年賀状のレシピ・その2

昨日も引き続き新しい仕事場のセッティング。
この日は共有スペースにある打ち合わせ場所周りを中心に開梱作業とTVやパソコンの配線。
これまで監督したアニメーションのDVDやらビデオ、資料用映像、その他映画祭やイベントや、知り合いからもらった作品集など多くのDVDなどを箱から出して並べ、人形やオモチャ(立派な資料なのだが)に窓辺を彩ってもらう。
続いて打ち合わせスペースに鎮座する大型テレビ周りの配線。パソコン、DVDプレイヤー、ビデオデッキをTVにつなぐ。
開梱作業中に少なからぬDVテープも発掘されたので、これらも見られるようにするべく、現役を退いていたDVカメラもTVにつないでみる。
「お。まだ動くぞ」
試しに「『千年女優』スタジオ初期」と記されたテープを再生すると、阿佐ヶ谷芝萬ビルの片隅に出来たばかりの『千年女優』制作班の様子が映し出される。現在と同様、おそらく引っ越してからまだ間がない頃だ。
「ひゃあ、懐かしい」
何しろ12年前の映像である。
美術監督の池さんは現在より一回り「小ぶり」で、監督もはるかに細身で何より毛髪量も少なくなく、白髪もほとんど見えない。
使用しているパソコンもMACのG3で、えらく古いように思える。
しかし干支が一回りする時間が経っても、アニメーション制作現場の風景はあまり変わっておらず、TVモニタの中も外も原画机とスチール棚、段ボール箱が構成する景色は同じである。
DVも再生できるようになったので、ついでに監督部屋からラジカセもここに加える。CDとMDとカセットまで再生できるという便利だが現在では何の役に立つのか分からない私物。以前は、声優さんのボイスサンプルがカセットやMDで届けられることもあったので、その再生用に仕入れたもの。現在ではCDかMP3なのでラジカセの出る幕はないので、体のいい厄介払いだ。
新旧の機械とフィギュアと書籍に囲まれた打ち合わせスペースは、こぢんまりとしているが、なかなか快適な空間……というよりとも何だか子供が作った「基地」みたいでもある。

さて話は少しさかのぼって、年が明けた元旦のこと。
ゆっくり寝ていればいいものを、普段と変わらない10時過ぎには目が覚める。
描きかけの絵があると、楽しいと思うらしい。布団の中で年賀画像着色の段取りをあれこれ考える。真面目だね、まったく。
それに正月とはいえ、遅くまで寝ているくせを付けない方が好ましい。今年は、荻窪から新中野へと仕事場が遠くなったし、終電の時間も早くなるので、これまでと同じ仕事時間を確保するには、生活時間帯も少し前倒しにしなければならない。
今年の起床は目標9時半。それでも一般の会社員に比べれば十分遅い起床だろうが、毎日終電まで働くのである。

まずは煙草を吸ってコーヒーを飲み、さてデジタル作業である。
パソコンの作業は気が楽で宜しい。
まずはスキャンした素材の掃除から始める。年末の大掃除からこっち掃除ばかりしている気がする。
線を補正してゴミ取り。
正式な版権イラストでもないので、アニメのセルと同じに線は2値化して彩色作業を簡単にする。
分からない人のために一応解説しておく。
鉛筆で清書した線は、黒い線といってもスキャンすると単なるグレーの階調であり、白い紙もそのわずかな汚れやたわみなども読み取るためにうっすらとグレーになる。これをレベル補正して、なるべく白黒のはっきりした画像にする。このままでも塗りの作業はもちろん出来るのだが、いくらか手間が余分にかかるので、これを2値化する。と、グレーの階調は失われ、白黒だけのデータになる。線の滑らかさは失われ、小さな正方形のブロックが集積した線になる。折角の線がジャギジャギになってしまうがが、こうしておくと線で括られた面積内をペイントツールでとても簡単に塗ることが出来る。クリック一つでサッと塗ることが出来、後から色を変更することも簡単。同じ色なら一括で変換も出来る。
もっとも、超簡単に塗れるようにするための仕込みや修正に手間がかかるのだが。
大量にセルペイントを必要とする通常の商業アニメーションにおいては、作業簡便化のためにセルはすべてこうして塗られている。この年賀画像では影やハイライトなどは別素材で作成しているが、通常のセルは実線と一緒に同じ紙に書き込みになる。
2値化したままでは勿論線がジャギジャギで見るに堪えないので、このデータに「スムージング」とか「アンチエイリアス」といった処理を施すと、ジャギジャギが平準化され滑らかな線になる。
説明が足りないかもしれないが、概ねそういうことである。
上記のことを親切にも図に示すと次のようになる。

004.jpg

実線と同様、影とハイライトの色トレス線にも2値の処理を施して、塗るための下ごしらえは完了。
後はペイントツールで色を流し込むだけである。
ロビンの基本色はすでに決まっているので、以前に描いた設定のデータをパレットにして、ここから色を拾ってヒョイヒョイと移植。
新規に色を決めなくてはならないのが「虎の手袋と耳、顔のペイント」だけだが、どうということもない。虎の記号的な色は黄色と黒でロビンの固有色と相性が良すぎるくらいだ。というか、ロビンが黄色いから虎の扮装をさせたのだ。
ちょっとだけ迷ったのは、「虎柄」という記号で考えるか、本物の虎に準ずるか、というくらい。
耳にせよ手袋にせよ、黄色に黒の縞を入れれば記号的に分かりやすいが、その分ファンシーという不愉快な彼岸に近づく。リアルな虎に準じるなら、耳の裏は黒いものだし、手先に縞はない。だが、その分虎の記号が後退する。下描き段階でも考えた問題だが、ファンシーに近寄るのはやっぱり嫌だ。
虎の扮装パーツは無難な色で収めておく。

これで塗りは終わり。超簡単。
後は『夢みる機械』キャラ定番の「金属処理」。ロビンの場合はグレーのパーツがその対象。この部分のハイライトにのみフレアが出る処理を施す。
当該部分の色を選択して別レイヤーとして、ぼかしなどの処理を加えてレイヤーモードを変えて重ねると、こんな案配になる。

005.jpg

さらに胸のライト部分などに光の処理を施す。と、アニメの本篇画面でならばこれで完成ということになるが、一枚絵なのでわずかに「特効」を加える。
頭部や胸元、足先などにブラシとグラデーションツールで階調を伴ったハイライトを入れて作業は終わり。
完成した画像にさらに定番の処理を加える。画像をコピーしてぼかしたものをソフトライトで重ねて完成。この効果により、単なる塗りよりも湿度が加わる……ような気がしている。やりすぎると「ベチャベチャ」になるので、濃度は控えめにしておく。
これでイラスト部分は完成。
単なる塗りと比較すると、いくらか違いがお分かりいただけようか。

006.jpg

さて、このイラストをどのように配して年賀状に仕立てるか。
イラストだけでは年賀状としての機能に欠ける。
だからといって背景用に新たな素材を作るのは億劫だ。
面倒は嫌い。
ちょうど『夢みる機械』の「仮ロゴ」が円形で、これをアレンジすれば「日の出」に見えないこともあるまい、と思って流用することにした。
この仮ロゴは去年の4月に私が作ったものである。本番のロゴが出来るのはまだまだ先だが、制作期間中にも「旗印」が欲しいと思って作った。
こちらがその仮ロゴ。私はグラフィックデザイナーではないので、至らぬ点はあるが気に入ってはいる。

007.jpg

この仮ロゴの背景を赤から黄色へのグラデーションに変え、年賀状に相応しい「日の出」に見立てる。
これを先のイラストのバックに配置して完成。

008.jpg

お手軽に作った割には悪くない、と思っていたのだが作画監督の板津くんに指摘されてしまった。
「今さん、ロビン間違ってますよ」
ありゃ。
ロビンの下半身に付いている「オムツ状」のパーツ、これの曲線の向きが逆だった。「∪」ではなく、上に向かって「∩」となるのが正しいのであった。
元は自分でデザインしたくせに、ああ情けない。
ま、それもご愛敬ということで。

年賀状のレシピ・その1

昨日4日が仕事始め。
私のことだからぼんやり電車に乗っていたら荻窪の仕事場に出社しかねないので、気を引き締めて中央線を降り、丸ノ内線に乗り換える。
仕事場は遠くなり電車の乗車時間が増えたが、その分読書の時間が確保されるのはありがたい。
昨日は正月期間支度に持ち帰っていたノートパソコンという重りをカバンに詰めていていたので、その分携行する本は薄い文庫にしておいた。近頃は体力に自信がないので(元々ないが)、なるべく身体をいたわらねばならない。
読んでいたのは『はい、泳げません』(高橋秀実/新潮文庫)。
これが実に面白い。何しろ「史上初、“泳げない人”が書いた水泳読本」である。
去年の暮れにこの著者の『トラウマの国ニッポン』を初めて読み、すっかりファンになってしまった。続けて『やせれば美人』、『からくり民主主義』(いずれも新潮文庫)を読んでいた。いずれも爆笑ものである。

仕事始めというと聞こえはいいが、まずは段ボール箱と戦わねばならない。
箱を開いては棚に収める。ファイルやCD、DVD、小物類は可愛いものだが、真打ちは何といっても本である。監督部屋、共有スペースそれぞれに収める本を合わせると20箱近いのではないか。
開けれども開けれども続く本の山。
写真集や画集など重たい本を数冊持って、しゃがんだり立ったり伸びたり。まるでトレーニングである。
「運動不足解消のいい機会じゃないか!」
と、思いこもうとしても足腰は不機嫌になるばかりだ。折角正月休みで回復しかけたのだが、今日はまるで他人の足腰みたいになっている。
だが。荷物との格闘は今日もまだ続くのである。

話は少しさかのぼって年末年始。
元旦といえば年賀状である。
私の場合、届けられる年賀状を楽しみにするのではなく、作るのだ。
難しい言葉で言えば「泥縄」である。
今年の年賀状制作は、年も押し詰まった大晦日31日午後から開始。遅いよまったく。
「描かなきゃ描かなきゃ描かなきゃ」と思いつつちっとも手が着かない有様は仕事と同じである。
「あの設定描かなきゃ」「コンテ描かなきゃ」「レイアウトチェックしなきゃ」「シナリオ書かなきゃ」「インタビューのテキスト書かなきゃ」等々。
堆く積まれた「先にやらねばならないこと」を掻き分けて仕事をしているのだから、年賀状が大晦日に着手されるくらい致し方ない。

とはいえ少々困った。
何しろ、12月21日以来引っ越しと大掃除の連続で、絵を描いていない。それに自宅で絵を描くのは去年の年賀状以来のこと。勘が鈍っているに違いない。
「えーと……鉛筆はどこだっけ……紙は……と……あれ、消しゴムどうしたっけな……あ、ライトがないと手元が暗いぞ……」
勘以前に環境が鈍っている。
あれこれ用意を整え、ラフを描き始めたまでは良かったのだが、すぐに絵を描くことにすっかり自信をなくしてしまった。
「げ……描ける気がしないぞ」
絵柄はぼんやりと決まってはいた。
「虎に扮したロビンがガオーッ」
ちなみにロビンというのは新作『夢みる機械』の主人公なのだが、コンテで描き慣れているはずのロビンがまるで形にならない。
「……絵描き、廃業しようかな」
そんな思いが頭をよぎるくらいに情けない絵しか描けない。ま、普段からそんなものなのだが。

適当な鉛筆が見あたらなかったので、鉛筆立てに入っていたシャープペンシルでコリコリとコピー用紙上で線と格闘することしばし。何とかポーズが決まってきたので、ディテールを固めるべく、ネットで画像を検索する。
さすがにロビンはだいたい覚えているが、虎の扮装をさせるための「ネコ耳」やらアンパンみたいな「手袋」がどのようなものであるか記憶は定かではない。
「虎」「肉球」「ネコ耳」などなど、必要な画像を集めてディテールアップ。
この頃には随分絵を描く勘も少しは戻ってきて下描き終了。

001.jpg

省力化のために小さめに描いた下描きを、一旦スキャン。A4サイズに拡大して吐き出す。年賀画像としては無駄に大きいが、老眼には多少大きい方が清書の負担も少なかろうし、大きめにプリントアウトして新しい仕事場の彩りにするのも悪くあるまい。

「しまった、作業用のメガネを会社に置いてきちゃった」
加齢には不便が付き物であることだよ。
仕方ないので裸眼で清書する。筆記用具はそのままシャーペン。
「……清書出来るのかいな?」
清書の仕事から遠ざかっていたので、若干心配。
それに近頃は清書が億劫になってきている。だが、ラフな線は好ましくないのでなるべくちゃんと描く。
大掃除の際に出て来たA4のコピー用紙が上等らしく、線が滑って清書しやすくて随分と助かる。
一番面倒な清書をやっつけて、気が楽になる。これで半ば出来たようなものである。

002.jpg

これをスキャンして、一旦吐き出す。単なるコピーだ。このコピーに影とハイライトの線を描き加える。
後で分離しやすいように色つきのボールペンで描く。
「あ。赤ペンしかないや」
『夢みる機械』の設定を描く際は、いつも青で影の線、赤でハイライトを描くなだが、あいにく赤しかない。
「赤があっただけでも幸いだと思おう」
何事も前向きに捉えた方が精神は健全に保たれるはずだ。
さらに、虎柄を別紙に描いてアナログ作業は終了。
影のトレスラインを青に変換し、虎柄を加えるとこうなる。

003.jpg

素材のスキャンが終わって気がつけば3〜4時間も経っている。
着色は年明けにするとして画像作成作業は一旦終了。
晩のおかずを買いに行かなくちゃ。

謹賀新年2010

明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします!!

デフレスパイラルに巻き込まれて感嘆符も安売りだ。
不況のせいか年末年始らしさの濃度も薄いようだが、それだけ目にも耳にもうるさくないのは喜ばしい。もっとも、ろくに外にも出ていないのでらしいのからしくないのか、よくは分からないが。
テレビの中は相変わらず年中正月のようだ。極彩色の氾濫。目も頭も悪くなりそうだ。
うちのテレビはニュース専門チャンネルと化している。

どうも久々の雑文書きで言葉が出てこない。
去年更新を中断して以来、いくら忙しいとはいえ、雑文を書くほどの暇が全然なかったわけでもないが、制作中の『夢みる機械』の圧迫により、精神のスペースが減少している。
年が明けたからといって、突如こころが解放されるわけもないが、いつまでも放っておくと本当に当ウェブが窒息死しかねないので、重い腰を上げて更新を再開してみることにした。
どれ、よっこいしょ。

腰が重いのは何も比喩ではなく、本当に重いのである。
引っ越しのせいだ。
自宅ではなく会社が引っ越した。
ただでさえ忙しい年末に引っ越しが重なり、仕事場の箱詰めと掃除、それに自宅の大掃除と一週間以上にわたって肉体労働を続けていた。おかげで腰が痛く重い。
5年ほど通った荻窪のビルを離れ、制作会社マッドハウスは新中野に移ることになった。懸命な方ならご推察の通り、世を覆う不景気の波に流されて新天地へ。
もっとも、荻窪駅至近という好立地にあった5年間の方がイレギュラーだったと私などは思うのだが。
分相応という言葉はけっこう好きだ。

荻窪のビルでの仕事は『パプリカ』と「オハヨウ」だけで、『夢みる機械』の本格的な制作は新中野でということになる。いや、すでに本格的に作ってはいるのだが。進捗状況は思うに任せない。
考え出すと気が重くなるので、『夢みる機械』の話は措いておく。

荻窪での制作本数は少ないとはいえ、それ以前に累積していた「財産」の量が膨大になっており、箱詰め作業にうんざりさせられた。
スタッフルーム共有スペースの整理に二日、私個人の荷物の整理に二日もかかった。私は監督部屋という形で喫煙スペースを用意してもらっているのだが、四畳半ほどの仕事場に収まっていた個人所有のものだけで段ボール箱で24箱。さらに、収まりきらない資料本などが共有スペースにはみ出しており、こちらを合わせると私個人で30箱を越えるほどになる。
これでは半ば会社に住んでいるみたいだが、『パーフェクトブルー』以来、『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』『妄想代理人』『パプリカ』「オハヨウ」、そして『夢みる機械』と、マッドハウスで仕事を続けているのだから資料の本や本篇素材だけでも膨大になろうというもの。
デジタルに変わってからは、セルや背景もデータになったが、『千年女優』などはまだセルが残されているし、デジタルによる制作でも原画などは「物」としてその存在を大きく主張している。
引っ越しを機会に少し整理することにした。

どのタイトルも制作中には、バックアップあるいは参考用としてレイアウトのコピーを取っているのだが、『東京ゴッドファーザーズ』と『パプリカ』、それに『妄想代理人』の一部話数のレイアウトが全カット分、束になって保管されていた。これを潔く廃棄した。
『夢みる機械』のスタッフと動画の子たちに好きなものを「形見分け」として持って行ってもらい、残りは全部処分。
いい気分だ。
原画のオリジナルが入ったカット袋も、スタッフで仕分けして保管するものと処分するものそれぞれを箱詰めした。
どの原画も見ていると懐かしいし、捨てるのも実は気が引ける。
教育用の素材として活用するなり、好きな人の手に渡るように出来ればいいのだろうが、そんな機会を考える方がよほど面倒くさい。
私の哲学はこうだ。
「面倒くさいに勝るものなし」
だいたい、今 敏が監督したからといって、使用素材の管理までなにゆえ監督が担当せねばならんのだろうか。
ただ、気の利く制作進行の提言により、廃棄するはずの素材も一部保管されたようなので、イベントでもあれば有効活用される可能性も残されているらしい。

仕事場の箱詰めが終わったのが、12月の24日。
この段階で私の腰はすっかり愚痴っぽくなっている。
「……痛いし重いし」
毎年恒例となっている、スタッフのささやかなクリスマスパーティは段ボール箱に囲まれながら、シャンパンの栓を抜いた。
仕事場に溜まっていたいただき物のアルコールも、なるべく荷物を減らすべくこの機に消費してしまうことにした。
「ドンペリ美味ェ!」
「Overture(ナパヴァレーの赤ワイン)美味ェ!」
そんな高い酒を開けておいて「ささやかな」もないものだが、段ボールと掃除用具に囲まれて、しかも使い捨てのコップで上等な酒を飲むという「台無し」な行為はしかし悪くない。

25日から28日までの4日間は、古い仕事場にも新しい方にも入れないので、ぽっかりと休みになってしまった。
その分たまにはのんびりすれば機能低下が著しい身体にも優しいのだろうが、のんびりを楽しめるほど気分はのんびりしていない。仕事場の片付けと箱詰めで降りてきたせっかくの「捨て神様」(物を処分する勢いのことだ)なので、自宅の大掃除にも活用することにした。
当ウェブサイト同様に、長らく放っておいた自室も多くの物を処分し、年々溜まる一方の書籍やDVDも収まるべき場所を確保して整理する。
部屋と物を整理したら、頭の中も少しは整理された気がする。
自宅の大掃除にも4日かかり、この段階で私の腰は愚痴っぽいのを越えて恨みがましい言葉が多くなっていたのだが、29日には新しい仕事場に出社。
「……ちょっと……まだ続くんですか」
とは腰の弁。
引っ越しは箱に詰めるだけにあらず。締められた箱は開かれねばならない。

荻窪で丸ノ内線に乗り換えて新中野駅下車。地図を頼りに歩くこと7分ほどで新社屋に到着。
初めて目にする新しい仕事場は、「うん、悪くない」。
何より一番心配していたのは「いられる場所」だったことだ。
私は霊感のようなものにはとんと無縁だが、時折「いられない場所」に遭遇することがある。以前神戸で宿泊した某ホテルなどはあまりの「いられなさ加減」で、耐えきれずにホテルを変えたこともあった。
こうした場所にいると、みるみる精神から養分が奪われて萎えてくる。精神にも変調を来すし、実際身体も不調を訴えるので、仕事どころでないのである。
もしそういう「いられない場所」だったらどうしようかと心配していたのだが、大丈夫のようだ。気の利く制作進行の子も「大丈夫みたいですね」と言っていたので、一安心である。

新しい仕事場も全面禁煙だが、前の仕事場同様、監督部屋だけはパーティションで仕切られており快適に喫煙しながら仕事を楽しめる。
もっとも、私は煙草を吸えない場所になど仕事をしに行くわけもないが。
スペースは以前より少し広いようでありがたい。何より、以前は壁面にある空調設備メンテナンスのために、空調との隙間を30センチ程度確保せよというお達しだったが、今度は壁面ぎりぎりまで使えるのでスペースを有効活用できる。
とはいえ。部屋の中にぎっしり詰まった24箱を開梱するにはスペースが足りない。部屋から箱を出すことから始めねばならない。
「……もう勘弁してくれませんか」
腰に口があったら哀願するのではないかと思われたが、腰が二つもあるわけもないので働いてもらわねばならない。
箱を運び出して、机やスチール棚を配置。再び出した箱を運び入れる。
まるでパズルだ。
他のスタッフは、荷物はせいぜい箱にして数個なので、みるみる机周りの環境を構築しているが、私は監督部屋に収納する荷物を10箱、半分にも満たない数を開けたところで挫折する。
専門用語で言うところの「グロッキー(groggy)」というやつである。

それに、開梱作業中「偉い人」に呼び出されてしまったのだ。校舎の裏に。
「焼きを入れられる」に違いないと思ったのだが、連れて行かれたのは校舎の裏では無論なく、本館の会議室だった。我々『夢みる機械』班は別館である。
『夢みる機械』の芳しくない進行状況のことで御上からお達しでもあるのかと思ったのだがさにあらず、会社の人事や体制などが大きく変化することのお知らせだった。
なるほど、会社経営は世間で言われる通りにたいへんな時期である。
私も応分の一の責任は感じる。
別館へ戻るとき、年が改まったら『夢みる機械』制作に一層の奮励努力を心に誓う私がいたのであった。
「頑張るぞ!」
でも、まずは段ボール箱を開けなくちゃ。

……そうだったのか

気がつけば1か月ぶりのNOTEBOOK更新だというのに、実に下らない話。

夕べ、仕事場で小耳に挟んだ。
「おしおまなぶが麻薬で逮捕されましたね」
私に向けられた話ではなかったので、「ふーん」と聞いただけで、心の中ではこんなことを考えていた。
「近頃のお笑いの人たちは犯罪でも売れっ子なんだな」
「おしおまなぶ」が何者かを知っている人にはなぜここで「お笑いの人たち」が出てくるのかさっぱり分からないだろうが、私はてっきりお笑いコンビの名前だと思っていたのである。
「おしお☆まなぶ」
がさつで大柄の「おしお」と背は低いがちょっとイケメン風の「まなぶ」。
すっかりイメージも湧いていた。
「あ、表記は「おしを☆まなぶ」かもしれないぞ……TVと芸能界に疎い私が聞いたこともない名前だから、まだそれほど売れてはないのだろう……お笑いのグランプリとかでは優勝にはまだ程遠いが、しかし最近売り出し中のコンビだから麻薬で逮捕されたことがきっと大きなニュースになるに違いない……」
膨らむ想像。

家でニュースを見てびっくりした。
「俳優・押尾 学、MDMA使用で逮捕」
「……ひ、一人だったのか、押尾 学……しかも俳優……」
衝撃的な事実だ。私には。
さらに家内はニュースを見ながらこう言った。
「おしおまなぶって……そっか、矢田亜希子と結婚してたのか」
矢田亜希子も誰だかさっぱり分からない私は、ショックのせいもあり、生返事である。
「へぇ……」
「できちゃった婚だったはずだよ」
「へぇ……」
と、答えつつ、いまひとつ自分の想像と事実の落差をうまく呑み込めていない私はこんなことを考えてしまうのだった。
「その子どもって、おしおの? まなぶの?」

よく出来た冗談−「La Paranoia de Satoshi Kon」

YAHOOニュースのヘッドラインに、「YouTube、動画アップロードサイズが最大2GBに 〜 HD動画の埋め込みも可能に」とあった。
http://dailynews.yahoo.co.jp/f……r/youtube/
映像制作で糊口をしのいでいる者にとっては嬉しくないニュースであろう。ハードディスクレコーダーの普及やYouTube等動画サイトの充実は、DVDの売り上げ減少に確実に貢献しているそうだ。
動画サイト自体はたいへん便利なものだが、商売がまだ終わっていない映像商品製作者や制作者にとっては頭痛の種である。

私は目的が特にない限り動画サイトを閲覧することはないが、先のヘッドラインを読んで思い出したようにYouTubeをぼんやりと徘徊していたら、今 敏に関する奇妙な動画を見つけた。
「La Paranoia de Satoshi Kon – Parte 2 – Entrevista」と題されている。
スペイン語だろう。翻訳サイトで英語にしてみたら「The Paranoia of Satoshi Kon – Part 2 – Interview」ということになった。
この動画にリンクされた小さなサムネールを見ると「今 敏」が映っているのだが、どうも記憶にない。
「海外でこんなインタビューあったっけ……?」
海外の映画祭などでは少なくない数の取材を受けているので、忘れていることも多い。
「はて、どこでの取材だったか?」
リンクをクリックし、現れた動画本篇を見てみると、ちょっと遅れて爆笑に至った。
「今 敏のインタビュー」ということなのだから、今 敏本人が出てくると思っていたら大間違いだ。是非御覧いただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v……mc&feature
言葉が分からないので確たることは言えないが、しかしここでインタビューに答えている人物はどうやら「今 敏になったつもりの人」であるらしい。わざわざ元の発言(時折日本語が混じるようだ)にスペイン語でボイスオーバーを被せているあたりが凝っている。
何より、外見を似せようとしているのが可笑しい。
確かに今 敏の外見は記号的なので、エッセンスを抽出するまでもなく似せやすいのだろうが、似せるための意図をこうまではっきりと見せられると笑い出してしまう。「Part2」ラストに出てくる「今 敏になったつもりの人」の正面顔を見るとかなりの垂れ目で、実物と顔の造作自体は全然違うのにその似せ姿は記号として成立している。
メガネ、ひげ、後ろでしばった長髪(多分付け毛)、黒いタートル。
時折手でメガネを持ち上げる動作がぎこちないので、普段はメガネをかけない人なのだろう。
「今 敏になったつもりの人」はどうやら自分の監督作についてあれこれと答えているらしいが、何を言っているのか分からないのは残念だ。発言内容もシミュレーションによるものなのか、実物がどこかで喋ったことの再現なのだろうか。
他人の名を騙る「インチキ講師」は詐欺に値するが、こうしたニセモノは罪がない。

この映像は「Part2」ということなので、「Part1」も見てみた。
「La Paranoia de Satoshi Kon – Parte 1 – Vida y Obra」
これも翻訳サイトのお世話になると「The Paranoia of Satoshi Kon – Part 1 – Life and Builds」ということになり、今 敏がいかに形成されたのかみたいな内容なのだろう。
http://www.youtube.com/watch?v……UcU7GMSllc
大友さんの漫画『童夢』、『老人Z』や『ワールドアパートメントホラー』、『ジョジョ』や『MEMORIES/彼女の想いで』の画像や映像が挿入されており、今 敏の実物が仕事中の映像(『パプリカ』のメイキングか)も混じっている。
もっとも笑えるシーンは、おそらく「今 敏の素人時代」を想定して撮られたと覚しき映像で、寝床の上であぐらをかいて『童夢』(スペイン語版だけど)を読みふけり、最後に何か決意でもしたような大芝居まで見せてくれるくだり。
きっと「オレもやるぞ!」とか「こんな漫画を描くぞ!」といったイメージなのだろう。顔のあたりを影にしてはっきり見せないあたりが、いかにもドキュメンタリーにありがちな「再現風」の感じが出ている。半ズボンから覗く生足が妙に本人に似ている気がするのもまたおかしい。
影響を受けた作品や参加作品紹介の後は、今 敏が監督した映画『パーフェクトブルー』『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』『パプリカ』が順に紹介されていく。
律儀なほどに丁寧な作りがいっそう笑いを誘ってくれる。
Part1ラスト、核P-modelの「Big Brother」イントロに乗せて「今 敏になったつもりの人」が見せる奇妙な踊りが秀逸(笑)

Part2はインタビュー中心だが、随所に映画からの引用が挟まれ、時に「今 敏になったつもりの人」がお面を被ったり奇妙なメイクを施されたり、インタビューアーも一瞬「今 敏になったつもりの人」になるというサービスなどが盛り込まれ、映像的に飽きない構成になっている。どこかの団地の敷地内と覚しき場所で「今 敏になったつもりの人」奇声を発するシーンがいい。実物がおどけるとやりそうなアクションが笑える。
さらには、脈絡は分からねど『用心棒』の映像が引用されていたり、『ターザン』や『ローマの休日』の映像が『パプリカ』内での当該シーンと並べて紹介されていたりといった配慮もなされており、冗談にしては敬服に値する内容になっている。
もっとも、既存の映像商品を自由に引用出来るからこうした冗談も成り立つわけだが。
でも、さすがにこういうものに目くじらを立てる関係者はいなかろう。
私は大変楽しませてもらった。
正直にこう思った。
「よくやるなぁ(笑)」
Gracias! David Martinez Marco.

未来の姿

ちょっと前の話。
6月の20日(土)から3泊4日で、故郷である北海道の鶴居と釧路に行ってきた。去年も同じ時期に行った。名目は一応母方の祖父母の墓参りであるが、年寄りの親戚たちが顔を揃える交流会のようなもの。
正直な話、後期高齢者ばかりなのでこの先、何度顔を合わせることが出来るか分からない。こういう機会は大切にしておきたいし、またこういう機会でも利用しないとなかなか釧路に行くこともない。いや、別にどうしても釧路に行きたいわけでもないのだが、私が高校時代を含めて計10年以上は暮らした場所なので、少なからぬ思い入れはある。
自分が住んでいた往時の面影が歳を重ねるごとに消え去っていく、その様を見たくないような見たいような気持ちもある。

20日(土)は8時半起きで、11時には羽田に存在するという常ならぬ奇跡。おかげで眠くてだるくて暑い。
チェックイン用の機械は愛想よく応対し、Eチケットのナンバーを打ち込むとペロリと往復のチケットを吐き出す。カウンターに荷物を預けて胃の腑の嘆きを癒すことにする。
ビールと天ざるそば。食券という段取りが旅行の始めにはいささか味気ないが、出て来た蕎麦はもっと味気なくも粗雑であった。
「すいません!そば粉をもう少し入れてください」
言っても仕方がないので、その要望は蕎麦みたいな振りをしたひも状のものと一緒に喉の奥に流し込む。

飛行機内では本を読む。普段まとまった読書の時間を取ることなどできないので移動の時間は絶好の贅沢である。
読みかけだった『人生読本 落語版』(矢野誠一/岩波新書)のページを開いてしばらくは落語にまつわる人生の知恵に和んでいたが、普段酷使している二つの目が疲労を訴える。
「頼むから瞼を締めてくれ」
そう言われては仕方ない。iPodで志ん生を聞きながら瞼のモードを「閉」にすると、あっという間に眠りのポケットに落ちる。

着陸間近のアナウンスに促されて脳を再起動すると、もう釧路上空。
心なしか機内の温度も下がったような気がした。
出発前に預けた荷物を回収して空港の外に出ると、ひんやりとして気持ちがよい。というよりは肌寒い。東京の気温の半分ほどしかないのではないか。
あいにくのどんよりとした鈍色の雲が空を覆っているが、それもまた釧路らしい風景である。久しぶり。わずか一年のご無沙汰だけど。
肺いっぱいに釧路の冷たい空気と一緒にニコチンとタールを吸い込む。
「ああ、美味い」
煙草2本の休憩をして、タクシーに乗り込む。
「鶴居のグリーンパークまで」

釧路湿原を右に見て車は走る。灰色を吸い込んだ緑の風景が目に穏やかで心地よい。
「北欧と似ているなぁ」
とぼんやり思うが、北欧ではこう思った。
「北海道に似ているなぁ」
何かに似ていることを思い起こすことより、目の前の風景をそのまま味わうべきかもしれない、などと非日常の緩くなった頭で考えていると、道路脇の駐車場に野良犬が一匹、毛繕いしているのが目に入る。
「あ、キツネだ」
一台も車がいない広い駐車場、うっすらと湿ったアスファルトに座り込んで、上手に焼けたトースト色のキタキツネは、観客の不在に少々不満げな様子に見えた。
車を止めてよほど挨拶の一つもしてやりたかった。
「私もコン」
頭のネジが緩んでいる。

30分ほどで目的地に到着。タクシー代は¥8000ほどだ。
30分でその値段は高いのではないかと思う向きもあろうが、何しろ空港から目的地までの間に存在する信号機は片手の指に足りないくらいである。信号待ちもなく、走っている車も極端に少ないので70〜80?程度が巡航速度となるのだから、移動距離は相当なものだ。
タクシー代が高いか安いかはともかく、私を育ててくれた地元になるべくお金を落としたいと思っているので、たまにはこんな贅沢も悪くない。

参加した親戚はうちの両親、母の兄弟やその子供(つまりは私の従兄弟)、うちの夫婦を含めて総勢10名。去年より2人増えていっそう賑やかな一団である。母の兄弟は世間でも珍しいのではないかと思えるほど仲がよい。楽しい親戚である。
翌日は朝から雨がひどくなるとの予報に素直に従い、到着してすぐにお墓参りを済ませる。
お墓の周りを掃除して、花やお菓子やお酒を供えて線香をともし、手を合わせる。
「南無ぅ……」
お墓に供えたものはすぐに持ち帰らねばならない。いまどきの墓参りは慌ただしいものだよ。
「敏、これ飲んでや」
渡されたお供え物のお下がり「ワンカップ大関」の蓋を開けて墓場で煽る。
「ううん……ワンカップ脳に染みいる甘さかな」

滞在中は、あいにく天候に恵まれずずっと雨が続いたが、それもまた良し。
おかげで温泉に浸かってはマッサージ機に揉まれてうたた寝し、起きては少し酒を飲んではまた温泉に浸かる、という至福の時を過ごす。
休憩所に設置された、15分¥200のマッサージ機に続けてコインを投入する。自宅のものと同じメーカーのマッサージ機にわざわざ¥200を入れるのも何だかもったいない気もするが、なるべくお金を使うのが目的でもあるので、ささやかではあるが自動販売機でお札を崩してでも揉まれるのだ。
マッサージ機に座って読書をする。自宅においてはこれが私の「休日の基本」であり、リラックスの記号である。
新しい本を開く。
『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』(柴田元幸・高橋源一郎/河出書房新社)。対談形式の読みやすさもあって、興味深くも楽しくサクサク読む。
もう1冊持参したのが『小説作法ABC』(島田雅彦/新潮選書)で、タイトルから分かるとおり大きく言えばさきのと同じ傾向のものだが、もちろん自分で小説を書こうなんて野望を持ち合わせているわけではない。
何かの書評で目にしたのだが、要するに読者の文学に対するリテラシーが下がりすぎてしまうと、作家の工夫や技が読み取られない、結果文学全体の低下につながる。だから「読み」の仕方を紹介したり、作家の作法みたいなものを書き手の側が自ら紹介したり、といった試みが生まれているそうで、その代表にこの2冊が上げられていた(ような気がする)。
分野は異なれど、同じようなことを感じていたので手に取った次第である。
完全休息として遊びに来ているとはいえ、やっぱり仕事のことは頭から一時も退場してくれない。

旅館で他に何をするというわけでもないが、年の離れた親戚の話を聞くのもまた面白いもので、普段にはないモードが開かれる気がする。
人間、年を食うと最近のことよりずっと昔のことの方が鮮やかに思い出されるようだ。これはレミニセンス効果という名称までついている普遍的なものだそうで、最近読んでいた『なぜ年をとると時間が経つのが速くなるのか』(ダウエ・ドラーイスマ/講談社)という本に記してあった。60歳あたりから特に顕著になる傾向にあるという。
親戚同士の話で何かに付けて出てくる話題は昔話で、時に何度か同じことが繰り返されるがそれもまた「そういうもの」として楽しく思えるのは、聞き手も年を食ったせいだろう。
第一、そういうことのために集まっているのだから、出来るうちに楽しんでおきたいものである。

参加者の半分は後期高齢者という立派な年寄りだ。かつて元気だった伯母さん、叔父さんもすっかり年老いてしまった。
その様は釧路の街にも重ねって見えてくる。
かつて漁業や炭坑で栄えた街。かつて繁華街だった通りはいまでは見る影もないほどシャッター街と化している。
釧路に限らず日本の多くの地方都市が、閉まったシャッターを連ねる老いた街になっているのであろうし、それはまた引いては日本の未来の姿にも思えてきた。
やれやれ、心気くさい話だ。
現在の日本が抱える問題の多くは、ひどく大雑把な考え方だが国の発展のピークを過ぎたことに起因しているように思える。少子高齢化、経済不況や国民一人あたり600万円を超える国の借金などなど。
人間だって国だって、盛りを過ぎれば後はいかに老いるかが切実な問題だろう。いつまでも若い訳じゃないし、無限の可能性が広がっているわけでもない。

上手に年を取ること老いること。
「こんな風に年を取りたい」「こんな老人になりたい」、そんなロールモデルを探すのが困難なように、国が老いるというモデルはないだろうし、そんな考え方すらないのかもしれない。何しろ頑なに「アンチエイジング」にしがみつくのがスタンダードな世の中である。
ゴーストタウンかと思うほどの釧路の光景は極端な例かもしれないが、「なるかもしれない」日本の未来の一つなのではないか。
そう考えると、ある意味「最先端」を行く街かもしれないとも思えてきた。
では、その「最先端」のから見えるさらに先はどんなだろう?
ぼんやりとそんなことを考えていた私の目の前に、天の配剤か、こんな風景を現出させてくれた。
見ていただきたい。これが最先端の「その先」だ。

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つまり「その先」は霧に包まれて見えない。
ぼんやりとした白い闇。
光明は見えないし、白い霧に消えていく風景は湿気てはいるが「お先真っ暗」ともいえないじゃないか。
ただ、ひたすら心気くさいけど。

釧路の街を少し歩いてみた。
すると、可愛くも不吉な予兆が目の前を横切った。

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私が高校生の頃には一応繁華街の様相を呈していたあたりは、2年前に来たときよりもシャッターの面積が広がっているようだ。

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撮影したのは月曜日の午後。人がほとんど歩いていないのが不気味ですらある。
人影もほとんど見えない通りに掲出された、政治家の看板であろうか。大声のコピーがいっそう寂しさを誘う気がする。

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「今こそ起つ!!」
「いまこそたつ!!」と読ませたいのだろうが、しかしこう聞き返したくなる。
「どこに?」
何よりいっそうの寂しさを覚えたのは、高校時代によく肉まんを食べに行った饅頭屋が閉店していたことである。2年前はまだ営業していたのに。無念、「北浜まんぢゅう」。

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幣舞橋を見下ろす花時計も、止まっているんじゃないかという気がしてくる。

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次の画像は先の霧の画像と同じく火曜日に撮影した幣舞橋。

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以前、この界隈にラッコの「くぅちゃん」(あるいはクーちゃん、くーちゃん、くぅーちゃん)が居着くようになって、一時はちょっとした「くぅちゃん景気」に沸いたらしい。くぅちゃん見たさに人々が詰めかけ、押すな押すなの大盛況で本当に釧路川に落ちた粗忽者がおったとか。しかも2人も。
お土産物屋にはくぅちゃんグッズが並び、市内のあちこちの焦点で「クーちゃん商品券取扱店」といった表示をよく見かけた。
ウェブでこんな記事を見かけた。
「「ラッコのクーちゃんは、いなくなっても釧路の顔」と、釧路商工会議所と釧路市商店街振興組合連合会は6月下旬、釧路市内限定で使える「クーちゃん商品券」を発売することとなりました。」
http://kitaguni-report.livedoo……92508.html
「いなくなっても」という強引さが涙さえそそる。
私はかつての地元を応援したいと思う。
くしろよろしくくしろよろしくしろよろしくしろよろしく……くしろよろしく無限回廊。逃れて欲しいものだ、くしろよろしく。

心気くさい話と画像ばかりで終わるのも気が滅入る。少しばかり彩りを加えよう。
釧路に行くと必ず立ち寄るのが駅前の和商市場。釧路港に水揚げされた新鮮な海の幸が並んでいる。釧路の魚は実に美味いのである。

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とりわけ私の好きなのはメンメ(キンキ)とシャケである。シャケは「ときしらず」が何より美味い。それも釧路ものが一番好ましい。
時折、親や親戚にシャケを送ってもらうのだが、何しろ今回の私は「かつての地元にお金を落としたい」だから、妻の実家と自宅用にときしらずを2本ほど買って送ることにした。自宅にはさらにタラコとイクラも。
次の画像は今回購入した「こまつ」の品揃え。

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ときしらずはだいたい¥6000〜9000くらい。左手に¥4000代で3本あるのが紅シャケ。
紅も美味しいが、やっぱりときが好き。甘塩のときに醤油をして食べるのが良いのである。
気に入ったシャケを選ぶと、店の方で適宜塩をし、切り身にして送ってくれる。シャケのお腹をめくって色や脂をチェックするのがポイント。とはいえ、私は目利きではないので店のご主人を信用して購入した。
自宅に送ったシャケもイクラもタラコもすべて食べてしまったが、いずれも絶品の美味しさであった。くしろよろしく。

次のカニの画像は和商市場の通りを一本はさんで隣にある「カニ吉」の水槽。

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活きたタラバや毛ガニをお好みで選んで茹でてもらうと、こうなる。

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親戚の家でカニパーティを催してもらったのだが、その時の画像。巨大なタラバも毛ガニもたっぷりと身が詰まっていた。この他にもう一パイ、同じくらいの大きさのタラバを食べた。
カニだけで満腹した。
さらにこの何年か、ずっと食べたいと思っていたものに出合うことも出来た。
私はカニの中ではとりわけ毛ガニが好き。ザ・キング・オブ・クラブそれは毛ガニ。
とはいえ毛ガニだって食べ続けると味に飽きてくる。そこで登場するべきなのが、これである。

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ほぐした毛ガニの身を甲羅に詰めてその味噌と和え、酒と醤油で味をして焼くのである。
これが食べたかったのだ。
不思議なことに、カニを食しつつおもむろにこれを作り始めたのは私の父で、父もどうしても食べたかったらしい。
親子だなぁ。
父と私は同じ卯年で、ちょうど三周り(36年)の歳の差がある。もし私がこの先36年生きられたら、毛ガニを食しつつもせっせと身をほぐして甲羅に詰めて酒と醤油をしてコンロに乗せる、そんな年寄りに是非なりたいものである。

今 剛『2nd ALBUM』

現在トップページでも紹介しているとおり、私の兄である今 剛(こん つよし)が6/17にソロアルバムをリリースしました。何と29年ぶり。

今 剛『2nd ALBUM』(IOCA20284/エイベックス/¥3,150)

「すべてのギターファン必聴!「Studio Cat」以来、29年ぶりのソロ・アルバムついに完成!寺尾聰が歌う「Sierra/Boz Scaggs」収録!超豪華ゲスト・ミュージシャンが集結!」(帯表より)
「スーパー・ギタリスト今 剛が、構想も含め約10年間を費やした2枚目のソロ・アルバムには寺尾聰がBoz Scaggsの名曲「Sierra」をカヴァーし、「声優界の歌姫」笠原弘子が自身の書き下ろし詞を歌唱など、4曲のヴォーカル曲を含む極上ギターアルバムです。山木秀夫(Ds)、井上鑑(Key)、佐藤準(Key)、森俊之(Key)、高水健司(B)、大儀見元(Per)など参加ミュージシャンも超豪華。ブックレットには、本人による使用楽器(写真付き)と機材の解説を掲載。」(帯裏より)

弟なんか及びもつかないほどたいへんな凝り性の兄が、長い年月をかけ、気に入るまで作り込んだとても気持ちのいい音楽です。
フュージョンと呼ばれるジャンルに入るようですが、こうした傾向の音楽が好きな方は勿論、そうでない方にとっても磨き上げられた技は必ずや一聴に値することでしょう。
さすが兄上。弟も及ばずながら精進いたします。
表紙に画像を掲載する方法がよく分からなかったので(自分のウェブなのに(笑))、こちらに画像をご紹介。ちなみにCDを持っているのは私の手。

2nd

現在発売中の「ギター・マガジン 」(2009年7月号)では今 剛の大特集が組まれておりますので、ギターがお好きな方はこちらも是非。
http://www.rittor-music.co.jp/hp/gm/
「29年ぶりのソロ・アルバム『2nd ALBUM』を発表した今剛。30年以上にわたって“ファースト・コール”であり続ける天才スタジオ・キャットの実像を明らかにするギター・マガジン初の大特集! 新作について徹底的に聞くほか、北海道生まれのギター少年が全国に躍り出るまでの経緯、1stソロ・アルバム『STUDIO CAT』のこと、そして自らのギター・スタイルなどについて、ディープに掘り下げる。また、近年の使用ギターを含むギター・コレクションのほとんどを一挙公開。さらには、今が参加してきた膨大なレコーディングのリストを作成。代表曲「AGATHA」のマスター・スコアも付す。全25ページの完全保存版。」(「ギター・マガジン」ウェブサイトより)

5月の雑食

「NOTEBOOK」用のデータを仕事場に忘れてきたので、JAniCAレポートは一休み。

先週の木曜から2泊で神戸出張。専門学校「アートカレッジ神戸」で、レギュラーの出前講義。
だいたい一月に一度くらいの出張は、私の生活や仕事にとってちょうどよい「句読点」として機能してくれている。往復の新幹線とホテルで過ごす時間は貴重な読書の時間である。ま、大半は睡眠にあてられるのだが。
今回の出張のおかげで、いま話題沸騰、売り切れ続出、印刷所も大わらわ、出版業界の救世主とも期待される『1Q84』を読み終えることが出来た。
村上春樹、待望の新刊『1Q84』〈ichi-kew-hachi-yon〉。
無論、ここで内容については一切触れない。
私の希望は、周囲の人に早く読んで欲しいということ。
だって、せっかく楽しんだのにまだ誰とも話が出来ないんだもの。

『1Q84』は発売から一週間で96万部、とか。
すごいなぁ。
下世話な話だが、「BOOK1」「BOOK2」ともに映画料金程度。映画でいうと公開一週間で約100万人を動員するビッグヒットである。
しかし、著者の希望もあって事前に内容については一切公表しないようにしていたにかかわらず、これだけのヒットになるということは、「内容が面白そうだから」というわけではなかろう。
多分「村上春樹だから」という理由が大きいのだろうが、「話題になっているから」という面も大きいのかもしれない。
話題が話題を連れてくる。
お金にしろ話題にしろ、仲間がいるところに集まるものだ。
そういう仲間には縁がない。

先月、映画は2本しか見ていない。しかもいただき物のDVD。

『アイアンマン』(監督ジョン・ファヴロー)
『インクレディブル・ハルク』(監督ルイ・レテリエ)

……頭悪そう(笑)
でも、どちらも楽しく観た。
いずれもソニーさん製で、『ハンコック』も同時にいただいた。ソニーさんの「3強ヒーロー」揃い踏みである。ありがとうございます。
どちらもマーベル・コミックの漫画原作で、共通点が多い両者。
『インクレディブル・ハルク』内には『アイアンマン』からの「乗り入れ」も見られるし、『アイアンマン』も劇中で続きが示唆されており、続編が最初から予定されているのであろう。
いずれも中核となって描かれる、強力な力を得た者ゆえの「歪み」はつまりは持てあますほどの軍備を抱える彼の国のセルフイメージなのであろう。
さしずめアイアンマンと2号機、ハルクとハルク2号はそれぞれ民主党と共和党といったところか。
端から見ればどっちも変わりゃしない(笑)
何よりの共通点は話の形がどっちもまったく一緒。
まあ、軍事と結びついた科学技術の暴走ものみたいな話は、一号機が出てくれば悪者が改良型二号機となって出て来て最後に対決。力には劣る一号機のヒーローが知恵や愛や勇気で奇跡を起こし、二号機を倒してめでたしめでたし、が昔からの定番である。
私が最初に参加したアニメ『老人Z』もまったくそんな話だった。
当時、原作・脚本の大友さんにそのことについて質問した覚えがある。
「いいんですか?こういうパターンってよくあるのでは……?」
「一号機が出てくれば、二号機が出てきて戦う。そういうもんでしょ」
いまならよく分かる。
「こういうのはそういうもの」である。
話形を外すことよりは、同じ話形の中でいかに工夫を凝らして楽しませるのかが問われるアトラクションだ。それこそが正しい「娯楽大作」ではないか。
遊園地のジェットコースターはジェットコースターとしての工夫を凝らすべきで、オバケ屋敷と抱き合わせにしたからといってスリルが増す訳じゃない。
「オバケはいいから加速しろよ!」
そういうもんだ。

いずれも導入部が「雑」なのも共通していて、おそらく御本国では「みんな知っている」という前提が大きな理由なのかもしれない。
『ハルク』の冒頭なんて、ハルクを知らなければ「さっぱり分からない」といわれても仕方ない。私は高校時代にTVシリーズ『超人ハルク』を熱心に見ていたのでまったく支障はなかったけど。
『アイアンマン』も「とりあえず派手なところから入って、説明は後にして……」という「いかにも」ぶり。何かハリウッド映画を下手に真似たどっかのアニメみたいな。
ま、誰だって「こういうの」を見るときに期待する点は決まっているのだから、グダグダと説明してはいられないのだろう。
「いいから早く変身しろよ!」
そういうもんだ。
昔のTVシリーズの変身に比べて、現代のCGによるハルクの変身ぶりに改めて隔世の感を覚えるが、しかし、ハルクもアイアンマンもCGの技術がすごいというよりは、全体にCGがあまりに過剰でちっともリアリティがないのは残念な気がする。
すでに馴染ませるとかリアリティとかいうよりも、「CGそのものとしての見せ物」という領域に入っているんだろう。

どちらの映画も「役者」の占める部分が大きいことも大きな共通点か。
『アイアンマン』のロバート・ダウニー・Jr、『インクレディブル・ハルク』のエドワード・ノートン、主演の役者の持ち味が「娯楽大作バカ映画」に良いフレーバーを与えている。
念のため断っておくが「バカ映画」というのは別に本気でバカにしているのではない。バカのようになって楽しむ映画というような意味である。
主演同様に脇役も『アイアンマン』がジェフ・ブリッジス、グウィネス・パルトロー、『インクレディブル・ハルク』にウィリアム・ハート、ティム・ロス、リヴ・タイラーと役者に高額が投じられている。
グウィネス・パルトローの役なんて、もう「パターン中のパターン」なんだろうけど、グウィネス・パルトローがそれを演じているのがいいのである。
グウィネス・パルトロー、けっこう好き。
『セブン』も『スライディングドア』も『恋に落ちたシェイクスピア』も好き。
『ハルク』のリヴ・タイラーは「お前まで変身したのかよ!?」というくらい肩幅ありすぎなので、ヒロインとしてはちょっと逞しすぎる気がしてしまった。
『インクレディブル・ハルク』のいかつい将軍にウィリアム・ハートってのも味がある。最初、キャストをよく知らないで見ていて、途中で気がついた。
「ありゃ、『蜘蛛女のキス』のゲイが将軍に!」
ウィリアム・ハートといえばやはり『蜘蛛女のキス』が印象的。

高額にして有名な役者たちも、こういう「漫画原作娯楽バカ映画」のバカさ加減を健康的に楽しんでいるように見受けられる。
キャストもスタッフも原作に対するリスペクトがきちんとあるのだろう。そこが重要に思われる。
日本の漫画原作映画にはそういう敬意みたいなものが感じられない。
たとえば漫画界の巨人が残したせっかくの某傑作なんて無惨きわまりない姿になっていた。
もう30秒も見ないうちに「……ぶるる(寒)」ってなもんだった。

5月の雑食では何といっても、

舞台版『千年女優』(愛知公演)

が印象的だが、これについては十分記した。

先月はこんな本を読んでいた。

『声に出して笑える日本語』立川談四楼/光文社知恵の森文庫
『死ぬかと思った2』林雄司編/アスペクト
『心の闇に魔物は棲むか』春日武彦/光文社知恵の森文庫
『人生問題集』春日武彦・穂村 弘/角川書店
『整形前夜』穂村 弘/講談社
『本当はちがうんだ日記』穂村 弘/集英社
『にょっ記』穂村 弘/文藝春秋
『短歌の友人』穂村 弘/河出書房新社
『もしもし、運命の人ですか。』穂村 弘/メディアファクトリー
『世界音痴』穂村 弘/小学館
『現実入門 ほんとにみんなこんなことを?』穂村 弘/光文社
『もうおうちへかえりましょう』穂村 弘/小学館
『パームサンデー 自伝的コラージュ』カート・ヴォネガット 飛田茂雄訳/ハヤカワ文庫
『あぁ、監督−名将、奇将、珍将』野村克也/角川oneテーマ21
『負けに不思議の負けなし』(上巻)野村克也/朝日文庫
『負けに不思議の負けなし』(下巻)野村克也/朝日文庫
『パソコンは猿仕事』小田嶋隆/小学館文庫
『世襲議員のからくり』上杉 隆/文春新書
『志ん生の右手 落語は物語を捨てられるか』矢野誠一/河出文庫

先月は『人生問題集』で初めて知った「穂村 弘」にすっかりはまっていた。
エッセイが面白い。
情けないほどに染み出てくる妄想と悲しいほど滑稽なエピソードが、豊かな知性と巧みな表現で語られる。
さすが歌人。言葉にハッとさせられる。
歌論『短歌の友人』も非常に興味深く読んだ。歌集も何冊か購入したので味わって読んでみよう。
著者と年齢がほぼ同じというせいもあってか(私は一つ下)、共感することが非常に多い。
バブル期にパッとしない二十代を過ごした者にとっては大きく頷くことが多いだろう。
著者が活き活きと描く「ダメさ加減」は半分近くは「自分のこと」のように思えてくる。
「そーそーそーそー(笑)」
とりわけ『整形前夜』には「やられた」。

野村克也も面白いのだった。ファンになりそう(笑)
野球を知らない人にはピンと来ない部分が多い内容かもしれないが、サラリーマン愛読の書といわれるのがよく分かる。
組織の難しさはいずこの世界も同じである。
ノムさんの本を「組織」や「上司」、「育成」の在り方といった点に感心しながら読むとは、私も立派なオジサンになった証拠だ。

書きたいことは色々あれど、機会を改める。

4月の雑食・その3

「エコポイント」開始だそうだ。
何のことはない、翻訳すれば「もっと金を使え、国民めら」ということだろう。
何に使えるのかもまだ決まってないポイント導入を前倒しするほどケーキカイフクが大事なのだろう。どうせ貯まったポイントなんか次の「もっと金を使え、国民めら」へとリレーされるに決まっている。
必要もないところに無理矢理需要を掘り起こす。
国民の精神総動員させて育てるバブルの夢よ再び。
「贅沢は素敵だ」
政府はいつから広告代理店になったのか。
もうずっと前から。

拾い読みの続き。

『多読術』松岡正剛
神戸出張の帰りの新神戸駅、車内で気楽に読める本をと思って探していたら平積みになっていた。ラッキー。
読書の達人の話はとても刺激になるのだが、とても実践には至らないどころか、端から真似ひとつできない気がしてくる。
得るところの大きな本で、たくさんのドッグイヤーになってしまったが、マクルーハンの仮説を紹介しているくだりが興味深い。
「人類の歴史は音読を忘れて黙読するようになってから、脳のなかに「無意識」を発生させてしまったのではないかというんです」
ははぁ……。
「言葉と意識はそれまでは身体的につながっていたのに、それが分かれた。それは黙読をするようになったからで、そのため言葉と身体のあいだのどこか、今日の用語でいう無意識のような「変な意識」が介在するになったというんです」
とても興味深い仮説ではないか。

新書の最後は、『大人のジョーク』
たまにジョーク集を読む。別にパーティで披露しようというわけではないが、落語の小話が面白いのと同じで「切れ」を楽しむ。
志ん生の小話で私が好きなのは「橋番」。「猫の皿」(東京落語会1960.11.24収録)の枕に使われいる。

昔はこの、どこの橋にも橋番というものがいて、その橋から間違いが起こると橋番の責任でございました……
「こういうように毎晩身投げがあっては困るではないか!ん!? その方がそこにいて分からんのか!」
「へ!どうもあいすいませんでございます」
って、上役に叱られてその晩こう見ているってえと、
一人パタパタって駆けだしてってね、欄干に捕まって飛び込もうとする奴を後ろから捕まえて、
「てめぇだろ!?毎晩ここから身を投げやがんのは!」

書き起こした文章で読んでもあまり面白くないかもしれないが、志ん生の間とリズムで聞くと実に可笑しいのである。
ちなみに、このネタは江戸時代に書かれたいわばジョーク集が出典という。
これまで面白いと思ったジョークも、そのほとんどは覚えていないがこんなのは印象に残っている。確か日本の古いジョークだったか。
メイドが言う。
「旦那様、旦那様、起きてください!睡眠薬を飲むお時間です!」
こういうトンマ、思い当たる人も多かろう。
『大人のジョーク』という割には、大人が楽しめるものは見あたらなかったが、あまりに下らなくて気に入ったものが一つ。
アメリカ、オバマ大統領がまだ候補として選挙戦を戦っていた頃に出来たものだろう。
ある男が「デリヘルを呼んだら、すっげえブスの上、年増のババァだったから“チェンジ!”って、いうつもりが、“イエス!ウィ!キャン!”って言ってしまったんだ」
たはは。
こういう本は、何も考えずマッサージ機に揉まれながら読むのにちょうどいいのである。

新書ではないが、次もそうしたマッサージ本。
『新版 アメリカ横断TVガイド』町山智浩
志ん生にはまってから、とんとポッドキャストの方とは疎遠になってしてまっているが、町山智浩さんの著者はいつも楽しみにしている。
復刊されたものだからネタは古いが、取り上げる題材もその切り口も楽しい一冊。
先月から始まったMXテレビ『松嶋×町山 未公開映画を観るテレビ』も楽しみにしている……のだが、これまで2、3回見逃してしまった。ち。
とても面白い番組だが、あの下品な色が氾濫するセットは何とかならんのだろうか。

『そこは自分で考えてくれ』池田清彦
池田先生のエッセイはとっても面白い。
この本は、まずタイトルがいいではないか。
「そこは自分で考えてくれ」
そう言いたくなる人たちがとっても多いことだよ。
こういう場合の方が多いようには思うが。
「そのくらい自分で考えてくれ」
いや、こうかな。
「少しは自分で考えてくれ」
「温暖化より危ないこと」と題された稿の結びが秀逸だ。
ここだけ引用すると文意が正しく伝わらないかもしれないが、こういうことをきちんと書く人は貴重だろう。
「だから世界はCO2を減らす方法を考えるより、人口を減らす方法考えるべきだと私は思う」
私もそう思う。

『世の中にひとこと』池内 紀
たしか毎日新聞の書評で紹介されていて、興味を持った。
いまではすっかり少なくなったといわれる「大人」の、世間への距離感に気持ちよくなるエッセイ。
「ユーフェミズム(euphemism)」という言葉を初めて知った。
「「遠回しの言い方」で事実をごまかすこと。政府や権力側が使う常套手段であって、大衆操作の道具とされている」
例としてあげられているのは、戦時中の「逃げ出すこと→転進」「敗戦→終戦」「占領軍→進駐軍」。高利貸しをローンだのファイナンスというのも同じ。
ローンなんて昔は「月賦」といったのに。引きこもりだのニートはその昔「穀潰し」と言われていた。
まったくもって「言葉を換えると、事実があいまいになる。現実が見えなくなる」ものではないか。
政治家も官僚も広告屋も何を言ってるのかさっぱり分からないのは、まさにこれだ。インチキな奴の言葉にはカタカナや本人も漢字を書けない熟語なんかが多いことだよ。
「ヒネルトジャー」という稿では(ヒネルトジャーという言葉も懐かしいが)、江藤文夫さんという方のたいへん印象的な話が紹介されていた。私は名前すら知らなかったが、映像論・コミュニケーション論で著名な方だそうで、2005年に亡くなられたとか。
「日本のテレヴィジョンは戦争(第二次大戦)を体験していない」
ドキッとする。
言われれば、当たり前の、ことなのに、ちっとも思いも、しなかった。
著者はこう続ける。
「映画というメディアは戦前・戦中・戦後の時代認識をもち、その中で映像がつくられてきた。
テレビはまさにその一点を欠いている。歴史認識とは遠いところで、とめどなく肥大したメディアである。そのことの意味の大きさを、たえず思い出していなくてはなるまい」
「国民投票」の稿で紹介されるヒトラーの言葉も興味深い。
「国民の英知をあてにするものは大衆をつかまえそこなう」
なるほどねぇ……国民を馬鹿にしてる連中の方が金持ってるもんなぁ。
「おみこしかつぎ」では周作人『日本文化を語る』からこんな引用がされている。
「日本の国民性は宗教的であって、その行動はしばしば感情が理性を越え、風狂に近くなることを、私はかつて指摘しました」
近頃の豚インフルエンザや環境・エコ問題を巡る狂騒ぶりはまことに「風狂」というに相応しいのかもしれない。

4月の雑食・その2

拾い読みの続き。

『経済成長という病』平川克美
経済にはとんと関心がないが、経済を通した倫理や哲学、普遍に通じる物の見方を示してくれる平川克美さんの本は大変示唆に富んでおり、著書が出るのを楽しみにしている。
自分の頭で考える、ということについてたとえばこのような端的な例を示してくれる。
「「考える」ことに要請されているのは、たとえば奇術の種を明かすことではなく、なぜ人は奇術にやすやすと騙されてしまうのかと問うことだと思う」
リーチの長い考え方である。
専門家の陥る罠にたいしてはこんな指摘を。
「経済の専門家は、時の経済の枠組みが作った言葉で考え、その枠組みの価値観で判断している」
なるほどその通りだなぁ。
使う言葉が思考を規定するという最たるケースだ。
「プロ=専門家というものがしばしば陥るピットフォールは、素人が知らない裏事情に通じているといったことや、一次資料や現場にあたってきたという経験の蓄積は、事実を説明するためには有効であるが、状況の判断や、将来に対する推論に対しては、素人に卓越しているということをなんら意味していないということに対する自覚の欠如である」
耳が痛い。
「自覚の欠如」が結局は「分かったつもりの思考停止」につながるのであろう。
マンガ畑からアニメーションの業界に移ってきた当初は、業界人には見えにくい問題がとても見えやすかったが、すっかりアニメ業界人として定着してしまった現在、慣れゆえに単純な問題さえ見なくなっていたり、習慣化した不合理を疑えなくなったりしているであろう。
勉強します。
この本は「ドッグイヤー」がいっぱいだ。
「どのような集団のメンバーであろうと、わかりやすい人間であることが要求される」「とにかく、ひとことで説明できるような役割を与えられる」
わっはっは、まったくまったく。
「どうしてか。そうでないと、人物判断の処方箋が書けないからである。評価ができない」
おーおー、どっかの「木っ端役人」のことみたいだ。
そして、こうした標準化を憂えて著者はこう断言する。
「「わけのわからなさ」には意味がある」
かっこいい。
「ひとりひとりが、分割されて、お互いに交通することをしなくなることを称して「多様化の時代」と言うなら、それは人間の本質的な多様性というものの価値を断念した時代という他はない」
教育の問題に対しても、「教育の現場にビジネスの等価交換的な価値観を導入」することで「等価交換的な価値観でしかものを考えることのできない生徒を大量に再生産」する指摘する。
とりわけ教育の恐ろしさをこう記しており深く身体的に納得してしまう。
「先生が生徒に授ける知識と同時に、その授け方、方法、プロセスのすべてがそのまま生徒に授けられてしまうということである」
うう、教育現場の末席に連なるものとして耳が痛いと同時に、自分に刷り込まれた授け方をせめて検証しなくてはという気になる。
教えている内容に問題がなければ教えているものがニセモノでも支障はない、うちには問題なかったと判断するような某美大の木っ端役人に聞かせたいが、どうせ聞く耳を持たないのだろう。
それが木っ端役人だもの。

『一神教の誕生』加藤 隆
時折宗教に関する本を読みたくなる。
別に特定の宗教に帰依したい気持ちがあるわけでなく、ましてや救いを求めているとかいうわけでは全然ない。
単純に宗教の成り立ちや背景、哲学的な面に対する興味であろう。
この本を購入する際、同時に『入門 哲学としての仏教』という新書を合わせて選んでいるが、こちらはまだ読みかけ。
印象に残ったのはユダヤ教における「律法主義での「罪人」の登場」というくだり。ちょっと自分の仕事のことが重なって思い起こされドキッとした。
ユダヤ教の聖典「律法」というのは敢えて完全なる理解が及ばないように書かれた書物だそうだ。しかし「完璧な律法理解に到達することはあり得ないかもしれない」ものの、「不十分な律法理解のあり方は、どれも同じように不適切なのではなく、その間に優劣があるのである。そうでなくてはより良い律法理解の努力をする意味がなくなってしまう」ことになる。
完璧な描画や作画能力はありえないが、そこを目指そうと努力し続けることを正しいと前提してしまうあり方がついつい重なってきてしまうのは職業病か(笑)
「律法主義が支配的になることによって、社会の中が、より良い律法理解の絶えざる競争の場になってしまうのである」
そりゃあ、そういうことになるし、より良い作画や背景、広く映画やアニメーションを求めてやまないという、ある意味「正しい」態度も同じ現象を引き起こすことになる。
「このような状況では、より良い律法理解に達した者の方が、そうでない者よりも優れている」
より良い作画に達した者の方が、そうでない者より優れているとされる価値観は業界標準である。
このことによって当然、人々の間に価値的序列が生じる。
「律法の理解というには程遠い者、律法を守っていないとはっきり言えるような者は、宗教社会的にはっきりと否定的に位置づけられるという現象が生じてくる」
宗教社会じゃなくても、努力を続けない者は否定的に見られるもので、当業界でもお馴染みである。最近は違うみたいだけど。
「律法の理解や実践に限らず、何らかの活動や行動に本質的な宗教的価値があるとする場合に、こうした社会的宗教的差別の問題は避けがたく生じてくる」
「一定の活動や行動に本質的な価値があるならば、その活動や行動に積極的にコミットしない者には本質的に価値がないということにならざるを得ないからである」
さらに、「熱心にコミットするあり方は「敬虔」と呼ばれるのが一般的である。宗教的な敬虔は、宗教的差別の原因となる」
仕事に熱心な人間が、そうでない者を非難や差別の対象にすることもまたお馴染みであろう。
「ファリサイ派的な律法主義において生じた敬虔な態度によって」引き起こされた宗教的な差別は、その差別の対象とされた者を一括して、一般的にはこう呼ぶのだそうだ。
「罪人」
そりゃ重いや。