千代子讃江・その12

先日このブログで今 敏に関する評論がイタリアで出版されるという話を紹介し、マルコ・ミューラー氏が書かれたという序文を引用させてもらった。
別のルートからもたらされた情報によると、どうもこの本のことであるらしい。
http://animeclick.lycos.it/not……p?id=21132
このページには各国語への翻訳もリンクもあり、日の丸をクリックすると下記のような、なかなか陽気な日本語が現れる。

「今敏は 、 新世代は、日本のアニメーションの取締役と感謝されている最も有名な、主要な映画祭での仕事のおかげで参加する。彼の映画の分析(パーフェクトブルー、千年女優、東京都の名付親とパプリカ)とテレビ番組制作 ( パラノイアを介して非常に重要な芸術の図にイタリアでこの本は、最初の調査は 、 提案されている複雑な問題を分析するコン、エージェント) 、さらに ” クロス”日本のアニメーションの主要国や国際的な専門家による治療を一部のおかげで、彼の素晴らしい作品のすべての側面に触れる。 カラフルな夢の世界での旅をする必要があります一般的にアニメや映画のファン。マルコミュラーによる序文。」

「取締役」というのもいかしているが、「東京都の名付親」はなかなか愉快だ。
内容は、色々な著者による評論集のようで、「15ユーロの価格は264ページを数える」ということなので、なかなか大部の本のようだ。
この本の著者の一人の友人の友人という方から丁寧なお問い合わせがあった。
この方は「彼らから日本でこの本を翻訳出版できないか相談を受けている」とのことで、今 敏がもしこの件に興味があれば協力してもらえまいか、と。
今 敏は今 敏に関するテキストを積極的に読む趣味はないし、今 敏に関する評論を今 敏が率先して営業するなんてのも珍妙な構図だし、だいたい『夢みる機械』が忙しいのだが、さりとて全然他人事というわけでもないので、出来ることがあれば協力はしたいものである。
「今監督の作品がヨーロッパでも高く評価されている事実を、日本の映画ファンにも広く紹介できる素敵な機会となるのではないか」とのありがたいお言葉だが、日本で高く評価されているわけでもないし……ましてや売れているわけでは全然ないし……今 敏個人としては翻訳出版の実現性を疑問視しつつ……。
もし出版に興味のある方がおられればご連絡ください。

前置きが済んだところで、ではしつこく「千代子讃江」第12回。

千代子の元に「傷の男」が現れ、過去から届いた「鍵の君」の手紙を渡す。
手紙によって感情が昂ぶった千代子が一気に走り出す。
いよいよクライマックスである。
「手紙」の文面が読み上げられる中、千代子が走る。
それを読む「鍵の君」の声、その解釈が実に面白い。映画では絶対にありえないが、生の舞台ならではの演出であろう。
舞台の熱が一気に上がる。
そして何といっても、このシーンをいっそう盛り上げるのが『数え歌 無限千年回廊』である。
健気にひた走る千代子のバックにこんな泣ける曲を流された日にはあんた、そりゃもうね、たいへんですよ、ええ。
本当に素敵な曲であり、相応しい詩である。
曲単体としても可憐だと思うが、何より芝居との相乗効果が素晴らしい。
破壊力抜群(笑) うう、泣きそう。
プロの歌い手ではないのがまたいい。
何しろ、「千代子たち」が歌っているのである。
その声はベタつかず、たおやかで健気でもあり、可憐でありつつも凛々しいのである。
千代子の内なる声、千代子の歌なのだ。

このスタンスに舞台版『千年女優』の解釈、そのエッセンスを見る思いがした。
以前、末満さんから聞いていたとおり舞台版は千代子の視点で解釈された演出で、曲も詩の在り方も「愛し君は何処に」とある通り、千代子の感情に寄り添ったスタンスだ。
ただ、単に感情を歌い上げたというわけではなく、形而上を表す言葉がちりばめられているので、感情面が強調されつつも無意識的な広がりがある。
対する映画版は、立花という男性視点という意味だけではなく、演出もその音楽の在り方もやはり父性的なのである(だからといって舞台版が母性的とは思わないが)。
監督の演出意図としては、平沢さんの雄々しい叫びは無意識の彼方から千代子を呼ぶ声であると解釈されていた。その正体不明の声に導かれるように、千代子が走る、と。千代子はその声に抗うことは出来ないし、それが何故なのかも分からない。
千代子の内部にあって、しかし自分では決して分からない外部から到来する声。映画において千代子は呼ばれる客体である。
舞台において千代子は歌う主体である。
いずれの音楽も千代子の内部から聞こえるものではあるが、「千代子から聞こえる」と「千代子が聞いている」という大きな違いが感じられる。
だから舞台版には「乙女」が感じられるのだろう。
実に健気で可憐な乙女だ。
それに対して、今 敏の演出と平沢さんの音楽の組み合わせでは、どうしてもこういうイメージになってしまう気がする。
「おい、そこの乙女」

北海道へひた走る千代子。
映画版同様、舞台上ではめまぐるしく回想や映画のシーンがフラッシュバックのように移り変わり、その中を千代子が懸命に走る!走る!走る!
誰よりもその先の展開を知っている原作者なのに、つい釣り込まれて思ってしまう。
「がんばれ!千代子」
私にしては珍しいほどうっかりかつ素直に感情移入してしまったのだが、その対象が舞台にいる千代子そのものなのか舞台版『千年女優』なのか、映画版やその制作のこと、『千年女優』にまつわるすべてのものに対してだったのかは分からない。
多分、すべてのものが舞台で懸命に走る千代子に凝縮されていたのだろう。
爆発的なまでに気持ちが揺さぶられてしまった。
何て正しいクライマックス。
千代子の勢いは、怪獣をも蹴散らす。
確か初日は一頭だけで、二日目からはその障害が倍に増えるというサービスもものともせずに千代子が行く。
千代子がついに辿り着く先が映画版とどう違うのか!
……は、見てのお楽しみ。

千代子讃江・その11

一昨日、出社すると制作コンビが棚を移動してくれていた。監督部屋を圧迫し続けていたスチール棚の一つである。
私の仕事部屋は、もちろん『夢みる機械』スタッフルーム内にある。部屋といっても、スタッフルームの一角を区切って設けられたスペースで、むしろ「喫煙所」という方が適切であろうか。
このビルは全館禁煙ということになっているので(その割には警備員の部屋はたいへんスモーキーだが)、マッドハウスの喫煙者は用意された共用の喫煙所を利用することになっているが、ありがたいことに今 敏は喫煙可能な仕事スペースを与えてもらっている。
5年前、阿佐ヶ谷から荻窪の禁煙ビルに引っ越すに当たって、煙草を吸いながら仕事が出来ないのであれば、会社を出て別に仕事場を借りようかな、とも考えていたが、マッドハウスを代表するりんたろうさん、川尻善昭さんのお二人がスモーカーだったおかげで、今 敏もかろうじて「紫煙の園」の末席に連なることが出来た次第である。

私の部屋には資料が多い。主に書籍で、写真集や画集などかさばるものがほとんどである。
何しろ、『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』『妄想代理人』『パプリカ』計4本分の資料だ(『パーフェクトブルー』の後、一旦マッドハウスを出ているのでその資料は引きずってはいない)。制作が終わる度に随分整理はしてきたものの、書籍類はいつ必要になるのか分からないもので、そうそう捨てられるものでもない。
それに本来制作側が管理するべき設定や版権などの原版もいつの間にか「私物」として押しつけられてきており、勢い、どんどん溜まってスペースを圧迫する。
もっとも、明らかな私物も多いが。
部屋には大型のスチール棚が3本、小さいのが1本。このほとんどが書籍や制作資料、DVDなどで埋まり、残るスペースはパソコンと個人用の冷蔵庫、それに酒瓶などが並んでいた。
先日、新しく購入した椅子が大きくいよいよスペースが圧迫され、プロデューサーに頼んで棚を一本、運び出してもらったのである。
移動のために、一旦中に詰まっていたすべての本は移動され、テーブルの上に積まれたのだが、その量に目を瞠った。
「三次元パズルかよ」
どこをどう工夫して入れておいたのか、我ながら感心した。

workroom03

運び出してもらったスチール棚。

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これらも仕事部屋から退避してもらった私物の書籍資料。

workroom02

おかげで仕事部屋の資料は随分すっきりした。

スペースが確保された仕事場をさらに快適にするため、掃除と整理をする。
簡単な打ち合わせくらいなら出来るほど広くなった部屋で、快適な椅子に座って周囲を眺める。
「うん、これなら落ち着いて酒が飲める」

workroom01

さて、前置きまで付いて長くなる一方だが、シリーズ「千代子讃江」はまだ続くのである。以下、第11回。

「Cパート」に入り、『千年女優』の物語は立花の回想まで混入し、よりいっそう複雑な階層構造となってくる。
その複雑な階層構造をさらに客体化して笑いを誘い、あろうことかもう一段階複雑にする仕掛けが用意されていた。
キャストがお客の希望でシャッフルされるのである。
恐るべし、末満演出。
「入れ子キャスティング」の面目躍如、大である。
シャッフル効果によって、そのシーンは「その時にしか見られない」組み合わせになる。舞台芝居の魅力の一つは、同じ演目でも見る回によって違った印象になることで、いかにも「生もの」を楽しんでいる気持ちになるものだが、このシャッフルキャスティングはそれをさらに積極的に演出に取り入れたものだ。
そして、単なる「お遊び」や「サービス」を越えて、『千年女優』の構造ならではの秀逸な仕掛けとなっている。
こういう劇中での「イベント」を楽しめるのはやはり舞台ならではだろうが、生の舞台を見ている雰囲気を共有できないとその面白みは半減するようにも思える。だから舞台版『千年女優』を初めて見る機会が、DVDなど映像メディアになってしまう方は、精一杯雰囲気を想像で補って見て欲しいものだが、観劇の体験そのものが少ないとそれも非常に難しいであろう。
再演を期待しようではないか。特に東京での。

劇中では、海の向こうでロケットが宇宙にまで達する時代になるが、千代子は家の中、掃除機をかけている。
私は『千年女優』の絵の中で、実はこのシーンのC.743が一番気に入っている。
舞台版から話が逸れて申し訳ないが、この絵である。

sen743

地味な絵が好きだね、また(笑)
コンテの絵では省略されているが、実際の画面では廊下左側が広く窓になっていて、明るい光が差し込み、千代子と廊下に窓枠が「格子状の影」を落としている。
「千代子の現状」を一発で描けた、という点でこの絵を気に入っている次第。
私は密かにこの絵を「明るい牢獄」と名付けていた。
つまらない絵解きになるが、要するにロケットは宇宙まで達しているにもかかわらず、「あの人を追いかけ続けたい」と思っている千代子は、「行き止まり」の廊下で、明るい日差しの「牢獄」に囚われて、掃除機をかけるという「反復運動」を続けてしまっている、ということである。
それらすべてを一枚の画面(音声を含めて)に設計出来たことで、気に入っている。背景は美監の池さんが描いたものだったと記憶しているが、背景がその意図を達成してくれていた。原画はここも鈴木さんで、素晴らしいリピート芝居(笑)で期待に応えてくれている。
ちなみに、この場所のモデルは私が高校生の頃に住んでいた、釧路市若松町の家にあった廊下だ。
その家は平屋だったので、画面右手に見える階段はなかったが、絵の通り左側は全面窓で、右に私が使っていた8畳間、その奥に確か6畳二間が続いていた。無駄なほど広い社宅で、暖房効率は最低といってもいいような家だったが、この廊下は何だかとても好きだった。特に、上の絵のような構図が印象に残っている。ちょうど、高校生の私が背伸びをして廊下の真ん中から見たような具合だ。
ああ、懐かしい。
あ、思い出した。
何故、モデルになった家には階段がなかったのに、わざわざ画面右に階段を描き入れたかというと、千代子にとって「あったかもしれないもう一つの選択」という道を暗示しておきたかったからだ。
「上」に向かう階段、というのもそれらしいではないか。
要するに、千代子の選んだ結婚は、千代子にとっては安穏だけれど行き止まりになる道だった、ということを表したかったはずである。
後付じゃないぞ(笑)

話を釧路から大阪に戻す。
千代子が囚われていた、この「明るい牢獄」を開くのは、大滝の部屋で見つける例の鍵である。
ここでの「本棚」の芝居は見逃せない。
実に雄弁な本棚の名演技を思い浮かべたまえ。って、見ていない人にはシュールな話に思えようが、そうなのである。
本棚に訪れるあのような運命が、千代子の道を開いてくれる。
例の鍵が発見されるわけだ。
ここのシーンでのわずかなアレンジがひどく印象的で、またしても考えさせられた。
自分が盗んだ鍵を千代子に見つけられ(バカな男だよ、大滝も。何で鍵を捨てなかったんだよ)、さらには詠子という証人も登場して、大滝・千代子夫婦は修羅場を迎える。
へらへらした態度で大滝は千代子の気持ちを逆なでするような言葉を吐く。
「なあ、もうとうに過ぎた話じゃないか」
映画版では、千代子はその大滝に冷たい視線を返すだけである。
絵コンテのキャプションにはこうある。
「絶縁を投げつけるような、軽蔑の眼差し」
またしても映画版の解説めいたことを書いてしまうが、これも観劇中に思い返していたことだ。
詠子によって、鍵盗人の真犯人は大滝であることが示唆され、千代子は厳しい視線を大滝に向ける。C.760、下の絵である。

sen760

ここの千代子は大滝に対して「見下げ果てた男」とは思っているが、まだ「絶縁を投げつける」ほどの断絶には至っていない。
もし、大滝から本気で一言でも謝罪があれば、千代子だって別の対応をしたかもしれないが、大滝から出た言葉は先の通り、
「なあ、もうとうに過ぎた話じゃないか」
これが決定打となって、千代子と大滝の間に「断絶」が生じる。
それがC.767、この絵。

sen767

760の絵に比べて、二人の間を垂直に分かつ線(部屋のセットの境界線)が移動してはっきりと二人を分割している。この線に「断絶」を象徴させたつもりである。いかに767の絵が演出上重要かは、背景に描きこまれたタッチのあるなしでお分かりいただけよう(笑)
『千年女優』の頃は、特にこうした背景と人物の配置による象徴機能を積極的にしかけようとしていた……いかん。こんな映像解説まで始めてしまってはますます終わらないじゃないか。

舞台版では、大滝の台詞を受ける千代子がギョッとするほど素晴らしいのである。
ネタバレになるようで申し訳ないが、ここだけは記させていただく。
大滝「なあ、もうとうに過ぎた話じゃないか」
千代子「まだ終わってなんかない!」
これには、完全にやられた(笑)
前渕さんの叫びが突発的に切ない。実に千代子らしい。
「あ、そうか、そういう手があったか……!」
と、深く感心しつつも、後になってやはりこうも思い返した。
「でも……映画の千代子じゃ、その台詞はやっぱり叫ばせられないな」
映画版の千代子、そのキャラクターデザインは大きく分けて3種類。少女時代の千代子、青年期、そして老年期。声優さんもそれぞれに対応している。
舞台版は何しろ「入れ子キャスティング」なのだが、しかし基本的には2期、若い千代子を前渕さん、老千代子を中村さん。青年期としては特に分かれていない。
先の泣ける台詞を発するのは、少女時代の千代子を演じる前渕さんである。もちろん、お客の認識としては中年期の千代子と理解はしているが、見かけは若い千代子のままである。だから先の台詞が「効く」のであろう。
お話としては若い千代子ではなくなっていても、役者の身体によって若い千代子との感情的な同一性が分かりやすく確保されているから、
「まだ終わってなんかない!」
という突発的な感情噴出も有りだし、感動も呼ぶのだろう。
映画版で、もし青年期(というより中年期の方が正しいが)の千代子の顔が同じ台詞を発するのはかなり違和感がある。あまりにエキセントリックに傾く気がする。いや、確かにそういう女ではあるが。
それと、「明るい牢獄」の中で半ば封印されていた「鍵の君」への思いは、やはりその直後に受け取る「過去からの手紙」によって一気に解錠してもらいたい、というのが映画版の演出意図であったろう。
と、思い直しつつも、そこで叫ばせる演出が出来ないあたりが弱いところなのかもしれない……などとさらに思い返し、でもやっぱり出来ないし……けどなぁ……。

千代子讃江・その10

年度末が近い。
そろそろ「確定申告」の四文字をあちこちで見かける時期、ということは私の家にも「支払い調書」というものが届く。
これは昨年度に支払われた報酬を記したもので、それぞれの仕事先から届くものである。仕事先が多ければそれだけの数が配達される。仕事先が多いからといって報酬も多いということにはならない。当たり前だが。
いま、私の手元にあるのは11通。
去年は、「監督」業での収入が半年近くなかったので、合計は……うん、まぁ、仕方ない。
何だか、去年一年の「お仕事通知票」をもらったみたいであまりいい気分のものではないが、仕事先の名前を見返していると、半ば忘れかけていた細かな仕事も思い出されてくる。
「そういや、去年広島市立大学でお話しさせてもらったな……」
「あ、このインタビューは取材協力費が出てたんだっけ」
「?……何だろう?このお金?」
中には何でいただいたのか分からないものもある。
これからまだいくつか届くかもしれないが、仕事先が11カ所というのは、私にしては多い方だ。
たいていは数カ所程度なのだが、去年は本業の穴を埋めるために、あるいは「十年の土産」開催資金のために細かな仕事を引き受けていたのかもしれない。もっとも、依頼された仕事を断ることは稀な方だから、単にそういう巡り合わせだったのだろう。
マッドハウスさん始め、アートカレッジ神戸さん、武蔵野美術大学さん、NHKエンタープライズさん等々お仕事をさせていただいた皆さま、どうもありがとうございます。
来年度もよろしくお願いします。

前置きが長くなったが、以下からさらにどんどん長くなる「千代子讃江」シリーズ第10回。

「Bパート」は、満州から戦国時代へ、一旦現代に戻り、さらに時代は江戸時代、幕末へと駆け抜け、千代子は九の一、そして京の遊女へと身をやつす。
くれぐれも京都にある遊郭は「吉原」ではなく「島原」なのだが(笑)、若干ボケ気味の千代子のことだからそれも有りなのである。断じて間違いではない。
名古屋で上演されるショートバージョンでは、千代子の思い違いが正されている可能性は高いが。
遊女を演じる千代子を演じるのは松村さん。
前渕さん演じる千代子とはまた違って、少年を感じさせる凛々しさがとてもいい。遊女という設定なだけに、女の色気が表に出る人だったら妙に生々しくなったかもしれないシーンが、ベタつかずに疾走感を維持してくれる。
新撰組に問い詰められる千代子、その危機を救うのは映画版では「怪傑黒頭巾」だったが、舞台に現れたのは何と、「坂本さん」らしいぜよ(笑)

ここからの疾走シーンもいい。
映画版では平沢さんの軽快な音楽に乗せて、千代子は色々な乗り物を乗り継いで時代を走って行く。濱州さんの優れた作画と錦絵的なスタイルの背景も楽しく、気に入っているシーンだ。
舞台上では若干のアレンジが加えられているが、こちらもまた楽しい。
「人力車」の表現が秀逸で、「吊り橋」での苦難も笑いを誘ってくれるし、「水中」に落下するシーンは美しいとさえ言える。
牢でのシーンも非常にいい。
鉄の扉の向こうへと去って行く「鍵の君」。追いかける千代子が扉に阻まれて、千代子の小さな手は空しく扉を叩き続ける。映画版の演出では特に気を使ったシーン。作画は隣の席で見ている鈴木さん。
舞台ではよりいっそう印象的になっている。千代子の叫びが胸を突かれるようで、実にいいのである。

空襲下の帝都、東京でのシーン。
ここに加わったアレンジは興味深いものであった。勉強させてもらった気がする。
映画版では、千代子は詠子に引き戻され、平手を食ってその痛みに我に返る。と、詠子の背後には千代子の母親や大滝、専務等の姿見え、千代子の名を呼んでいる。

sen621

彼らが居並んだ姿はつまり「世間」である。
世間という割には人数が足りないように思えるかもしれないが、何しろ世間というものは「狭い」と相場が決まっているものだ。
「世間」に呼び戻されることで千代子の激情は一旦「断念」させられる。この体験が、続く瓦礫となった焼け跡が象徴するいわば「青春の挫折」みたいなものであろう。
若者特有の熱情、というより主観的な全能感やら万能の可能性は、社会や世間によって去勢されねば次のステージには進めないことになっている(ごく稀にそうならない天才もいることはいるが)。
これは映画版の話で、舞台版の解釈は少々違っており、興味をそそってくれる。
子細は伏せるが、舞台版の千代子の行為は、「より千代子的」であると私には思える。
舞台を眺めつつ、こう思った。
「映画でもそうするべきだったのかもしれない」
しかし、こうも思い直す。
「……でも、具体的な画面で描いたら、やっぱり説得力が失われるだろうな」
しかし、また。
「うーん……よりアニメっぽいイメージで作っていたら、これも有りだろうし、そういう方が一般には分かりやすいし受けも良いのかもしれないが……いや、でも……私には出来ないな、そりゃ」云々。
舞台ならではの抽象性に担保されたシーンだと言えるのかもしれないが、ある意味千代子の激情を「断念させるもの」のスケールが大きくなったとも考えられ、このアレンジはたいへん印象的であった。

千代子は廃墟となった自宅の蔵で、「鍵の君」の「置き土産」を見つける。
映画版は濱州さんの端正な作画、池さんのヘビーな背景がいい。そして平沢さんの音楽と相まって、良いシーンになったと思っている。
映画でその「置き土産」を見せるのは単に見せればいいだけで難しいことはないが、舞台での表現には当然工夫がいる。何せ、千代子が千代子を見つけにゃならんのだ。
この、工夫に泣けた。ライティングも感動を盛り上げてくれる。
名シーンだ。
実に印象的な「絵」になっているのである。「鍵の君」の「置き土産」に相応しい。
うう……こうしてキーボードを叩きながら初めてこのシーンを見たときの記憶がくっきり浮かび上がってきて泣けそうになる(笑)

千代子讃江・その9

すでに2009年も一月が過ぎてしまった。
その早足が無情に思えるのは、私の無能ゆえであろう。亀の歩みだよ、コンテ執筆は。
ま、後退している訳ではないので、現状は匍匐前進でも我慢して進むしかない。

昨晩は久しぶりにヒッチコックの『逃走迷路』を見返した。
驚くほど内容を覚えていなかった。その分楽しめたとも言えるが。
ここのところ、見る映画はヒッチコックが大半。本ならば志ん生関係。
先月一月の「雑食」の主な対象は以下の通りであった。
『ハリーの災難』
『見知らぬ乗客』
『ロープ』
『間違えられた男』
『サイコ』
『めまい』
以上、アルフレッド・ヒッチコック監督作。
『サイコ』はすでに何度も見ているが、その度に色々な発見がある。また『ヒッチコック-トリュフォー』でも読み返してみよう。
他に見た映画といえば、なぜかいまどき『レイダース・失われたアーク』。
後は、珍しいことに自分の監督作を2本も見てしまった。

書籍では、年末に見た『裏窓』がらみで読んだこれが面白かった(以前にも紹介したと思うが)。
『ヒッチコック「裏窓」ミステリの映画学』加藤幹郎 みすず書房

志ん生関係は計6冊。
『志ん生、語る。』岡本和明 アスペクト
『志ん生芸談』古今亭志ん生 河出書房新社
『志ん生讃江』矢野誠一・編 河出書房新社
『背中の志ん生』古今亭圓菊 うなぎ書房
『ヨイショ志ん駒一代』古今亭志ん駒 うなぎ書房
『志ん生の忘れもの』小島貞二 うなぎ書房

私の「定番」の方々は5冊ほど。
『アップルの人』宮沢章夫 新潮文庫
『かけがえのないもの』養老孟司 新潮文庫
『あなたの苦手な彼女について』橋本治 ちくま新書
『オバマ・ショック』越智道雄・町山智浩 集英社新書
『自己チュー親子』諏訪哲二 中公新書ラクレ

他には、
『日本語と外国語』鈴木孝夫 岩波新書
『他人と深く関わらずに生きるには』池田清彦 新潮文庫
池田清彦さんは、環境問題のインチキなどで注目されている生物学者で、たいへんスカッとした考え方をされる方だ。この方も定番になるかもしれない。

音楽では何といっても、これ。
平沢 進11thソロアルバム『点呼する惑星』
目下、ヘビーローテーション。大傑作。
発売は2月18日。

そして演劇ではこれ。
TAKE IT EASY!×末満健一 『千年女優』
和田俊輔さんによるこのサントラも、iTunesの再生回数が着実に増えている。
聞くと甦るは、あの美しくも楽しい舞台。

千代子たちに話題がつながったところで、しつこく続く「千代子讃江」第9回。

舞台では、原作映画に忠実にして、まったく別の姿をした『千年女優』が進行する。
「……何だろう?……この感じは」
頭がクラクラするだけでなく、途中から妙な感触を覚える。
たいへんよく知っているような感じなのだが、その感触が何なのか、すぐに思い出せずにいた。
それが先の千代子と立花によって「熱演される回想」を見て思い当たった。
「あ。これって……まるで、千代子と立花なんだ」
これだけではまったく意味不明だ。
こういうこと。
舞台上では、映画『千年女優』が女優さんの身体だけで、その声と身振り手振りによって再現されている。
これは、劇中で千代子と立花が身振り手振りを交えて「千代子が出演した映画」を再現していることとそっくりではないか。

きっと、立花は同好の仲間と映画の話をするときには、台詞や芝居を真似してはそのシーンを再現し、いかにそのシーンが印象的であったかを熱を帯びて語っていたことだろう。
それは私にも馴染みのあることだ。
実写・アニメを問わず、印象的なシーンを「その気」になって物まねする。映画好きの方ならば覚えがあるのではなかろうか。アニメーションのスタッフとの雑談では、日常的に見られる光景だ。
真似は素人芝居であっても、あるシーンを再現してみせるには、その口調や芝居など特徴的なものを捉えている必要があり、それは観察と再現力の訓練にもなり、ということはつまりは「デッサン力」なのである。
活き活きとあるシーンや記憶を描写し、再現することは、アニメーションや漫画に限らず、多くのクリエーションのために非常に有効な訓練の一つだと私は思う。

話が少し逸れたが、立花には長年のそうした積み重ねがあったはずで、だから取材当日の興奮というのは尋常なものではなかったろう。だって、真似をすることで幾度も繰り返して再現してきたその「当人」と共に再現に加わっているのだから。
これで、少しはお分かりいただけるであろうか。
血糖値が上がらない状態でキーボードを叩いているので、うまく文章が出てこない。
語弊があるかもしれないが、つまり原作・監督である今 敏という「当人」にとっては、舞台上で演じられる『千年女優』は、『千年女優』という映画のファンが大がかりな身振り手振りで『千年女優』を再現してくれているように「も」見えるのだ。
「当人」にとって、少々気恥ずかしさを覚えつつもこんなに嬉しいことはないし、こればかりは手ずから『千年女優』に関わった者でなければ分からない感触と楽しみではないか。
そして、今 敏にとってはここにも複雑な階層が感じられることになり、舞台版『千年女優』観劇体験はいっそう厚みを増してくるのである。
「今 敏が監督した「千代子と立花が千代子の出演作を再現する映画」を再現する舞台芝居」を見ている今 敏。
ご理解いただけるかどうか分からないが、複雑な階層構造であることはお分かりいただけよう。

千代子讃江・その8

昨日土曜日、仕事場であるマッドハウスからほど近いマンションの一室を本拠地とする「映像部」を見学させてもらった。
「映像部」はアニメーションや実写を愛好する人たちのサークルで、中心となっているのは大学生。社会人やプロの業界人も混じっている。
以前からその存在は聞いていたが、どういう活動をしているのかに興味があり、とある原画マンを介して見学に行った次第である。
3LDKと覚しき場所に30人近い人間が犇めいていたのは、多分「今 敏が来る」という事情もあったのかもしれないが、実際にアニメーションを制作する活気に溢れていた。
これまで「映像部」で制作したアニメーションを見せてもらう。
技術的には幼いとはいえ、何より作品として頭から尻尾まで完成させているのが素晴らしい。この点には素直に感心する。
差し出がましかったかもしれないが、作品についていくつか感じたことを申し上げる。
その後、近所の「つぼ八」で大宴会である。
大手チェーンの居酒屋なんて久しぶりだが、賑やかな学生たちに囲まれて飲んで喋っていると、何かとても懐かしい気分にもなり、たいへん楽しい時間を過ごさせてもらった。
どうもありがとう、「映像部」の皆さん。

ということで、以下からまだ続くシリーズ「千代子讃江」。

満州の大地に汽車は行く。
「Bパートに入ったな」
つい、そう思ってしまうのは映画版監督の性である。無論、舞台上で進行する『千年女優』にA、B、Cパート等という区切りはなく、この3つのパート分けはフィルムのロール分けでもなく(フィルムは5ロールだったはず)、絵コンテ作業における便宜的な区分に過ぎない。

舞台上で万能な役をこなすのは女優さんたちだけではない。
椅子である。椅子がいい芝居をしてくれる。
無表情なはずの椅子は、時に命を吹き込まれて扉になり馬になり瓦礫になりロケットになり、そして椅子になる。
満州鉄道の特急「あじあ」(と想定される)列車内で座席を演じた椅子は、襲い来る馬賊の狩る馬に変じ、列車そのものさえ演じる。
椅子、七変化。
後に知り得たことだが、この椅子たちの中に一人「粗相癖」があるものが混じっていた。座って体重をかけると、
「プスゥ……ッ」
座面のクッション部分のどこからか、空気が漏れるのである。
トークショウの際、私はその椅子に当たった。ナイス。

列車内から逃げ出す千代子を「歪んで開かない扉」が行く手を阻む。
この扉も雄弁にいい芝居を見せてくれる(この扉は椅子ではない)。
開かない扉は一つのマジックによって開けられる。
どういうマジックかは伏せるが、このマジックには私も覚えがあった。
プロットか脚本制作時かは忘れたが、映画版でも当初このマジックを使う予定だった。確か……3回くらい。小道具は3回くらい使うと韻を踏んだ効果が生まれ、ストーリーがちょっと賢く見えるというものだ。
しかし、映画『千年女優』の世界観においてはどうも説得力に欠ける気がして使うことは諦めた。それぞれのマジックが小道具としての韻を踏む効果としても、形而上的な意味でも正しいとは思うのだが、どうしてもそれらを「見せるがための嘘くささ」が勝ってしまうように感じたのである。
そのマジックが舞台上で再現されているのが嬉しい。
しかも舞台では有効に機能している。これは、具体的な映像で見せねばならぬ映画と、より抽象性の高い舞台の顕著な差であろう。
このマジックは、後に刑務所のシーンでも奇跡を起こしてくれる。

戦国時代の姫君となった千代子の前に、あやかしの妖婆が現れる。
小道具がもう一つあった。糸車である。さすがにこれは具体的な物を用意しないと、意味が分かりにくかったのであろうし、回転運動をする糸車は廻る因果であり、輪廻の象徴だから視覚的にも重要である。具体的に登場する糸車とは別に、廻る糸車のシルエットを思わせる照明の演出があり、視覚的に非常に美しいものであった。ただ、その様は客席から見るよりも、控え室のモニターで見た俯瞰の構図の方が美しさが際だって見えた。是非、いつかリリースされるであろうDVDで楽しみたい。

千代子姫が敵の囲みを突破して、長門守源右衛門が討ち死にして、場面は現代へ戻ってくる。
山荘内、井田のカメラの前で老千代子と立花による「熱演される回想」が続いている。
このシーンは、海外の映画祭などでは大きな笑いがこぼれるところ。『千年女優』を最初にお披露目したカナダ・ファンタジア映画祭で上映した際の熱気が脳裏に甦ってくる。
映画版ではあっさりと流しているが、舞台版はここをもっと「押して」くれるので、客席の反応も大きい。いいシーンだ。

千代子讃江・その7

思い出と下らない話題でさっぱり先に進まない「千代子讃江」シリーズだが、舞台版『千年女優』観劇が鍵となって「回顧の扉」が開けられたらしいので仕方あるまい。
あろうことか、監督作のDVDを自宅のプレイヤーに押し込むなんて真似までしている。
あな、怖ろしや。それは「見るなの部屋」。
しかし単に回想に浸っているというわけでもなく、現在制作中の映画をより深く捉えるためであり、より切実にどういう作り方をすればいいのかを探るために必要になっているらしい。
不思議なことにこの「プチ十年の土産」傾向は私の内的なものだけではなく、外部にもシンクロを感じることがあって興味深い。
たとえば、最近こんな依頼が続けて二つほどあった。
フランスで行われるアニメーションのイベントで、今 敏監督の全作を上映するので是非講演なども催したいので招待したい、と。
もう一つは、スイスの著名な映画祭で日本製アニメーションの大回顧展が企画されているそうで、ここでも『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』『パプリカ』の上映が希望されており、セミナー開催などのために招聘したい、と。
どちら様も本当にありがとうございます。
誠にありがたいことですが、申し訳ありません。黄色いロボットが早く描け早く描けとだだをこねる毎日なので、海外出張は極めて困難な状況であります。
また、こんな知らせもいただいた。
『パプリカ』で大変お世話になった、ベネチア映画祭の主席プログラムディレクター、マルコ・ミューラー氏が「アニメ・映像事情を含みつつ、今監督の本 を出すそう」だとのこと。
ありがとうございます。
そのイントロダクションをいただいたので(イタリア語のテキストを翻訳してもらった)、ご紹介させてもらう。
「宮崎駿の時代に、押井守と同様に奇抜でエキセントリックな主人公を描き、現代日本アニメ映画アーティストとして素晴らしい貢献をしている。
惜しみない技術と独特なアーティスティックな感覚で、もっとも刺激的な漫画・アニメ産業の文化の1ページのようにこの映画を確立させている。
作品の本質は、多数の暗示を示して始まるが、典型的な形の結果にはならない。(いつも視聴者が見つけることが出来るようで、しかし本質は、妄想に取り付かれて気まぐれに変化し続ける) 激しさ・狡猾さ・偏在性は、ヨーヨーのように監督の手の中に戻っていく。双曲線でつかみどころのない空間の感覚は、今監督だけが持っている。
監督は、人間の不条理さを取り戻すために、現実の隙間を操作している。
曖昧さを回避するために最後に自問する必要がある。これは、詩なのか、詩ではないのか。疑いなく今敏の映画は、夢想家の詩であると返答する。」 「素晴らしい貢献」をしているかどうかは甚だ疑問だが、しかし、そうか。今 敏は「夢想家」なのだな。夢見る45歳。
しかし広辞苑によると「夢想家」とは「あてもないことを思いめぐらしてばかりいる人。」とある。
あ、ちょうど現在の私ではないか。
そういえば、大晦日には日大文理学部心理学科、横田正夫先生から「今敏のアニメーションにおける停滞する悪意:成人期危機と中年期危機」という小論もいただいた。『MEMORIES/彼女の想いで』から始まり、『パーフェクトブルー』と『パプリカ』を中心とした内容で、それによると、今 敏は「成人期、中年期それぞれのテーマを乗り越えることを描いてきている」ということになるらしい。
ふむ。どうやらことの順序が逆かもしれない。
外部の状況が内部の傾向を惹起しているという方が正しいのか。強制的に思い出させられているということか。何のために?(笑) 昨年開催した「十年の土産」では足りなかったということなのだろうか。
しかしなぁ、「十一年の土産」じゃあまりにも忙しないじゃないか。
ということで、近況が長くなったがここから「千代子讃江」シリーズの続き。
「鍵の君」を求めて千代子は満州に渡る。
実際は映画の撮影のためである。この映画は原作版では「士勇の痍傷」と想定されている。タイトルは逆から読むように。
少々舞台版体験の話題から横道に逸れる。
劇中映画のタイトルを確認しようと、珍しく「千年女優画報」を開いてみた。
この「士勇の痍傷」のポスター画像(ちなみに劇中に登場する映画のポスターやチラシは監督が描いている)の横に、そのあらすじが書いてある。
「暴漢に襲われた千代子を救う陸軍少尉。彼と再会するために、千代子は赤十字の看護婦となって大陸へ渡るが、秘密作戦に参加している少尉の行方は杳としてつかめない。馬賊の襲来、満州の金持ちによる貞操の危機、あるいは謎の女スパイの妨害といった苦難を乗り越えていく千代子。戦前に撮られた彼女のデビュー作。」 そういう映画だったんだ……(笑) このテキストを書いた覚えがないから、多分今 敏が何となく考えていた内容を編集者が補足してまとめてくれたのであろう。
その他の劇中映画も同様に、ポスターやチラシの画像と共にそれらしいあらすじが付されている。
舞台版『千年女優』のサントラCD付きパンフレットも感動を甦らせるアイテムとして素晴らしいが、「千年女優画報」も多くの本編画像や制作資料画像、出演者やスタッフのインタビューや対談を収録し、たいへん丁寧に編集されたムック本である。
是非舞台版、映画版を問わず『千年女優』鑑賞の洒落た手引きに是非お手元に。って、こんなところで宣伝かよ。
「千年女優画報」 (発行:マッドハウス、スタイル 発売:スタイル ¥2700+税) 以下に詳しい情報がありました。
http://www.style.fm/as/02_topi……1116.shtml 閑話休題。
舞台上は満州の撮影現場。取材する立花と井田はいつの間にか、映画の撮影スタッフとして取り込まれたりもしている。
映画版にはない、気の利いたアイディア。私も使いたかったな(笑) 島尾詠子にいびられた千代子が、はねのけるように叫ぶ。
千代子「私…、一目あの人に逢いたいんです!」 その言葉が強い。
全般に、特に若い千代子が感情を表出させて声を張る場面は映画版より遙かに印象が強い。無論、監督の演出的力量が足りなかったという面もあるかもしれないが、声優さんが弱かったということではない。
そこに言葉を発する実際の身体がある。舞台ならではの強みだと思われる。
千代子というのは(あくまで私の解釈に過ぎないが)「突発的な人」である。
内面で感情が筋道立って盛り上がるのではなく、急にテンションが上がって声を上げるなり走り出すなりしてしまう人で、その自分の行為が感情をさらに昂ぶり、その昂ぶりが次の行為を触発し……というスパイラルとなっていく。それが千代子であり、『千年女優』だと考えていた。
ではその一番の元となる「突発」の核には何があるかというと、これは分からない。分かってはいけない部分であると思うし、実はそこは「空っぽ」だといってもいいのではないかとすら思っている。空っぽが悪ければ「真空」でもいいのだが。
この点、反発を感じる人も多いのかもしれないが、しかし千代子に限らず人というのは得てしてそういうものではないかと私は思う方だ。
だから千代子はむしろ「弾みで」(笑)、声を上げたことが感情に点火する。そういう構図なのではないかと私は思っていた。
その、声が強い。
見ている方としては、千代子の感情に同期して言葉を受け取るのではなく、その言葉によって千代子の突発的な感情に触れるわけだから、その声の強さがストレートに観客を揺さぶってくれる。
言葉を発する主体が身体を持ってそこにある。
これは実写であれアニメーションであれ、二次的な表現である映像では絶対に及ばぬ魅力であるし、舞台を映像化しても再現され得ないものあろう。
小柄な前渕さなえさんが全身声になったかのような迫力である。迫力という言葉は不似合いかもしれない。届かぬ何かに懸命に届こうとしている感じがたいへん健気に映り、それが絶妙に千代子なのである。
健気な千代子は、詠子が仕込んだインチキ占い師に探し人を尋ねる。
舞台版では、軽い笑いを誘う仕掛けが講じてある。この適度にいい加減な演出と千代子の懸命さの対比が利いているので、千代子の台詞がいっそう強調される。
「教えてください! あの人は今どこに!」 脳裏にアフレコのシーンが甦る。
占い師役の声優さんが、老人風の声を作っているせいか、言葉が少々聞き取りにくかった。最初、どう聞いてもこのようにしか聞こえなかった。
「その男……もしやカニを探しているのでは!?」 生臭いよ、それじゃ。

千代子讃江・その6

近況から少し。
一昨日、「アニ*クリ15」の書籍化(DVD付き)のために、赤坂キューテックで「オハヨウ」のビデオ編集に立ち会う。V編といっても、何も処理を足すわけではないし、明るさの調整をしただけである。
オンエア時、画面が思ったより少しばかり暗かったので、収録時には改善しようと思っていた。データの方に特に問題はなかったはずで、実際、NHKさんでのハイビジョンによるスクリーン試写では、イメージ通り再現されていた。
「オハヨウ」は今後のハイビジョン対策のテストケースも兼ねていたので、この結果には満足していたのだが、生憎書籍に付属されるDVDはハイビジョンではない。
マスターモニターで見ると、ダウンコンバートされた映像でもまったく問題はないが、民生機で見ても画面の明るさにほとんど問題はない。拍子抜けした。
せっかく赤坂まで出向いてきて何もしないのもしゃくに障るし、民生機のレベルではがっかりするほど画面が硬い。中域のレベルを少し上げてもらって、黒つぶれ等をなるべく回避する。
仕事は15分もかからぬうちに終了。
さて、主目的である晩御飯はこれから。って、本末転倒この上ないが、そのためにV編の仕事にはほとんど関係のないスタッフ含めて総勢5人で出かけてきたのである。前日の仕事場での会話はこんな感じ。
「明日のV編、18時からです」
「じゃ、赤坂で飯食おうか。荻窪の御飯には飽きてるしさ。ビフテキ丼とかさ」
「ビフテキ丼」とはまた、古風に豪勢な名前だ。
私は、以前一度食べたことがあったが、若者にはそのネーミングがインパクトがあるだろうと思って、「にっぽんの洋食・津つ井」に行ってみた。
http://akasaka.221.jp/
『妄想代理人』のやはりV編の帰りに入って、上のトップページでも紹介されている「名物ビフテキ丼」を食べた。関根勤さんが濃い顔をほころばせて食事されていた。
以前この店は、キューテックのすぐそばにあったのだが、移転して随分と離れた場所に変わっており、店構えはひどく立派になっていた。前は定食屋みたいだったのに。
新装なった店内は洋食屋さんというよりはレストラン風。喫煙可というのが大変宜しい。近くのテーブルでご老人がオムライスを食べており、よほどオムライスにしようかと思ったが、若者の真似をして「名物ビフテキ丼」にしてしまった。
荻窪の御飯に馴らされた舌には、珍しさも大きく手伝って美味しいのであった。

何か書くとすぐに飯の話になってしまうな。
とりたててブログで取り上げるようなことがないわけでもないが、まだ書かない方がいいようなこともあるし、書きたくても書けないこともある。
昨日、入手した情報には心底がっかりした。
笑えないほどおかしく、笑えるほど悲しい話を聞いた。
何のことを言っているのかさっぱり分からないだろうが、それでもここに私の気持ちを書いておきたい。
「ダメに決まってるじゃないですか、そんなの」

がっかりな話は置いといて、千代子たちに関するにっこりな話を続ける。
ということで「千代子讃江」本題。

見ている最中、ひどくクラクラしてくる。
目の前の進行する舞台版『千年女優』、その色々なシーンや台詞がきっかけとなって、脳内のスクリーンには原作の『千年女優』、そしてそれを制作中の記憶や映画祭の思い出などが映し出されてくるのである。
たとえば、蔵の中で「鍵の君」と指切りをした後、「初恋ィッ!?」などと友達にはやされる千代子。この後、千代子の家の前に人だかりが出来ており、「鍵の君」は駅に向かったことを知るあたりまでは、一緒に舞台を見ている鈴木さんが原画を担当したシーン。
「あ、ここは鈴木さんが原画だったな……」
舞台上のシーンによって映画の画面が喚起され、会場の隣席で観劇している鈴木さんが9年前、阿佐ヶ谷の制作現場で原画を担当し、私もレイアウトチェックであれこれ指示を入れた記憶が甦る。
「雪の階段で千代子が鍵を拾うために座る芝居が良かったな……師匠(本田 雄氏)、いい仕事していたなぁ……」
という具合に、脳内では時空間を複雑に行き交うことになる。
千代子が駅へ走るシーンでも、
「この原画は井上さん……井上さんには『千年』の時も随分助けてもらったな……そういえば、走りのモデルを引き受けてくれたtamaちゃんはどうしてるかな?……あ、このシーンは美術も色指定も出色の出来だったな……そういえば……」
舞台の光景は次々と連鎖的に記憶を喚起してくれる。
無論、舞台には集中しているのである。集中しつつも同時に脳内が異様に活性化されるということであろう。
これがクラクラの正体である。
脳がハードディスクだったらものすごい音を立てて回っていたことだろう。
舞台上、駅のホームで倒れた千代子が声を張る。
「……私、行きます。必ず逢いに行きます!!」
聞いていて、思った。
「……あれ?……」
主に若い時分の千代子を演じた前渕さなえさんの声が、映画版でやはり若い千代子を演じてくれた折笠富美子さんと似ている。特に声を張ったときなど、そっくりに感じられる。
後に、TAKE IT EASY!さんのプロデューサー始め複数の方から同じ感想を聞いたので、一個人の思い込みではなかろう。
「折笠さんの声が思い出されるなぁ……」
そう思い始めると今度はアフレコ収録現場のシーンがよみがえってくる。
「ああ、この辺は何回かリテークを粘ったな……ああ、ここはアフレコの時もいい感じだったな……」等々。

島尾詠子が登場する。演じるは老千代子役でもある中村真利亜さん。
老千代子が、千代子に対する「老」のコンプレックスに駆動される詠子を演じるのだから、なんとも象徴的な配役である。
映画では、当時劇団キャラメルボックス在籍の津田匠子さんに演じていただき、詠子をよく印象づけていただいた。
津田匠子さんには、昨年開催した展覧会「十年の土産」にもいらしていただいた。
「「十年の土産」には折笠さんや飯塚(昭三)さんにもおいでいただいたな…」
そんな記憶までレイヤーに挿入されていく。
「映画版の声優さんがこの舞台を見たらどう思うんだろうな……」
映画版で老千代子を可愛らしく演じてくれた荘司美代子さんの顔が浮かぶ。
声優さんやアフレコの記憶から、音響の仕事全般が引き出されてくる。
「音響監督の三間さんには芝居の聴き方を随分教えられたな……ああ、そういえば出港シーンで銅鑼の音が入っていたのは無しにしたんだっけな……倉橋さんの効果は色気があって良かったな……」
そして当然、この記憶が。
「平沢さんに音楽をお願いできて、本当に嬉しかったな……」
幾重にも重なる記憶のレイヤーを、目まぐるしく往復しているようだ。さながら走る千代子のように。
あ……。
この感覚こそが実は『千年女優』で観客に期待していたものではなかったか。
いつの監督作でもそのことに変わりはないが、映画は映画そのものだけで完成するのではなく、きっかけを与えてくれるものだと考えている。無論、画面や音響はそれだけでも楽しめるものでなくてはなるまいが、それらによって喚起される観客それぞれの記憶などが加わることで、映画は初めてその観客のものとなる。私はそう思う。
そういう意味で私は、舞台版『千年女優』の最も正しい観客の一人だ、と言えるはずだ。
『千年女優』というラベルの引き出しに詰まった記憶の量では私はなかなか人に負けないだろう。
何せ「生まれる前からおまえさまのことはよく知っている」んだから(笑)
映画に手ずから関わった立場だからこそ、楽しめる部分は少なくないし、これは一つの特権だろう。
こんな体験をさせてくれることにも感涙が溢れそうになりながらも、舞台ではまだまだ『千年女優』が進行している。

千代子讃江・その5

舞台は原作同様、速いテンポで展開して行く。
何しろ、原作通りの展開でなおかつ総尺まで揃っているのだから。
その表現は異なれど話は原作と同じということは、原作を見ている人間には、特に作った責任者などは内容をよく把握しているので、舞台の進行にすんなりと乗れる。
しかし……。
「原作を知らない人が見て話の進行が理解できるのだろうか(笑)」
という一抹の不安は覚えるが、場面転換も切れが良く演出にも芝居にも推進力が感じられてとにかく面白い。先を見たくなる。これが何より重要であろう。
後に、先の心配を一緒に観劇したアニメーターの鈴木さんに話すと素晴らしいレスポンスが返ってきた。
「大丈夫ですよ。原作だって一回見ただけじゃよく分からないんですから」
ああ、そりゃそうだ(笑)
実際、原作を知らない大勢のお客さんが難なく舞台を楽しめたようで、それは何より観客に対して丁寧な配慮を織り込んだ演出の手腕によるものだろう。

たった5人の女優で『千年女優』を舞台化するに当たって考案された「入れ子キャスティング」。
誰もが複数の役を引き受け、それどころか、誰もが千代子を演じさえもし、場合によっては(役がシャッフルされるたいへん面白い仕掛けがある)誰もがどの役を演じることにもなる。
昔、「惑星ピスタチオ」の『大切なバカンス』で「全員全役」という素晴らしい演出を見たことがあった。
私がこの舞台を見たときに一番強く感じたのはこんなこと。
「演出はそれだけでも見せ物だ」
念のため断っておくが、若者や頭がまだ若者はこの言葉を鵜呑みにしないように。
ストーリーと演出に必然的な結びつきがなくても(無論形而上的にはいくらでも結びつけようはあるが)、十分以上に成立するものなのだなと思った。というより、演出というのも、ストーリーとは別の一つの「物語」だと改めて認識させられた次第である。
末満さんは「惑星ピスタチオ」の流れを汲んでいるせいもあってだろう、混乱の危険もあり得る「入れ子キャスティング」を実に分かりやすく演出されており、女優さんたちの芝居もそれに応えて舞台に活力をみなぎらせている。
舞台上、わずかに使用される小道具「立花の帽子」「井田のメガネ」が視覚的に観客の認識をサポートしてくれる。ちなみに、他に使用される小道具は「万能の椅子」だけ。

原作をご存知の方には説明不要だろうが、『千年女優』においては複数の時間と空間が共存している。
名曲「ロタティオン」の歌詞にある通り「遙かな過去、遙かな今日、明日さえもここに」である。
それも、現実、回想、さらには千代子が出演した劇中劇という現実と幻想が入り交じって展開する。舞台上でも、それら複数の時空間のレイヤーが入れ替わり、さらには役者さえも入れ替わるのだ。
そんな複雑に絡み合う時空間を交通整理するだけでも演出の手腕が問われるというのに、さらには原作ではありえない、もう一つのレイヤーが加えられている。
それはつまり「作り手の事情」。
舞台芝居ではお馴染みである。女優さんたちが『千年女優』の役柄を演じつつも、「観客とTAKE IT EASY!メンバーとの対話」というモードも挿入される。
ある意味、作り手側の舞台裏を垣間見せる「楽屋落ち」であり、下手をすれば観客との馴れ合いということになりかねないのだろうが、まったく気にならないどころか、物語を楽しむスパイスとして、また観客の情動の振幅を広げるための演出とてしても機能しており、舞台版『千年女優』に厚みを与えるチャンネルとして確保されている。
何を言っているか、よく分からない?
末満さんを見習って、分かりやすく言い換えるとこういうことだ。
日誌をそのまま引用する。
「入れ子キャスティングも、そのルールを観客に丁寧に提示して、さらにはそれを一次元高い所からパロディにするサービスが随所にちりばめられている」
じゃあ、最初からその引用でいいじゃないか。

千代子讃江・その4

去年の10月上旬に、舞台版の脚本第一稿をもらっていた。
「ほとんど変わらないんだな……原作と。でもまぁ、本番までには大きく改変されるのだろう」
そう、思っていたのだが、見てびっくり。
原作が実に忠実に再現されている。何ということだ。
ロケット発射台から立花のスタジオへの見事なシーン転換に始まり、千代子の家へ向かう移動シーンや解体中の銀映撮影所でのシーンなども、実に上手く翻案され、原作で描こうとした「気分」が再現されている。
「なるほど……そういう風に演出するのか。気の利いたアイディアだなぁ」
しかも、それらは舞台ならではの視覚的な面白さに彩られつつ、同時にこの舞台版『千年女優』を「鑑賞するための手引き」がユーモアを交えつつ紹介されていく。これならば、観劇体験がほとんどないお客さんにもルールが分かりやすかろう。

原作に忠実だからこそ、アレンジや演出の翻案に驚き、感じ入ってしまうことしきりである。
1月18日付け、脚本・演出の末満健一さんのブログにこんなことが記してあった。
「原作付きをもし自分がやることになったら、やらねばならぬことがあった。それは復讐です。僕の大好きな面白い漫画や素晴らしい小説をくだらない映画やドラマに貶めたクリエイターたちへの復讐です。もちろん、その復讐はカミソリを送るとかそういうことではなく、よりよい原作付き作品を世に送り出すことによってしか成しえないこと。僕はその復讐は達成できたんじゃないかと思っています。腐ったクリエイターは僕たちを見習ったらいい。」
うう、この引用をしているだけで泣けてきた(笑)
今 敏の原作が関係しているだけにコメントしづらいのだが、原作ものの翻案について、100%同意したい。
自分のオリジナリティとやらを主張したいがために原作ものをいじくり回し、原作よりはるかにつまらないものを作って垂れ流している演出家とやらはアニメーション業界にも掃いて捨てるだけいる……って、そりゃお前だろ?
う。すいません。
竹内先生、筒井先生のファンの皆さま、申し訳ないことをしたかもしれません。
私もお言葉通り末満さんを見習いたいと思います。

立花と井田が千代子の山荘に着き、お手伝いの美濃が登場。
この美濃がいい。
映画版では片岡富枝さんが、いい味を出してくれていた。
舞台版において各登場人物のキャラクターイメージは原作を踏襲しているが、美濃はアレンジが加わり、さらに演じる松村里美さんがこれまたたいへんいい味を出している。ガクガクと歩く様がとてもいいのである。
老千代子が登場。
演じる中村真利亜さんが千代子の華やいだ雰囲気といいボケ具合を与えてくれている。
立花を演じる清水かおりさんの、お人柄がにじみ出る礼儀正しさと山根千佳さんのいかにもな井田のコンビもまた楽しい。

美濃が、立花と井田にお茶を出す。
無論、お茶もテーブルも舞台上には有りはしない。
だが、音はある。
「……カチャン」
一瞬、お茶が見えた気がした。
いや、大袈裟に言っているのではない。わずかな誇張に過ぎない。
しかし、本当にリアリティを持ってお茶とテーブルが感じられる。タイミングも絶妙だ。
全体に舞台版『千年女優』は音響効果もとても素晴らしい。
『パーフェクトブルー』以来、ずっと音響監督をお願いしている三間さんはこんなことを仰っていた。
「我々の仕事はいかに気にならないか、いかに何でもないかということ」
私も自分の仕事においてまったく同じ考え方をしている。
それが作画、美術、音響その他何であれ出しゃばって悪目立ちしていいものなど一つもない。
映画なら映画のためにすべてのプロセスや職種があるのであり、職種のための仕事というものはない。一部のアニメーターにはあるのかもしれないが。
舞台版の音響は、出しゃばらず下がりすぎず、舞台と観客をくるんでいる。
さすが「音響王子」と呼ばれるに相応しい。

山荘での老千代子から、若い千代子時代の回想に入る手管が実にスマートかつ美しい。
女優さんたちの動きによって形作られるサークルが象徴的である。『千年女優』において輪廻は重要なモチーフであり、円形や円運動は象徴的な機能を果たす。
映画版では単純にO.Lしていただけだったが(それも諸事情があって意図が達成されなかった)、なるほど女優さんたちによる円運動、加えて老千代子と若い千代子の台詞を重ね合わせることでたいへん印象的な回想の導入部に仕立てられている。
見事だ。
女優さんたちの動きを、時に優美に時に軽快に彩る衣装やヘアメイクが引き立たせている。芝居内容は勿論のこと、舞台という画面もまたたいへん目に心地よい。

上演前からどうなるのか気になっていたことの一つが「鍵の君」の表現である。原作でも処理に困った役である。千代子と接近することが多いのに、顔を見せるわけにはいかないし、顔をただ黒く潰せば不自然なことこの上ないことになる。
だからといって、認識できるほど顔を見せてしまってはイメージが特定されて、象徴的な存在であるはずの「鍵の君」としての機能を阻害する。
舞台上では、千代子が初めて「鍵の君」と出会うシーンに近づく。
原作の映画では絵で「雪景色」を提示できたが、固定されたセットではそうもいかない。「街には雪が積もっていた」という台詞で情景が喚起されるのだが、この言葉は短い間に(確か)もう一度繰り返される。
最初見たときには、「何故そこまで(強調するのか)?」と引っかかりがあったのだが、後半、クライマックス後のシーンで大いに納得した。
「雪」は強調しておかねばならない重要な伏線であり、後にその伏線に静かに応えるのは「効果音」であった。この結びつきはとても感動的であった。
いよいよ、雪の坂道で鍵の君と接触して転ぶ。
と。
鍵の君「すまない……。急いでいたもので」
なるほどぉ……そう来るのかぁ。
何だか、その演出だけで泣けてくる。
そうなのだ、「鍵の君」はあくまで千代子の記憶の住人なのである。
蔵の中での「指切り」のシーンなども実に印象的に表現されており、映画版に比べて物理的に「4倍」の感動をもたらせてくれる。
以後「鍵の君」は同様に描かれるのだが、どういう演出なのかは伏せておく。

さて「鍵の君」といえば、対になるのは「傷の男」。
こちらの表現は実にストレートで分かりやすい。
「あ、傷の男!」
そう名指された者が「傷の男」なのである(笑)

千代子讃江・その3

1月16日金曜日。
三宮駅そばのドトールで軽食とコーヒーで腹ごしらえして、アートカレッジ神戸へ。そうだ、私は舞台版『千年女優』を見に来ただけではないのだ。仕事もせねばならぬ……と、思いつつも、脳の割り当ての大半は舞台に振り向けられている。すまんな、学生諸君。
通常通り、1年生2年生合わせて5時間(50分×5)の授業。それぞれ1時間ほど世間話をして、制作の進行状況を確認しつつアドバイスする。
2年生はじきに卒業だ。2年間のつきあいだったが、実に早いものである。
卒業後の進路が決まった人も、曖昧な人もそれぞれの健闘を祈る。
と、感傷を覚えつつも気持ちは千代子たちに向いているので、申し訳ないが授業をいつもより早めに切り上げて、すわ大阪へ。
快速のおかげで思ったより早めに大阪へ着いたので、会場に直行予定を変更して先にホテルにチェックイン。
いざHEP HALLへ。

会場へ上る展望エレベーターには、舞台版『千年女優』目当てのお客さんも乗っておられるようで、若い娘さんのこんな声が漏れ聞こえる。
「(トークショウに)原作の人も来るんだって」
ええ、どうもすいません。後ろに立っている無駄に大きい私がその人です。
おお、ロビーは人で溢れているじゃないか!
公演間近になって、グッとチケットの売り上げが伸びたとは聞いていたが、やはり大勢のお客さんを見るとホッとする。
私も監督作の公開初日は多少の緊張を覚えるもので、お客さんの入りはたいへん気になる。さぞかし舞台版関係者はホッとしていることであろう。
良かったね、千代子。

プロデューサーにご挨拶して、トークショウの打ち合わせのため控え室に案内していただく。
上演前、それも初演の直前ということで、楽屋のムードはテンションが上がっており、こちらもその雰囲気に高揚感を覚えて期待がいっそう高まる。が、身体は正直なもので、打ち合わせの前に出た言葉は色気も緊張もありゃしない。
「すいません、何か食べるものありますかね?」
乞食かお前は。
TAKE IT EASY!さんに差し入れられたたくさんの食べ物の中から、お寿司をいただく。元「惑星ピスタチオ」メンバー腹筋善之介さんから、と聞いた。
おお、何だか余計に嬉しい。
「トークショウでプレゼントするサイン色紙ですが、いま描かれますか?」
「えー……(ムシャムシャ)……と(ああ、美味しい寿司だな)」
「トークショウの時、現場で描かれてもかまいませんけど」
「あ……ええ……(鰻かな、これ)……じゃあ、そのぉ……それで(美味いね、ホントに)」
食べるのに夢中である。申し訳ない。
しかし、観劇中肝心なシーンなんかで腹の虫にでも鳴き出された日には、よけいに申し訳ない。モグモグ。

19時、末満さん率いるピースピットによる極彩色溢れる「予告上演」ののち、いよいよ舞台版『千年女優』本編上演。
背景にロヲタスを大きくあしらったシンプルなセットがとても素敵だ。
観客席からだと認識しづらいのが残念だったが、舞台上にはロヲタスの葉が円形に大きく配されている。なるほど、このサークルの中で輪廻が巡るのだな。
シンプルながらもイメージが絞り込まれている。いい仕事だなぁ。
暗転して、照明が灯るといつの間にか5人の女優さんが立っている。
静かで幻想的な光景だ。
美しいセットを見ただけでも、かなりグッと来ていたのだが、開巻早々の群唱でいきなり涙目になりそうになってしまった(笑)
『千年女優』をよく知る者にとって、舞台版冒頭の台詞は思わず「いきなりずるいぞ(笑)」と言いたくなるくらい、泣かせるものだ。
感動的な台詞を何しろ「×5」である。破壊力十分(笑)
しかもノスタルジーと可愛らしさが同居する音楽が追い打ちをかけてくれる。
脳裏にはアフレコ収録での感動的なシーンがいきなり甦り、その感動が重なり合わさって涙腺を刺激しやがる(笑)
「歳食うと……涙腺が弱くなるものかね……」
などと、表に出ようとする涙へカウンターを入れて押しとどめる。
いずれこの素晴らしく感動一路の舞台やDVDを見る人のために、中味についてなるべく具体的には触れたくないので、まだ舞台版を見ていない人は想像を逞しくして読んでいただきたい。
この台詞でいきなり舞台版『千年女優』の世界に連れて行かれてしまった。
素晴らしい演出により、いよいよ舞台版『千年女優』開演である。

3回目にしてようやく本編に辿り着くなんて、いつまでこのシリーズを続ける気なのだ、私。