Interview 01_ 2002年12月オーストラリアから、主に「千年女優」に関するインタビュー

1.「千年女優」における千代子の思い出は、実際の歴史の出来事や現実よりもより鮮やかで意味を持っているという印象を受けました。「MEMORIES/ 彼女の思い出」から「パーフェクトブルー」、そして「千年女優」と、思い出と直感、イマジネーションと実際の世界との境界線を曖昧にさせるというテーマ性 が統一されているように感じました。そのテーマに惹かれる理由をお聞かせください。

過度なほどに合理性を求める価値観にうんざりしてきた、といえるかもしれません。近代西洋合理主義的な態度で対象物を切り分けて分析し、規範に従って「正し いか正しくないか」といった判断やそれらの積み重ねによって形成された価値観が現状を支配していると思います。もちろん「規範」自体も現在は大きく揺らい でいると思いますが、それでも過度な合理性が支配的ですし、自分と自分を取りまく世界の認識もそれに大きく支配されていると思います。
私が興味を持つ対象は、そうした合理精神からはみ出した部分なのでしょう。
たとえば私はこうしてメールインタビューに答えてキーボードを叩いています。
「今敏が東京、阿佐ヶ谷にある仕事場でテキストを打っている」、これは他人も共有しうる客観的な事実です。しかし私の頭の中では質問への答えを考えている と同時に、他の仕事のことを考える瞬間があったり、まったく別なイメージが浮かんでくることもあります。
このインタビューはオーストラリアから届けられたものですから、オーストラリアというイメージから頭の片隅では色々な連想が生まれ、テレビや映画で見た オーストラリアの自然や風物などがイメージとして浮かんできます。オーストラリアには小学校の同級生が住んでいるので、彼女の小学生時代の顔や姿も浮かん で来ますし、その繋がりで自分が通った小学校や当時住んでいたアパートのイメージも浮かんできて……というように連想は次々と生まれてきます。
インタビューとは一見無関係なそうしたイメージや思考をも含めて、このテキストは成り立っている。なので、まったく同じ質問を別な人から別な日に受ければ、また少し違ったものになるでしょう。
これは私の考えが一貫していない、ということではありません。論理的な考えは大きく変わらずとも、その場その時における偶然に立脚した一回性の出会いというものを大事にしているのです。
ともかく「今 敏が東京、阿佐ヶ谷にある仕事場でテキストを打っている」のと同時に、私の頭の中では隔たった場所や時間のイメージが生起している。それが私が経験している現在です。
そうした多元的なイメージの把握こそが真実だといっても良いと思いますし、私の描きたいのはそういうことなのです。描きたいのは事実ではなく真実です。
なので御質問にある「境界線を曖昧にさせるというテーマ性」という言い方はあまり正しくないかもしれません。そうした境界線は人間が便宜上設定したもの で、自分と自分を取り巻く世界を認識する在り方はもっと多元的なものであり、実は元来曖昧なものなのだと思います。私がそうしたテーマに惹かれるのは、そ うした在り方を回復したいからなのかもしれません。

2.またもう一つのテーマ性として「パーフェクトブルー」と「千年女優」の両作品中、スターと崇拝者、オタクとアイコンの関係を描いています。このテーマ性についてお話ください。

「パーフェクトブルー」の場合は、元来私の企画ではありませんし、監督のオファーが来た時点ですでに内容は「B級アイドルと変態のファン」という設定が決まっていました。
「千年女優」の場合は、オリジナル作品ということもあるでしょうが、私と私の理想の作品という関係がはっきりと投影されていると思います。
私が追い求め続けるであろう理想の作品は、決して私には手の届かないものだと思っています。これは悲観ではありません。
作品を作っている最中にも作り手である私自身は変化しています。アイディアを思いついた時点で理想としたイメージに日々近づいていると同時に、イメージ自体も私の変化に伴って育って行きます。ですから決して追いつくことはない、ということです。
追いつくことはないかもしれないけれど、それを追い求める態度こそが大事であるという私の価値観が反映しているのだと思います。
「MEMORIES/彼女の想いで」、「パーフェクトブルー」そして「千年女優」と、スター・芸能人を扱う結果になっています。これは必ずしも私の意図ではなかったとはいえ、私にとっては興味深い対象だったと思います。
彼らは、ある意味、現代の神話における神々、あるいはおとぎ話の主人公のように思えます。これは精神分析家の岸田秀氏が指摘していることですが、彼等は、 一般市民が経験できないような世界や一般では許されないような不道徳なことをも体験して、それが逆に魅力にすらなっている。ご存知の通り、神話には神々の 不道徳な行為が多く描かれています。
現代では神話が失われてしまっているように見えますが、実は人々が求める神話性を生きているのが、彼等芸能界の人々じゃないのかと思えます。そうした現代の神話と、私自身が現代版おとぎ話を描きたいという欲求が響き合ったのかとも思います。

3.監督の映画では情熱的で一途な女性(ある意味ペテン師的な)が出てきます。ただ他のアニメ作品の一般的な描写より、感情豊かで心理的にも細かい人物描写をされていると思います。なぜ男性の精神より女性の精神を描くことに興味をお持ちなのですか?

非常に現実的な側面では、アニメファンには若い女性キャラクターが受け入れられやすいという事情が大きく手伝っているのも事実です(笑)
私自身女性が大好きですしね。
表現者の部分で真面目にお答えしますと、男性主人公を描くとなると私自身が男性なものですから、嫌な面やずるい面や弱い面や汚い面やスケベな面などが見えすぎてしまって、物語の担い手としてあまり相応しくない主人公になってしまいそうです。
なので女性の方が幻想を投影しやすいのかもしれません。

4.「千年女優」で、千代子は素晴らしいキャリアを持った女性にも関わらず、自分の運命をコントロールできない、または自分の欲望をかなえるような理解を得られません。これは日本の社会では結婚をした女性の一般的な扱いなのでしょうか?

一概には言えないでしょうし、私も結婚という形態をそれほど悲観的に見ているわけではありません。千代子のような魂の欲求が強い人間には、社会との折り合 いが付かないことが多いでしょう。私自身あまり上手に社会生活を送れていると思いませんしね(笑)。自分のそうした部分が投影されているのでしょう。

5.日本のみならず、西洋での「パーフェクトブルー」と「千年女優」の好意的な反応についてどう思われますか?二作目を製作する際に観客がどう反応するか心配になられたことはありますか?

「パーフェクトブルー」が世界でも注目されたのは意外という他ありませんでした。
この作品は元来ビデオアニメーションとして作られたものですし、狭い市場で少し話題になって消えて行くのが関の山だと思っていたので、映画として公開され たこと自体が想定外でした。ましてや数多くの海外映画祭に招待されることなど夢にも思っていませんでした。
「パーフェクトブルー」での好意的な反応や評価に自信を得られたので、「千年女優」制作に際してはそれほど心配はしていませんでした。むしろ「パーフェク トブルー」の次回作ということで楽しみにしてくれている観客を、どう裏切るか(もちろん良い意味でですが)を考えるのが楽しいくらいでした。

6.「パーフェクトブルー」と「千年女優」の両作品で脚本家の村井さんとお仕事を一緒にされていますね。彼の仕事についてどう思われますか?

両作品とも物語の構成が複雑で、その複雑さこそが魅力であり、私のやりたかったことでもあります。村井氏も構成で見せるのが得意なライターだと思いますの で、作品にはまっていたと思いますし、彼と私とでなければ両作品における複雑に絡み合ったシナリオは出来なかったと思います。
ただ村井氏にしても私にしても、人物描写というかキャラクターに対する愛着が薄い方で、「千年女優」の千代子のような欲求が強い人物を描くには少しエネル ギーが足りなかったかもしれません。ただ、千代子というキャラクターは生身の人間というより、昔話の主人公のような象徴的な意味合いが強いイメージでした ので、むしろあのくらいで良かったとは思っています。押しつけがましいキャラクター描写ほど嫌いなものはありませんので。

7.「千年女優」では千代子の思い出を数々の印象的な歴史の出来事の中で反映させているのと同時に、日本という国の思い出を浮き彫りにできる映画の力を上手く表現しているように思いました。
監督が影響を受けた日本の監督や西洋の監督、または映画について教えていただけますか?

あまりに多くの映画や監督に影響を受けているのでとても手短には言えません。
直接私の監督作品にまつわるようなものに限ってお答えしたいと思います。
「パーフェクトブルー」や「千年女優」において描きたかった「普通と違う時間感覚」、「主観による時間」という言い方が出来ると思いますが、これはジョージ・ロイ・ヒル監督の「スローターハウス5」に触発された面が大きいと思います。
本人の中では、現在も未来も過去も同時にあるという感覚、そしてそれを具体化し得た映像表現は大変素晴らしいと思います。
夢と現実の混交、という面ではテリー・ギリアム監督に大きく触発されていると思います。「バンデットQ」「未来世紀ブラジル」「バロン」の3本が素晴らしい。その後の作品には刺激を感じないのですが。
この3本は基本的に同じ題材を言い方を変えて描いていると思うのですが、特に「バロン」は人間の想像力の豊かさを再認識させてくれる傑作だと思います。映 画としての出来については色々な批判もありうると思いますが、そうした問題は些細なことだと思いますし、現代社会において死に瀕している想像力というもの に再生の光をすら投げかけている映画として私は大好きな一本です。
ジャン・ジュネ監督の「デリカテッセン」「ロストチルドレン」も素晴らしいですね。特に「ロストチルドレン」は非常に素晴らしい。想像力を刺激されます。

日本の映画監督、特に黒澤明監督には多くのことを学んだと思いますが、私が自分なりの映画の文法を身に付ける上で、多く参考にしたのは海外、とりわけアメ リカ映画です。ある種、明解すぎるほどのアメリカ映画の文法を参考にしてきたにもかかわらず、私の描く映画世界は現実と夢の混交や時間の曖昧さといった、 実は非常にアジア的なものになっているのが自分でも面白いと思います。

8.あるインタビュー中、監督が「日本は第二次大戦で敗戦した後、自国の歴史や文化から切り離されている」というお話をされているのを拝読しました。このことをもう少しお話していただけますか?

敗戦によって多くの日本人自身が「日本はダメな国」「間違っていた国」だと思ったのではないかと思います。もちろん戦争に関しては何から何までダメな国だったと思います。
しかしだからといって日本の全てがダメなわけもなく、歴史にしろ文化にしろいい面はたくさんあったはずなのですが、戦争に負けた「ダメな国」を払拭しよう として、折角あったいい面までも「西洋に比べれば見劣りがするもの」という見方をしてしまったのではないかと思います。何しろ西洋、特にアメリカを手本に してそれに追いつくことが「正しいこと」のように刷り込まれてきたように思います。私自身そういう教育の下に育ってきました。
日本の歴史的文化的遺産も、日本人である自分との直接の関係で見るより、もしかしたら日本人の上に西洋人の仮面を被って見るような、歪な接し方をしていた かもしれないとすら思えてきます。そう、まるで畳の上にジュータンを敷いて椅子で生活しているような。
そうした間接的な接し方ではなく、日本人直接の視線で自国を見られるようでありたいと思うのです。そういう意味で私にとって「千年女優」は自国の文化を積極的に意識し、コミットする絶好の機会になったと思います。

9.現代的な舞台設定や考え方にも拘わらず、監督の映画は寓話的な要素があると思いました。監督自身、物語を考える時日本の昔話に影響を受けていると思いますか?また監督は日本と西洋の昔話の違いや物語の語り方に違いがあると思いますか?

そういう風に見てもらうのは嬉しいですね。
特に「千年女優」は昔話的な要素を意図的に盛り込んだつもりです。リアルなドラマや人物描写より、エッセンスを切り取るような単純化されたものが好きで す。もちろん人物やエピソードの意味を一度単純化した上で、そこに説得力を持たせるためのリアリティのある描写を心がけていますが。
また「千年女優」は日本の昔話である「竹取物語」を意識してもいます。竹から生まれた“かぐや姫”が権力者たちの求婚に無理難題で応え、最後には帝まで袖 にして故郷の月へ帰る、というお話です。老千代子の山荘へ向かう途中に竹林があるのはそういうイメージがあるからで、月へまでも走るというのもそうです。 千代子は“月さえも越えて行くかぐや姫”というイメージでした。
日本と西洋の昔話の違いは大いにあると思いますが、それについて書き始めると膨大な量になりそうですし、詳しく語れるほどの知識があるわけでもありませんので、印象的な違いを一つだけ挙げます。
西洋の昔話では主人公が多くの苦難の末に美女と結ばれてハッピーエンド、というパターンが多いようですが、日本の昔話には少ないですね。むしろかぐや姫のように異界から来た女が去って行って終わる、というパターンが多いように思います。
それと昔話ではありませんが、旧約聖書などでは罰として人間に「労働」が課せられたのとは対照的に、日本の神話では天上界の神々が率先して労働(農業)を しており、働くことには聖なる神事という面があるとなっている。なので西洋人がワーカホリックと呼ぶ病に、私はむしろ自信とプライドを持っています。

10. 「パーフェクトブルー」はもともと実写の映画にする予定がアニメーションに変更したと伺いました。今監督の作品はスペシャル・エフェクトを使えば実写映画 にもあるように同じような感じました。マンガとしてのあなたの仕事と違うセルに描かれるアニメーションは違うと思われますか?また監督の描くイメージの表 現するにあたってアニメーションのどこが一番適している部分だと思いますか?また物語を語るに当たって実写を撮った方が自分のイメージを表現するに当たっ ていいと思いませんか?

「パーフェクトブルー」に実写化の予定があったというのは、作品が完成後にたまたま耳にしましたが、それは私の関知するところではありません。私に監督の オファーが来たときには「オリジナルビデオアニメーション」という企画でした。私はいまでも「パーフェクトブルー」はビデオアニメだと思っています。ビデ オアニメとして作ったのですから。
また私の作品が実写でも作りうる、とのことですが、私はそうは思いません。もちろん単純な意味で実写に置き換えられるかといえば、それは可能だと思います が、そういう表面的な見方は映画制作をよく知らないかアニメに無知か、なのではないでしょうか。
私は実写を撮りたいと思ったことはありませんし、撮ることに憧れてもいません。アニメがもっとも気に入った表現方法です。現在は漫画よりもはるかに面白い と思って作っています。漫画は漫画の良さがありますが、動きと色によって視覚に訴え、言葉と効果音と音楽で聴覚に訴えられるアニメーションの表現の幅は非 常に大きい。しかもそれらの相乗効果はそれ以上に大きい。
絵描きの私にとって、アニメーションはコントロールもしやすいですし、私の意図も表現しやすい。少なくとも下手くそな役者に幻滅することは避けられます (笑)。実写では役者が下手だからといって、監督が替わりに演じるわけにはいかないでしょうからね。
それは半分冗談ですが、私は実写という表現手段を使ったことがないのでよく分からないですし、漫画にしろアニメーションにしろ絵を媒介にした表現手段が一 番適していると思います。よく知りもしない表現手段を自分の思うようになるまで修得する時間が勿体ないということもあります。何しろ私がいまの絵を描ける ようになるまで30年以上かかっているのですからね。私はその技術に自信とプライドを持っていますし、その技術があるからこそアニメーションを作っている のです。
インタビュー(特に海外)の度に毎回毎回「実写を撮るつもりはないのか」と聞かれるのですが、この質問の背景にはやはり「実写はアニメより上のもの」とい うつまらない考えがあるようですね。確かに世の中のほとんどの人がそう思っているでしょうし、実写で表現した方がより多くの人間に見てもらう機会もあるの でしょう。
毎度毎度実写のことを聞かれるので、そんなに言うなら撮ってやろうかな、という気さえしてきました(笑)。あまり本気ではありませんが、実写向きのアイ ディア(アニメには向かず、なおかつ低予算でも撮れるような、という意味ですが)を思いついたので、シナリオにしようかとは思っています。いつになるか分 かりませんが。

11.監督の大人向けの素材を物語に入れることは今までのアニメの物語と違い画期的なことだと思いました。それは意識的に観客に挑戦していることなのでしょうか?

私の作品が大人向けかどうか、また私の作品が画期的かどうかは他人が判断することですが、私が作品を作る上での基本的な態度は「何より私が見たいと思う作 品を作る」ということですので、私が大人になった分だけ作品も子供向けではないものになるのでしょう。
観客への挑戦という意識はあまりないですね。
ただ「分からない人に無理してでも分かってもらおう」などという過剰な親切は持ち合わせていないので、商業主義の過剰なサービスに馴らされた人には挑戦的 に見えるかもしれませんが。そういう人はボックスオフィスだけ気にしていれば良いのです。もちろん私も自分の作品をより多くの人に見てもらいたいと思いま すし、興行的な成功を望んでいますが、そのために作品が歪むほど自分の制作態度を曲げる気はありません。

12.新作の「東京ゴッドファーザーズ」についてお話ください。またそのテーマについても教えていただけますか?

テーマは完成した映画を見なければ感じることは出来ません。言葉にしきれるテーマなら映像にはしません。
ストーリーは単純です。東京、新宿に暮らす3人のホームレスがクリスマスの夜にゴミ捨て場で赤ん坊を拾い、何とかその赤ん坊を親元へ返そうと東京都内を探して歩く、というものです。コメディです。
主役の3人はそれぞれ、中年のオッサン、家出少女、中年のオカマ。
彼らは血は繋がっていませんが、まるで家族のように暮らしている。赤ん坊の親を捜す道中、赤ん坊がきっかけとなってもたらされる奇跡のような偶然によって、彼らそれぞれが失ってきてしまった本来の家族との繋がりを回復して行く、という物語です。
ホームレスは言葉通り、家がないということですが、この作品においては単に“家”を失った人というだけではなく“家族”を失った人、という意味で捉えています。失った家族を回復する物語といって良いです。
重要なモチーフとなるのは「家族」と「偶然」です。「東京ゴッドファーザーズ」ではこれまで2作とは違い、劇中劇や夢と現実の揺らぎといった仕掛けはあり ませんが、やはり客観的な現実とは別の流れを大切にしている作品ですので、目の肥えた方ならばそうした多元的な物語世界を楽しめると思います。
完成は2003年春の予定で、公開はまだ未定です。

苦難の女子よ

「高速道路が¥1000乗り放題だって?その効果で大渋滞?……へぇ、温暖化とCO2削減の話はどうしたんだ?時代はエコじゃなかったのか?」
私は素直にそう思ってしまうので、インチキな煽動に乗せられて素直に道路を埋める車の列とその中で群発しているであろう小さな悲劇を想像して皮肉な笑いを浮かべてしまう。
きっと大渋滞の構成者の中には「マイ箸」なんて使っちゃって「私はエコの人」なんて思わされちゃってる人間だっていたことだろうな。
排気ガスをまき散らす大渋滞を伝えるニュース映像の後に、南極で氷の隙間に落ちる白クマのインチキな映像でもつないでみれば面白いだろうに。
映像のモンタージュがどういうことが一目で分かるはずだ。
ま、エコだの環境問題だのと言ったところで、景気回復という名の金儲けが優先されるのが正しい世の中なのであろう。正確にはエコと環境問題が金儲けの種に他ならないのだが。
ともかく明日のことより今日の金、ってなもんだ。
たまには世間に倣って、「天下の回りもの」をいっそう回すべく私も黄金散財週間に参加してきた。

例年ならば、ゴールデンウィーク中はモニター前で先のような笑いを浮かべていたのだが、今年は珍しく混雑を形成する一人となった。
新幹線が全席満席なんて光景を初めて見た。
ゴールデンウィークに旅行をするなんて珍しいが、こと舞台の千代子たちのためとあらば、早めにホテルを抑え新幹線のチケットも用意するのである。
当サイトのトップページでも御案内していたとおり、2日〜4日までの三日間、愛知県長久手町で開催された演劇博覧会「カラフル3」において、舞台版『千年女優』が上演されるということで、「TAKE IT EASY!×末満健一『千年女優』」の一ファンとして全3回を観劇してきた次第である。

いやぁ、実に素晴らしかった。
何より美しい舞台であった。
セットがないにもかかわらず、ライティングや衣装やメイクが補い、広い舞台を大きく使った演出と女優さんたちの運動量によって、かつて見たと変わらぬ美しさが湛えられた60分であった。
90分が60分に短縮されたことで、私にとっては『千年女優』の骨格がより露わになっていた点が興味深かったし、何か怒濤の『千年女優』を見せてもらった気がしている。
何というべきか、「心」よりも「魂」が強調された印象だった。

私は大阪公演も3回見ていたこともあり、今回は観劇中アニメーション版『千年女優』の映像がダブることもなく、純粋に舞台版『千年女優』を楽しめたことも大きな収穫であった。
見れば見るほど面白く、正直、原作が誰なのか忘れるほど見入ってしまった。
そして見終わってふと思い出してこう思う。
「でかしたぞ!若かりし頃のオレ」
こんな面白い舞台のきっかけを作れたことについては、褒めてやってもいいと思った。
小耳に挟んだ話だと、どなたかのブログに「『千年女優』原作の監督一行が会場の喫煙所でベタ褒めしていた」といった記述があったと聞いたが、その通りだ。
特に、奇跡とさえ思わせる二日目の上演については「100%ベタ褒め」である。
で、他の日はどうなんだ?という話になるが、確かに初日と三日目は見ているこちらも別の意味でハラハラドキドキする面があった。

まず初日は、何といっても「制限時間」にハラハラした。
今回の上演時間は60分。演劇博覧会という性格上、出演する劇団は同じ条件。
プロデューサー水口さんの5/1付けブログにはこうあった。
http://d.hatena.ne.jp/mizugucchi/
「いやもうね、ほんと正直、今一番の心配事は制限時間。制限時間は60分。60分以内に終わらなかったら、緞帳が降りてくるそうです。これまでの通し稽古ではすべて59分台で終わっているので、大丈夫だと…大丈夫だと思うのですが。」
この記述を事前に読んでいたため、初日は見ているこちらがたいへん緊張してしまった。何しろ「60分以内に終わらなかったら、緞帳が降りてくる」のである。あな怖ろしや。
結果的には3回の上演はいずれも見事59分台のランタイムだったと聞く。
また演出の末満さんの5/1付けのブログにも不安な記述があった。
http://yaplog.jp/suemitsu/
「通常では仕込み二日&初日の半日を使って行う舞台リハーサル。今回の演劇博覧会カラフル3で、各カンパニーに与えられたリハーサル時間は2時間。」
「大阪の会場であったHEP HALLの倍はあろうかという広い会場。袖からセンターにたどり着くだけでも以前とは感覚が大きく違う。広くなった分、役者の体力の消耗も激しい。床にはパンチもリノの引かれていないので気を抜くとすぐに足が滑ってしまう。」
そんな諸々の「最悪の事態」を片隅に思いつつ見るのだから、見ているこちらの緊張が舞台を見る眼にフィルターをかけていたかもしれない。

そんな主観混じりの感想だが、初日は何しろ台詞が聞き取りにくいのが残念なところで、初見のお客さんには甚だ内容が伝わりにくかったのではないかと思われる。特に、音楽がかぶるとほとんど台詞が分からないことになっていた。もっとも、この点についてはマイクの不首尾が大きかったようで、翌日には飛躍的に改善されていた。
また、本来90分のものを60分に圧縮短縮しているせいもあり、そこに初日という緊張のせいか台詞が全体に「間」が失われ、言葉も気分も「前のめり」になっていたように感じられ、それらも手伝って音声による伝達がかなり損なわれたのではないかとも思われる。
だからって、感動しない訳じゃないんだけど。私はすぐ泣けるし(笑)
すでに大阪公演を3回も見ている者としては、最初の音楽だけですぐ泣きそうになるのである。おそらく、最初の音を聞くだけで一瞬にしてラストまでの展開がフラッシュバックするためではないかと思われる。
音楽の威力、大である。

その偉大なマジックを担う音楽が突然「消えた」のが3日目。それもクライマックスのもっとも盛り上がる場面で、音楽と効果音が消え去ったのである。
その瞬間、鳥肌が立った。
「何しやがんだ!バカヤロー」
叫びはしなかったが、怒りで全身に汗が噴き出した。
某巨匠のライブならば「出た、マシントラブル(笑)」てなもんでご愛敬の一つにもなるが、まったくシャレにならない事態である。
間もなく音は無事回復したが、回復するまでの間あれこれと不安がよぎる。
「このまま音がなかったらどうしよう!?」
どうしようったって、どうにもしようがないんだが。
「音が戻ってきたときタイミングが合うのか!?」
何も出来ない観客のくせにやっぱり我がことのように、焦るのである。
しかし、驚いたのは音楽が消えている間に聞こえてきた足音の物凄さである。
3日目は、前から確か4列目で見ていたのだが、台詞以外の音がなくなったことで女優さんたちの走る足音がストレートに聞こえてくる。場面はちょうど、千代子が鍵の君からの手紙を読んで走り出した後。5人の女優さんがずーーーーっと走るシーンなので、5人分の走る足音が打楽器のように鳴り響き、空気を震わせる。
「……こりゃすごい」
別の意味でいいものを見せてもらったが、下手をすれば上演を台無しにするほどのトラブルに怒りと焦りを覚えた。
もっとも、後に楽屋でご挨拶した際に聞いたところによると、演じていた女優さんたちには意外と動揺がなかったらしい。
「続けていれば音は回復するだろう。戻ってきた音にタイミングは合わせよう」
まあ、他に対処の仕様もないのだろうけど。

今回の公演は、神戸を本拠地とするTAKE IT EASY!さんにとって大阪以遠の初めての遠征だったそうだが、立ちはだかる様々な苦難を乗り越えて3日間、果敢に走りきったように感じられた。
さすが千代子たち。
その奮闘の甲斐もあって、TAKE IT EASY!さんは「カラフル3」において「ご褒美」を賜ったそうだ。おめでとうございます。
なかなか気の利いたご褒美だそうで、次回『千年女優』上演につながるものだという。

苦難の女子に、私も続きたいものである。

千代子讃江・その20(最終回)

昨日、仕事仲間からこんなページを教えてもらった。
どうやら去年の11月に北欧を回ったときの、ヘルシンキでのイベントの模様をレポートしたものである。
これがなかなか味のある絵で微笑ましい。
今 敏がなんだかとても「いい人」に描かれているのが嬉しいぞ。
http://aimel.sarjakuvablogit.c……toshi-kon/
もう一つ、こんなのも。
http://www.premiere.fr/Bandes-……Kon-dessin
これは、多分『パプリカ』のプロモーションでパリに行ったとき、2006年のものと思われる。
自分で見る気はしないが、興味のある方は御覧ください。

さてさてさて。
長々と記してきた「千代子讃江」も、書き漏らしたことは多々あれど、そろそろ送り出さねばならない。

1月18日、日曜の夜、舞台版『千年女優』公演はすべて終了する。
舞台は解体され撤収が始まる。
さよならロヲタス。
邪魔していてはいけないので、22時からの「打ち上げ」まで東京組4人(アニメーターの鈴木さん、マッドハウス・プロデューサーH氏、そして家内と私)は鉄板焼き屋でしばし歓談する。
飛び込みで入った割には悪くないが、しかし冷えてないシャンパンを平気で出すのはまったくもっていただけない。

この度の大阪行でヒットだった食べ物といえば、「揚子江」のラーメンである。
ウェブで画像を見つけたので紹介しておこう。
http://kamora.sblo.jp/article/……08966.html
鈴木さん御推薦の店で、お世辞にもきれいとはいえない外観の、カウンターばかりのたいへん庶民フレンドリーな店だが、ここのラーメンは実に美味しかった。
不思議な塩味である。平べったい皿に、うす味のスープに細めん。食べ飽きしない感じの味がたいへん嬉しい。何よりこの店、「ラーメン!」の「ラー」といったら「はい」てなもんで、もう目の前にラーメンが差し出されているくらい素早い反応である。
あんまり気に入ったので、土曜日曜と二日も続けて通ってしまった。
小さめの餃子を前菜にして昼間からビールを飲み、締めにさっぱりした塩ラーメン、てのはなかなか乙であった。

居酒屋「ぽんと」の大広間で、盛大な打ち上げである。
多くのテーブルを囲む関係者の顔はいずれも晴れ晴れとしている。
「乾杯!」
何と甘美な言葉か。決してチンピラ歌手の歌なんか思い出さないでいただきたい。
「お疲れさまでした!」
ジョッキのふれあう音とともに交わされるその言葉には、日常的な儀礼ではない実感が込められている。
心の底から自然と浮かび上がる「お疲れさま」の響きは実に気分がいい。

宴も賑やかとなりかけると、演出の末満さんが前に出て、各人に素敵な贈り物を一人ずつ手渡してくれた。
「大入袋」である。
これが実に素敵な心遣いで、演劇界一般の伝統なのか、彼ら周辺の習慣なのか分からないが、是非真似をしたいと思うような習わしである。
私がいただいた物をお目にかける。

ooiri.jpg
大入り袋は原作者だけでなく、マッドハウスとして窓口になってくれたH氏、それに仕事としては関係のない鈴木さんや家内にも手渡される。つまりは打ち上げの場にいた人みんなに渡されるものなのであろう。

しかも、一人ずつ職種や立場が紹介されて名前を呼ばれ、さらには一言ずつ末満さんからの「寸評」というか「感想」が告げられる。
たとえばこんな。
「何でここまで協力してくれるのか(笑)というほど良くしていただいた原作者」
といったような。
呼ばれたものは前に出て皆に顔を見せることになるので、宴会の場における知らぬ顔同士をつなぐ人物紹介にもなっている。
大入り袋の画像を御覧いただけばお分かりになるだろうが、「祝 動員800超」とあるように当日の情報が記されている。いうことは、公演終了後にプリントアウトされたものである。一人ずつ名前を書くだけでも手間がかかるだろうに、わずかな間に小型のプリンタでせっせと出力したのであろう。小型のプリンタは、トークショウでの抽選番号をプリントするのにも活躍していたさまを目にしている。
何てまめなんだろう。
関わる個々人の心配りも大きいとは思うが、印象としては「場」に伝えられてきている伝統のようなものが感じられる。
うちの業界や身の回りを振り返って考えてしまう。
「……やれやれ」
大入り袋の中味は5円(御縁)が入っているだけだが、けっこうな人数分の5円玉をあらかじめ用意する手間もあろうし、何より大入り袋そのものが嬉しい贈り物ではないか。

宴会はたいへんな盛り上がりととも打ち上がった。
有志は二次会へ、ということで、我々も仲間に混ぜらもらい、確か「酔虎伝」というチェーン系の居酒屋に落ち着く。この時でもまだテーブルにして4〜5つ分くらいの人間が残っていたと記憶している。
ここでもあれこれと舞台版『千年女優』にまつわる話題がお酒とともに深まったのだが、酔った私の目の前になぜかパプリカの顔が差し出された。
「?なぜここに『パプリカ』のブルーレイが?」
この居酒屋の店員さんが、今 敏監督アニメーションをご贔屓にしてくれている方だったようで、監督と認識してサインをしてもらいたいとのこと。
しかも、わざわざこの深夜に近所までブルーレイを買いに行ったとか。
なんて、ありがたくも礼儀正しい人なんだろう。
酔った頭なりに千代子からパプリカにモードをシフトしてサインさせていただく。
本当にどうもありがとう、店員さん。

この店には結局、朝方4時過ぎまでいたろうか。
当日の日誌から引用する。
「舞台を支えたすべてのスタッフ、演出の末満さん、そして痣をたくさん作って最後まで走り抜いた女優さんたちに心から「お疲れさまでした」。
ぐだぐだになってホテルに引き上げて、勢いよく寝る。ああ、深い満足感。」

「勢いよく」寝るという表現がアルコールと満足度の深さを表しているではないか。
明けて1月19日、月曜日。
11時に起きると、今朝方まで飲んでいた酒がしっかりと残っているので、入浴して残留アルコールの排出に努める。
12時を20分ほど回ったところでチェックアウトすると、フロントに蓬莱の「豚まん20個」が届けられている。アートカレッジ神戸広報課長からのお土産である。
どうもありがとう。私の大好物である。
しかし、重いな。豚まん20個。
新幹線の中で睡魔に出会い、気がつけば東京。
出社して、さて仕事。
と、思ったのだがさして手に付かず、仕事仲間と近所の店で美味しいものを食べながら舞台版『千年女優』談義となる。さらに仕事場に引き上げて、さらにロヲタスの話題に花を咲かせ笑いを浮かべ、結局、終電過ぎまで話し込んでタクシーで帰宅する。
舞台版『千年女優』の勢いはまだ止まらない。
何せ、これだけの勢いである。
酔った頭の考えることは怖ろしいものである。
「あれだけ面白かった舞台の原作だからきっと面白いに違いない」
いまとなってはよしゃあいいのにと思うのだが、こんな暴挙に出た。
プレイヤーに『千年女優』DVDを押し込む。ひえぇ。
そして、一時間半の後。
「うん!やっぱり楽しめないや」

残念ながら「娘の千代子」と穏やかに対面することは叶わなかったが、「孫の千代子」にはきっとまた楽しく再会できることであろう。
では、この長きに渡る「千代子讃江」の締めくくりに、千代子の台詞を借りてこう記しておこう。
「必ず逢いに行きます!愛知まで」

とりあえず、私はチケットを確保したぞ。

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TAKE IT EASY!× 末満健一「千年女優」

愛知公演 2009年5月2日(土)〜4日(月・祝)
演劇博覧会「カラフル3」参加
公演会場:長久手文化の家
詳細はコチラ→「カラフル3」ホームページ  http://colorful3.jp/index.php

※ 「カラフル」とは、ショーケーススタイルによる演劇フェスティバルです。全国より25カンパニーが愛知に結集します。この公演はTAKE IT EASY!の単独公演ではなくショーケースイベントですので、上演時間に「1 時間以内」という時間的な制限があります。大阪の公演を短縮してダイジェストでお送りする予定です。

TAKE IT EASY!さんのウェブサイトはこちらです。
http://www.tekuiji.com/index.html

千代子讃江・その19

昨日は吉祥寺で途中下車、新星堂に寄る。
やっぱり欲しくなったものがあった。
最近、欲しいものといえば「志ん生」である。
ポニーキャニオン、コロムビアに続いて、ビクター版を買い入れた。
『五代目 古今亭志ん生』全20巻
あいにく、5、7、8、19の4枚だけ置いていなかったが、ある分だけ購入した。
欠落している4枚は、今朝ネットで注文した。
じゃあ、最初から全部ネットで注文すればいいじゃないか、という気もするのだが、何しろ私は子供みたいな態度である。
「決めたらすぐ欲しい」
こ のビクター版の志ん生は「病後」のテイクがほとんどなので、どうしようかなと思っていたのだが、コンテ作業のお供に聴いたことのない志ん生の音源がもっと 欲しくなり、「どうせ最終的には買うに決まっている」と思い至って、それならいっそ早い方がいいじゃないか、え?てなもんだ。
名人や巨匠といわれる方々の晩年に対する興味というものも大きい。
最後まで名に恥じぬ在り方など、そうあるものではないだろう。

早速、仕事をしながら机上のVAIOにCDを呑み込ませる。
データベースにアクセスして演目や演者、CDタイトルを自動で取得してくれるのはありがたいが、表記がまちまちなことがあって少々困る。
同じシリーズなのにたとえばアーチスト名がこんな具合に。
「古今亭志ん生」
「五代目古今亭志ん生」
「五代目 古今亭志ん生」
「古今亭志ん生(五代目)」
シリーズのタイトルやジャンルも同様なので、取り込んですぐに自分用にデータを編集する。
同じシリーズのものがiTunes上に、気持ちよく秩序だって並んだところで早速聴いてみる。もちろん仕事をしながら。
お馴染みの「一丁入り」に続いて聞こえるは「火焔太鼓」「品川心中」「鮑のし」。1枚目はみな「病前」の録音。どれも聴いたことのあるネタだが、テイクが違えば枕もくすぐりも違うので、お足を出した甲斐があるというもの。
2枚目からは「病後」の録音だが、聞き取りづらいところはあれどまったく問題などない。なぜならそれが志ん生だから。
もう、志ん生なら何でもいいてなもんだ。
呂律の怪しい口調もまた味である。
ただ、病後の「火焔太鼓」は初めて聴いたが、勢いがうんと必要なネタだとさすがに少々寂しい気はする。
「鈴振り」「王子の狐」は聴いたことのないネタ。
「鈴振り」を聞きながら絵コンテの合成作業をしていたら、作業が止まるくらい大笑いであった。

志ん生を聞きながら調子よく合成作業をしていたら、プロデューサーが一冊の本を届けてくれた。
『だから、一流。』菅原亜樹子(学研・¥1400+税)
帯には、
「この人たちの夢中力はすごかった!頑張るあなたへ、20人からのメッセージ」
とあり、その20人の顔写真が並んでいる。
私が知っているところでは、羽生善治、佐藤琢磨、田崎真也、五嶋みどり、野村萬斎などなど。
あろうことか、その中にメガネにひげ、広いおでこの男の顔がある。
「『だから、一流。』……って、俺は一流なんかじゃねえってんだ」
一流の中に並べられるのは甚だ不本意なのだが、一流か二流か二流半か三流かそれ以下かは自分で申し立てることではなく、他人さまが判断することなので仕方がない。著者の菅原さんがそう思ったのなら、「一流に入れるのはやめてくれ」という話でもあるまい。
このインタビュー取材は、確か去年のこと。去年の暮れに原稿チェックをした覚えがある。チェックといっても、たいそう配慮の行き届いたまとめ方だったので、ほとんど手は入れなかったはず。
そのせいもあって、また著者のお人柄ゆえだろう、この本における今 敏の発言は当サイトや日常での発言とは大きく異なり、たいへんマイルドな仕上がりになっている。
この点についても、著者の方がそうお感じになったのならそれがこの本における今 敏でかまわない、と私は思う。
どういう具合にマイルドなのか、興味のある奇特な方は店頭でお手にとって御覧の程。
宣伝替わりに、帯裏の文章も引用しておこう。
「一流とは、決して手が届かない場所にあるわけではなく、
誰もがめざせる場所にあります。
けれども、たとえどのような天賦の才に恵まれていても、
努力し続けない人は一流にはなれない
ということも改めて思い知りました。
雲の上の人と思える人たちも、
一流になるためには
努力を惜しまず苦労に耐えてきたのです。
誰でも初めから一流だったわけではありません。
本書「おわりに」より」
初めからどころか、私なんかは一生一流になることなんかないと思うのだが。
そりゃあ、一流といわれるようになれたら嬉しいが、二流や三流だからってそれぞれの生き方があろうというもの。
二流を生きる一流の生き方、ってことだってあるのだ……って、それじゃ宣伝にならないか。

さて、ぼちぼち終わりを迎える「千代子讃江」19回。

結果的には売れ行きの心配など無用な物販だったが、いくらかの足しになるかとも思って原作者は側面支援をさせてもらった。
平たく言えば「簡易サイン会」。
パンフレットをお買い上げになったお客さんで、希望があれば千代子を描かせてもらった。別に、パンフじゃなくても描きはするのだが。
お客さんの中には、映画版や今 敏監督作を贔屓にしていただいている方もおられたようで、お馴染みの顔もちらほら。ありがとうございます。
初日には、「十年の土産」に足繁く通ってくれた女子高生(現京都精華大在学の女子大生。勉学に精進したまえよ)、和歌山からいらしてくれた女性がおられ、何回目かの公演には何と「ミカンの君」まで現れて、こちらがびっくりした。
道理で会場がミカンくさかったわけだ。冗談だからな。
また、懐かしいところでは「朝風呂派」という当サイトのオールドユーザーの相変わらず「立派な顎」に再会することも出来た。やあ、久しぶり。元気そうで何より。
彼が「KONTACT BOARD3」に書き込んでくれた舞台版の感想「カンゲキしました」は興味深いものであった。
http://konstone.s-kon.net/modules/bluesbb/thread.php?thr=146&sty=1&num=l50

最終回には何と、映画版の立花を演じてくださった声優の飯塚昭三さんがお見えになっていた。奥様とご一緒に観劇されたとのこと。
ろくにご挨拶も出来ず、たいへん申し訳なかったのだが、アートカレッジ経由で(飯塚さんはアートカレッジでの特別講師でもある)聞いたところによると飯塚さんは周囲に気を遣わせたくなかった御様子で、こう仰っていたとのこと。
「私が観に行くことは監督にも劇団にも誰にも言うな」
飯塚さんは、「簡易サイン会」中の今 敏にわざわざご挨拶してくれたのだが、それも実はこういうことだったらしい。

「飯塚先生が監督に挨拶された時は、私たち(※アートカレッジ関係者・引用者注)がまわりで動き過ぎたので
「監督もこちらを見られたかもしれないし、挨拶しないで帰るのは失礼だろう」
ということで挨拶されたらしいです。
本当は完全隠密行動を取りたかったようです。

実に飯塚さんらしいご配慮である。出しゃばりな原作者とは大違いだ。

飯塚「立花源也」昭三さんにきちんと挨拶できないほど忙しくさせてもらったのが「簡易サイン会」。
基本的には舞台版『千年女優』のパンフレットにサインをすることが多かったのだが、時に場違いな「プラス・マッドハウス今 敏」や『妄想代理人』サントラが目の前に差し出されることもあり、少々驚きながらも今 敏監督作を支持してくれる方々に改めて感謝するのであった。

千代子讃江・その18

とある舞台芝居を見た。
演劇界に伝わるという、こんな言葉を思い出した。
「面白い舞台は面白い映画よりはるかに面白いが、つまらない舞台はつまらない映画よりはるかにつまらない」
細部は不確かだが、そんな内容だったと記憶している。
過日の舞台を見ながら、まったくその通りだと思った。
何しろ、まったく話が展開しないのである。
並列のエピソード(とも言えないようなただの説明)が延々と繰り返されるTVバラエティのようだ。
間に入る休憩までの一時間、最初に事件が起きた状態から何ら進展がない。同じ内容を繰り返すだけ。
後半が始まって、「The end」に至るまでも結局同じことであった。
展開が見られないくらいだから、台詞は何のひねりもなく磨かれた形跡もなく、音楽は学芸会みたいで、堂々と音を外して歌い続ける者もいる。笑いと想定されているらしいギャグだか冗談だかは言うに及ばない。
あまりにひどい脚本・演出に、舞台で矢面に立つ役者さんたちが気の毒で仕方がなかった。だから途中で席を立つのは悪い気がしたが、怒り出すほどイライラした。
まるで「寝床」に出てくる大家の義太夫である。
つまらない映画なら途中で立つことも出来るし、それでフィルムが気落ちしてパフォーマンスを下げることもないし、DVDで見ているなら早送りも停止も気兼ねなくできる。
見るべきものもないので、役者を見ているくらいしかなかったが、それでも2時間オーバーの上演時間は苦痛である。
これほど「The end」が待ち遠しく思ったことはないというくらい、こう願い続けた。
「後生だから早く終われ」

というわけで、たった一月ほどの間に、冒頭の言葉に上げられる「両者」を体験した次第である。もう一度記す。
「面白い舞台は面白い映画よりはるかに面白いが、つまらない舞台はつまらない映画よりはるかにつまらない」
ではその一方の雄をたたえ続ける「千代子讃江」、しつこくも18回目。

これまで一方的に、今 敏の主観による好評をお伝えしてきたが、客観的な数字などを引きつつ、舞台版千代子たちがいかに観客を魅了し、その印象を刻んだかということも紹介したい。
何しろ、全回満員御礼であった。すごいぞ、千代子たち。
総観客数は800半ばを越えたそうで、会場の規模を考えると大入り満員であろう。回を追うごとに当日券も順調に伸びたようで、最終回はこれ以上は入らないだろうというほどお客が入っていた。やんや。
私の知り合いの娘御は、わざわざ東京から出かけて土曜の昼の回を楽しみ、あまりの感激に続けてもう一回観劇していた。
「映画と同じところで泣いちゃいました」
と、化粧を押しのけた涙の道筋をくっきりと頬に残した顔でそう言った。
彼女の話によるとチケットの受付の方が「続けて見てくれるお客さん」ということで、二回目は一番前の席を用意してくれたそうで、そんな配慮がなされるのも小規模の良さでもあろうし、そうした心遣いの積み重ねがこの公演をさらに気持ちの良いものに仕上げてくれたのであろう。

物販はたいへんな盛況だったようで、これもたいへん嬉しいことだ。
映画の興行においても、物販もまた大事な興行収入の一部である。
舞台版『千年女優』のパンフレットは、用意した250部が見事に完売。
「250部」という数字に「あまりに少なくない?」と思われるあなたは間違っている。
聞くところによると、こちらの業界において物販は「来場者の2割」という常識があるのだそうで、公演前の段階で来客数「○○○」くらいの数を想定して、そこから算出される数字を考えると「250部」でも大英断であったと思われる。
「公演前の時点で300はさすがに無理」
そう聞いた。
結果的な動員数の2割の方にお買い上げいただいたとしても、売れ残るはずの数字であるし、事前に予測された控えめな動員数を分母にすれば、250部でもかなり多いことになる。
しかも、このパンフレットはサウンドトラックCD付きで(あるいはパンフレット付きサウンドトラックCD)、安くはないものである。
それが完売したのだから、よほど観客は舞台を楽しんだのだろうし、その記憶や印象を「物」と「音」の形で留めたかったのではないかと思われる。
いずれの日も用意したパンフレットは完売になり、残念ながら入手できなかったお客さんもおられるというのに、ありがたいことに私は一部いただくことが出来た。しかも、関係者のサインまでもらってしまった。
パンフを開くと、役者さんたちの顔が活き活きと浮かんでくる……あ、山根さんのサインだけもらい忘れた!
名古屋まで持ってこうかな。

千代子讃江・その17

昨日は一日中書きもの。このブログとは関係なく、仕事絡み。
頼まれていたテキストや返信せねばならないメールが溜まっていた。長文が必要なわけではないが、つい億劫にしていたツケはけっこうな量になってしまった。
現在、コンテ以外に割り当てられる脳の容量が低下しているのだろう。ま、いつものことだが。まったくもって容量の小さい男である。要領も悪いのか。
ご迷惑をおかけしている皆さま、たいへん申し訳ありません。
テキストは200字程度のコメント、卒業生へのメッセージ、ゼミ紹介など細かいものばかりだが、字数の制限があると気ままに書くわけにもいかず、なかなか難しいものである。
だが、昨日の休みで8割方は片が付いた。一日おいて、読み返してから送信すればよい。

本来なら昨日は別の仕事が入っていたのだが、土壇場になってキャンセルさせてもらった。
早めにキャンセルすればもう少し気が楽だったのだが、日が迫ってから送られてきた情報によってキャンセルの意を固めたのだからやむを得ない。
仕事を途中で降りるのは甚だ不本意であるし、関係者にたいへんご迷惑をおかけして誠に申し訳なく思うが、しかし出来ないものは出来ない。
「出来ないものはどうしたって出来ない」
このごく当たり前のことを発することが出来るまでに、随分時間を無駄にしてきたように思う。今後はなるべく精神論に陥らないようにしたいものである。しかし事あると、つい精神論で補おうとするのは日本人の遺伝子によるものだろうか。
「竹槍でB29は落とせない」
分かっちゃいるはずなのに。

マッサージ機に揉まれながら読書。脳と肩を同時にマッサージしているようでたいへん贅沢な時間である。
読み終えた本が実にけっこうな頭のマッサージになった。
『日本人の〈原罪〉』北山 修+橋本雅之/講談社現代新書
帯にはこうある。
「精神分析家と国文学者による日本人の深層心理学!
イザナキ・イザナミの神話に示された「罪」と「恥」を読む」
どうでもいいことだが、なぜ一々「!」をつけるのだろうか。やかましくて仕方がない。
「(略)神話も『夕鶴』も「鶴の恩返し」も「雪女」も、その他の異類婚姻説話もまた、この国ではほとんど別れ話で終わり、男はなす術もなく立ち尽くし、女性は退去することを反復している。」
このことはよく知られているだろうが、「見るなの禁止」が破られ、見られてはいけない姿を見られた女は、それを「恥」として去って行く。イザナミの場合は追っかけてくるが、醜い姿を見られたことに怒るのはやはり「恥」による。
これら「去って行く女」の悲しみは、河合隼雄先生が「原罪」ならぬ「原悲」と名付けおり、日本人論の顕著な特徴としてあげられる一つであろう。
この本の面白いのは、「見るなの禁止」を破った方、つまり見ちゃった男の側に焦点を当て、そこに隠された「原罪」を見い出そうという視点である。
私は神話にも日本人論にも詳しいわけではないし浅学この上ないが、見ちゃった側の「罪」を論じたものを目にしたことがなかったので、たいへん刺激的だった。
確かにそうだ。
「見るな、ってんのに何で見るんだ」
まぁ、もし禁を破らなかったらお話にはならないが、破った側の「罪」というのは一体どうなってしまったのか、考えたことがなかったかもしれない。

イザナキが黄泉の国から戻ってきて、ケガレを海で清め、そこからアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴神が生まれるが、このとき見てしまった「罪」もイザナキはまさに「水に流して」しまったのではないか。そして、「母(イザナミ)に会いたい」と泣き続けるスサノオに、イザナキが理不尽なほどに怒ったのも、その流したはずの「罪」のツボを踏んだからではないか、という指摘がなるほど面白い。
さらに、「罪」を水に流したことにして、「罪」について深く考えてこなかったことこそが日本人の根深いところで受け継がれている、という論は実に納得できるというか、思い当たることは多々ある。
何せ「臭いものに蓋をする」のが得意な国である。蓋を開ける奴は迷惑がられるに決まっている。

第四章の対談から引用する。
「北山 (略)昔話を総合すると、私たちが一番痛いところは、「夕鶴」の場合もそうなんだけれども、「この国」の住人である私たちが望んで反物を織ってくれと結果だということ。私の責任で〈つう〉がこれ以上飛べなくなってしまっていた。私がこの国をつくろう、神々を産みだしてくれよという欲望の結果、この国が生まれたんだということに直面するということです。
それは、イザナキの側、見た側の責任を問うことになる。もちろん、私たちはこのことを知らなかったんだと言えるけれど、でも、時間とともに噛みしめる罪もある。いじめの問題でも、政治の問題でも、傍観者であったけれども、加担していたというレベルの罪があるんですね。それが、『夕鶴』の話やイザナキ・イザナミ神話のなかにうまく描かれている。」
反復される神話的な悲劇を克服して行くためには、見てしまったことへの贖罪が必要である。それには去っていった者への「すまない」という謝罪、死者を手厚く葬ること、喪の儀礼にあるのではないかという話に結びついて行く。
内田 樹先生が書かれていた話を思い出した。うろ覚えだが、こんなこと。
死者に対して、お前はここにいてはいけないという態度が、死者をいつまでもこちらに釘付けにしてその祟りを呼び出すことになり、いつまでもここにいてください、忘れませんという喪の礼によって死者は去って行く、と。
つまり、臭いものに蓋をし続ければいつまでも隙間から漏れ出して人の鼻を曲げ、その蓋を取れば一時的には鼻が大きく曲がっても、いつか臭気は拡散して消え去るということであろう、っていきなり格調が下がるたとえで恐縮だが。

著者の一人、精神科医の北山 修が「ザ・フォーク・クルセダーズ」の元メンバーと同一人物とは知らなかった。天国から『帰ってきたヨッパライ』だけにさすが、あの世とこの世のあわいには詳しいのか。

長い枕話と関係なく、まだ続く「千代子讃江」17回。

各トークショウでは、東京から持参した『千年女優』で実際に使用したセル、原作者がその場で描いたサインとTAKE IT EASY!さんメンバーが描いたサインを抽選でプレゼントした。
土曜日の昼の回、その後のトークショウでのこと。奇妙な偶然によって、「その後、知るはずの人」に私のサインが渡ることになった。
「その後、知るはずの人」とは黒田武志さんというアーチストの方。かつて「惑星ピスタチオ」の公演ではグラフィックデザインやセットデザインを担当されていたそうで、TAKE IT EASY!プロデューサーさんから、「公演後、その黒田さんを是非ご紹介したい」と聞いていた。
私が抽選のくじで引き、壇上に上がっていただき、サインの宛名をお聞きしたところ返ってきたのが。
「黒田です」
ありゃ?……もしや。
その通り、その後知るはずの黒田さんであった。
うん、なかなか『千年女優』的因果だ。

後にロビーで正式にご紹介を賜る。
光栄なことに、黒田さんは今 敏の仕事をよくご存知のようで、あまつさえ好んでいておられるとのこと。アニメーションの仕事のみならず、『海帰線』のころから気に入ってくださっているとのこと。
平沢進、諸星大二郎などもお好きだそうで、同世代ということもって好みの傾向も似ているらしい。
黒田さんから、『不純物100%』という作品集をいただいた。
http://homepage.mac.com/sandsc……books.html
これは本当に素晴らしい。
「錆萌え」の私には堪らない「ツボ」である。
錆に彩られた様々なオブジェたちに静謐な時間と空間が宿っている。
驚嘆すべき仕事だ。
このような方に好んでいただけるなど、お恥ずかしい限りである。精進します。
ありがたくいただいた作品集は、現在仕事場の本棚に飾らせていただいています。
サインをもらっておけば良かった、とちょっと後悔もしております。

土曜日の夜公演の後には、「演劇ぶっく」の取材にお邪魔させてもらった。
何で私が?(笑)
一応「原作者」という肩書きで、賑やかしとしてのお声掛かりだと思うが、ある意味私にはこの取材そのものより、実はこの取材が決まったことへのリアクションの方が印象的であった。
前日の初回公演のあと、プチ打ち上げの席で「演劇ぶっく」の取材が決まったとの報告がなされた。それを受けての関係者の盛り上がり方にびっくりした。
媒体露出の重要性は一般の方よりもよく分かっているつもりであるが、しかしそんな大盛り上がりするとは、また一体?
この取材は、初回上演の大成功によって獲得されたものであるから、喜びは当然なのだが、聞くところによるとこの「業界誌」において、関西の劇団が定期的に取り上げられるページはたったの1ページだとのこと。
(私の認識が間違ってなければいいのだが)その1ページを、関西の何百という劇団が争う格好になっているというのだから、そのページで取り上げられることの価値はなるほど想像に難くない。
また、この席であるメインスタッフが『千年女優』好評の手応えから「東京進出もありうるかも!?」といった発言もされていた。

そのくらい関西演劇から見た「東京」という敷居が高いものなのか、と認識を新たにさせられた。おそらくその傾向は演劇に限ったことではないのだろう。
昔『パーフェクトブルー』の関係で、原作者・竹内義和も出演しておられるラジオ番組「サイキック青年団」の収録を見学させてもらったことがあり、その際、スタッフの方と酒席を共にさせていただいた。
どういう文脈で出て来た発言だったのかは失念したが、ある方が少々吐き捨て気味にこう口にされていたのがひどく印象に残っている。
「東京以外は全部地方ですから」
八百八橋、商都大阪でもそういうものなのか、と近世までは化外の蝦夷地で育った私には正直不思議に思えた。
「東京」で活動する、というのはイコール「全国区」になりやすいことくらい理解していたつもりだが、「東京」でしか活動したことのない者には分からない、「都鄙の隔絶」(と言ってはあまりに大阪に失礼だが)といったものが横たわっているのであろうか。

是非、舞台版『千年女優』の東京公演を実現してもらいたいと切に願う。
東京での公演となると、これまで映画版『千年女優』を取り上げていただいた媒体取材先などに働きかけることも出来ようし、もっと宣伝協力が出来ると思えるのだが……って、ありゃ。それが正に先の「隔絶」を象徴した話でもあるわけか。

千代子讃江・その16

昨日、世間では「建国記念の日」ということだったが、律儀に祝日を休むほど暇ではない。というより、仕事をしたい。
ただでさえ仕事をしたいがその上、一昨日新たに「耳の友」が届いたので、これを聞くためにもコンテに向かいたいのである。

「古今亭志ん生名演集」
(13枚組CD+特典1枚・コロムビアミュージックエンタテインメント)

相変わらずの「志ん生」熱である。
届いた日、まずは仕事場に持参し、机上のVAIOにCDを食べさせながら、コンテ清書のお供に早速聞いてみる。
初めて聞く演目は勿論楽しいが、同じ演目でもテイクが違えばそれもまた面白い。
「「うなぎ屋」って初めて聞くなぁ……お、こっちの「寝床」はサゲまで演ってるじゃないか。病前のテイクだし。「化物使い」っておかしいね、これも。うふふ」
この全集は人情話などはほとんど収録されておらず、バリエーションに欠けるとはいえ単純に笑える話が多くて、これはこれで楽しく愉快である。
極めつけは13枚目に収録されていた「彌次郎」。
最近読んだ志ん生関係の本で紹介されていて、是非聞きたいと思っていたのだが、あまりのバカバカしさにコンテの清書に支障を来すほど大笑いしてしまった。
何せ、想像を絶するほど寒い冬の北海道では火事に水をかければ炎が立ったまま凍る、てぇんだ。しかも溶けりゃまた火になるてぇしね。北海道じゃ鴨なんて手づかみで捕れるそうで、水が凍って動けなくなった鴨を、鎌で脚んとこからサクサクと「刈り取る」てんだ。しかも春になれば残った脚から芽が出るてえしね。
そんな法螺ばかり吹き続ける男が山賊を投げ飛ばし、巨大な猪の背にまたがり、早稲田から来た熊をなぎ倒し、うわばみの腹の中を駆け抜けての大冒険。
さながら「ホラ吹き男爵の冒険」である。
語る志ん生のスピード感もすさまじく、圧巻の一席。堪らん。

残念なのは、この全集、一枚あたりの収録時間どれも一時間未満とやや短いことか。それに特典を入れても14枚とは少々寂しい。
2日間で全部聞いてしまった。
何、まだまだ他のメーカーからも出ているのだ。どこのを買おうか、いまから楽しみにしよう。
コンテを描くのも楽しいが、志ん生付きの仕事はなお楽しいのである。

さて、では「千代子讃江」16回。

最後のトークショウでの「総括」の前に、私にとっての舞台版『千年女優』公演までの履歴をざっと記してみる。

TAKE IT EASY!プロデューサー水口さんから、『千年女優』の舞台化についてメールをいただいたのが、2007年12月24日。
その一月後、2008年1月20日にはTAKE IT EASY!さんのメンバーと三宮で会食をさせていただいた。村上春樹氏のエッセイにも登場するという、ピザが美味しいイタリアンであった。
役者さんたちはとても素敵な女性ばかりで、どんな千代子になるのか、期待が膨らんだ。
11月23日に、水口さんと末満さんがマッドハウスに来社された。その折の対談は舞台版のパンフレットに収録されている。
その四日後、27日にはこちらが公演会場であるHEPホールに伺い、舞台版『千年女優』の制作発表にお邪魔させてもらった。その後、劇団メンバーと末満さんと一緒に鍋を囲んで歓談し、公演への期待は益々高まった。
そして本番三日間は、トークショウ出演ということもあって、舞台裏の控え室にいることも多かったので、役者さんたちとお話しさせてもらう機会も多かった。
音楽の和田さん始め、舞台を支えるスタッフの方々の「顔」も知った。
つまりそれだけ、舞台版『千年女優』の役者さんとスタッフの方々そのものへの共感や思い入れも積み重なってくるのである。

間近に接する女優さんたちは、舞台では大きく見えても実際には小柄で、皆さん驚くほど細身である。舞台上であれほどに動き回る体力がどこに仕舞われているのかと思うほどだ。
また、舞台裏の通路でしゃがみ込んでいた松村さんの小さな背中が印象的だった。プラスチックの長持ちの中に、マイクのトランスミッター(と呼べばいいのか)をビニール袋から出して仕舞っていた。二回公演の間のことであったろうか。
何をしているのだろう?と疑問に思って見ていると、松村さんがしゃがんだまま顔をこちらに向けて教えてくれた。
「汗で濡れて機械がダメになっちゃうから、乾燥剤と一緒に入れておくんです」
リアルな話だ。もし私が劇団の舞台裏を描くことがあったら、是非取り入れたいシーンである(笑)
なるほど、機械がダメになるくらいの汗を流すものなのか。確かに納得するだけの運動量であろう。
あるいはまた、初日の後、居酒屋で演出とメンバーが翌日の公演のために「ダメ出し」や「変更」を打ち合わせている姿も間近に見た。もしかしたら、演劇業界にあってはごく当たり前のことなのかもしれないが、自分たちの作品の反省と少しでも改善しようというたゆまぬ努力に心底敬服すると共に、大半は作り終わったらそれきりで、さしたる反省もないままに流れて行くアニメーション制作の「腰の弱さ」を照射されているように思えた。
全体にひ弱なんだよな、アニメーション業界って。ま、生の観客を相手にしている舞台の人たちとは全然違う生き物だから比べても仕方ないが、しかしそれでも学ぶべき点はあまりに多い。

この時、テーブルの対角線上の反対側で、私は音楽の和田さんと懇意にお話しさせてもらった。
原作の立場でこういうことを言うのもどうかとは思うが、舞台版のキャストやスタッフには、「原作にまつわるプレッシャー」というのも少なからずあったようで、ネットでの評判も気にされていたらしい。
私などは「そういうのを見るのはよした方がいいのでは」と思う方だが。見たところで「しょうがない」だろうに。
無論、原作には原作のファンもおられるだろうし、中には「『千年女優』の舞台なんて無理じゃないの」というある意味もっともなものから、「平沢の音楽を越えられるわけがない」といった謂われなき言いがかりもあったと聞いた。
そういう脳の取れちゃってる発言なんか気にも相手にもしなければいいし、そもそもそんなものを目にしない方がいいと思うのだが、そこにはやはり「原作もの」というプレッシャーが働いていたのであろうか。もしかしたら、関西という地勢的な背景もあるのかもしれないが、それはまた微妙な話。
確かに音楽はたいへんだったろう。原作の音楽は強烈な個性を放っている。
「別物だ」と思ってみても、その引力圏の強さは想像に難くない。
だいたい平沢さんであっても、当時、監督の要望であった「Lotus」という「原作」を元に、新たに曲を作るのはなかなか難しかったと仰っていた。すいません。
そのくらい、比較の対象(優劣の対象ではない)があるというのは難しいところでの創作である。その心中は同じ作り手としてお察しする。
そうしたプレッシャーを跳ね返して、見事舞台に大輪のロータスを咲かせたすべてのキャスト・スタッフへの思い入れは、日増しに大きくなったのである。

という背景があって、ようやくトークショウ最後の「総括」である。
私の個人的な総括は、前置きが長かった割にごく簡単である。
『千年女優』というお話は、最後に千代子を「あちら」へ送り出して終わる。
舞台版においても、千代子たちは観客に見守られて「あちら」へ、自らの意志であるかのように旅立って行く。
舞台版最終上演を見ていて、その様がまるで、舞台版『千年女優』の最期(もちろん再演はあるにしても)を見届けることにダブって見えてきて、さらに感動が膨張してしまった次第である。
何を出来るわけもなく、東京から制作を見守ってきた舞台版『千年女優』が、(とりあえずは)最後の公演となり、去って行く。
演じた女優さんたちには、舞台裏でも打ち上げでもお会いすることはあるし、千代子たちにも再演で会えることもあろうが、少なくとも大阪公演での千代子たちには、もう二度と会うことは出来ない。
そうした思い入れをさせてもらえたのも、原作という立場でわずかながらでも舞台版『千年女優』に混ぜてもらえたおかげである。
誠に感謝する次第である。
どうもありがとうございました。

と、ここでこの「千代子讃江」シリーズもきれいに終わる。かと思えばそうでもないかもしれないのであった。

千代子讃江・その15

昨日はソニーさんのご招待で、浅草へ。
知る人ぞ知る、野鳥料理の「鷹匠 寿」で鴨料理をいただいた。
何でもこの店は紹介でしか予約を取らないらしく、一見さんお断りの老舗なのだそうだ。しかも、たいへん人気のある店のようで、予約解禁となる日から2〜3日後に予約を入れたというのに、取れたのは昨日の2月9日。4ヶ月待ち。
たいへんな店である。
予約するだけでもたいへんな店だが、お値段もたいへんな店らしい。無論、その分美味いのである。
そんな贅沢な店にもかかわらず、二度目の「寿」体験である。
やはりスポンサー様のおかげで、去年3月末に初めてこの店で鴨を楽しませてもらった。
当時の日誌から引用する。

「雨がひどくなる中、浅草「鷹匠 寿」へ。内田(勝)さん始め、ソニーさん一行がお待ちである。シャンパンで乾杯し、料理を楽しむ。
何を食べても美味い。
シャモの鳥わさ、びっくりするほど柔らかい砂肝、絶品のレバー、雀の姿焼き、素揚げのような唐揚げ、そして鴨(合鴨ではなく青首)のすき焼き。すき焼きと言っても牛のすき焼きのような汁があるわけではなく、関西でいうところの「すき」(関東だと鍬)の上で焼いてもらうのである。職人技のような焼き方である。
ほどよく焼いてもらった鴨肉を大根おろしでいただく。これが絶品。
これまでに食べたことのないような肉。合鴨とは全然違う味と食感。
さらに鴨のぞうすい。これがまた美味い。
話も忘れて食べるほどに美味しいコースであった。」

この時は、日誌中にもあるとおりソニーピクチャーズさんの顧問であり、かつて週刊「少年マガジン」の黄金時代を築いた名編集長、内田勝さんに案内してもらっての「寿」であった。
ニコニコとお話しされていた内田さん。その二月後の6月1日、訃報に接するとは夢にも思わなかった。

昨日は、ソニーさんチームとマッドさんチームで、新年の挨拶と内田さんを偲ぶ会を兼ねた「寿」であった。
この店は、お酒の持ち込みが可能で、ソニーさんが用意してくれたモエ・エ・シャンドンのロゼとカリフォルニアのシルバーオークで鴨料理をいただきつつ、内田さんの話から、プロデューサーと芸能、志ん生から芸談、それに舞台版『千年女優』と話題を転じて花を咲かせる。
きっと内田さんもお座敷に来ておられて、ニコニコと話を聞かれていたに違いない。
合掌。

さて、いつまで続けられるのか「千代子讃江」第15回。
昨日のブログでネタだけ振った、トークショウ。
トークショウ全5回は、ありがたいことに多くのお客さんに残って見ていただいたおかげで、出演者としてもたいへん気分良くお話しすることが出来た。いずれの回も8割以上、席が埋まっていたのではないかと思われる。
各回には、それぞれ「お題」が設定されていた。
確か、
「アニメから見た演劇、演劇から見たアニメ」
「私の好きな『千年女優』の1シーン」
「和田俊輔さんを迎えて音楽のこと」
「私の好きな『千年女優』のキャラクター」
「舞台版『千年女優』総括」
であったろうか。
話した内容は、概ねこの「千代子讃江」シリーズで記してきたようなことである。
「好きな1シーン」といえば、何回か前に記したとおり結婚後の千代子が掃除機をかけているシーンなのだが、舞台版との関連に話を展開しづらいので、ここでは戦後の焼け跡で蔵に残された絵を発見するシーンを上げておいた。

「好きなキャラクター」と言われても、末満さん同様、私も別に千代子が好き、というわけではないし、キャラクターよりも人物が置かれたシチュエーションに感情移入してしまう方なので、特に思い入れが強いキャラクターがいるわけではないが、強いて言えば立花ということになろうか。
まあ、立花にしろ千代子にしろ、好きなものを追いかけることに対する情熱は同じように強いものだ。
ただ、世間知という「常識」がブレーキとして働いてしまうかどうかが、仕事における実績の大小を分けたのであろうと私は想像している。
千代子のようなブレーキが故障している人間に憧れつつも、非常識なまでには仕事に徹しきれない(ことが多かったであろう)立花のような人間には共感する。

トークショウは各回TAKE IT EASY!メンバー二人によってナビゲートされたが、約90分の本番を役者として務めた後、5分おいて司会をする。肉体的にも、精神的にもモードを変更するのはさぞや負担であったと推察される。実際、ナビゲートについては「グダグダ」になっていたとは、ご本人たちの弁だが、人使いの荒い劇団であることだよ(笑)
最終回のトークショウは、全メンバー総出演で賑やかな舞台となる。
これが最後の出番であり、舞台版『千年女優』大阪公演が満員のうちに無事終了したという高揚感が大いに手伝って、私は「余計な真似」をしてみたくなった。舞台裏の通路に、舞台で使われていた「井田のメガネ」が数本置かれていたので、その一つをかけて登壇してみた。悪ふざけのようで申し訳ない。
さらには末満さんが「立花の帽子」をかぶって、冗談にお付き合いしてもらい、よけいにお世話をかけてしまった。
私がかけた「井田メガネ」はツルの部分が破損したらしく、本体と同じ白色のビニールテープで補強され、ツルをたたむことは不可能になっていた。
こんなところにも舞台の過酷さを見たような気がする。
女優さんたちはさらに過酷であったろうし、本番3日間の間にも次々と増えていく「痣」に驚いたものである。
「いつ(痣が)出来たのか分からない」
役者さんたちはそう仰っていたし、
「本番になると痛みを忘れる」
とも口にされていた。
泣けそうになった。

千代子讃江・その14

特に取り上げるような近況もないので、今回はすぐに本題。

終幕の感動もさめやらぬ5分の後、折角の余韻に水を差すことになるのではと心配しつつ、「原作の人」も登壇してのトークショウである。
我ながら、出しゃばりだなとも思うのだが、微力ながら出来るだけの応援のつもりである。
もしかしたら稀にひょっとして「今 敏も出るなら舞台を見ようかな」と思ってくれる人もいるかもしれないし、何より原作者が協力するということは、少なくとも原作者に好まれた翻案であるということを示したいという思惑もあった。それがどれほどの動員につながるのかはともかく、折角映画版『千年女優』を好ましいと思ってくれている人が少なからずいるのだから、そうした方々に是非舞台版を見てもらいたいではないか。
特に、観劇人口の分母が東京よりはるかに少ないといわれる関西、その小劇団なら予算も思うに任せないであろうし、わずかな動員増でも切実に重要ではないかと推察された。
切ない台所事情には共感する(笑)
よって、トークショウ出演はわずかばかりの宣伝協力である。

アニメーション業界などでは、原作者との折り合いが宜しくないケースもたまに耳にするし、その結果が商売としてどうあれ、何より翻案された作品が多少気の毒な気はする。
まぁ、スケールが違うとはいえ『シャイニング』という原作者に思い切り嫌われた傑作もあるけれど。
舞台版『千年女優』に関して原作者は最初から、「協力はするけれど中味については一切口出しをしない」という考えであった。
それが制作現場にとって「一番望ましい原作者の態度」だと私が思っているからである。
多分、原作付きの作品を抱える多くの制作者たちがそう思っているに違いない。
それに、私にはすでに終わった仕事に関して細かなことで口出しするという在り方が私にはよく分からない。
ま、漏れ聞くところによると、漫画原作のアニメーション化の場合、多くは作者本人よりその周りにいる連中が、作者の威光を借りて偉そうに口出しするケースが多いようではあるが。
私は、過去に描いた漫画や監督した映画というのは、すでに使い終わったアイディアなんだから、使いたい人がいるなら自由に使っていただいた方が、作り手のためにも観客のためにも、そしてそのアイディアのためにもたいへん良いことではないか思う。
だから、実現の可能性はともかくこれまでにあれだってそれだって、再利用したい方がおられるなら「どうぞどうぞ」という態度であった。
もちろん、映画は個人の著作物ではないから、一個人の思惑で取り扱っていいものではないし、著作権や使用料という問題は必ずついて回るが。

1月23日付、演出・末満健一さんのブログにこんなことが記してあった。

「世界的に活躍する今監督が、関西の小さな劇団に快く演劇化を許可してくださったこと、演劇化に際して一切注文をしたり口出ししたりしなかったこと、出来上がった作品を心から喜んでくれたこと、それが舞台版『千年女優』を幸せな作品にしてくれた。」

何を仰いますやら。
今 敏は世界的に活躍なんかしちゃいませんってば。
国内だけではちっとも商売にならないから、せめて海外に出して商売の足しにしなければならない、というのが実情でしょう。
「出来上がった作品を心から喜んでくれたこと」に関しては本当です。
この「千代子讃江」シリーズという過剰な長文がその証左。

千代子讃江・その13

昨日、イタリアで出版されたという評論集に触れ、その本に関するウェブページを紹介した。翻訳された日本語はグルーブ感に溢れていたが、問い合わせされた方が、同文をきちんと日本語に訳したテキストをお送りいただいた。ありがとうございます。
興味深いテキストなのでここに紹介させていただく。

「今敏は、著名な映画祭へ作品を出品しているということもあり、新世代の日本アニメ監督の中でも最も有名で賞賛されている。
このように重要な芸術家についてのイタリア初の研究である本書は、劇映画(「パーフェクトブルー」、「千年女優」、「東京ゴッドファーザーズ」「パプリカ」)とテレビ作品(「妄想代理人」)の分析を通じて、また日本アニメの内外の主要専門家により監修された彼の素晴らしき映画の全側面に触れる“縦断的な”掘り下げにより、今監督の複雑なテーマの分析を目的とする。序文マルコ・ミュラー。
日本アニメの才能の中でも、今敏は過剰と矛盾の巨匠、昔から変わらず全てであり全ての反対である。彼のエネルギーは、常に幻想的側面の下、魔術的ネオリアリズム(「東京ゴッドファーザーズ」)、シュールレアリズム・スリラー(「パーフェクトブルー」)、芸術についての熟考(「千年女優」)、反伝統的で曖昧で獰猛な語り口(「パプリカ」)にまで及ぶ。今敏は、自らの作品に抑えきれない想像力を記述しながら、ジャンルをむさぼりそれらを色彩の純粋なソースにひたったアニメーションの中で発芽させる芸術家である。アニメ愛好家のための論文、この監督の全作品とその映画を構成する主要テーマの詳細な分析。本書は、マルコ・ミュラーの序文に飾られ、アンドレア・フォンターナ、ダビデ・タロ、エンリコ・アッザーノ、ブライアン・ルー、アレッシア・スパニョーリ、ステファノ・ガァリーリョ、マッテオ・ボスカロル、マリオ・A・ルモール、ラファエレ・メアレ、ルカ・デラ・カーザ、マルチェロ・ギラルディ、そしてパオラ・バレンティーニの評論を掲載する。」

実に面白い表現だ(無論、翻訳の問題ではなくて)。
形容の重ね方が私には大変嬉しい傾向にある。イタリア人はヨイショ上手なことだよ。
「過剰と矛盾の巨匠」「昔から変わらず全てであり全ての反対」「反伝統的で曖昧で獰猛な語り口」など、矛盾と違和感のある組み合わせがとても刺激的。
とはいえ。あまりに過度な賞賛に思える。
ふと、以上に上げたフレーズを読み返すと、これらの形容が誰よりも適切な御方が思い浮かんだ。そう、当サイトをよくご利用の方にはもう分かりであろう。
きっとあなたも「点呼」されたいに違いない。

さて、しつこくも続く「千代子讃江」第13回。

ようやく舞台版も終幕が近づく。
映画版でもとても好きなシーンだ。というのも、自分の演出が気に入っているというわけではなくて、アフレコ時のシーンがひどく印象的だったからである。
老千代子役の荘司美代子さんが、呼吸器変わりの小道具を口に当て、細い息で別れの言葉を口にする。
「悲しくしないで……だって私、またあの人を追いかけて行くんですもの」
このあたり、荘司さんの芝居がたいへんいいのだが、その収録光景が忘れられない。
アフレコのブース内には、荘司さんお一人。確かこのシーンは椅子に座っての収録であったと記憶している。
他の声優さんはすでにそれぞれの役を終えていたのだが、千代子の最後を見送るように、少なからぬ声優さんが残って見守っていた。
折笠さんと小山さんの若い「千代子たち」に見守る中、老千代子は息を引き取っていく……。
このアフレコ時の記憶や様々な思いでが重なり響き合い、舞台はいっそう感動的な最後を迎える。
舞台版、千代子たちの末期は悲しくも美しく、しんみりしつつも晴れやかである。千代子たちを優しく包む和田さんの音楽が情感を盛り上げる。
そして最後の台詞である。

映画版の最後の台詞は賛否両論があったと聞いたが、それについては「千年女優画報」のインタビューでも答えているし、だいたいあの台詞に辿り着くために作ったような話である。好悪は人それぞれ。
ただ舞台版では、最後の台詞は原作と同じでも、聞こえる印象がずいぶん異なるのではないかと思える。
ここもやはり舞台版の方がぐっと「女性的」であり、映画版よりも受け入れられやすいイメージになっているような気がする。全体の演出は勿論、音楽による部分も大きいし、やはり何といっても女性5人という身体によってしっかりと担保されているからではないかと思えた。
思い入れが過剰にならない、見事な千年の終幕である。
さよなら千代子たち。

と言いつつ、翌日も翌々日もまた千代子たちに出会うのだが。

会場は大きな拍手に包まれ、千年を走りきった女優さんたちが登場。さらに拍手が高まる。
その光景そのものが感動的だ。
女優さんたちの顔はどなたも晴れやかで美しい。
心の底からこうお伝えしたい。お疲れさまでした。
拍手喝采。