4月の雑食・その1

近頃とんと映画を見ていない。映画館では勿論、DVDでも全然見ていない。
先月はわずかに一本。

『鳥』アルフレッド・ヒッチコック監督

多分3度目くらいだが、DVDで見るのは初めて。画質が心地よい。
いつ見てもついハラハラしてしまうが、やはりサスペンスを「一目で分かる」ように見せる画面作りやカット割りによるものだろう。
昔の映画を見ていると安心できる。立派な年寄りの証拠かもしれないが、しかし近頃の映画はどうも何のためのカットなのか、何を見せるカットなのかよく分からないまま、慌ただしく次へと繋がってしまい、「編集の文体」が読み取れず、見ていて気持ち悪くなることが多い。
スピーディというより誤魔化し、ムードというより曖昧にしか見えない。
一枚の絵としての画面を作る労力やイメージ力が退化しているのかもしれない。
そう思うということが老化なのだろうけど。
いいや、別にそれでも。
観るべきものはすでにいくらでもあるんだから。わざわざ不愉快なものに時間を使って不快な思いをする必要もない。

読書は相変わらず読みやすいものばかり。
私は雑誌を読む習慣を持たないので、雑誌替わりに本を、特に近頃ブームの「新書」を買っているようなものだろう。
近頃、電車の中で雑誌を読む人の姿をとんと見かけなくなった気がする。携帯とゲームの画面を見つめる人が圧倒的多数だ。
以前は、もう少し「文春」「新潮」「週刊現代」「週刊ポスト」といったサラリーマン御用達雑誌を開いている人がいたような気がするのだが。
そうした雑誌の使命、というか役割はもう終わりを迎えているということなのだろう。そこで減った読者が新書ブームを支えているような気がする。
最近出版される新書の多様さは雑誌の誌面を分割したような趣だ。

私も世間に倣って新書率が高く、先月読んだ15冊のうち新書が9冊。

『暴走する「偽」環境ビジネス』武田邦彦/ベスト新書
『すし屋の常識・非常識』重金敦之/朝日新書
『「蕎麦、そば、ソバ」の楽しき人生』永山寛康/小学館101新書
『手塚先生、締め切り過ぎてます!』福元一義/集英社新書
『黒澤明から聞いたこと』川村蘭太/新潮新書
『経済成長という病』平川克美/講談社現代新書
『一神教の誕生』加藤 隆/講談社現代新書
『多読術』松岡正剛/ちくまプリマー新書
『大人のジョーク』馬場 実/文春新書

順に「環境問題」「食べ物」「漫画」「映画」「経済」「宗教問題」「書籍」「お笑い」。
雑誌の目次みたいじゃないか。

新書以外はこんな。

『ニッポンを解剖する−養老孟司対談集』養老孟司/講談社
『見える日本、見えない日本−養老孟司対談集』養老孟司/清流出版
『話せばわかる!−養老孟司対談集/身体がものをいう』養老孟司/清流出版
『そこは自分で考えてくれ』池田清彦/角川学芸出版
『世の中にひとこと』池内 紀/NTT出版
『新版 アメリカ横断TVガイド』町山智浩/洋泉社

対談集が多い。
「日本人は特に対談を読むのが好き」と聞いたことがあるが、単に読みやすいだけというわけもない気もする。
昔から「読み書きそろばん」というように、話し言葉よりも書き言葉に力点が置かれてきたせいか、日本語はいまだにその傾向にあって、話し言葉の脆弱さはテレビで見る通り。政治家の言葉はさながら意味不明の呪文である。
対談が好まれるのはコンテンツもさることながら、他人がどんな言葉で話しているのかそのものに興味があるのではないかと思われる。
色々な専門分野の人が登場する対談集は、それぞれ深い内容の話には至らないものの、だからこそカタログ的に楽しめる。
基本的には対談のホストに対する興味があるので読むが、読書範囲を広げるにも重宝する。ゲストのうち、興味を持った人の著書を探す。便利なポータルサイトみたいなものか。

新書の中から印象に残った箇所を記す。

『暴走する「偽」環境ビジネス』
同工異曲の本は多く出版されているし、私もすでに何冊か読んでいるが、この著者のような意見はほとんどテレビなどで紹介されないのであろう。
156ページからの一問一答には腹を抱えて笑ってしまった。
ペットボトルリサイクルには余分な石油と税金が投入されているというインチキな裏舞台を紹介した後、このように続く。
問い「それでは日本人はなぜペットボトルのリサイクルをしているのですか?」
答え「お役所の天下りと、定年で退職した人の仕事を作るためです」
問い「そんなことで、国民の皆さんが分別したり、リサイクルに出したりしているのですか?」
答え「ええ」
問い「そんな不合理なことをするなんて理解できませんが」
答え「リサイクルをしないと村八分に遭うので」
わっはっは。何て鋭い捉え方だろう。
エコにあらずば人にあらず。なるほど村八分。
リサイクルと村八分。奇妙な対比が現代の日本を良く象徴している気もする。

『すし屋の常識・非常識』
『「蕎麦、そば、ソバ」の楽しき人生』
何で「すし」に関する本を手に取ったかよく分からないが、どこかの書評で紹介されていたのであろう。食べ物に関する蘊蓄を傾けようなんてことは思わないが、飯時の無難な話題として便利ではある。一冊だけでは何だか変な気もして目についた「蕎麦」の本と合わせて購入した。別に蕎麦を打ちたいといった野望があるわけでもないのだが。
「すし」と「蕎麦」という伝統的日本料理を選んだのは、きっと落語の影響であろう。
何故寿司が「弥助」と言われるのかと思っていたが、浄瑠璃『義経千本桜』に由来していたことを知った。すし屋の湯飲みが何故あれほど大きいのかもよく分かった。物事にはなんでも起源や由来があるものだ。
興味深かったのは「終戦直後の委託加工制度」。全然知らなかった。
要するに配給米を寿司に加工してもらう制度で、昭和二十二年四月に発足したとのこと。
「米一合をすし屋へ持っていって、一人前(十個)の握りずしに加工してもらう。もちろん、加工賃(たねの代金)は払わなければならない。米一合の握りずしが一人前。ここで、十個(貫)が「一人前」という数量が確定した。」
「へぇ……」って思う人も少なくないのではないか。
この加工制度は東京の握りずしだけに許可されたそうで、以後「各県も東京に倣え」となるわけで、それがために「各地の郷土ずしや上方の押しずしを押しのけて、日本中どこへ行っても「江戸前」が幅を利かすようになった」のだそうだ。すしのグローバルスタンダードというわけだ。
あ。結局蘊蓄紹介になっている。
ついでに蕎麦の蘊蓄も一つ。
月見蕎麦というのはただ玉子を落とすだけのものかと思っていたら、元はずっと粋なものだと知った。
「中秋の名月にちなんで、黄身が月、白身は雲、玉子をのせた海苔を黒板塀、青みを松に見立てて「月にむら雲、黒板塀に見越しの松」」ということになるそうだ。
こういう見立てを好む日本人のセンスはとっても好ましい。

『手塚先生、締め切り過ぎてます!』
『黒澤明から聞いたこと』
新書コーナーをぼんやり眺めていたら、手塚治虫と黒澤明という名前が目に入ったので一緒に買ってみた。
黒澤明の言葉が印象に残る。
『影武者』撮影中のこと。
「人の台詞を聞く表情は大切なんだよ。自分が喋るときより大事なんだ。気を抜くなよ」
はい。心して描きます。
台詞を口にするキャラクターのカットばかりで、聞いている側を捉えないおかしなコンテでアニメをつくっている人に聞かせたい言葉である。
黒澤監督の師匠、山本嘉次郎の台詞としてこんなことも。
「助監督の頃に師匠の山カジ(山本嘉次郎)さんがよくいっていたんだよ。不味いものの味は、美味しいものを食べてないとわからない。美味しいものを食べればよく分かるものだってね」
仕事も同じだ。三流の仕事しかしていないやつはいつまで経っても三流以下のことしか分からないもんだ。
「合成技術とか特殊撮影はね、チマチマ知ったかぶって、ああだのこうだのといわないことだよ。俺たちが技術的なことを口にしては駄目だ。イメージを伝えればいいんだ。そして仕上がったものが自分のイメージと違えば突っ返せばいいだけだよ」
言ってみたいもんだ。
そしてこう続く。
「技術者はそのイメージがあってもできないんだよ。また持てない。だからイメージを与えてやれば彼らは頑張るんだ。そのイメージが難しければ難しいほど、彼らは頑張るものなんだ。それができない技術者は三流だよ。三流の監督ほど技術を知ったかぶるものなんだ。監督が技術を知ったら、そのイメージはどんどん貧弱になってしまう。知れば知るほど貧弱になる」
ああ、言ってみたい。
貧乏性の私にはとても真似できない。
黒澤監督が文化勲章を受章する際、天皇陛下登場のくだりの描写がいい。
「部屋で受賞者が待っているだろう。暫くすると、向こうの方からキュキュキュと革靴の音が聞こえて来るんだよ。その音を聞いて、全員が少し緊張するよな。来るな、てなもんだよ。期待感を持たせるよね。その革靴の音がさ。障子の前でピタリと止まるんだ。と、その瞬間、サッと障子が開く。天皇陛下の登場だよ。そのキュキュという革靴の近づく音と、陛下が止まって、サッと開く間合いが実に合っているんだ。あれはすごい演出だよ」
まるでコンテを読んでいるみたいだ。
映像的な描写力ってこういうことなんだよなぁ。

またぞろ長くなってきたので、続きはまた。

追記

「てんこ盛り」に書き忘れていた。
平沢さんのインタラクティブ・ライブ『点呼する惑星』に参加された方以外は分からないかもしれない話。
TAKE IT EASY!さんメンバー清水かおりさんは、「ハイムン人」でもあった。
「私も回しました」
トゥジャリットを?あるいは因果を?
けっこう『千年女優』的転回。

てんこ盛り

先週の神戸出張はてんこ盛りの2泊3日になってしまった。
別に予定が過密だったわけではなく、結果的にそうなっただけなのだが。
てんこ盛りを構成するその最初は、三宮市内のコンビニでダルビッシュを間近に目撃したことで、これは掲示板の方に記したとおりである。
総菜コーナーの前で仁王立ちして商品を見つめる196センチの長身は作り物のように立派であった。
翌日の対オリックス戦では三振を11を奪う見事な完封勝利だったようで、さすが日本のエース。

てんこ盛り第二弾はあまり見たくない「ショー」であった。
詳しいことは書けないが、かいつまんで言うとこんな話。
「浮気した亭主の仕事場に幼児を連れた女房が乗り込んで絶叫、罵倒し合う一幕」
いまどき安物のドラマだってこんなベタなことは描かないだろうが、現実というのは度々現実感がひどく希薄な光景が出来するものだ。
どうやら私はこの「ショー」において「観客」として招き入れられたようで、後から考えるとよしゃあいいのに「通行人A」まで演じてしまった次第。
間近にその夫婦の修羅場に立ち会いながら、三人目の重要な主役を無理矢理演じさせられている子供が気の毒でしかたがなかった。
同時に、この三文芝居を見ながらリアルタイムでこんなことも考えていた。
「ああ、こうやって親の業が子供に転写されるのだな」
この場合で言えば要するに「気に入らないことがあれば泣き叫んで相手を罵倒して良い」というコードが親から子に刷り込まれるということ。
おそらくは、安物のイラスト指南書にでも出ていそうなほど大きく顔をゆがめて絶叫を続ける女性も、その親から同じコードを転写されたに違いない。
それにしてもたとえどんな事情があるにせよ、自尊心というものはないのだろうか。そんな真似したら、何より自分で自分が情けなくなるだろうに。
嫌な「ショー」だ。
目撃したある人の言葉を借りれば、その感想はこんな感じ。
「気持ちがザラザラする」
サンドペーパーが必要だ。

てんこ盛り第三弾は、私が講師を勤める「アートカレッジ神戸」の校長と久しぶりに酒席を共にしたことで、飲みながら学校経営にまつわる話をあれこれ聞かせてもらった。
無論、その内容をここで紹介はしないが、ただでさえ少子化という現状で、さらには百年に一度などという枕詞で粉飾された不況のなかで専門学校の舵を取っていくことがいかに難しいのか、どなたも想像に難くあるまい。
まあ、積極的に愚痴を聞かせてもらったと言う方が伝わりやすいかもしれないが。
「専門学校の校長」と「アニメーション監督」、立場は違えど集団を代表するものであることには変わりなく、さらにどうしても社会に対して閉じがちになる「学校」という組織と、お客という社会に対する意識が希薄なアニメーション業界という点も似ている。校長も監督も、組織の内側だけでなく外側との接触が多い立場なので、抱えなければならない矛盾やジレンマなど共通点は多い。
校長が抱える問題を私などが理解できるわけもないが、しかし話の大半は聞いているうちに相手の話なのか自分の話なのかよく分からなくなるくらい近しい部分があって、まるで我がことのように聞ける興味深い愚痴……といっては失礼だから、悩みであった。解決しない問題を抱え続ける役目が責任者の別名でもあろう。
頑張ってください、校長。

愚痴なんてものは聞きたくはないが言いたいというのが常だが、愚痴だって面白く語ってくれれば聞いていて楽しいものである。
校長の愚痴は、内容はシリアス極まりないのだが、時にエンターテインメント性に裏打ちされていて大笑いできる。
「僕、髪の毛薄くなったやろ。これ労災や思うよ」
ぎゃはは。認められない労災。他人事じゃないけど。
私の場合は、監督した映像の尺だけ減るさまを「まるで鶴の恩返し」と形容していたが、「労災」のインパクトには遠く及ばない。勉強させていただきます。
さて、この「管理職の愚痴」というありがちな話題が、またロケーションに実にマッチしていた。というか、その話題のためにセレクトされたロケーションだったのだが。
その店には、中年サラリーマン男性「しか」いないのであった。
座敷はすべて、上着を脱ぎ、Yシャツにネクタイ姿の中年男性ばかりで、どっかの会社の宴会場みたいな光景であった。無論、それぞれ2、3人のグループは無関係の人たちだ。
薄くなった頭が皆、酒で赤くなって咲き乱れる花畑みたいだ。嫌だなそれ。私もその一輪になるのだが。
座敷に通されながらこう思った。
「ここは昭和か?」
素直な感想を伝えると、校長はこう仰る。
「そやろ。ここなら思う存分愚痴が言えるわ(笑)」
まったくまったく(笑)
座敷を埋めるYシャツとネクタイが、おそらくはこちらの話題と似たり寄ったりの会話をしているに違いなかった。
頑張れ、中年男子。

酒の肴は刺身の盛り合わせ、天ぷらの盛り合わせ。そして何より愉快な愚痴でお腹を一杯にして2時間ほどで店を出て帰路につく。
「ザラザラした心情」だったところに、我がことのような問題について考えを巡らせてしまったことになる。
本来はサンドペーパーが必要だったところに、タールを流したみたいな何だかよく分からない有様になってしまった。ザラッとどろどろしている。
このままホテルに引き上げたら悪夢を見るに違いない。
洗浄剤とサンドペーパーが必要になってしまった。
こういうときにはアホな話題が有効だ。そう思って、アホな話題を提供してくれる知人に救難信号を発信したのだが、生憎仕事で忙しいとのこと。
残念だ。
悪夢を覚悟してホテルに向かって歩き始めて、ふと思い立ってある人に電話をしてみた。
さて、ここから先は、視点を変えて一度こちらを御覧いただきたい。

http://d.hatena.ne.jp/mizugucchi/
2009-04-24
「[舞台版「千年女優」への道]黒田武志さんのフライヤー展。そして今監督。」

救いはあるものだ。
願えば通じることもあるのだから、世の中そう悪いことばかりではない。
たとえば、見かけるたびに腹立たしいと思っていたインチキ「地デジ」の恫喝CMに対して、「消えてなくなれ」と家の茶の間で幾度も口にしていたら本当に消えてなくなった、とかね。ま、少しの間だろうけど。
「容疑者」には何の恨みも嫌悪もないが、地デジとそれを取り巻く状況を見ていると、TV買い換えの押し売りにしか見えないのだから、笑顔で他人を不安に追い込むそのトレードマークである以上、偏屈な一視聴者に「消えてなくなれ」と思われることだってあろう。
たかだか酒飲んで裸になって喚いただけで家宅捜索だとか、あまりに大騒ぎしすぎだが、浮かれた大学生じゃあるまいし人前に出ることで大金が動く仕事なんだから応分の責任というエコーが返ってくるのは仕方ない。
一説によると「容疑者」の開けた穴は「一千億円」だとか。
すごいな。
きっと、その日飲んだ酒のうち「限度を超すことになった一杯」というのがあるはずだ。それを飲まなければパンツは脱がなかったはずの一杯。
その値段が一千億。さぞや美味かったであろう。
それにしてもどうして今回は「容疑者」で「メンバー」じゃないんだ?

はるかにスケールの小さい酔っぱらいの話に戻る。
三宮の駅でTAKE IT EASY!プロデューサー水口さん、女優の清水さんと待ち合わせて飲み屋に移動。店内片隅のボックス席に収まってしばらくしたところで演出の末満健一氏も合流していただく。
何てラッキーなんだ。
精神に必要だった洗浄剤とサンドペーパーどころか、高級な研磨剤まで用意してもらった気分だ。
精神だけでなく物理的にも喉の洗浄を欲していたので、ドライなスパークリングワインをボトルで頼んで乾杯。
お久しぶりに顔を合わせたばかりだというのに、舞台版『千年女優』の話より先に、まずは「洗浄」にかかる。
「今日、たいへんなものを見たですよ!」
話を聞いてもらっているうちに、黒々とまとわりついていたタール(「ストレスボンド」といえる)が洗い流され、ザラザラになっていた精神の表面が複数のサンドペーパーで修復され、仕上げに研磨剤で磨き上げられる。
私個人にとってはそんな飲みの席だった。
あ。これじゃまるで構図があれと一緒だ。
「お話を聞いてもらっているうちに……あの頃の私が甦ってきたみたいだった」
やはり強い磁場を持っているのだろうか、『千年女優』ってタイトル。
どうもありがとうございました、TAKE IT EASY!さん、末満さん。
松村さん降板の件はたいへん残念ですが、苦難を乗り越えて走ってこそ千代子ですからね。新たに千代子の一翼を担う立花明依さんの活躍も期待しています。
残念なことと楽しみなこと、両者を同時に携えつつ楽しみにしています、愛知版『千年女優』。

最後に。
この楽しい飲み会で、一つだけ気になる「不穏な情報」が。
舞台版『千年女優』が上演されるイベント、演劇博覧会「カラフル3」が全体として告知や宣伝が足りないのか、チケット売り上げが「寂しい状態」にあるそうです。現状、かなり寂しい……らしい。

演劇博覧会という性格上一時間の短縮バージョンでの上演とはいえ、原作者が三日分のチケットを用意するくらいだから舞台版『千年女優』愛知バージョンも面白いに違いないのです。
5月2日(土)〜4日(月・祝)の三日間、愛知県長久手町までアクセス可能な方は是非、TAKE IT EASY!× 末満健一「千年女優」に足をお運びください。
公演の詳細は以下のページで。
http://www.tekuiji.com/1000.html

至福の三日

4/16〜18、平沢さんの第10回に当たるインタラクティブライブ「点呼する惑星」を楽しませてもらった。
荻窪の机の上には仕事が山積しているにもかかわらず、今回は「初心」に戻って三日とも新小岩に日参。
「初心」というのは、平沢さんとお仕事で関わらせてもらう以前、平沢ソロ、P-modelともに東京でのライブには日参していた時期の心持ちを指している。
『千年女優』以後も時間の調整がつく限り、近場のライブにはすべて足を運ぶようにしている。仕事の関係もあり、現在ではありがたいことにケイオスさんからご招待という形で会場に入れてもらえるようになった。
ありがとうございます、ケイオスユニオンさま。
ご招待で入場させてもらっているのに三日もお邪魔するのは申し訳なくもあるし、何より他の平沢ファンの方々はお足を払い、チケットを取る苦労だって少なくないことを思うとも申し訳なく思う。
どうもすいません。

なぜ今回「初心」なんてことを思ったのかというと、その背景には自分にも分からない無意識が活発に働いているのであろうが、新作の制作ととてもものすごくたいへん深い関係があることだけは容易に想像がつくので、映画制作のためにも三日間コンプリートにこだわってみた。
それに、妙な話だが今回のインタラクティブライブは見る前から「傑作だ」ということを「知っていた」。
別に事前情報があったわけではない。ただの予感や期待といえばそれまでだが、それよりも強い既視感みたいなものかもしれない。
まあ、アルバム『点呼する惑星』がとても充実度が高かったからそう思っただけなのかもしれないが、しかしニューアルバムが出る度に期待はずれだったことはないし、どのアルバムだって私には傑作であり、いつだって私には素晴らしい音楽であることには変わりない。インタラクティブ、ノンインタラクティブ問わずライブにしても同じようにいつでも楽しませてもらっている。
マイクの調子が悪かったこともあれば、トラブルでMCが長くなったこともあるし、マシントラブルなどは「余興」でさえあるが、そこでどう関わるのか、そのヒラサワの態度も含めていいのだから、語弊はあるが「ヒラサワならいい」のである。
「志ん生が好き」も同じ構図だ。あまり出来が良くないといわれるテイクだって、志ん生の落語なら聞きたいし好きなのである。
そういうものが「世に二つ」もあるなんてかなり幸福だ。

今回のインタラクティブライブ「点呼する惑星」はいつにも増して、やはり傑作だったと思う。三日通わせてもらったのもやはり大正解であった。
三日目にしてようやく「成功ルート」も達成され、そのとぼけたエンディングにたいへん満足させてもらった。「達人」に感謝する。
一応「成功」とされるエンディングは勿論だが、初日二日目の一応「不成功」とされるエンディングもたいへん納得の行くというか、いいエンディングだと思った。
二日目の時点では、奇妙な物体「トゥジャリット」が完全に壊れるエンディングは用意されていないのではないかと思ったくらいだ。楽屋にご挨拶に伺ったときについ御本人に聞いてしまったが。
「一応「成功」とされるエンディングはあるんです」
意外だった。
しかし、続けてこう仰る。
「まぁ、いいのか悪いのかよく分からない終わり方なんですけど」」
納得した(笑)
実際、最終日のトゥジャリット崩壊の達成感とその「内容物」が現れるシーンにはクライマックスとしての大きな充実度があった。
エンディングムービーにも『不思議惑星キン・ザ・ザ』テイストがあって、思わずにっこりしてしまった。
また、初日二日目も見ていたからこそ一応成功とされるエンディングを見られた達成感はいっそう大きかったわけで、これぞ日参の醍醐味。

終演後、平沢ライブではお馴染みとなったメンバーで飲み会があり、最終日は新小岩で一次会、新宿まで移動しての二次会で久しぶりに朝方まで酒を飲んだ。朝まで飲むのはしんどい歳になってきたが、とても楽しい宴会だった。
その宴席でFOOさんも「今回のインタラはベスト3に入る」と言っておられたが、私も同感。
FOOさんのブログはこちら。 http://kissa-p.at.webry.info/
個人的には『Sim City』のインタラクティブライブと同じくらい強く印象に残った。
とにかく色々な面でバランスのいい「ショー」だったように思える。
ライブスタッフとして参加している友人宛に、初日を見た感想をメールで送ったのだが、こんなことを書いていた。
「ストーリーのひねり具合とひねり過ぎないバランス、映像のクオリティ始め諸々の達成具合と改善の余地まで含め、それらのバランスが良くてショーとしての充実度が高かった印象」
多少複雑な設定もストーリーと仕掛けのシンプルさが緩和しているし、映像とストーリーが占める割合と音楽の配分も良かったのではないかと思われる。
ストーリーの演出としても「一旦失敗」から「一転成功」という具合に、大きな波が来るのはたいへんオーソドックスとはいえやはり心地いいものである。
逆のパターンが二日目で「一旦成功」から「一転失敗」というガッカリ具合も意外性があって良かったが。
きっと平沢さん御本人としては、ストーリー的な面でもっとあれこれ提示したかったこともあるのではないかと思われるが、作者的には物足りないくらいが見ている方にはちょうどいいことも多い。
勉強いたします。
CGも、登場する物のデザインも、とてもはまっていて良かった。作り手側としてはやれることもやりたいことももっとたくさんあるのだろうが、頃合いがいいというか、『点呼する惑星』に何か「ちょうどいい」という感触だった。
何より今回のライブは、タイランドからのゲスト効果が大きいのだろうが、平沢さん一人の時よりも過度な緊張感が緩和されるのか、「楽」な感じを受けるショーであった。
とっても正調エンターテインメント性を備えつつ、たいへんヒラサワ的な体験をさせてもらった。

今回のライブで唯一少々しんどかったのは会場の場所であろうか。無論、単にこちらが普段活動している場所が遠いせいなのだが。
新小岩は思った程遠くはなかったが、山手線を挟んだ反対側から三日続けて通うにはやっぱり遠いのであった。
ホールとしては全然悪くなかったのだが、たいへん気になったのはホールロビーの一角に設えられた喫煙所、そこの「注意書き」であった。

edogawaku.jpg

わざわざこんな注意書きを貼らないと「吐き出し」する人間がいるのか、江戸川区って。

先月の雑食

アニソン話が途中だが、別の話題。
新年度に入って世間は浮ついている様子。電車や街中におよそスーツに着られているようにしか見えない新人たちの姿が目立ち、終電には新人歓迎会などでメートルが上がった人たちに溢れている。いまどき言わないのか、メートルが上がるなんて。要は酔客だ。
車内にはふわふわと浮かれた空気が漂っている。
来月はきっと揺れ返しが来るのであろう。5月病という名の。
ま、浮かれられるときには浮かれておくのも悪くないかもしれない。

昨日から武蔵野美術大学・映像学科でのゼミも始まった。
学内の空気もやはりふわふわしている様子。
うちのゼミ生は8人。
事前に名簿をもらっていなかったので、学生の顔を見渡してびっくりした。
「え?男子は一人なの!?」
可愛い娘さんたちばかりである。
こちらまでふわふわしそうじゃないか。

マッドハウスでも新人たちの姿を見かけるようになった。先月の暮れ、会社の花見で新人の顔見せがあったが、毎年思うのはこんなこと。
「この人たちは来年の花見の時にも会社にいるのだろうか」
意地悪でそう思ったり口にしたりするのではない。せっかく顔と名前を覚えたり、多少仕事にまつわる何かを教えとしても、こんな事態になるのである。
「監督……あのぉ……私、今月いっぱいで……」
これまで幾たびもあった光景だ。
もっとも、近頃は不況のせいもあってなのか、辞める率は下がっているようだ。
せいぜいがんばって欲しい。
あ、この「せいぜい」は政権を投げ出した前首相がオリンピック選手に向かって放って問題になったとされる意味での「せいぜい」と一緒にしないでもらいたい。
「精々」には、高をくくったような意味もあるが、「力の及ぶ限り。精一杯。」(広辞苑)という意味もある。私も最近知ったばかりなのだが。

「頑張って」「頑張ってください」とよく言われるし、つい自分でも口にしてしまうが、言われるまでもなく当人は頑張るものではあろう。
新人にも「頑張ってね」と言いたいが、しかし本当に問題なのはその「頑張り方」なのであって、右も左も分からない新人には「何をどう頑張ればいいのか」もよく分からないはずである。闇雲に頑張るというのは古くさい青春ドラマのようで、勢いはいいかもしれないが息が切れるのも早いものだ。
せっかく頑張るのだから、頑張るべき要点を考えた方いい。義務教育はみんな受けているんだからね。
ま、ニュースを見ていると日本の義務教育なんてちっとも当てにならないみたいだけれど。
振り込め詐欺に騙され、マスコミのインチキに踊らされ、さらには国のデタラメに尻尾を振って喜ぶ人が溢れいている。
そりゃあ、賑やかになるだろうさ、エコ踊りも。

枕ばかりが長くなりそうなのでこの辺で切り上げて。
先月3月中に「摂取」した脳のための食物を記録しておく。要するに読んだ本や見た映画などである。
先月、映画はDVDで2本見たきりである。

『デルス・ウザーラ』黒澤 明
『座頭市と用心棒』岡本喜八

2月に読んだ『黒澤 明−封印された十年』で、『デルス・ウザーラ』撮影当時のエピソードが多数紹介されていて、すぐに見たくなった。いつ見るか分からなくても、いつか見たくなりそうな、見返したくなりそうな映画はストックしておくと、こういうときに役立ってくれる。
何より風景が素晴らしい。静かで力強い。ドラマ性は抑えられその分風景が雄弁に語っている。
Wikipediaを見たら、こんな記述があった。
「2008年東京国際映画祭エコ部門受賞」
ひどい冗談だ。

『座頭市と用心棒』はいかにも当時の「企画物」という感じだが、勝新太郎と三船敏郎の共演、監督は岡本喜八ということで以前から見たかった。店頭で見かけたことがなかったので、アマゾンで注文。
見たら、タイトルの「まんま」だった。
黒澤監督の『用心棒』に『座頭市』を混ぜてみた、というシナリオである。
シナリオとして考えると三船か勝新のどちらかが不要でしかないのは残念だが、まあ、そういう映画なんだから(笑)
ただ「スター」の存在感というのは改めて考えさせられる映画であった。
というのもこの映画、主演の二人をスター性のない役者が演じていたら、見るべきところはほぼなくなるのではないかと思われる。
ヒッチコックの『トパーズ』、DVDの特典映像で「もしこの映画の主役がケーリー・グラントなどスターが演じていたら……」というような発言があった。『トパーズ』は何の映画なのか、さっぱり分からない出来だったが、確かに主役を「いわば主役たるべき」役者が演じていたら随分違った印象になるだろうにな、と思った。
『座頭市と用心棒』はその逆で、これまでスター性ということに一切興味がなかったが、少しばかり考えさせられた。
「三船−用心棒」といえば最近、たまたまザッピングしていて、近年リメイクされた『椿三十郎』、それと『隠し砦の三悪人』を見かけた。びっくりもしなかったがこう思った。
ひどい冗談だ。

映画ではないが『モンティパイソン フライングサーカス』を引き続き見ていた。
近頃テレビに映る「お笑い」には興味が湧かないが、先月は個人的にはちょっとしたお笑いブーム。
講談社DVD・BOOK『志ん生復活!』全13巻が揃ったので仕事中に聞いていた。DVDとはいえ、志ん生の映像はごくわずかなので音源に静止画がオーバーラップするのがほとんど。それでも「巌流島」や「おかめ団子」、「鰍沢」など貴重な高座が見られるのは嬉しい。ま、わざわざ買わなくてもYouTubeで見られるけど。
中崎タツヤの持っていない単行本もネットで注文して入手した。

『問題サラリーMAN』4巻
中崎タツヤ作品集3『お勉強』

いずれも15、6年前のものだが、いいものはいつ読んでも面白い。
中崎タツヤ先生の漫画は我が家のバイブルである。

本も相変わらず志ん生関係が健在。

『志ん生の噺3 志ん生人情ばなし』古今亭志ん生(ちくま文庫)
『志ん生の噺4 志ん生長屋ばなし』古今亭志ん生(ちくま文庫)
文藝別冊「古今亭志ん生 落語の神様」(河出書房新社)

日本語は音で聞くだけでは判然としない点が少なくない「テレビ型言語」だという説を聞いたことがある。対して英語などは音声だけで十分に伝えられる「ラジオ型」。
日本語には同音異義語が多く、漢字を見たほうが認識が早いことが多々ある。たとえば英語でも同音異義語はあるが、混同しやすい文脈で使用されることは少ないのだとか。
日本語の場合、「水星」と「彗星」など混同しやすい文脈で使用されるケースが多い。
たとえば「偏在」と「遍在」なんて、まったく逆の意味なのに音が同じである。
昔から日本では「読み・書き・そろばん」というように、文章での伝達に重きが置かれているようで、目で見る言語という側面が大きい。だから日本において、絵と文のハイブリッドによる漫画というジャンルがこれだけ親しまれ広がったのであろう。
落語も本来は落語家の動作という視覚込みで味わう芸術だが、あいにく仕事中の相方としては音声のみが望ましい。志ん生の場合は映像がそもそもほとんど残っていない。
音声だけでは把握しかねる部分を、口演録を読んで補っている。
志ん生の落語で用いられる古い言葉などはそもそも知らないことも多いが、漢字を見れば想像もつくし調べようもある。
何より、口演録は寝る前に一、二本読むのにちょうどよい。

『著作権とは何か−文化と創造のゆくえ』福井健策(集英社新書)

仕事柄もあって、たまにはこういう「お勉強」もしてみる。
盗作にならないための条件としては大雑把にかいつまむとこういうことらしい。
「アイディアは借りてもいいが表現を借りてはいけない」
なるほど。
『ライオンキング』でも?

『がんばらない生き方』池田清彦(中経出版)
『池田清彦の「生物学」ハテナ講座』池田清彦(三五館)

池田先生のものの考え方にはたいへん勉強させられる。
巷に溢れるインチキを避けて歩くためのガイドブックにもなる。

『USAスポーツ狂騒曲 アメリカは今日もステロイドを打つ』町山智浩(集英社)
『続・世界の日本人ジョーク集』早坂 隆(中公新書ラクレ)

息抜きの笑いにうってつけだが、内容的には笑うに笑えないネタも多い。

『だから、一流。』菅原亜樹子(学研)

今 敏も取り上げられているのでそこだけは飛ばして読んだが、面白い内容だった。
F1ドライバー佐藤琢磨の話が印象的。不屈の人なのだなぁ。
現在残念ながらF1には出ていないが、再びドライバーシートが確保できることに期待したい。スポンサーがつかないと無理なのかしら。
そうそう。先日、通勤途中の電車内で見知らぬ女性から話しかけられた。
「今 敏監督ですか?」
この書籍の編集者だった。どうもこれは偶然。
彼女はこの本の営業活動の最中とのことだった。荻窪の駅で彼女が持っていたこの本にサインをしつつ、しばし立ち話。
今 敏のインタビューのテープ起こしたのは彼女だったそうで、こう仰る。
「ああ、テープと同じ声」
そりゃそうです。

『ヴォネガット、大いに語る』カート・ヴォネガット 飛田茂雄・訳(ハヤカワ文庫)

以前読みかけていたのに、中座していた本。
これで、ヴォネガットで読んでいないのは後1冊くらいか。ちょっと寂しい。

『学力と階層』苅谷剛彦(朝日新聞出版)

学生に教える仕事をしているせいというわけではなく、以前から教育の問題には興味がある。
年の離れた新人や仕事仲間の、仕事に対する関わり方を見ていると彼らになされてきた教育の在り方や育ってきた環境、刷り込まれてきた価値観が垣間見える。
その視点をぐっと引いて見ると、自分にどのような「加工」がなされてきたかが分かっても来る。
近年話題の格差社会とやらも勿論だが、格差が固定され「遺伝」するのもいいことじゃないわな。
そういうもんだ、と片方では思うものの、機会の平等なんて白々しい言葉を聞くとさすがに気分が悪くもなる。

『連塾 方法日本? 神仏たちの秘密 日本の面影の源流を解く』松岡正剛(春秋社)

これは実に面白かった。
松岡正剛先生の本は一昨年『17歳のための世界と日本の見方』で初めて知って以来、まだ数冊しか読んでいないが、これは特に興味深い内容だった。
こんな講義なら是非生で聞いてみたいものだ。続刊が楽しみなシリーズである。
「方法日本」という言葉が示すとおり、日本人の歴史的に培われた生理に合ったものの考え方を再発見できる……ような気がする。
知らぬうちにこれまで自分に刷り込まれてきた中にもたくさんの「方法日本」があるはずで、それを意識して仕事で実践してみたいものである。

筒井美馨個展

久しぶりのブログ更新ですが、今回は今 敏のことではないお知らせと宣伝です。

「筒井美馨個展」
3月28日(土)〜4月5日(日) 12:00〜20:00(最終日は17時まで)
新宿眼科画廊  http://www.gankagarou.com/

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昨年今 敏監督展「十年の土産」を開催した新宿眼科画廊において筒井美馨氏の個展が開かれます。筒井美香氏は今 敏が注目しているアーティストです。
彼女と知り合ったのも、実は「十年の土産」がきっかけです。この時のトークイベントに参加された方は覚えておられるかもしれませんが、酔っぱらいの監督にシャンパンボトルを運んでくれたお姉さん、彼女が筒井美馨氏です。
あろうことか、「十年の土産」会期中に急遽制作された彼女直筆の巨大なストール(というのでしょうか)と仏が鎮座するネクタイを賜りました。びっくりするほど素晴らしい作品で、いただいたこちらが腰を抜かしそうになりました。

布地に手描き彩色された仏像や動物たちは的確に描写され、ありがたくも心地よい空間が構成され、独特の風合いを醸成しています。
そのモチーフから抹香臭いものを想像される方もおられるかもしれませんが、決してそんなことはなく、現代的なセンスの作品ですし、悪戯に仏教的モチーフが織り込まれているわけではありません。
こういっては少々失礼かもしれませんが、当人の愉快なキャラクターとは裏腹に、筒井美香氏の創作物には深遠な静謐と饒舌が同居しています。
皆さんも是非この機会に、新宿眼科画廊で眼の保養をしてみてはいかがでしょうか。

私も久しぶりに新宿眼科画廊で目を楽しませてもらって、「上海小吃」で舌を楽しませたいと思います。

VS.データ

少々肘が痛いのは確定申告のせいである。
いまだにアナログな方法をとっているため、ボールペンで文字を書かねばならず、普段手書きの文字など仕事上のメモ以外に書かない私の右腕にはたいへんな負荷になる。
だからといって必ずしも嫌なわけでもなく(申告書の作成自体は面倒くさいことこの上ないが)、年に一回の儀式の様なつもりで身体的な負担を甘受している。
一年間の仕事を振り返るちょうどいい機会である。
「や。収入が……(泣)……これはきっと、世間の不景気と関係して……ないな」
年ごとの収入が乱高下するのはいまに始まったことではないし、それが当たり前の生活である。好きな仕事をして好きな酒と食べ物を口にして好きな師匠の音楽や落語を楽しめているのだから幸福だ。
「えーと……まずは所得の内訳……と」
お足をいただいた先の名称、住所などを書かねばならない。それも控えと提出用の2枚。さらに収支の内訳という収入金額と経費などを書き込む書類も同様である。
「ああ肘が痛い」
しかし、たまには丁寧な文字を書こうとする機会がないと、どんどん悪筆が促進されてしまう。以前は少しはましな字を書いていたのだが、長年のアニメーション業界暮らしの影響か、気ばかりが焦った文字に変容してしまった。
そんな理由もあって、一文字一文字「税務署の人が読みやすいように」と、真心を込めて「所得の内訳書」や「収支内訳書」を書くのである。
先日の日曜日、一日がかりでようやく申告書の作成が終了。ホッとした。

個人的な志ん生ブームは相変わらずである。
購入した全集やもらいもののデータなどによって、iTunes上のライブラリはなかなか充実してきた。
ただ、少々厄介なのは同じ演目の重複が多くなってくることと、同じ演目でもテイクが違うものが混在してくることである。
最初のうちはデータの数も少なかったので、たとえばどのタイプの「火焔太鼓」がどのアルバムに入っているかを覚えていられたが、重複が多くなってくると私の頭など全然当てにはならないのである。
しかし、世の中には便利な本があるものだ。
『志ん生全席落語事典―CD&DVD691』保田 武宏 (大和書房)
この本にはCD・DVD化された志ん生の落語すべてが記されており、ネタ別にテイクの種類も詳細に記されている。
特に巻末の「古今亭志ん生〈音源別〉落語CD&DVD総覧」がたいへん重宝する。あいうえお順に演目が記されており、音源の種類とそれがどのCDやDVDに収録されているのかが一目で分かるように、メーカーとアルバムや全集のタイトル、商品番号などが記載されている。
しかも音源を判別しやすいように、そのテイクの「しゃべり出し」が二行ほど記されているので、持っているデータを耳で聞いてもそれがどの音源であるかが特定できるようになっている。
お誂え向きとはこういうことをいうのであろう。
この「総覧」ページをコピーして、ライブラリのデータと突き合わせ、各データにこの総覧で付されている音源の番号をつけることにした。
まずは「総覧」に持っているデータを蛍光マーカーでラインを引く。
「おお、高校生みたいだ(笑)」
そのためにわざわざ水色とオレンジリオの蛍光マーカーをヨーカ堂で買ったのだ。
さらに音源の下に並んでいるCD、DVDの種類にアンダーラインを引く。定規を使うのはなれたものだ。
さて、このデータを元にiTunes上で演目の後にタイプをつけるのである。
たとえばこのように。
「火焔太鼓(8-東京落語会1961.11.17、NHKラジオ12.7)」
「総覧」上の演目は151、音源にして308種類。
対して、私のライブラリは現在のところ重複分もすべて入れて320。
これらを一々データの修正を行うのだ。
確定申告よりよっぽど面倒な作業だが、楽しいことこの上ない。なにしろ入手できる音源は限られているのだから、楽しみ方は自分で工夫するのである。
ある書籍の中にこんな見出しがあった。
「楽しい仕事っていうのは、どこかに用意されているんじゃなくて、自分で楽しくするものなんだ」
なるほど。
これはこれから発売になるという、NHK番組「トップランナー」を書籍かしたものから引用した。
発言者は「世界中も大注目!」とされる「1963年生まれ、アニメーション監督」だそうだ。

とりあえずは音源が複数あるものについてはすべてデータを修正したので、これからはどのタイプを聞くかをすぐに選べるし、同じ演目を聞き比べるのにもたいへん便利である。
「「芝浜」を聞き比べよう」
と、思い立ったらこんな具合。
芝浜(1-NHKラジオ1957.9.25)
芝浜(2-ニッポン放送1958.12.25)
芝浜(3-東横落語会1961.1.31)
芝浜(4-ニッポン放送1962.11.7)
もちろん「総覧」上のデータをすべて入手しているわけではないので、こんな状態になっているものもある。
火焔太鼓(1-)
火焔太鼓(2-)
火焔太鼓(3-ニッポン放送1956.9.3)
火焔太鼓(4-ラジオ京都1957.3.29)
火焔太鼓(5-ニッポン放送1958.1.1)
火焔太鼓(6-NHKラジオ1958.11.2)
火焔太鼓(7-)
火焔太鼓(8-東京落語会1961.11.17、NHKラジオ12.7)
火焔太鼓(9-文化放送1966.1.1)
火焔太鼓(10-SP盤1951.2発売)
火焔太鼓(11-)
データを整理してみた結果、現在のところ、151の演目(落語と人情噺に限る)のうち入手したものは141、音源は248。それぞれ達成率は93%、80%というところである。
音源のコンプリートは無理にしても、すべての演目を手に入れたいものである。現在では入手困難なものも多いようで、今後の再発売に期待したい。
しかし私も気に入ったことについちゃまめだね、まったく。

先月の傾向

もう早3月とは、まるで詐欺にあった気分だ。
新作『夢みる機械』のコンテはペースが上がらず、危機感は増大するばかりだ。
飛躍的にペースが向上する方法を思いつくわけでもないが(そんなものがあったらとっくに実践している)、先月は新たに協力してくれるスタッフに参加いただいた。その仕事の発注のために、これまで取ったことのない方法でコンテを描いてみた。これが今回の光明になることを期待しよう。
主人公たちの冒険はまだ始まったばかりだ。先は長すぎるほど長い。

短い2月、そのトピックは何といってもこれだ。

平沢 進ソロ11thアルバム『点呼する惑星 』 発売。
2009年2月18日発売 CHTE-0046 3,150円(税込)
http://noroom.susumuhirasawa.com/

ありがたいことに私は正月早々から愛聴させてもらっている。
歪んだユーモアが楽しい、まことに傑出したアルバムである。って、どのアルバムもそういえるのだけど。

愛聴していると言えば相変わらず、もう一方の師匠、古今亭志ん生である。
去年末にポニーキャニオン版48枚組「五代目古今亭志ん生名演大全集」を手に入れて以来、どっぷりと志ん生にはまっている毎日。
先月は、コロムビア版13枚組「古今亭志ん生名演集」、さらにビクター版「五代目 古今亭志ん生」20枚シリーズを揃えた。
さらに、講談社のDVDブック「志ん生復活!落語大全集」もじきにすべて揃うはず。
どうしたんだ?私。

私には特にコレクションの趣味はないのだが、一時期にこれほど熱を上げて物を買いそろえた経験は、20代半ば以来であろう。その時の対象はヒラサワ、P-modelであった。
爾来、飽くことなく聞き続けているのだから、きっと「師匠」熱は一時期で終わることもないであろう。
志ん生を知ったのはかれこれ四半世紀前。
二十歳の頃は、自由に使える「お足」なんて微々たるものだったが、書籍やCD、DVDなどの仕事の肥やしになるものなら、いまでは値段のことをさして気にせず欲しいものをが買えるようになった。
大人になって良かった良かった。
毎日働かせてもらっているおかげである。仕事があるというのは本当にありがたい。

志ん生師匠以外の落語はほとんど聴いたことがないに等しいが、現在世の中は落語ブームだそうで、おかげでコンビニエントなシリーズが発売されている。
「落語 昭和の名人決定版」
小学館から隔週刊で出ている「CDつきマガジン」である。「ディアゴスティーニ」みたいなシリーズだ。
これまでに4回発売となっており、各回昭和の名人を一人取り上げて、資料や解説が記された冊子と3題ほどの落語がCDに収録されており、カタログ的に聴くにはたいへん重宝だ。
第一回目が三代目古今亭志ん朝、以後五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん、六代目三遊亭圓生。
圓生はもっと聴いてみたい気がした。
この先の発売も楽しみなシリーズである。

先月は読んだ本が11冊。見た映画はわずかに3タイトル。
単純に時間を割けないからなのか、精神的に余裕が少ないのか。映画を見る機会が減っているのは決してよろしくない。
映画は先月から引き続きヒッチコックが3本ばかり。

『逃走迷路』
『トパーズ』
『フレンジー』

どういうセレクトで見ているのか、特に意味はない。単に買ってあったものの中からその日の気分で選ぶ。
『逃走迷路』は以前にも見ている。といっても……20年くらい前のことなので、「面白かった」という以外にあまり記憶がない。
この映画を元に、後年『北北西に進路を取れ』がセルフリメイクされ、ヒッチコックの代表作の一つとなる。比べる必要はないが、冤罪を負った主人公が逃走中に出会う人々のバリエーションや味わいは『逃走迷路』の方が豊富だ。
盲目の老人、サーカスの色物たちがたいへん印象的で、ちょっとした「異界」巡りのようである。一般の常識的物差しから見れば「奇妙な人たち」に出会って行く、という話形はたいへん好ましい。
『トパーズ』は制作の迷走ぶりが窺えるヒッチコックらしからぬ、あるいは晩年を感じさせる映画ということになるのだろうか。特典映像によると、試写では「最低よりもさらにひどい」といった評価が多かったとのこと。ヒッチコックを期待している人には無理からぬ内容であろう。確かに全体に話や映像の切れが悪く、「何の映画か?」というつかみどころにも欠ける。
『フレンジー』も晩年の作だが、こちらは本国イギリスに戻って撮られたこともあってか、エネルギーが感じられる。こういう曖昧な言葉を使ってはいけない気もするが、アイディアと内容が噛み合い、往年のヒッチコックを期待した人たちにもアピールしたようで、ヒット作となったらしい。
ネクタイ絞殺魔が婦人をレイプ、殺害するくだりはちゃんと嫌悪感を催すほどに「ひどい」シーンとなっている。
連続殺人というサスペンスフルなモチーフもさることながら、捜査担当警部夫妻の奇妙なユーモアがいい。
何かの本で読んだが、たしかにヒッチコックの映画における食事シーンは「死」とセットになっていることが多い。生と死という大きな振幅を持ったモチーフを凝縮しやすいせいだろうか。
落差が大きいだけに夫妻の食事シーンは笑える。

笑うといえば、映画ではないが『空飛ぶモンティ・パイソン』(TVシリーズ)も見始めた。
去年阿佐ヶ谷でのトークイベントの際に、ソニーさんからいただいた7枚組のDVDボックスで全45話。先月は5話まで見た。先は長い。
このボックスの目玉は「日本語オリジナル吹き替え復活」だそうだ。アマゾンの商品説明にもトピックとしてこのように記されている。

「ファン待望!伝説の日本語吹替を初収録!! モンティ・パイソンの日本上陸はいまを遡ることおよそ30年前、1976年に東京12チャンネル (現:テレビ東京)で放映された「チャンネル泥棒!快傑ギャグ番組!空飛ぶモンティ・パイソン」。納谷悟郎、山田康雄、広川太一郎など豪華メンバーが繰り出すその名吹替はその後一切世の中に登場することはなくファンの間では伝説化するほど!今回はその伝説の日本語吹替がついにDVDで復活!!」

なるほど、確かにその通りかもしれない。
数は少ないとはいえ、私も随分昔にこの吹き替えによる『モンティ・パイソン』を見た覚えがあるし、広川太一郎さん、青野武さん、納谷悟郎&近石真介さん、山田康雄さん、飯塚昭三さんら錚々たる声優さんの声の調子はたいへん印象的であった。
その広川さんが亡くなられたのが、去年のちょうど「十年の土産」開催中のこと。折しも会場においでいただいた飯塚昭三さんとその話題になった。飯塚さんには「広川太一郎のアドリブはどうして生まれたのか」など、当時の収録の様子などを聴かせていただいた。
そんな記憶もあって、1話と2話を吹き替えでみてみたが、正直少々つらい。
日本でのオンエア時カットされた部分は当然吹き替えが入っていないので、視聴覚上面倒も多い。
それに、懐かしいということを除けば、魅力は感じられない。
何というか、現在の「声優芝居」につながる根深い問題も感じられて嫌になってくる。
元の芝居に比して「大まじめにふざける」という感じが薄く、とぼけた笑いが失われている。どうも「ふざけている」ことを強調しすぎではないかと感じてしまうのだが、当時の笑いに対するセンスやテレビの在り方を考えると、「当時はそういうもの」だったのかとも思う。現在も、だけど。
単に私が、レンタルビデオの普及以来、吹き替えで見るのが嫌になったというせいもあろうが。
3話からは字幕で見ることにした。
やっぱり『モンティ・パイソン』はたいへん面白いのである。

先月読んだ本。「巨匠」関係では、

『おしまいの噺 落語を生きた志ん生一家の物語』美濃部美津子(アスペクト)
『黒澤明大好き!』塩澤幸登(やのまん)
『黒澤 明−封印された十年』西村雄一郎(新潮社)

『封印された十年』で『デルス・ウザーラ』撮影当時の様子が興味深く紹介されていたので、日曜の夜、早速『デルス・ウザーラ』を見た。
デルスと、低迷期にあったとされる監督の姿が重なって見えてきて、よけい悲しくなった。この映画、インチキなエコロジーに汚染された現在にこそいっそう相応しい気もする。
「お馴染み」の方々では、

『精神科医は腹の底で何を考えているか』春日武彦(幻冬舎新書)
『読まない力』養老孟司(PHP新書)

の2冊。前者は副題の通り、精神科医の具体的なエピソードが面白い。後者はここ数年の「Voice」誌上に連載していたエッセイで、時事問題を扱っている。「すっかり忘れていたついこの間の大事件」を思い出させてくれる。

『日本人の〈原罪〉』北山 修+橋本雅之(講談社現代新書)

これはたいへん示唆に富んだ一冊で、以前ブログで紹介した。

『幕末史』半藤一利(新潮社)

『昭和史』『昭和史 戦後篇』に続くいわばシリーズ第3弾。
著者の半藤氏の父方の家は越後長岡藩にあったそうで、いわば「賊軍」とされた側。「薩長史観」という「ただしーれきし」をちょっと裏側から見るような視点が気持ちよい。
その他、

『「汚い」日本語講座』金田一秀穂(新潮新書)
『だましだまし人生を生きよう』池田清彦(新潮文庫)
『日本人の禁忌(タブー)』新谷尚紀・監修(青春出版社)
『回復力』畑村洋太郎(講談社現代新書)

『回復力』を読んで「コンプライアンス」という言葉の正しい意味を初めて知った。正しい意味どころか、正しくない意味もよく知らなかったのだが。
企業などの不祥事、その謝罪会見で「今後はコンプライアンスを徹底する」といった使われた方はお馴染みで、一般には「法令遵守」という訳を与えられているそうだが、その場合はcompliance with the lawといった使い方でなければいけないのだとか。
「コンプライアンス」という言葉は、工学の世界で使われる場合「相手のものの形に従ってそのものが変形する時の「柔らかさ」や「柔軟性」」を指す。
自動車の車体をプレスする時、鉄板を金型の間にはさんで押しつける。このとき「素直に変形する度合いをコンプライアンス」と言い、「「コンプライアンスが大きい」というと、小さな力で大きく変形する状態」ということになるのだそうだ。
「これを人間関係に当てはめてみると、社会や相手の変化に順応するように自分が柔軟に変化している姿が想像されます。社会が何を求めているかをきちんと見極め、それに順応しながら柔軟に動いていくこと、これがまさしく「コンプライアンス」の本当の意味であり目的である(本文より)」
なるほど、そう聞くとたいへんいい言葉である。
このことは先日、日本工学院声優学科での特別講義でも紹介させていただいた。こういうこと。
「コンプライアンスの大きい声優さんになりますように」
締めの言葉としてたいへん都合のいい話であった。
何でも読んでおくものである。

イーッス

昨日仕事場に新しい椅子が届いた。
自費で購入したものである。
マッドハウスから支給された椅子に問題があるというわけではなく、アニメーション制作会社で用意するものとしてはむしろ上等な部類と思われる。
昔使っていた椅子なんてのは過酷な座業の足を引っ張りこそすれ、身体的負荷をフォローしてくれるような代物ではなかった。
以前に比べれば、業界の平均的な労働環境は随分改善されたのではないかと思われる。
特に不満があったわけでもないのに、何故椅子を新調したかというと、誘われたからという至って受動的な理由である。
『夢みる機械』作画監督の板津くんから声をかけてもらった。
「椅子、買いに行きましょうよ」
「ああ、いいね」
てなもんである。
彼は仕事中、特に腰への負荷が大きいらしく、支給される椅子以上に身体をサポートしてくれるものを欲していた。
腰痛。それは職業病。
私も一時期ひどく腰の痛みが激しく自己主張を展開していたことがある。もっとも、いつの間にか腰の痛みは自覚しなくなった。
痛いのを通り越したのか、身体の使い方が変化して腰痛を避ける対応になったのか、はたまた自宅にマッサージチェアを導入したおかげか。
いずれにせよ、腰痛を感じなくなったのは本当にありがたい。
手と肩への負担は相変わらずだが、こればかりは椅子でフォローするのは難しかろう。

椅子に不満はなかったが、しかし以前から「いい椅子」が欲しいとは思っていた。日常的に、覚醒中大半の時間は仕事場の椅子に座っているのである。いわば身体の一部のようなものであり、そう考えると椅子は衣服と同じようなものとも思えるわけで、お仕着せではない自分に合ったものをきちんと選ぶことだって考えたい。
椅子を仕事の道具と考えるのも妥当だ。
アニメーションの仕事に必要な道具は、パソコンを除けば自前で用意したところでさしたる経費も必要としないものばかりだし、大半は制作会社から支給される。
大事な相方である椅子にくらいお足をかけても悪くはあるまい。

板津くんには椅子購入を以前から誘われていたにもかかわらず、なかなか行動に至らなかったのだが、昨年末、ようやく腰を上げた。
腰が重かったのは私であって、腰痛軽減を危急の問題としている板津くんは買う気に溢れていた。
だったら「一人でさっさと買えばいいじゃないか」と思われる向きもあろうが、そこには「長幼の序」という古風な問題もあるらしい。
彼にとってはつまりはこういうこと。
「同じ仕事場で今さんより高い椅子に座るのは……」
奇特な若者である。
「そんなの関係ねぇよ」と思う向きの方が多いであろう。私だってそう思う。
しかし、そういうこと「も」視野に入るのは大事なことであろうし、私はそうしたことに「筋の良さ」を感じる方だ。
そして何より、高級な椅子を買いたいという自分の目的と「長幼の序」を同時に満足させるために彼が取った方策にこそ真の奇特さがある。
「今さんにも買わせればいい」
その通り(笑)
人を巻き込むことを覚えるというのも、業界を快適に泳いでゆくためには重要だ。偉い。
私も椅子欲しいし。

12月の25日。
連れだって、新宿「大塚家具」のショールームに椅子を買いに行った。連れだって、というよりも板津くんに「連れて行ってもらった」という方が正しい。だいたい私はこんな調子だった。
「どこで売ってんの?いい椅子は」
残念なことに私の脳には世間的常識の蓄積が少ないのである。
ショールームで店員に案内してもらう時になって分かったことだが、すでに板津くんはこの店を「下見」までしていた。抜かりのない若者であることだよ。
地下一階のフロアで早速椅子を選ぶ。
板津くんは当初から狙いがあったようだ。かの「アーロンチェア」である。
座業支援の強力なパートナー、その「代名詞」として私は認識している。
「作業用のいい椅子=アーロンチェア」で、それはつまり「携帯電子音楽プレイヤー=iPod」みたいなものといっては語弊はあるかもしれないが、ともかく「代名詞」とはそういうことである。
そして、携帯電子音楽プレイヤーではなく「iPodが欲しい」だとか、落語ではなく「志ん生を聞きたい」という欲求があるように、「アーロンチェアが欲しい」という欲求だって十分にあり得るだろう。
私も『パーフェクトブルー』か『千年女優』の制作中だったろうか、腰痛がやけに自己主張しやがるので、アーロンチェア購入を考えたことがあった。当時は「(買いに行くのが)面倒くさい」に勝てなかった。
私はどうも「面倒くさい」に負けてばかりだ。
そんな経緯もあったので、私も今回代名詞としての「アーロンチェア」であり、またアーロンチェアそのものを購入するつもりで懐を暖めてショールームに足を踏み入れた。

ショールームでいざ座ってみる。
「ああ、こりゃ確かにいいね」
さすが名にし負うアーロンチェアである。
「これでもいいな」と思ったのだが、あまりの即断をするのも買い物の醍醐味に少々欠ける気もする。
「他にはないんですか?この手のもの」
店員さんが懇切丁寧にあれこれ説明と推薦をしてくれるのだが、だいたい選択肢はほとんどないのであった。
とどのつまり「あれかこれか」の二者択一である。
ハーマンミラーのアーロンチェアか岡村製作所のコンテッサか。
目の前の二点以外の選択肢、という「外部」も鎌首をもたげるが、「別の店を当たる」という考えは「面倒くさい」の前に太刀打ちできるわけもない。
目の前の二つが「縁のあったもの」なのである。
ここから選ぶのだ。
しかし……どうも、どちらも一長一短である。
絵を描くという作業のこと「だけ」を考えると、座面が前傾してくれるアーロンチェアが魅力なのだが、生憎背もたれが低く、これでは「快適に寝られない」。
片やコンテッサはヘッドレストのオプションがあり(サイズが小さいとはいえ)、居住性(という言葉が椅子に相応しいのかどうかはともかく)に優れているのだが、座面の前傾がない。それに基本的な剛性に若干不安な印象を受ける。

さて、どうしようかな。
「両方買う」という荒技も一瞬頭をよぎるが、一度に二脚に座るわけにも行くまい。
迂闊に悩み始めると、私の場合「天秤座」の本性が姿を現して迷いの密林に誘い込まれることになるので、さっさと選択の枠組みを再構築する。
地金だって、経験則で補えることも多いのである。
まず、選択の漠然としたイメージはこうであった。
「いい椅子」
これだけでは二者択一を乗り切れない(笑)
では私にとって「いい椅子」とは何か。
作業中に身体の負担を軽減する……食後の満腹時に快適に仮眠を取れる……見た目のデザイン……それなりに値段が張ること……等々である。
最後の条件が何だか意味不明だが、椅子を買うというイベントには「大きな買い物がしたい」という年末らしい欲求も含まれているのである。
時はちょうどクリスマス。一年間よく働いたご褒美として自分にクリスマスプレゼントの一つくらいしたっていいじゃないか……って、この間志ん生全集を買ったばかりじゃないかという話もあるのだが、それはそれこれはこれ。

選択の対象は、アーロンチェアのパーツがちょっと豪華なモデルかヘッドレストをつけたコンテッサ。値段は前者の方が諭吉五人分ほど高い。
そして私の選択の基準を、上位から再配置するとこうなった。
1.仮眠
2.作業
3.見た目
4.価格
そんなに椅子で寝たいのか、と思われる向きもあろうが、私にはたいへん重要かつ切実な基準である。
去年あたりからか、食後に時折ひどく睡魔に取り憑かれるようになった。加齢のせいであろうか。
支給されている椅子は背もたれが低いので、安定した姿勢で仮眠するとなると、背を預けて頭部を前傾させる以外にない。だがこれでは眠気を晴らすために仮眠を取ると首が痛くなる、という仮眠することががいいのか悪いのかよく分からないような状況に陥る。
これを改善するのが第一の目的だったことを再確認すれば迷う理由はなくなる。
いかにアーロンチェアが作業に向いているとはいえ、「寝られない」のであれば選択の対象外に退場いただく他はない。それにアメリカ製よりは国産を支持したい。
よってコンテッサに決定。
使ってみて不都合があるようなら自宅用に配置転換することだって可能であるし、買って失敗ということはあるまい。
板津くんは当初の予定通り最終的にはアーロンチェアを選択。
「結局、今さんより高いのになっちゃった(笑)」

それぞれ椅子を決め、別フロアに移動。配送などの手続きを済ませて、お会計である。
当然、「現金払い」である。
「一、二、三、四、五……」
と、諭吉の人数を数えて送り出す。
ここにこそ買い物の満足感があるではないか。
まあ、その様はあまりに「チンピラ」まがいかもしれないが、私は現金払いこそが消費の実感、労働と報酬の実感を得られる貴重な機会だと思っている。
「私が○日間働いた報酬がこの物に交換される」
明朗だ。
額に汗して(仕事で汗なんかかかないけど。冷や汗ならあるが)得た金銭を消費する快感は、数値の移動では実感できない。
「いつもニコニコ現金払い」
これぞ正しい消費活動だ。
話は極端に飛躍するが、給料というものが銀行振り込みになって、単なる数値と化したときから一家を支える働き手(一般的にそのほとんどが父親ということになるが)への敬意が失われ、それが日本の家庭の崩壊に拍車がかかったのではないかとすら思っている。月々の給料を全額持ち帰り、家族で収入を実感する。いいではないか。そうすることで子供などにはわずかな分け前しか与えられないということを実感させた方がいいのではないか……と、そんなことも考えたりもする今年の正月だったのだが、それはまた別の話。

お会計は済ませたものの、さすがに持ち帰るというわけにも行かない。
「ちぇ」
出来れば「現金払い、持ち帰り」が理想だが、ごねずに配達を待つくらいの大人ではある。
もっとも、年末年始を挟むせいか配送は半月後ということで、買い物の実感をすぐに味わえないのは少々残念であった。
その椅子が昨日、届いていた。
いつものように「おはようございます」とスタッフルームに入って、ふと見ると、見慣れぬ黒い物体が。
「あ、椅子だ」
何とも感動の薄いリアクションであるが、買った記憶すら薄らいでいたので致し方ない。
早速「監督部屋」に移動する。
「よいしょ」……ゴツン。
「あ……」
入り口を通れない(笑)
仕方がないので、本棚の一つをズルズルと移動して、搬入路を確保してお椅子様にお通りいただく。
さぁ、座るぞ。
「おお!快適!うん、これなら寝られる」
コンテッサの長所の一つは、上下動とリクライニングのスイッチが、アームレストの裏側にある点で、操作性がたいへん宜しい。
リクライニングをロックさせて、脚を投げ出すとなかなか快適な姿勢になる。投げ出す先としては支給されている椅子という格好なオットマンがある。
おお、贅沢だ(笑)
どれ、この椅子に座って試しに絵でも描いてみよう……って、本末転倒だな。
作業上も特に不都合はない。少々アームレストが邪魔になる気もするが、そこは目をつぶろう。
ただ、多少予測はしていたことだが、唯一困ったことが一つ。
私の部屋には少々大きいのである。見回すと、随分部屋が狭くなった。
椅子の居住性は飛躍的に向上したものの、部屋そのものの居住性は下がってしまった。
板津くんの席に収まって輝くアーロンチェアを見ながら、少しだけそのサイズが羨ましくなると同時にこうも思うのであった。
「自宅用にアーロンチェアってのも悪くないな」
何のため?
うーん……ブログ用。

年賀状越年・その2

元旦だからといって、特にすることはなく、来客も訪問もない。
お雑煮をいただいた後、年賀状作業再開。
いきなり絵を描くなんざ、こいつは春から縁起がいいわい。
作業のお供はもちろんウィスキーのロックと志ん生である。飲みながらの作業というのは実に快適である。
正月なのでジョニーウォーカーの「青ラベル」といきたいところだが、自宅でそうした上等な酒を飲んでしまうといざという時(どんな時だそれは)に高級感や特別な気分が失われてしまうので、最近の定番である「緑」である。「黒」よりも香りの刺激が強いのがいい。

書いていたら飲みたくなってきた(笑)
とはいえ、このテキストは会社の仕事場で息抜きとして書いているのでさっさと飲むというわけにもいかないのが残念だ。背後の棚には「金」が置いてあるのに。
っちゅうか仕事しろよ仕事をよ。
はい。

絵を描く、といっても清書が終われば後はPC作業である。
スキャンしておいた画像のゴミを取って、実線及び色トレス線の補正をする。これで下準備は終わりで、さて本番。
思わず「本番」と書いたが、最近では線画を描くことよりPC上での着色や合成の方が「絵を作り出している」という気がしてしまう。
紙に線を描くなどのアナログ作業は合成素材を準備しているようなもので、それはそれとして無論楽しい作業であるし熱中も集中も出来るのだが、意識のどこかで積み重ねてきた手業に対してこう思っている節がある。
「何だこんなもん」
そりゃあ、線で描く技というのはなかなかたいしたもので、それが好きで長年技術を重ねてきたつもりではあるし、いくばくかの自信や誇りもある。特に細かいものなどを描き上げたときなどは、しげしげと眺めてこうも思う。
「よく描いたもんだね、また」
自分の描いたものに感心してちゃ世話はないが、自分の技術についてもどこか他人事みたいに思えるのは「監督」という立場の好影響かもしれない。
他人が描いたものであれ自分で描いたものであれ、「監督」という立場から見ればどちらもチェックする対象という意味では同じである。

描き上げたばかりの時にはそれなりに達成感も高揚感もあるが、そんなものはすぐに立ち消える。どうせ「たかが素材」である。
この「たかが素材」をスキャンしてデジタルデータに変換すると、ますます描いたものが他人事のように思えてくる。
この「距離感」がデジタルの効用の一つであると私は思う。
共感しない人も多いかもしれない。そういう人が「手描きのあったかみ」などといった寝言を垂れ流すのかもしれないが、私の知ったこっちゃないや。
「たかが素材」という態度同様、「たかがデジタル」である。いずれもなきゃ困るが。
モニタに収まった線画は、それがどんなに手間暇をかけて描いたものであれ、醒めた目で見られる。そこがいい。
素材の良いところも悪いところも醒めた目で見られれば、そこから「演出」やアイディアを新たに考えられるもので、良いところは活かし宜しくないところは控えめになるように絵を演出する。
素材作成時にかけた手間暇の苦労を引きずっていると、自分の描いたものに振り回されないとも限らない。情や自己愛に溺れた絵は大嫌いである。
苦労した部分だからといって良い点とは限らないのだから、時にはそうした手間暇に対して愛のない仕打ちをする必要もある。
だから、一人で絵を描く作業をしていても、アナログからデジタルに作業が移行すると別な視点で見られるという利点がありがたい。
……たかが年賀画像のことで何を真面目に描いているのだ私は。

着色作業は別にどうということもない。
キャラクターの色は正式ではないがすでにイメージが固まっているのでそれに準ずる。牛も「十牛図」に従うと黒か白かである。この図において牛が象徴するのは「自己」であろうし、つまりは「無意識」の領域が大きいので、白よりも黒いイメージである。
ということで牛のベースカラーは黒であり、牛の模様みたいな感じで部分的にパーツを白くすればそれなりに様になるだろう。

まずは全体を仮色で塗りつぶす。あとで塗り漏れが発生しないようにするためである。
その後、色分けするパーツを選択してそれぞれの色に変換する。
メタリックなパーツは後の処理を考えて最初は暗めに設定しておく。

process03

影とハイライトの色面を作って、大雑把に調整レイヤーで色を変える。キャラクターと牛が同じコントラストでは少々難があるので、調整する。

process04

これでほとんど出来たようなものだ。
後はメタリックなパーツと全体に定番の処理を加えれば格好は付く。
しかし。あまりに簡単に出来てしまうと、それはそれで寂しいものである。
だって、志ん生を聞く時間が終わってしまうのだから。
単なる塗り分けでは物足りないので、牛の方に一手間加えることにして、メタリックな質感を手作業で加えてみる。

process05

その上でメタルパーツのみに処理を加える。この面積だけコピーして、それをぼかしてレイヤーを覆い焼きモードで重ねるだけだが、以下のようになる。

process06

これ以上、加えるべき手も思いつかないので、後は定番の処理を加える。別にどうという処理でもなく、完成画像をぼかしたものを上からオーバーレイで重ねるだけである。

process07

思いのほか色が沈んだので全体にレベル補正をかけて明るくしてコントラストを調整。
キャラクターと牛の分離が宜しくないので、牛の背が少し明るくなるようにグラデーション素材を重ねてライティングを調整する。
マッハバンドも出ている(解像度が低いので上の画像ではほとんど見えないが)。
牛に質感を加える際、安直なグラデーションをかけたので階調飛びによる縞模様(マッハバンド)が出てしまったのであろう。あまりこの手の単純な塗り分けの絵には使いたくないが、一番上に、これまた定番である「錆」のテクスチャを薄めに被せてマッハバンドを追い出す。
これで完成。

process08

後は年賀画像としての体裁を整えるべく、賀詞などを配置して終了。
正月の手慰みには格好の作業であった。
気がつけば、全48巻の志ん生全集も残り一枚になってしまった。
さて、次は何を清書しようかな。って、早くコンテ描けよ。