぶり肉工房 和黒(わっこく)」のアワビと神戸牛とか……って、そればっかりだが、目の前の鉄板でシェフが加減よく焼いてくれるアワビと神戸牛という組み合わせが、私には鉄壁のフォーメーションであった。
店の名前は失念したが、先の店以外でもあちこちで神戸牛をいただいた。
自費でも食べたしご馳走にもなった。
どうもごちそうさまでした。
おかげで学習しました。
「肉は高い方が美味い」

最初に神戸牛を食した頃はオイリーなロースでも大きなヘレでも堪能できたが、40歳も半ばになってくると、量はたいして要らないし、ヘレをわずかに食するだけで「もういっぱい」というたいへんお得な身体になった。アワビは食べるけど。
アワビ以外の海産物ももちろん美味しく、瀬戸内海の海の幸を始め多くの刺身が舌と胃の腑を喜ばせてくれたことだよ。
気に入った居酒屋もバーも出来たのに、三宮と縁が薄くなるのは少々寂しいことだ。
あえて一言だけ注文をつけさせてもらうと、ラーメンと蕎麦は全体にちょっと物足りなかったのは麺好きとして残念なところ。
いやぁ、本当にまぁ、どうもごちそうさまでした、神戸さん。

土曜日の朝。そんなこんなの想い出を詰めてホテルの部屋を出る。馴染みになったホテルも次に泊まる機会があるのやら。ホテルの部屋にまで御礼を言いたい気分だ。
「どうもお世話になりました」
ゴロゴロとスーツケースを引っ張って、新神戸駅までの緩い坂道を登る。
何度も歩いたこの道も、これでしばらく歩くこともないかと思うと感傷も湧いてくる。
「ようし!たまには感傷にでも浸ってみるか!!」
歩きながら、脳裏をよぎるのはお世話になった学校教職員の方々や学生たちの顔や美味しいものの数々、馴染んだ風景……そして、一軒のコンビニの前にさしかかり、一番印象的だったシーンを思い出す。
「あ!このコンビニだ!ダルビッシュ見たの!でかかったよなぁ!」

東京に戻る新幹線のチケットを買い、新神戸の駅前で煙草を喫しつつ街の風景を眺める。
「いつかまた……来ることがあるだろうか……」
おお、正しい感傷だ。
さわやかな風に流れて消える煙草の毒煙を眺めつつ、ふと思い出す。
「そういえば、最初にこの駅に降り立ったときは確か……」
……。
全然、覚えていないのであった。
自嘲気味の笑いと一緒に煙草をもみ消した。

追記
新幹線の中でふと思い出した。
「そうそう、最初に新神戸駅に降りたのは、あれは夜だった……」
イメージがフォーカスしてくる。
新神戸駅から出て眺めた最初の神戸、その印象はこうだった。
「あ……ラブホテルばっかり」
神戸、それはロマンチックな街。

『SATOSHI KON−THE ILLUSIONIST−』

何も私が自分で「イリュージョニスト」だと名乗っているのではない。
Andrew Osmondさんがそう仰っているのだ。
その形容がSatoshi Konに相応しいのかどうか私には分からないが、映画やアニメーションといった表現手法は元来手品的、奇術的な「見せ物」としてこの世に誕生したことを考えると、「イリュージョニスト」と冠されるのは名誉なことだろう。
だいたい静止画をつなげて動いているように見せかけるなんて、手品や奇術そのものである。
そういえば何年か前、パリで取材を受けたときのこと。写真撮影に際して、カメラマンは私にこういう注文をつけた。
「カメラに向かって、両手を大きく広げて見せてください」
「絵描きとしての手」がどのようなものかを見せろ、ということかと思ったのだが、どうもそういうことではなく、あとで何かを合成する都合なのだという。
後に記事が掲載された雑誌が送られてきたら、カメラに向かって大きく広げた私の両手から、トランプのようなカードが無数に飛び出しており、その一枚一枚は確か『パプリカ』の本編画面になっていた、と記憶している。
要するに、それもまた映像における手品師みたいなイメージであった。
その雑誌は仕事場のどこかに置いてあったはずだが、あいにく見あたらない。なかなか笑える写真であったと思うので残念だ。
その取材当日も多分、どうせ黒っぽい服装だったのだろうし(たしか黒のアルマーニにちゃんとネクタイもしていたはずだ)、髭にメガネに広いおでこに少ない髪の毛を束ねたその様は、フランス人の目にはきっとこう映ったに違いない。
「東洋のインチキ手品師」
私だってそう思う。

「東洋のインチキ手品師」から「イリュージョニスト」とはまた随分出世させていただいたものである。紹介が遅れたが、『SATOSHI KON−THE ILLUSIONIST−』とは本のタイトルだ。

illusionist

アメリカで出版された、すべて英文によるSatoshi Konに関する評論本のようだ。「ようだ」というのが情けないが、英語を解読するのが億劫なので内容をパラパラと眺めるだけである。
著者紹介によると、Andrew Osmondさんはイギリス人のフリージャーナリストで、主に映画やアニメーションについて15年に渡って書いておられる方。
今 敏監督作を取り上げていただき、どうもありがとうございます、Osmondさん。
ページにはびっしりとアルファベットが並んでいるが、カラーページが多く本編画像などの図版はすべてカラーで収録されている。
定価はUS$18.95(アマゾンでは新品¥1,614となっていた)。これまでに今 敏が監督したアニメーションがそれぞれ詳細に論じられている、ようだ。
目次は以下のようになっている。

Introduction
Kon on Kon
Perfect Blue・Psycho Pop
Millennium Actress・The Running Woman
Tokyo Godfathers・A Christmas Story
Paranoia Agent・We’re All Mad Here
Paprika・Dream Goddess
Postscript

『パーフェクトブルー』を「サイコポップ」と一言でまとめるセンスがなかなか素敵だ。
「Kon on Kon」は監督以前の仕事について書かれているようで『海帰線』(リニューアル版)や『ワールドアパートメントホラー』(イタリア版)の表紙、『老人Z』や『機動警察パトレイバー2』海外版DVDのジャケットが掲載されている。しかし……どうして海外版DVDジャケットのビジュアルはどれも格好悪いのだろう。当地の人には「日本版ビジュアルよりこの方が断然いい」と思えるのだろうか。いつも不思議に思うことの一つだ。
キービジュアルなどが文字が乗らない状態で掲載されているのが少々不思議。イラストのみのデータをどうやって入手したのだろう。
パラパラめくりながら目に付いたところだけ解読しているだけでも、随分と丁寧に取材されているようだと感心していたら、「Introduction」の最後にこう記してあった。

Finally, my deepest thanks go to the subject of this book, Saoshi Kon, for giving up his time to answer my question in person, and for generously sending me follow-up answers by email, all of which made this a far better book than it could ever have been otherwise.

すっかり忘れていたが、この書籍の制作に当たって私はインタビューを受けていた、ようだ。
己の杜撰な記憶力に恐れ入る。
せめて「Introduction」くらいは解読してみようと思って読み始めたら、なかなか興味深い描写にいきなり出くわした。

I first saw Japanese animation director Satoshi Kon in a Venice fetival cinema, at the world premiere of his fourth film, Paprika. With his immaculate black suit and beard, Kon cut a precise, slender, slightly satanic figure as he accepted the festival audience’s standing ovation.

……少し悪魔みたいな姿……。
タイトルと合わせて考えると今 敏は「悪魔じみた外見の奇術師」か。
何か……いい死に方しそうにないな、そんな奴(笑)

卒業制作お疲れさまでした

昨日土曜日は、武蔵野美術大学映像学科の卒業制作講評会。
卒制を終えられた皆さま、本当にお疲れさまでした。
講評は木曜日から三日間行われていたようだが、私は「今ゼミ」学生の発表がある昨日だけの出席とさせてもらった。申し訳ないが、さすがに三日間通しで観る余裕はない。しかし、昨日の発表を見たらちょっともったいないことをしたとも思った。こういうと失礼かもしれないが、学生作品が思いのほか素直に「面白かった」からである。

完成や発表が危ぶまれた今ゼミの学生たちも、あらかじめ卒制提出を辞退した一人を除いて無事発表に至ることが出来た。
火曜日にゼミがあり、その段階ではほとんど映像にはなっていなかった子も立派に(と言っていいくらい)映像作品になっていた。随分長い間顔を見ていなかった気がする学生も、無事発表に漕ぎ着けてくれた。
とりわけ、先日のブログでも触れた学生の短編アニメーションは非常に良い出来で、他の先生方にも評判は上々。
内容は、「自分が何色なのか分からなくなってしまった絵の具のチューブたちが、絵の具の持ち主である子供がいない間に、それぞれの色を回復する」というもの。真っ黒になったチューブは、小人へと姿を変じて自分の色を取り戻すべく走り回る姿がたいへん可愛らしい。
1秒当たりの動画枚数がちょっと少なめので、動きはややぎこちないものの、止めがほとんどなく動き回るし、作品内容に似合っている動きとも言える。
よく動くだけでなく、ちゃんと芝居をしているのが好ましい。
台詞は一切ないが、話は勿論のこと、キャラクターたちが何をしているのか、その心情なども絵と芝居だけで十分伝わる。
それぞれの色を回復するためのアイディアもバリエーションに富んでおり、アイディアがたくさん詰まっている。
音楽は既成のものだが、曲と映像のシンクロも取れていてたいへん心地よい。
タイトルは「あみだしむくきもちはあき」(間違っていたら申し訳ない)と少々変わっている(だからなかなか覚えられないのだが)。これは、12種類の絵の具の色、その頭文字を並べたもの。

フル3Dで制作された短編アニメーション「おとぎ話が生まれるところ」も、これまた力作で、キャラクターの造型やお話も優れた出来である。途中経過をほとんど見ていなかったのだが、「よくぞここまで」と思わせてくれる。
「夜の海、大きなカメラの甲羅に乗って釣りをしている少女が、月に見える白く美しいウサギを釣り上げようとしている」というなかなかシュールなシチュエーションの作品。そして少女がついに釣り上げるのは……。
少女と亀の会話は、奇妙な音声によって交わされ、その内容は字幕で示されるのだが、説明を排し必要最低限に絞られた台詞もうまく選ばれている。

今ゼミはシラバス上は一応「アニメーション」を対象としているのだが、昨年度は漫画もあったし、今年度は実写もイラストを使ったインスタレーションもあり、結局「何でも有り」のゼミと化している。
「アイヌ」と「芸者になりたい男」という非常に難しい題材の上に、にわかには何だかうまく想像できない取り合わせに挑んだ実写「黎明は脈々」も無事に上映を迎えられる。
この作者が最もゼミ出席率が高く、シナリオから撮影、編集の進行状況を随時報告してもらっていたのだが、その制作過程における艱難辛苦、紆余曲折、続発するアクシデントや相次ぐマシントラブルを耳にしていただけに、無事上映に至りエンドロールまで見られたというだけでも感動であった。
音響への配慮が足りないせいか、あいにく台詞があまり聞き取れなかったのが残念だが、どういう話なのかは十分伝わったし、山場ではシュールとさえ言えるショットも出て来る。編集にも格闘の後が伺え、好感が持てる。

街の中に住む奇妙な生物「イートマン」を題材にした短編アニメーションは、言葉足らずというか、素材が間に合わなかったというのか、予定した映像の達成には至ってはいないのだろうが、意図したイメージは何とか具体的な形に定着していたと思われる。奇妙な生物が動く様が可愛く描けていたし、発想そのものが面白く、作者をよく反映しているように思われた。
他には「仮死状態の幻視」や「溶け合う双子」を題材にしたもの、「動くイラスト」とでも言うべき可愛らしいアニメーションなど、いずれも「すっかりなくしてしまった時間」の中で何とか形にしたようである。
中には「わずか○日間!」で仕上げてきた強者もいた。さすがに落ちこぼれだった私でも、卒制でそこまで無茶なことはしなかったぞ。
健闘をたたえたい。

経過はともあれ、とにもかくにも「今ゼミ」の映像発表は無事に終了(あと一人、イラストを使ったのインスタレーションが控えているが)。指導担当としてもホッとした次第である。
指導担当といっても、たいしたことが出来るわけでもなく、ましてや実制作には全然かかったわけでもないのだが、一年間伴走してきた者としては、やっぱり「完成」の二文字は自分のことのように嬉しいものだ。
皆さん、本当にお疲れさまでした。

いずれの作品も、商業的に見ればまた全然違う批評も出来ようが、「他ならぬその作者」にとっては立派な「卒業作品」になっているものが多かったことがとりわけ喜ばしい。
私は作品そのものももちろん重視するが、作者と作品の関係はそれ以上に重視しているかもしれない。
ゼミにおいて学生と多岐に渡ってあれこれ話をして来ているので、学生の置かれた状況や人格もある程度知っている。だから「他ならぬその作者」だから作り得たものなのかという面も重要なのである。何せ「映像表現」なのであり、表現されるのは作者の考え方や見方であろう。
そういう事情もあるので、他のゼミの学生作品を観るのはなかなか難しい面もある。プロの仕事なら作品だけで批評、評価するのも真っ当な在り方だとは思うが、学生や素人作品はどうしても言葉足らずだったり独りよがりだったりすることが多い(だからこそ学んでいるのだし)。
もちろん、いずれの作者だって「作品だけで勝負」と思ってはいるのだろうが、コメントする側としては「それだけじゃちょっと難しい」ということだってある。

今ゼミの学生作品の上映が終わったあと、引き続き他ゼミの学生の作品もいくつか見せてもらった。中には、この日の上映ではないにもかかわらず、休憩時間にわざわざ私に見せてくれた二人の学生もいた。ありがとね。
いずれも力作で、印象に残るものが多かったが、中でも私が「受けに受けた」作品と出会えたのは幸運であるとさえ思った。
タイトルを正確に覚えておらず申し訳ないが(その後の飲み会の席で作者自らに確認したのに申し訳ない)、60分に至る実写大作である。
これが滅茶苦茶面白い。
もちろん商業作品として見れば「たるい」点や配慮が足りない点は多々あるし(録音用のマイクが画面に写っているショットがあったのはご愛敬)、上映が始まってしばらくは私も「学生の長尺……見るのがしんどいな」「退屈かなぁ……」と少々侮っていたのだが、映画の調子が分かってくるにつれて俄然面白くなってきた。後半に至っては一人爆笑の連続。
傑作である。

一つの部屋をシェアして暮らす二人の女性の奇妙な関係を描いた映画だ。
登場人物たちの関係が醸し出すムードが何より魅力の映画なので、ストーリーを記してもその面白さは伝わらないとは思うが、こんな感じの話。
「片や几帳面、片や奔放で少々「不思議ちゃん」という若い女性二人が、小さなトラブルを抱えつつも一つ部屋で暮らしているのだが、ある日ひょんなことがきっかけで「不思議ちゃん」が消えてしまう。「清々した」という反面、残された女性はある種「自分の半面」でもあった「不思議ちゃん」を、ある手がかりを元に探し出そうとする……」
そんなあらましではあるのだが、だからといって「いなくなった彼女を捜し出す」という筋立ての映画ではない。日常描写がとにかくリアリティがあって面白いのである。構図も随所に上手さがあり、たいへん優れた演出力だと言っていいし、登場人物とほとんどイコールだという役者の芝居もたいへん自然で良い。
商業映画やTVドラマには、その登場人物の住む部屋にしろ交わされる会話にしろ、作り物にしか見えない若者の生活ばかりが映し出されるように思うが、この映画にはたいへんなリアリティを感じた。
だって、観ているうちに自分が過去に経験した「痛み」だの「こっぱずかしさ」だのが引き出されてくるのだから(笑)

講評の際、こんなことを伝えた。
「「若いって面倒くさい!」ってことが久々に実感をもって思い出されるくらいのリアリティがあり、私には爆笑の連続だった」
実際、上映中に笑い声を抑えるのに苦労したくらいなのだが、上映会場が笑いに包まれたわけではない。
あの映画、若い子には笑えないかもしれない。特に男子学生には。
上映後の打ち上げで聞いたところによると、聴講していた3年生の女子も笑えはしなかったと口にしていた。
若い女性の作者が若さをある意味突き放して見ている映画である。まだ自分の若さと距離が取れない当の若者には、笑いが生まれにくいことは容易に想像できる。
でも、私はオッサンだし。
いまとなっては若い頃に経験した若さゆえの恥ずかしさを笑えるくらいの距離は生まれてしまっている。
で、スクリーンに映し出されるその「若さゆえの恥ずかしさ」が、「ツボ」なのである。
「ぎゃははは、有る有る!そんな感じ!」

主人公である二人の女性にはそれぞれボーイフレンドがいる。
几帳面な女の子とボーイフレンドが二人きりでいるシーンのリアリティがいいのである。だるい空気とか、男のマヌケな台詞だとか。「あ〜あ、言っちゃったよ(笑)」みたいな。いまもきっとどこかのアパートの一室でこんなシーンが「演じられて」いるんじゃないかと想像できる。
「不思議ちゃん」のボーイフレンドがまたいいのである。
ここから先はわずかにネタバレも含むので、この映画を観る予定の人、観たい人にはお薦めしない。

「不思議ちゃん」が突如消えてのち、アパートに不思議ちゃんこと「ウタコちゃん」の「彼氏」が訪ねてくる。ウタコちゃんは彼氏との連絡も絶っているわけだ。
ルームメイトに前触れもなく出て行かれた女と、出て行った女の彼氏が一つテーブルを囲んで気まずい奇妙な時間を共有する。これだけでもなかなか演出しがいのあるシチュエーションなのだが、さらにおかしくなるのは、ここに新たな人物が訪ねてくるところ。
ピンポーン。
出ると若い男性が一人。
「ウタコさんと付き合っていた、いや付き合っている者ですが……」
「彼氏」に続いて「付き合っている者」だ。
先のただでさえ奇妙な空間に、さらにウタコちゃんを巡っての三角関係が持ち込まれる(笑)
いなくなったルームメイトの「彼氏二人」に挟まれるという、実に気まずくも何だかよく分からないことになっている空気の中でも、ちゃんとお客にお茶を出したりする主人公の几帳面さもいいのだが、男二人の会話もまたすこぶるぎこちなくていいのである。
正確には覚えていないがこんな感じ。
「いつから付き合って……?」
「……二年……いや、二年半かな……」
見ているこちらの座り心地が悪くなるくらい気まずくも爆笑できる。

ムードが魅力の映画だが、後半に入ると、行方をくらました彼女を捜すという展開が起動してくる。ここからがまた面白い。基本的に室内シーン中心だった画面が、屋外に出るという「転調」が効果的。
いなくなった彼女からはある日、手紙が届けられていた。中には元気そうに笑顔を浮かべる彼女の「写真」とルームシェア分の家賃が現金で入っている。
写真の中で微笑む彼女の背後には、場所を特定する上で顕著な特徴となる高架の道路か何かが写っている。この写真と部屋に残されていた「将棋盤」(不思議ちゃんと将棋という組み合わせもまた絶妙なのだが)から得た手がかりを元に彼女を探しに行くことになる。手がかりの発見の仕方も気が利いていて良いのである。
そしてついに二人は再会する。その際、ウタコちゃんがまとっていた不思議さが一瞬破れるところがいいのである。
二人が迎えるエンディングシーンもまた気まずいようで、でもかなり「とんちんかん」にも見えるぎこちなさとよじれるようなユーモアに彩られているのだが、それは是非見てのお楽しみ。
興味が湧かれた方は武蔵野美術大学卒業制作展に足をお運びください。
あるいは、今年度の全卒制作品を収録したDVDが出るのをお楽しみに。
私は周りの「大人」に是非見せたいと思っている。

脳の整理と筋肉痛

ブログのデータが入ったメモリを会社に置き忘れてきたので、「年賀状のレシピ」は後回しにする。

昨日も引き続き、引っ越し先の整理。
作監や美監、原画マンはすでに本来の仕事を始めているが、監督はいまだ荷物と格闘する。
「絵を描くなんてまだ先の話だよ、こっちは」
気の利く制作進行は、引っ越しで頑張りすぎたのか、発熱でダウンとのこと。若さを過信してはいけない。くれぐれも大事にな。
頑張るのはいいが、頑張りすぎてダウンすると、折角頑張った分も帳消しになりかねない。テキトーに休みつつ、時に不平を笑いに混ぜて消化して吉。
あ、そういえば今年はおみくじを引いていないな。

さてと。自分の部屋を片付けるためには、まずは共有スペースにはみ出した資料本の整理が先決だ。荷物の分散を図るにはその分スペースが要る。仕事同様、自分の領域の問題は自分の領域だけでは解決しないことだよ。
目の前にスチール棚二つ。
重たい本がびっしり詰まっており、眺めているだけで気が萎えそうだ。
改めて本棚を見直す。
知的活動に従事する人の書棚に比べれば「屁」みたいな量だろうが、アニメーションの一スタッフが個人として仕事場に抱えるには少なくはない量だろうか。ただ、『パプリカ』からこっち、必要な参考画像はネットで検索することが大半なので、本の増殖はかなり食い止められている。
以前に比べて増えてないからと言って、目の前の本が少なくなるはずもない。
もしかして「自宅に置くスペースがないから仕事場に持ってきたのではないか?」という疑いもあるが、決してそうとは限らなくもないかもしれなくもないかもしれない。
「もしや、誰か他の人の資料が混じっているのではないか!?」
と、疑念の視線で眺めてみるが、いずれの本にも購入の記憶が薄ぼんやりと付帯している。
「何で着物の本が並んでるんだよ?」それは『千年女優』で使ったものだ。
「今さら使わないだろ?『こじき大百科』」『東京ゴッドファーザーズ』の時に参照した資料だが、発禁になったと聞いたことがあるので貴重かもしれない。
「屋久島の写真集?」それは『パプリカ』の大樹の参考。
「好きだねまた廃墟関連」それは趣味。
「……やれやれ」

廃棄するべき本はたいした量もなく、諦めて本の出し入れに取りかかる。
本が詰まったこのスチール棚はアニメ制作会社にはお馴染みのアイテムで、カット袋などを収納するにはけっこうだが、効率よく本を収納するには奥行きが広すぎて不向きだ。ただ、配置のおかげで両側からの使用が可能になったので、表裏両側に本を配することで収納率を上げることが出来る。壁に接していないので大きな地震に見舞われたら大惨事になるかもしれないが。
通路側に面した方に、アクセスの多い資料、打ち合わせスペース側にあまり使わないものを置くことにする。
この棚に収められるべき本はすでに並べられているのだが、乱雑にただ置かれただけなので、これをジャンルごとに整理して並べ直し「使いやすい」本棚にせねばならない。どうせすぐにグチャグチャになるのだろうが、引っ越した時点での整理具合以上に整理されることは予想しにくいので、原初の状態はなるべく快適であって欲しい。

「建築関係はここ、写真集の類はあっち、画集はそこ……」
本を棚に抜いてスペースを作り、収まるべき本を配架して行く。整列が終わった本の背表紙に洗剤をスプレーして汚れの薄皮をはがしてやる。
目の前で秩序が構築されていくさまはたいへん気持ちがよい。
枠の中に秩序を作るという意味では、本来の業務と大差がないと言える。
作業しつつ、記憶から欠落していた本を認識したり、本の配置を記憶したりすることで、「仕事場」を再構築せねばならない。置いてありゃいいというものではない。
整理整頓の苦手な私は、ただでさえ「どこに何があるのか」がすぐに分からなくなるし、そもそも「何を持っていたのか」さえ曖昧になる方なので、こうした作業は「脳の整理」にもなって宜しい。
絵を描く前に脳の整理だ。そう思うとやる気も出てくる。
もっとも、脳に秩序が再構築される分、足腰には鉛のような重みが蓄積するのだが。
本を抱えて立ったり座ったり。
ヒンズースクワットより効くんじゃないのか。

突如背後で「ゴボゴボッ」と不快な音がする。
見ると給湯ポットの蓋からお湯が溢れだしている。
「誰だ!?電源を入れやがったのは!!」
このポットは前日から「ポット洗浄中」であり、その旨大きく貼り紙までしてあるというのに電源を入れたものがいたらしい。
「字を読めない者がいるとは、日本の義務教育持ちに堕ちたり!」
そんな大仰な話かよ。
ええい、配架作業を中断し、ポットの掃除だ。

本との格闘は続く。
「うう……疲れてきた」
本棚表側の整理を終えた頃には大腿部の、特に前面に重たい痛みが蓄積していた。腰に至っては、不平すら言わなくなり無言の抵抗に入ったらしい。
だがしかしけれどもだって、まだ裏がある。
こちらも表同様、アクセスしやすいようにジャンルやサイズを揃え、監督部屋からもそそくさとこちらに書籍を移動し、格好がつくくらいになった頃には筋肉痛と空腹がヘトヘトになってしまった。
スチール棚の上に置かれていたマロミのぬいぐるみ(というかマロミは元々ぬいぐるみだが)を、ポサッと棚に移してやる。
本の間にグテッと座り込むマロミがこちらを見返す。
長年荻窪の仕事場に剥き身で放置されていたせいか、白目の部分が茶色く汚れて、さながら充血しているように見える。
お前も随分疲れているみたいだな。
「……休みなよ」
桃井はるこさんの声が聞こえる気がした。
「……休みなよ、休みなよ、休みなよ、休みなよ、休みなよ……」
うん、素直に従おう。

「アニ*クリ15」本

思い起こせば参加依頼があったのはもう3年も前のことだったろうか。当時、世間から聴取料どころか厳しい非難を集めていたNHKが、「イメージアッププロジェクト」の一つとして企画した短編アニメ企画「アニ*クリ15」。
15人のアニメクリエイターがぞれぞれ1分の短編を作るというアイディアで、今 敏も参加させてもらい、「オハヨウ」を制作した。
実際に制作したのは2007年のこと。制作の模様は当時ブログに記した。
気に入るまで画面を作り込めたのでたいへん楽しい制作であったが、私の報酬は5万円、しかも打ち上げの費用にも足りないという冗談みたいな仕事になった。
もっとも、今後のハイビジョン対策としてたいへん貴重な機会にもなってくれたし、その後も特別講義やイベント、武蔵野美大のゼミなどでも格好の素材となってくれたので、まあ十分に「元は取った」といっていい。
その「アニ*クリ15」が書籍になって明日発売されることになった。

『アニ*クリ15 DVD×マテリアル』(一迅社/定価¥2,940/6月27日発売)

DVDには「アニ*クリ15」全15作(本編15分)とそれぞれのメイキング映像(60分)、書籍には作者のロングインタビュー、絵コンテ、設定資料などが収録されている。
私はすでに中味を見たが、なかなか丁寧な作りでけっこうな仕上がりだ。

anikuri

アニメーションの作り手を目指す方、単にアニメーションが好きな方には買って損のない内容を満載して¥2,940は悪くないでしょう。
あなたも是非お手元に一冊を。

ゼミの楽しみ

今年も武蔵野美大映像学科でゼミを担当している。
ゼミ生は今年も二桁に満たない人数なので、にわか講師(にせ講師ではない。私は正確には客員教授だったはず)としては負担が少なく、多少は気が楽だ。
去年のゼミ生は男子が半数以上だったが、今年は男子学生はわずかに一人。
アニメーションを卒業制作にする予定の学生が多いが、実写を撮る学生も混じっている。楽しみだ。
ゼミで去年と同じネタを使い回すのは何か「いけない」ような気もして(というか、私が飽きてしまうせいだろうが)、一昨日のゼミでは去年とはちがうネタで演出や映像の解説みたいなことをしてみた。
長尺の劇場アニメーションだと見るのに時間の大半を使ってしまうので、『妄想代理人』の1話をネタにする。
1話をまず通して見てもらう。
久しぶりに自分でも見返して思った。
「あ。すっげぇ楽しそうにコンテ描いてるぞ、私」
どうやって余計な芝居や動きを省略して必要なことだけをフレームに収めるのか、テレビシリーズという制約と実に楽しそうに遊んでいるのが微笑ましくなってくる。
学生相手に話をすることでお足をいただいているが、同時に学生それぞれのアイディアに対して同時に頭を回転させることは「多面指し」のようでとても良い訓練になるし、自分の仕事についての反省や批評の時間にもなるので、私個人にとっても貴重な「ゼミ」である。

『妄想代理人』1話を見終わって、頭から順に解説する。
なぜファーストシーンがこのようになるのか。
「私の場合は、いつもファーストシーンは物語の象徴的「総論」みたいなもので……」
最初のカットをどのように考えて選択したのか。
「対となる二項の対比を扱う話なので、その代表は光と影、正像と鏡像だろうから……」
そこからどのようにお客さんの視点を誘導して行くのか。
「雲間から光が差し、それによって影ができて、そこからPANアップして今度は……」
重要人物を最初に登場させるときの工夫とはどういうことか。
「重要人物の登場は印象づけたいので、この場合は……」
カットとカットの間、フレームの外に何を押し出し省略しているのか。
「実際のアクションは一つも描いていなくても、画面外の音を活用して……」
人物の表情によらず内面を外部に象徴させるとはどういうことか。
「表情の乏しいキャラクターを見せるために、ここでは象徴として……」
説明的な台詞を、どのように日常的な会話にかみ砕いたり、掛け合いの会話に持っていくか。
「この台詞を1ワードで言わせず、こっちの人物に残りをフォローさせて掛け合いにすると会話の流れにリズムが……」
説明として必要なシーンをどうやって「見せ物」に仕立てるか。
「説明的なシーンも、別な同時に流れを掛け合わせて……」
カット割りで芝居するとはどんなことか。
「この切り返し自体が「驚く」という芝居になっているから、表情変化は必要なくなって……」
画面と台詞によるハーモニーとはどんなことか。
「言葉だけの繋がりではなくて、言葉から画面、画面から言葉に受け渡して……」
……といったことを、1話をプレビューしつつ思いつくままに喋る。

半パートを過ぎたくらいでタイムアップになってしまったので、以下次週ということにする。喋っているうちにこちらも楽しくなってきて、ついつい時間を超過してしまった。ブログが長くなるのと一緒だ。
自作を解説するのは少々恥ずかしい行為だが、他の人の映像ではなおのことろくな解説が出来そうもない。
『妄想代理人』の1話が面白いかどうか、良く出来ているかどうかはともかく、「演出は何を考えるのか」を知ることで、自身の制作において判断基準を考えやすくなるのではなかろうか。
もっとも、私の場合、誰かに体系的に映像や演出を学んだわけではなく、あっちこっちで聞きかじったり、本で読んだりしたことを自分なりに組み立ててきた過ぎない。
必要に迫られたから考えた、という方が適切だ。
漫画やアニメーションの演出に限らず、美術設定やレイアウトというプロセスであっても同じことだが、目の前の仕事には常に自分にとって「未知の問題」が含まれている。
「どういう基準や価値観で判断すればいいのか、よく分からない」
昨日までとは違うことを、少しでも進歩を重ねたい考えながら仕事に取り組めば、得てしてそういう事態の連続になる。
よく「頑張ってください」という漠然とした励ましの言葉が安易に流通されるが、この言葉についてどなたかがこんなことを書かれていた。
「頑張り方が分かれば問題のほとんどは解決したようなものである」
その通りだと私も思う。

「どうやって頑張ればいいのかよく分からない」という不愉快な状況を少しでもかみ砕いて快適に仕事をするために、私は自分なりに対処のプログラムを考えてきた。というよりも、対処の方法を考えることこそが仕事であり楽しみである。
果たしてその対処法が他の人にも有用なものかどうか、確たる自信はない。
ちなみにプログラムは日々修正され続けている。だから、今年と来年で言うことが変わることだってあり得るし、そうでなくては物づくりの呼吸が止まるに等しい。呼吸困難に気がつきもせず「自然死」している人も多いので要注意。
考えてみれば、ゼミを担当することそのものが私にとっては「どういう基準や価値観で判断すればいいのか、よく分からない」仕事の塊で、どういう関わり方をすれば学生にとってより内容が豊かになるのかを考え続けているわけで、それがまた私にとって楽しいのである。

学生には、作り手側としてどんな基準でものを考え、どうやってイメージを育てていくのかが少しは伝わったのではないかと思いたい。
映像的な個々のテクニックを覚えるのではなく、作っている当のものとの関わり方の参考になれば幸いである。
プロジェクター使用のため、暗くなった教室で話を聞く学生は睡魔に侵略されているのではないかと思ったが、後で興味深そうに絵コンテに見入っていた学生も複数いた。面白がってくれたようで少しホッとする。
「こういう話って、聞いたことないの?」
皆、一様に首を振る。
うーん……映像学科って、そういう話もする空間じゃないのか……。

アニソン、あるいは輝ける未来・その2

花粉症で少々難儀している。
多くの人が花粉症で困っている時期が終わるとこちらの番になるようなので、どうもスギではなくヒノキの花粉によるものらしい。
ここ数日、眼が痒い。軽度なので大きな支障は来さないのでさして困りはしないが、不意のくしゃみと落涙にはちょっとばかり人目を気にする。
「大股で歩きながら泣いているいい年した大人」
不気味であろう。

制作中の新作『夢みる機械』の基本的な舞台については前回記した。
もし現在から考えられる未来が廃墟になったという設定であれば、現在の世界を参考にしてイメージを膨らませ、それを廃墟にすればよい。無論それだってそんな簡単なことではないが、とはいえこれなら手持ちのイメージで補える部分が大きい。
しかし、何しろ「かつて夢見た近未来」がうち捨てられているのだから、一旦この「かつて夢見た近未来」を想定しないとならない。これが厄介だ。まぁ、厄介だから楽しいのだが。
そこで、その「かつて夢見た近未来」をイメージするための補助資料として「懐かしのテレビまんが主題歌」であり、つまり、子供の頃に夢見た未来世界がどんなだったかを思い出すための回路なのである。
私は割とこの手口を好んで使う。
「この手口」というのは、制作に必要なアイディアを得るために、「アイディアが出やすい身体を作る」ということだ。制作する漫画や映画世界にまつわる既存の作品(小説、映画、音楽その他色々)に浸ることで、意識的には思いつかない何かを生み出せる(かもしれない)コンディションに身体を持っていく。
これまでもこの方法を実践することで、多くの有用なアイディアが到来した……はずである。

今回も、その効果は小さくないと思いたい。
「輝ける未来」を高らかに歌ったアニソンを聞きながらメカなどの設定を描いていると、それまでよりもいくらからアイディアの「お通じ」が良くなったように思える。
何しろ先日描いたエアカーの名は「流星号」である。無論、ジェッター由来。
形状は思いきり本家「流星号」から借りて、そこに当時とは違う、現代のアニメーション映画に必要なディテールとリアリティを与える。これが実に楽しい。
「本家「流星号」みたいな流線型のフォルムに、50年代のキャデラックを混ぜて……色は……うん、ピンクだな」
デザインを詰めているうちに段々、「流星号」というより「マッハ号」みたいになってきてしまったが。まぁどっちだって懐かしいことに変わりはない。
この描画作業中のBGMはやはり『スーパー・ジェッター』がはまるのである。
http://www.youtube.com/watch?v……re=related
清々しい、素敵な曲である。上高田少年合唱団の歌声がいいのである。フルバージョンで聴ける間奏の口笛が気持ちよい。
http://www.youtube.com/watch?v……re=related

元々、この時期になぜアニソンにはまったのか、そのきっかけはYouTubeである。これまでほとんど利用したことがなかったのだが、最近はあれこれと検索して楽しんでいる。
仕事場で飲んで雑談をしながら、YouTubeで懐かしのテレビまんがのオープニングやエンディングを見ていて、懐かしさもさることながら曲の良さや、いまから思うと脳天気とさえ言えるほど楽天的な歌詞やその構えの大きさ、歌い手たちの素直な歌唱法に惹かれたのである。
YouTubeやにこにこ動画からダウンロードして曲を集めるという方法もあったのだが、そこはやはり商売柄「そういうことは後ろめたい」とも感じてしまうので、アマゾンでいくつかCDを注文してみた。
「テレビまんが主題歌のあゆみ」
「続・テレビまんが主題歌のあゆみ」
「アニソン100」
「決定盤!テレビ・アニメ主題歌オリジナル・サントラ集」
いずれも2枚組もしくは3枚組で十分たっぷり楽しめるのだが、必ずしも聞きたかったバージョンが収録されているわけではないのが残念だ。そのあたりは致し方ないので、少々後ろめたい行為に頼るしかなかったりもする。

集めた曲から作成したのが、プレイリスト120曲「輝ける未来」である。
120曲といっても重複やバージョン違いなどを含んでいるが、この中から私が特に好ましいと思う曲をあげてみる。
まずは、ある意味この曲がきっかけとなって個人的アニソンブームの到来となった。
「ロビンの宇宙旅行」
レインボーハーモニー(作詞:小川敬一/作曲:服部公一)
『レインボー戦隊ロビン』のエンディングである。新作『夢みる機械』の主人公たちはロビン、リリコというが、これはレインボー戦隊のロビンやリリと無関係ではない。というか、名前の由来はこのアニメ。内容やキャラクター性には全然関係はないが。
そういう背景もあって『レインボー戦隊ロビン』には格別思い入れがある。当時から好きだったし。
この「ロビンの宇宙旅行」は戸川 純がアルバム『好き好き大好き』の中で「恋のコリーダ」として、怖ろしい歌詞でリメイクしている名曲。
『ロビン』は主題歌もいいし、挿入歌なのか「すてきなリリ」という曲もチャーミングで前川陽子(『ひょっこりひょうたん島』『リボンの騎士』の主題歌でお馴染み)の歌声が実にいい。リリ、萌え。
主題歌もエンディングも複数のバージョンがあるのが悩ましくも楽しいが、やはりテレビで使用されたバージョンの方が馴染みもあるし、テンポも速くて好ましい。
http://www.youtube.com/watch?v……WubCcljoCc
OpやEd、「すてきなリリ」など4曲がパックになったこちらもいい。
http://www.youtube.com/watch?v……re=related

「レオのうた」
弘田三枝子(作詞:辻 真先/作曲:冨田 勲)
何ていい唄なんだ。子供の頃から大好きな曲だった。
これも歌い手、サイズに加え歌詞も複数のバージョンがあるが、やはりテレビ版が気に入っている。
一番好ましいのはこれ。
http://www.youtube.com/watch?v……re=related
弘田三枝子の歌声が素晴らしく、ポピュラーを歌ったCDも欲しくなった。
『ジャングル大帝』といえばオープニングの曲も、映像も素晴らしかった。テレビアニメで最も印象に残るオープニングといえば『ジャングル大帝』である。何といっても作品の持つスケール、というか手塚治虫の構えの大きさに改めて驚かされる。
http://www.youtube.com/watch?v……_6HmHcjU3k
飛び立つフラミンゴの群れが感動的に素晴らしい。手の空いている人は是非見ていただきたい。日本のアニメ史上に残る傑作である。
ところで『ライオンキング』は『ジャングル大帝』の盗作ではないそうだが、だったら日本でも対抗して劇団四季で『ジャングル大帝』のミュージカルを作れば良かったのに。でも連中はきっというに違いない。
「それは『ライオンキング』の盗作デース!」

昨年2008年は手塚治虫生誕80周年だったそうで、それを記念して今月18日から江戸東京博物館で「生誕80周年記念特別展 手塚治虫展 未来へのメッセージ」が開かれるとのこと。行ってみたいものだ。
手塚治虫が生まれたのが1928年11月3日。『ジャングル大帝』が連載されたのは1950年から1954年にかけて。22歳から描いていたことになる。
……。
いくら時代が違うとはいえ、漫画の神様はスケールが桁違いに大きいと改めて思わされる。
アニメ版『ジャングル大帝』の放送開始は1965年だが、この時手塚治虫37歳。
先にリンクを紹介したバージョンの歌詞(辻真先による)のこのフレーズが素晴らしい。
「地の果てに灯をともす」
地の果てまで文明を届けよう、なんてスケールというか構えの大きさに改めて驚くのである。

アニソン話はまだ続く。

アニソン、あるいは輝ける未来

すっかり更新が滞っていたのは仕事からの圧力が高まっているせいだ。
忙しくて時間がない、というよりは考えることが多くて雑文を書くための余裕に欠けているのであろう。
更新していなかった分、書くべきことは色々あるのだが、現在「はまっている」ことに絞って書いてみたい。

個人的な「志ん生ブーム」は相変わらずだが、音源に限りがあるし大半は入手してしまったので聞いたことのない音源を手に入れることが難しくなってしまった。講談社DVDBOOKシリーズ「志ん生復活」全13巻も手に入れてしまったので、まとまった全集としては手に入れるべきものはもうない。少々寂しい。
もちろん同じ音源を繰り返し聞いて楽しんでいるのだが、近頃の仕事内容がコンテよりも設定に比重が置かれていたこともあって、別のBGMが必要になった……らしい。自分のこととはいえ、なぜそうなったのかはよく分からない。

ここのところアニソンを聞きながら仕事をしている。
アニソンとは勿論アニメソングのことである。特撮ものも多少含まれるのでアニソンというより「テレビまんが主題歌」といった方がいいかもしれないが、アニソンという言葉は響きが子供らしくて宜しい。
これまで私の音楽の趣味にはなかったものだが、現在すっかりはまっている。
iTunesで好ましい曲だけを集めたプレイリストを作り、これを聞きながら新作『夢みる機械』の設定作業を楽しんでいる。プレイリストは「120曲4.6時間」というかなり馬鹿げたもので、リストには「輝ける未来」という大仰なタイトルを付けてある。
私が聞くアニソンは主に1960年代、せいぜいが70年代初めまでのもので、要するに子供時分に見ていた「懐かしのテレビまんが」の主題歌。これらをずーっと聞いていると、色々な発見があり自分を知るにも時代を知るにも興味深い素材であり、特に新作『夢みる機械』の設定作業にはうってつけなのである。
私が生まれた1963年は『鉄腕アトム』『鉄人28号』『エイトマン』などのテレビアニメが始まった年であり、いわばテレビアニメと一緒に生まれ育ったともいえる。だから、テレビアニメの歴史を音楽的にたどっているとあれこれ再認識できてくる。
たとえば、自分に関する再発見としてはこんなこと。
「そうかぁ……私はやっぱり「虫プロの子」なんだなぁ……」
多くのアニソンを聞いていて、もっとも懐かしさを覚えるのはどうしても虫プロ作品であり、要するに手塚治虫なのである。『鉄腕アトム』『W3』『ジャングル大帝』『悟空の大冒険』『リボンの騎士』……。
そして、虫プロの流れを汲むマッドハウスで現在45歳の私が仕事をしていることに少なくない感動を覚えてしまう。
また改めて認識したということでは、自分は藤子不二雄原作のアニメにまったく思い入れがないということで、これはこれでちょっと意外だった。
『ドラえもん』は見たことがないし、『オバケのQ太郎』『パーマン』なども子供の頃は喜んで見ていたような気がするが、現在それらの主題歌を聴くと何か嫌な気分にさえなってくる。嫌悪というわけではないが、それらドジだけどやたらと陽気な歌詞や曲の根底に、どうも「弱い者」に対する無条件の肯定みたいなものが感じられて懐かしい気分さえ阻害されてくる。
何というか「弱いものは弱いままでいいんだよ」といったような。
確かにそれはそれでいいんだろうけどさ。
「弱い奴は強くなろうとする努力をしていない」というようなことを言ったのは黒澤明だったと思うが、「そりゃまた極端な」とは思いつつ私も自分についてはそう思ってしまう方だ。
だからなのかリストに藤子不二雄は入っていない。
もっとも、藤子不二雄の漫画では「SF短編」で随分勉強させてもらったこともあり、こちらには格別の思い入れがあるが。

アニソンで時代を知るという意味では、こんなようなことだ。
「あの頃、来るべき未来は必ず素晴らしいものであり、希望に溢れた時代だったのだなぁ……」
だからプレイリストの名は「輝ける未来」である。
かつてのテレビまんが主題歌の歌詞を聴いていると、「知恵」「力」「勇気」を身につけた主人公の活躍により「正義」が必ず勝つことになっていて、「悪者」さえやっつければ「希望」に満ちた未来が待っているのであり、それは「科学」が開く未来でもあったことが悲しくなるほどよく分かる。
そして、何よりテレビアニメと共に生まれて45歳にもなった身としては、自分の歳の間にそうした信憑は一切なくなってしまったのだなぁという感慨の方が大きいのである。
「正義なんて言葉は信用できない最たるものだし、輝ける未来なんてまぼろしだったのだなぁ……」
何せ清く正しい科学の少年が巨大なメカやロボットを操って悪者をやっつけて日本中の子どもたちの心を虜にした時代は、いつの間にかメカの操縦者は肥大した自我を身につけてひどくわがままになり、あげくに精神が自壊するようになってしまったのだから。
それが進歩だったのかと思うと笑いたくもなる。

しかし、現在かつて夢見た「輝ける未来」を考えられないからといって、かつての夢に耽溺したいわけでも、単純に懐かしんでアニソンを聞いているわけでもない。きっかけはどうあれ、仕事のための音楽的参考資料というか、かなり実利を目的として聞いている。
というのも、やはり新作『夢みる機械』の世界観と大きく関係している。
『夢みる機械』の舞台を一言にまとめるとこういうイメージである。
「来るはずだった近未来が廃墟となった世界」
ここでいう「来るはずだった近未来」(これは多分、平沢さんによるフレーズだったと記憶している)とは、先の「輝ける未来」と同じで、かつて夢見た未来世界のことである。
もう少し具体的に言えば、アトムがその鉄腕を奮って活躍したような世界、「透明なチューブの中をエアカーが走る」ような未来都市。小松崎茂が描いたような未来世界。
それが実現されて後、何故かすっかり人類がいなくなり、廃墟としてそっくり残されている。それが『夢みる機械』の基本的な舞台である。
つまり、かつての「輝ける未来」を現在の頭で再現しようとすると「廃墟」として描くしかない、ということである。
「子供向け漫画映画」(正しくは「子供向けの振りをした漫画映画」だが)を標榜しておきながら、まったくもって夢があるんだかないんだかよく分からない設定である。

長くなってきたので続きはまた。

嬉々としてげんなりする

先週の土曜日、世間は「ホワイト・デー」ということだそうで、洋菓子コーナーなどは売り場のムードにあまり似つかわしくない人たちで賑わっていた。
何でそんな光景を目にしたかというと、私も数少ないとはいえお返しをせねばならない人がいるので、売り場に似つかわしくないものの一人として洋菓子のショーケースの前に並んだ次第である。
鼻孔にからみつく甘い香りは得意ではないが、2月に甘いものをくださった動画部のうら若くも可愛い娘さんなどのためにチョコレートやケーキを買い求める。

この日は、夜に見学者が訪れる予定で、晩御飯に出る時間もないだろうしその後きっと飲みに出るであろう、いや飲みに出たいという希望的予測から、夕方の繋ぎとして荻窪ルミネの地下で軽い弁当を買っておくことにした。
「スエヒロの天むす」を3個。
いや、一人で食べるわけではない。
周りにいるスタッフの分も含まれている。
天むすの箱を3つ、片手にむんずと摑んでレジに向かおうとして、一人の若い女性と目が合った。
「あ……知り合いみたいだ。誰だっけ誰だっけ?」
しばし顔を見合わせながら思い出そうとしていると、
「今 敏さん…ですか?」
「いいえ、違います」
というわけにもいかない。
「はい、そうですけど……?」
「ファンなんです、ミーハーの」
そうだったのか、てっきり仕事関係の方かと思って少々焦った。
去年開催した「十年の土産」にもいらしてくれたそうで、上品な感じのするその女性はあの新宿眼科画廊のスペースに似つかわしいような気がすると同時に、懐かしさを覚える。
ファンといっていただくのはたいへん光栄であるし、お声をかけてもらえるのもアニメーション芸人……いや、監督として嬉しくもあるのだが、左手にはがっちりと天むすの箱が3つも摑まれている。少々恥ずかしい姿である。
「一人で食べる訳じゃないんですよ」
握手を求められ、気持ちよく応じたのだが、しかし荻窪ルミネの地下食料品売り場で左手に3つも天むすの箱を抱えたオッサンと妙齢のご婦人が握手をしている姿というのは少々奇妙な光景であったろう。

夜の8時。マッドハウス社内の見学を終えた紅顔の若者4人がスタッフルームを訪れた。
彼らは「映像部」( http://eizobu.sakura.ne.jp/ )所属の大学生。「映像部」さんには今年1月31日にこちらが見学にお邪魔したので、その「お返し」という意味もありこの日の見学ということになった。
彼らは卒業後、アニメーターや制作職を希望しているとのことなので、実際のアニメーション制作会社見学は、リアリティを持って将来像を考えるには良い機会であり刺激になるであろう。
ま、その機会が「今 敏監督のスタッフルーム」というのはいいのか悪いのかは分からないが。
現在制作中の『夢みる機械』の素材などを紹介し、パソコン上で彩色した設定や「オハヨウ」の撮出し、『パプリカ』の原画ムービーなども披露しつつ、監督業務のごく一端をお見せする。

監督が何をしているのかよく分からない人相手に、監督の仕事を紹介する機会がたまにあるのだが、喋っているうちにいつもひどく「げんなり」してくるのである。
「げんなり」の正体はこういうことである。
「……そんなにいっぱい仕事をせねばならんのか、私は……」
特に現在は新作の制作中であり、これから訪れる数々の仕事や障害をついつい想像してしまうせいもある。
これまで映画にして4本の体験があるのだから、どれだけの仕事をすればいいのか分かってはいるつもりなのだが、それだけに仕事を一時に想像するとげんなり、というか目眩を覚えそうになる、ということだ。
それはある意味、食事に似ているかもしれない。
フレンチでもイタリアンのフルコースでもいい。あるいは焼肉だって、もしくはビールでもいいのだが、少しずつ出てくるから量を食べたり飲んだり出来るもので、満腹するだけの量を最初からすべて目の前に出されたらとても食べられる気がしないであろう。
分かるような分からないようなたとえかもしれないが。

映画のネタを考え、そこから話をこしらえ、脚本に起こす。キャラクターデザインや美術設定を考え、1000を越えるカットすべての絵コンテを描く。作画や背景の打ち合わせをして、カット数と同じだけのレイアウトチェック、原画チェック、背景チェック。色彩設計や特殊効果、3Dや撮影の打ち合わせ、当然それらもチェックがあり、撮出しもしなければならない。チェックする回数は合わせると数千回。編集で頭を悩めるのも監督の仕事だし、音楽の発注、声優のキャスティング、アフレコやダビングも勿論重要な仕事である。映画が完成したところで仕事が終わるわけもなく、その後の宣伝においても原作や監督という役柄で取材を受けることも多く、宣伝素材としてポスターやチラシのビジュアル制作、さらにはDVD用のハイビジョンマスターの監修やパッケージ用のビジュアルだってある。フィルムが映画祭に招かれれば、時には参加することもある。
書き連ねていても目眩がしそうになる。
もっとも、そのどれもが楽しめるのだからまったくもって世話はない。
それに遠い完成の二文字を夢に見つつも、日々の仕事を少しずつこなして行くだけである。その積み重ね以外に完成に辿り着くことはないし、一品ずつ供される料理を楽しんでいるうちにデザートに辿り着くようなものである。まぁ、フルコースなんて私にはとても食べきれるものではないが。
映画制作においても御同様で、食べきれぬものを残したり消化不良も常である。

新作『夢みる機械』は、原作・監督・脚本・キャラクターデザイン・美術設定あたりが今 敏の主なクレジットになる。キャラクターデザインは作画監督の板津くんとの共同。美術設定も一人では賄いきれないが、現状ではすべて今 敏がこしらえている。
今回は、「メカデザイン」というこれまでの映画では馴染みのない部門もある。もっとも、登場するキャラクターすべてがロボットなんだから、全部がメカデザインみたいなものだが。
これも現状監督が兼任している。
先週は絵コンテ作業の手を少し止めて、設定作業が中心となり、仕事として多分初めて「飛行機」をデザインした。空飛ぶロボットも描いてみた。モブキャラクターたちのサンプルも描いてみた。
デザインをする度に痛感する。
「センス無ェな、まったく」
これまで現実的な世界だけを舞台にして作ってきたツケのようでもあり、単純に造形的なセンスがないだけのようにも思える。
設定されたものを活用して再現するのならそれほど苦はないが、デザインそのものは荷が重い。
しかし、苦手だとは言ってられないのである。誰も担当する人間がいないのだし、どういう世界観でどの程度のリアリティなのかといった匙加減は原作・監督が提示するしかないようにも思える。
完成する映画の画面はリアルと言われるタイプだろうが、しかし描かれる内容はほとんどファンタジーだ。
描き方はリアリスティックだが描くものは荒唐無稽。

初めてデザインした飛行機だって、全然リアルなものではない。
だって「ハト型」だし。
飛行機のデザインをするための参考画像をたくさん集めたものの、主に参考にするのはハトの画像である。
「どうやったらハトに見えつつ飛行機との整合性を取れるかね……」
まぁ、鳥と飛行機なら近い親戚みたいなものだから難しくはないが。
「ハトの特徴といったら、やっぱし鳩胸だろう……鳩胸に近いフォルムねぇ……ああ、飛行艇を混ぜるか」
センスがないので屁理屈を積み重ねる。
「飛行艇かぁ……小学校の頃に二式大艇のプラモデルを作ったことがあったっけなぁ」
そんな記憶が脳の隙間から湧き出てきたら、中学や高校の頃は好き勝手にデザインしたメカなんかをちまちまとノートに描いていたことを思い出した。
「そうか、昔はこんな仕事をしたいと思っていたこともあったな」
そういう意味では「夢が叶った」(笑)といえるのかもしれないが、叶ったからと言って得意なわけでもないのが残念である。
飛行機がハト型なら空飛ぶロボットだって、その翼は鳥の羽みたいである。
邪悪なイメージの筈だったのに、何だか滑稽な姿にも思える。
邪悪→凶暴→猛禽類……ではあまりに凡庸なイメージの展開に思えた。
「むしろ頭を大きくして……カワセミみたいなフォルムもいいかな……何だよこれじゃただ可愛いな……タガメみたいなイメージを混ぜるか……なんかけったいな形になってきたな、こりゃ……」
かくして出来上がったのは、鳥というより昆虫に鳥の羽を付けたみたいなロボットである。
「……変なの」
こんな世界観では確かに他人に頼みようがないのかもしれない。

デザインが苦手とは言っても、そこはそれ、描き始めれば楽しくなってくるもので、出来上がりに満足までは行かないものの、描いた線画に嬉々としてパソコンで着色までしている。色だって、世界観を形成する重要なファクターである。
正しくは色でも付けてみないと格好がつかないからであろう。
設定は暫定的なものだが、完成に近い状態で絵を眺めていると、イメージも湧いてくるもので、その設定をどう画面で見せるのか、どういう芝居をさせるのかが楽しみになってくる。
メカという範囲では、これまでにも蛇型ボートやトライク(3輪のバイク)、ドリルのついた4本の腕を持つ巨大な穴掘りロボットなんかもデザインしている。
「何で手がドリルになってんだか……これじゃ何とかってアニメみたいだな……顔はどうしようかねぇ……穴掘りっていやぁ、やっぱし「ヘルメットにライト」だよな」
センスが古いね、また。

モブのキャラクターたちを描くのも楽しい。
造型のセンスに不自由しているので、とても褒められた出来ではないが、色とりどりのロボットたちを描いていると、コンテの遅れをひととき忘れる……って、それじゃ現実逃避じゃないか。
いや、これも演出として世界観の把握に必要なのである、と言い張りたい。
一枚の紙に、20体ほどロボットを描いてパソコンで着色してみた。
これまでの映画では考えられないくらいカラフルな仕上がりになった。
なかなか立派に「子供向け映画の振り」である。
なぜ、そんな設定が必要になったかというと、主人公たちが大量のロボットに遭遇するシーンに絵コンテが達したからである。
主人公のロビンとリリコが発見するのは、倒れた多くのロボットたち。
色とりどりのロボットは死体となって登場する。
全然「子供向け映画の振り」じゃないじゃないか(笑)