単価はいかが?

JAniCAによるアンケート調査結果の続き。
概要報告は「老後への備え」「担当職種」「主収入職種」「担当放送形態」「主収入放送形態」と、それぞれ調査の意義がある項目が続くが、調査結果は近いうちに「白書」という形で刊行されるというし、新書などの形で出版という予定もあるそうなので、ここでは省略する。

一応、簡単にまとめると、「老後への備え」は国民年金に加入しているのが385人と半数以上を占めるが、「備えをする経済的余裕がない(294人)」も顕著で、中には「まったく考えていない」という強者も58人いる。
「担当職種」「主収入職種」では原画が圧倒的多数を占める。
「担当放送形態」ではTVが主流で、「主収入放送形態」に至っては77.6%がTVとなっている。

金銭の具体的数字を知りたい方が多いと思われるので、「作業単価」は数字をそのまま紹介しよう。

放送形態  職種  単価  平均
・TV   絵コンテ 話  211,668
・TV   演出   話  210,909
・TV  総作画監督 月  314,000
・TV  作画監督  月  315,294
・TV  作画監督  話  300,118
・TV   原画  カット  3,942
・TV 動画チェック 話   69,684
・TV   動画   枚     203
・劇場   原画  カット  13,886
・劇場   動画   枚     311

TVの話数作監が意外にもらっている感じがする他は、ほぼ実感と重なる数字である。
もし当ブログで初めてこの数字を目にする業界人がおられたら、この平均を基準にすると自分が置かれた状況を客観的に把握できることと思う。
「ぬぅ!私は騙されていた!」
であるとか、
「ああ、私は恵まれている方なんだな」
とかね。
しかし、いまどきTVの動画単価が200円とは恐れ入る。
マッドハウスだと元請けということもあり、平均してももう少し単価は良いはずだ。
TVの原画単価に比べて、劇場は約3.5倍の14,000円弱で、業界外の人には一見ましな数字に見えるかもしれないが、おそらくいまどきの劇場をこの単価で引き受けたらTVより食えないのではないか。よくいわれる話だ。
単価が3.5倍でも、作画する内容はTVの5倍大変なんてことはざらだろうから、劇場の単価仕事はおよそ食えないことが多い。
「お前みたいに予算が大きくないのに、パースやデッサンが面倒で芝居の手間がかかるカットばかりを作る演出がいるからだろう!!」
と言われたら「その通りです」としか返す言葉はない。
申し訳ない。
確か『千年女優』の時の原画単価は上記の数字程度だったと記憶している。
対して、月拘束の原画マンの場合、人や作品規模、内容にもよるが仮に月10カット上げたとして、拘束料をカット数で割ると、1カットあたり¥30,000前後になるのではなかろうか。
中にはもっと安くなる人もいるが、ギャラ泥棒としか思えない額になる人だっている。
しかしこれらは単に数字で弾き出せる評価ではなく、いくら単価あたりのギャラが高くても必要な人もいるし、それに見合う内容の場合だってある。
アップ間際に他人がこぼした仕事を拾ったり、使えない原画の直しまでお願いしたりするようなスタッフの場合、必ずしも単価計算で折り合いがつくわけでもない。
まことにケースバイケースだ。

劇場の原画を単価受けできるのは、よその仕事で月拘束をもらっている人の「バイト」とか、制作側や監督・作監による泣き落としであるとか本人の熱意や向上心に負うところが大きいように思う。
しかし「バイト」が横行することで、その本来の仕事に支障を来す場合も多いし、スケジュールは本業とバイト先それぞれに崩れていく……という悪循環に陥ることも多々あるのではないか。

以下、次号。

満足ですか?

JAniCAによるアニメーター・演出の「2008年度 実態調査」、この「概要報告」から具体的な数字を紹介してみる。
この資料は、先日5月22日に行われたシンポジウムで配付されたものだ。

まず調査対象は、JAniCAの会員に限定されたものではなく、また業界での経験が1年以上のアニメーター・演出で、アンケートは無記名式による。
回答数は700ほど。
アニメ業界の実態調査の母数としては十分であろう。

順を追って見て行く。
まず男女比。
全体では男422:女286。
基本はやはり男社会なのだが、これが年代別に見ると面白い傾向が浮かび上がる。
−−−−−−男   女   構成比
10代   0   1
20代  146  186  44:56
30代  130    61  68:32
40代  117    28  81:19
50代    27   9  75:25
60代     2    1

20代では男女比が逆転しており、30代で女性の占める割合がグッと下がり、その後も大きく減少傾向にある。
20代の女性が多いのは個人的な実感とも重なる。
「経験年数満1年以上」が対象なので、10代はほとんど数のうちには入らないが、おそらく1年未満を含めると10代でも女性率がかなり高いのではないか。
30代で大きく女性がその比率を下げるのは、離職による面も大きいのかもしれないが、近年になるほどアニメーション業界に入ってくる女性が増加したという、単純な理由もあるかもしれない。

お次は既婚率。

男・既婚 15.1%
男・未婚 44.7%
女・既婚  6.2%
女・未婚   34%

男女ともに未婚率が圧倒的に多い。
経済状況による面も大きいのだろうが、結婚生活に予想される煩わしさにネガティブな反応をする人が多いのかもしれない。
業界人の多く、特に作画、背景、演出は「趣味が高じた」タイプだろうから、「一般的に推奨される生活」より自分の趣味のフィールドに積極的に閉じこもりたい傾向にあるように感じられる。
既婚者のうち、子供の有無は極端な傾向にある。

子供・有 11.2%(回答数81)
子供・無 88.8%(回答数640)

かつて、もう20年ほど前のことだろうか、DINKS(ダブルインカムノーキッズ)なんて夫婦のスタイルがもてはやされたことがあるが、世間の流行に鈍感なアニメ業界なのでいまだにそのブームが続いているということだろうか。
まさかね。
意図的な選択というよりは、既婚率の低さ同様に惰性の威力が大きいのではないか。
これも経済的な理由が大きく影響しているかもしれないが、結婚しても自分の「仕事(趣味の濃度が高い)」に比重の大半を置いている人が多いのがこの業界。
調査の数字からは分からないが、既婚者の多くは「職場結婚」というか同業者同士のカップルが多いと思われる。個人的な印象では、既婚者の大半が同業者や業界人の組み合わせである。
夫婦共に原画マンというケースがすぐにいく組か思い起こされるし、原画マンと動画チェッカーあるいは動画マン、原画マンと色彩設計といった組み合わせの夫婦が思い浮かぶ。少し変わったところでは奥さんが声優さんという知り合いもいる。
同業者同士でないと、この仕事に対する理解は難しいはずだ。
一般のサラリーマンやOLにとっては、不規則で長時間、休日が少ないこの仕事はほとんど信じがたい労働状況に見えることだろう。
あまり家に帰らない亭主にこう思う妻がいても全然不思議ではない。
「ねぇ、本当に仕事で帰れないの? もしかして……(怒)」
そうじゃないんですよ、奥さん。
むしろ、逆のパターンの方が多いかもしれない。
こんな彼氏彼女が想像される。
女「ごめんね、カッティングが迫っているから週末もちょっと会えない」
男「本当に仕事なのかよ(妬)」
男の嫉妬は厄介だぞ、娘さん。
異業種の人との交際、ましてや結婚は難しいはずだ。
だいたい、知り合う機会がほとんどないし。

「生活満足度」はこのような結果になっている。

十分に満足している 1.9%
満足している    10.3%
普通        25.5%
多少の不満がある  43.7%
大変不満がある   18.5%

これだけ見ると、「一般的にそんなもんじゃないの?」という気もするが、国民全体との比較をするとそのギャップが歴然としている。
(※国民全体の数字は、平成20年度の内閣府による世論調査報告書による)

−−−−−−−−−満足  普通  不満
国民全体   60.4   1.2   38.4
アニメーター 12.2  25.5  62.2

満足と不満の率が見事に逆転している。
あなたならどこに入りますか?
ちなみに私ならこんなところ。
「申し訳ないほど満足している」
ま、いまのうちだけかもしれないけど。

以下、次号。

時給298円

金曜日、東京大学の一室で開かれた「JAniCAシンポジウム2009」のに参加してきた。
JAniCAとは無限責任中間法人・日本アニメーター・演出協会のことで、アニメーターと演出、その応援者による団体である。私も会員の一人。
http://www.janica.jp/index.html

業界の至宝、井上俊之氏経由で、運営の中心となっている方から「閉会の挨拶」をお願いしたいという依頼があった。断るわけにも行くまい。
挨拶くらいなら気楽なものだが、しかし諸先輩をさしおいて何で今 敏?
ネームバリューを当てにするには役者が足りないだろうに。

「天下の東大」の構内に足を踏み入れたのは初めてのこと。
「おお!あれがかつて放水を浴びた建物か」
シンポジウムに使われる会場があるのはその隣の建物だった。
会場は、JAniCAの会員や業界関係者、マスコミや行政関係の方で盛況である。何よりまずJAniCAの存在感とその活動内容や意義をアピールするのが大事であろうから、盛況はそれだけでシンポジウムの成功といえるのではなかろうか。

シンポジウムの主な内容は、JAniCAが実施した大規模なアニメーター・演出のアンケート調査の結果発表、それを受けてのパネルディスカッションである。
アンケートはアニメーター・演出がどのような暮らし向きで、いかなる労働環境にあり、またそれらに対してどの程度の満足度なのか、といった内容である。
生憎、配付された資料を仕事場に忘れてきて手元にない。後日、当ブログでもその結果の一部をご紹介したいと思う。
記憶している範囲で、特に印象に残った数字が表題「時給298円」である。
これが、今回の調査結果から割り出された日本のアニメ業界における「動画職の時給」だそうだ。
豪快な数字だ。
いま、東京の街角にこんな貼り紙があったとしよう。
「アルバイト急募 時給298円」
誰も行かないよ、普通。
平成の日本、それも「注目されるコンテンツ産業!」などと称されるアニメ、その土台を支える人々の現実かと思うと、悲しいのやら滑稽なのやら。
当の動画職の人たちにとっては滑稽どころじゃないだろうが。
もっとも、そんなことは数字にされなくても分かっていたことではある。
ただ、その実態を具体的な数字で示された意義は大きい。
何しろ、しばらくは飲み屋の席の話題に重宝しそうだ。
冗談はともかく、客観性は大事である。

今回のアンケート調査の結果は、現場で働いている人間の実感とほぼ重なっており、むしろ「思ったほどひどくはない」というのが正直な感想だが、これまで漠然としていた仕事の環境や条件が具体的な数値によって裏打ちされたことで、業界人にとっても業界外に対しても環境改善のための説得力を持つことを期待したい。

アンケート調査の準備や回収、シンポジウムの運営にあたられた方々には感謝したいと思います。
本当にお疲れさまでした。

課外ゼミ・続きの続きの続き

変に長くなってしまっているが、ゼミ生たちがマッドハウス見学で来社した際のことを書いていた。

プロデューサーにゼミ生たちを案内してもらって、社内見学をした後、学生たちにはそれぞれの絵を見せてもらう。普段描いているスケッチブックなどである。
学校でもたまに見せてもらうことはあるが、仕事場で見るとこちらの目も学内よりは仕事モードにシフトアップする。
「学生」として見るか、「業界志望者」として見るかでは気分は異なる。無論、後者の方が優しくない(笑)
若い人の絵を見せてもらっていると、いつも思うことがあり、それはゼミ生たちにも共通して言えることであった。

どうも、自分の苦手に対する認識が甘いのではないか。
他人のことを言えるほど自分の苦手を意識できているわけではないのだが、絵を描くときの意識が自分の「描けること」に向きすぎていて、「描けないこと」への意識が足りないのではないかという気がする。
無論、それが「楽書」ならいい。
楽しんで絵を描くことは健全だ。しかし、絵の練習ということになると話は全然異なる。
大雑把に言えば、「楽書」は描けることを楽しむものであり、練習は描けないことを補う類のものである。両者の間には無段階のグラデーションがあるだろうし、描けるところにさらに磨きをかけるという面だってある。
しかし、アニメーションの仕事に就きたいと思う人間でなおかつ想像力が少しあれば、絵の練習の仕方は趣味のお絵かきとはまったく異なってくるはずだろうに。

以前にも書いたが、アニメーションの仕事は自分の都合で絵を描くわけではない。あくまで他人の要請によって起動する仕事である。
ゼミ生の中には、なかなか賢い練習をしている子もおり、ウェブのニュースサイトの画像を順に送ることで、自分が普段描かないような絵をスケッチしているのだとか。
なるほど。これは正しい在り方だろう。
なにしろ何を描くのか、その選択の権利は描き手にはないのだから。
自分が答えられそうな問題だけを選んで問題を解くなんてことが学習に役立つはずがないことくらい、義務教育を受けていれば分かるはずのこと。自尊心の保護には多少役立つかもしれないが。

まだまだ絵が上手くない人間にとっては、描けないものが大半であり、もっとも肝心な人物のデッサンだって覚束ない状態である。
たとえば、若い人が描く人物に得てして見られる傾向は「下半身に向かうに従って形の取り方が曖昧になる」である。
描いた回数が多いほどそれなりにまとめられるわけだから、顔やそれに近い部分や、描けないことが意識されやすい「手」などはそれなりに描ける気になっている絵も、腰あたりになるとまさに腰砕けになってきて、足先あたりは絵が口ごもっていることが多く見られる。
自分で描いた絵なんだからそんなことくらいは認識しているのかもしれないが、だったらそこを改善するための訓練をすればよいのである。それを怠っているものに私なら将来性を感じない。そもそも自分の弱点を認識できないようなら別の仕事を選んだ方がよろしい。

またよく見られる傾向の一つには、「細部に目を奪われて全体を把握できていない」がある。
広く絵を描くという行為について考えると、「全体→部分」「部分→全体」という双方の流れがある。
どちらか一方の考え方というわけではないし、時と場合によって必要とされる考え方は異なるだろうし、両側からのアプローチが必要である。
ただ、少なくともアニメーターに必要な絵ということでは、圧倒的に「全体→部分」という練習が必要に思える。

ここでいう全体とは人物のデッサンに限ったことと考えてもらいたい。
私は元々がアニメーション業界育ちではなく、漫画という止め絵に必要な技術を優先させてしまったので、アニメーションの仕事をするようになって、意識的に人体の全体的な把握を強化する必要があった。絵を動かすには細部よりも全体の把握が優先されるからである。
難しいシフトチェンジだったのだが、描けない絵があるのはたいへん不自由な上になにより悔しい。だから一所懸命に直した覚えがある。もっとも、純然たる練習などではなく、仕事上でだが。
練習だって絵を描く以上お金をもらいたいではないか(笑)

両者に必要な絵がどういう点で顕著に違うかというと、漫画の場合は、部分の集積でも絵としてはまとまりがつけられるが、アニメーションはそうはいかない、という点に尽きる。漫画や一枚絵は、その一枚が破綻を来していなければ何とかなる。乱暴な言い方だけど。
しかし、アニメーションの場合、一枚目は誤魔化したとしても、その先の二枚目三目となると一枚目の誤魔化しが露呈してつじつまは合わなくなり、すぐに大きく破綻を来すことになる。漫画でも前後のコマの都合、つまり文脈の中で絵を描く必要があるが、アニメーションの作画は文脈の中に「しか」ないのである。
前後の文脈という制限や枠組みの中にあっても、自由に絵を描くためにはデッサン力が豊かにないとたいへん面白くないことになる。
だから、人体の全体的な把握が出来ていないと「絵の不自由なアニメーター」という形容矛盾も甚だしいレッテルを貼られることになる。
そういう人ばっかりだとも言えるけど。

ついでに書くと、漫画や一枚絵というのは時間を内包する絵であり、アニメーションの絵は時間を切り取った絵が必要とされる。だから必要とされるポーズや絵の切り取り方も自ずと異なってくる。
同じ人物デッサンでも運用の仕方は異なるが、アニメーションは動きの一連として捉えなければならない。一連の動きを再現するには、その一連の中にたとえば描けないポーズがあると、それだけで再現不能ということになる。
だからとにかく何より一番まずもって率先すべきは人体の全体的な把握なのである。
これまた乱暴な言い方だが、全体の各所にぶら下がっているディテールなどは後から何とでも修正可能だ。逆にいくらディテールをそつなくこなしたところで、全体のバランスや流れが悪ければ「まったく使えない」絵になる。

アニメーター志望の方は、髪の毛の処理やら上手なシワの描き方なんかを上手い振りをして練習するより、いま自分が描いている絵が「動かせるかどうか」を気になさると将来の発展につながる、と老婆心ながらに思うのである。
次の絵を描けないような絵を描いていても仕方ない。
以前の回にも記したことだが、この業界で生き残ってゆくためには基本的に自助努力以外にはなく、その努力とはつまり「上手くなる」ということであり、その上手さを一言で集約するなら、アニメーターの場合デッサン力以外にない。
一枚の絵にしろ、動かすことにしろいずれも基本は観察力による。
観察したものを平面に再現する能力が、つまりはデッサン力である。動きを捉えて複数の絵によって再現することもまたデッサン力である。
自分なりの味だの個性なんてことは一度しまってひたすら観察力と再現力を養った方がいい。
アスリートたちが日々身体能力の向上を心がけているように、業界志望の絵描きには将来のためにも是非実りある基礎訓練を心がけてもらいたいと切に願っている。
健闘を祈る。

課外ゼミ・続きの続き

「暑い」と口にしたところでどうなるわけでもないが、それでも発語せずにはいられない。
「うう……暑い」
昨日の昼はラーメン、夜はうどん。今日の昼はまたうどん。
気温の上昇は麺類率も上昇させる。
今日も暑い。ツルツルした食感が望ましい。

会社を選ぶことについて書いていた。
新人のアニメーターにとって、動画を一通り覚えあと、原画になるのはなるべく早いに越したことはない。
動画が上手くなったからといって、それがそのまま原画の能力としてスライドするわけもないからである。
動画を長く続ければ原画も上手くなる、ということはない。別の仕事なんだから。
動画の専門職は独立した立派なポジションだが、原画マンを希望する人にとっては「修行期間」という色合いが濃く、なるべく早くに原画になり、その仕事を実地で覚えた方が結果的に上達は早いのではないかと思われる。

そして、原画になったら育った会社に限らず、あちこちの仕事をするようになるのが業界の常である。
もし、その制作会社を選択したことが大失敗だったとしても、少し我慢して「原画マン」になれば、よそへの移動だって可能になる。それが「動画経験者」であっても同じことである。
だから、長くアニメーターを続けるつもりの人は、それほど会社の選択に神経質になる必要はないように思える。
どうせたいていの人がフリーになるんだから。
ま、これも業界の住人の考えであって、まだその外にいる人間に分かれというのも無理な相談かもしれない。
少しでも気休めの足しになれば幸いだが。

でも、考えてみてほしい。
自分たちが大学に入る前に夢見たり想像した現実が大学や専門学校のキャンパスにあったろうか?
たとえば「武蔵野美術大学映像学科」を選んで受験し合格したときの君たちが描いた未来と、実際に経験した4年間は全然違ったでしょ?
思ったより、大学ってずっとルーズだったでしょ、きっと。
うちのゼミには映像学科ではない子も常連でいるが、その子は学内で今 敏を見つけてアクセスしてきたからだ。
「聞きに行っていいですか?」
「ああ、いいよ」
その結果、今回のマッドハウスの見学にも混じって来ている。
ごく最近出会った中には、こんな強者だっている。
「ぜひ、今さんのゼミに潜らせていただきたい」
「いいけど、どこの学科?」
「あ、○○大学の学生です」
よその学校かい(笑)
そういう働きかけによって次の展開が生まれるのは学校だって業界だって変わりはない。

なにがしかアクションを起こせばリアクションは得られるものだろう。必ず得られるとは限らないし、いい結果につながるとも限らないが、何が次につながるのかなど当人の都合で決まるわけではない。
アニメ業界だって、業界に入ってからの縁や働きかけ次第で身の置き所なんていくらでも流動的になるのだし、何年もの間固定されることはない。
会社の選択について、少しは気楽にしても全然問題ないと私は思うね。
「会社員」という経験もなければ、自分から働きかけたことなど片手の指の数ほどもない今 敏の言うことに説得力はないかもしれないが。

先に登場した動画の先輩は、じきに原画に移行するそうで、動画職の経験が2年と少し。アニメーションについてはほとんど経験がない状態で動画職について一から勉強したそうだが、それでも2年で原画になるのである。
だいたい、原画になって1〜2年もすれば、よその会社の仕事にも興味も出てくるし、実際「バイト」と称してすぐによその仕事もするようになるんだから。
そのうち、関わった仕事のスタッフに誘われて育った会社を出て行って完全なフリーランスになる、というのがアニメーターのよくある成長パターンだ。
そこまで生き残るのもたいへんかもしれないが、しかしより大きな問題はその先なのである。
「アニメーターになる」という「夢」を実現した後には、「続けて行かねばならない」という巨大な「現実」が山のように聳えている。
ま、それはまた別の話。

課外ゼミ・続き

マッドハウス見学の話であった。
ゼミ生たちにこんなことを聞いてみた。
「どんな基準で入りたい会社を考えるの?」
私は就職というものに縁がなく、これまでに就職したこともなければ考えたこともない。だから自分には切実な体験というものがない。
「色々なタイプの作品を扱っているところかな。萌えからリアルまで」
えらい。
動画の際、偏らずに色々な絵を経験しておくことは、アニメーションの仕事を身体化する上で非常に重要である。これは原画についても言えることで、仕事が偏ることで特化する才能もあるが、アニメーターという職業を長く続けるには、やはり多くのパターンを知っておくことが大切であろう。

「好きな作品を作っている会社」
至極まっとうな考えだ。
「アニメが好き」だから「自分も作る仕事に就きたい」というストレートな結びつきで業界を志望する人が大半だろうし、その多くが「好きな作品を作っている会社」に入りたいと考えることだろう。
自分が好ましいと思うタイトルを制作している会社で、それに携わることが出来れば、それはそれで小さいながらも一つの「夢の実現」ともいえる。
会社に寄せられる履歴書の多くに、「好きな作品を作っている制作現場に参加したい」といった希望が記されている。
その中には時折、今 敏が監督したタイトルの名前が書かれていることもあり、何だか「悪い影響を与えてしまったのではないか」という後ろめたさ(笑)を感じることもあるが、特定のスタジオで仕事を続けていればこうした面映ゆい状況も仕方がない。
ああ、いらっしゃいいらっしゃい。歓迎するよ、私は。社員じゃないけど。
でも、「今 敏の作品に参加したい!」と意気揚々と入ってきて、三ヶ月後に意気消沈して脱落した実例だってある。
確かに、自分が好きな作品制作において、自分の仕事にNGを出されたりすれば己の無能が身にしみることも多かろうし、無能の自覚からしか上達はない。
どうせ切られるなら自分にとって切れ味の良い刀の方がよろしい。
仕事が上手く行けばそのまま自信や意欲につながるだろうし、まったくダメならそれはそれで諦めがつくのも早いというものだ。

「元請けの会社かどうか……」
そりゃそうだ。下請けや孫請けなら、その分動画単価の一部は当然会社に管理費等の名目で「抜かれる」ことになるのだから、どうせなら元請けが良いとは思う。

「新人教育がちゃんとしているところ」
そんなところは聞いたことがないな(笑)
新人教育のノウハウがある程度確立されているなら、それらが少しくらいは専門学校などに反映されているはず。
アニメーターを育てるための基本的なプログラムというものが確立されているとは思えないし、あればもう少しましな映像が日々見られるはずだろう。
基本的に、この業界(に限らずだけど)に共有されている考え方は、こうである。
「上手い人は勝手に上手くなるもんだ」
私もそう思う。
ただ、「ものすごく上手い人」は才能や本人の努力によって勝手に育つものだとは思うが、スタッフワークは「ものすごく上手い人」だけで成り立つわけもなく、「普通のことを普通並にこなせる」人材が多数必要とされる。
本来もっとも厚みがなければならないはずの中間層、そのボリュームが足りないことがアニメーションの質を維持するうえで何より大きな問題に思える。
「ものすごく上手い」人を一から育てることは無理でも(それはどんな業界だって無理だろうし、才能に負う部分としかいいようがない)、「普通のことを普通並にこなせる」人は訓練によってかなりの割合で育てられるのではないかと思える。
その層の中から「ものすごく上手い人」とまではいかなくても、「上手い人」が出てくる可能性は高い。
アニメ雑誌やYouTubeで取り上げられないかもしれないが、アニメーション全体の質に貢献しているのはこうした層である。

会社を選ぶというのは一大事に違いない。
私も動画職から業界に入ったわけではないので、あくまで見聞きした程度のことと多少の経験から言えることでしかないが、アニメーターを志望する者にとって重要な会社選択の基準は、煎じ詰めれば「よほどひどくない」ということではないかと思える。
作画職の大半は会社に就職するわけではないのだから、当面動画の仕事を覚えられればいいわけで、その点において会社による大きな差はないと思われるし、多くの人が同じようなことを口にしている。
無論、一部の超優良制作会社は待遇面において破格の違いはあるだろうが、こと仕事を覚えることに関していえば、極端な差はないように思える。
第一、有名な制作会社出身だから上手になるとか、大手だから原画になるのが早い、なんてことはあるまい。
原画になることだけを問題にするなら、むしろ大手ではない方が早いのではないか。
動画と原画は全然別種の仕事だと言ってもいいくらいなのだから、考えようによっては新人教育がいい加減なところの方が早く原画になれるから有利とさえいえる。
会社にしろ個々の作品制作現場にしろ、安定したところよりも不安定な方が、経験の少ないものでも一つ上のランクの仕事をさせてもらえる機会は多い。
いわば「学徒動員」(笑)
だって、「猫の手も借りたい」状態なんだから。
安定している制作現場ではそういうわけにはいかない。経験の浅いものにとって、「しっちゃかめっちゃか」な状況は売り込むチャンスなのである。
私自身、漫画の手伝いでもアニメーション制作現場でもそういう機会を利用させてもらって随分学ばせてもらった方である。
ああ、良かった。
ありがとう、スケジュール崩壊の現場たちよ。
いや、ホントに。

課外ゼミ

先日の金曜日、武蔵野美大映像学科のゼミ生たちがマッドハウス見学に来社。
アニメーション業界に就職を希望する子たちを中心に5人ばかり。中にはすでに業界での仕事経験もあるセミプロもいる。
現在マッドハウスの動画部には映像学科卒業生がいるので、「先輩」から経験談やら苦労談などをあれこれ伺う。彼女は業界に入って3年目、じき動画から原画になる。
業界人、特に新人に近い子たちの切実な苦労といえば、やはり経済面である。
「食えるかどうか」
いくら好きな仕事だからって、霞を食って生きられるわけではないし、日本の一社会人として求められる生活の経費は決して少なくない。
就職に伴う不安は色々あるだろうし、環境や待遇を見比べることは大事なことだが、「食えるかどうか」をまず心配しなければならない職業というのはなかなか切ないものがある。
優良制作会社の一部を除いて、動画職はほぼ単価仕事の歩合制。
「一枚描いてなんぼ」である。
テレビシリーズの動画単価もピンキリだが、概ね現在の平均は¥220〜250くらいと聞く。¥270なんて単価も耳にするが、シリーズとしては高い方だろう。
動画職と違って「会社員」となる制作職の初任給が16〜17万、もし同じ(程度に使えない)「新人」である動画が同程度の収入を得るには、700枚ほど動画を描かないといけないことになる。
おいおい。
今時ベテランだって700枚は遠い数字であろう。よほど簡単な絵柄ならともかく、今時の絵柄でコンスタントに続けられる枚数ではない。
少し慣れてきたくらいの新人でせいぜい300〜400枚くらいが関の山だろうか。
マッドハウスの場合は、今年から交通費が支給されるようになったそうで、動画を支援するための補助金もあるとのこと。
心ある制作職によるそうした待遇改善もあってか、この2〜3年は脱落して行く動画職がほとんどいなくなったようだ。良い傾向だと思う。一月に上がる動画枚数も以前よりは伸びている傾向にあると聞く。
動画職への支援は是非とも必要だと思うが、しかし業界で生き延びるための基本は自助努力以外にあるまい。
それでも実際のところ、実家通いや親元からの期限付きの支援をもらっているといった条件でもないと、生活はギリギリのラインだろう。
無論「好きで選んだ仕事」なのだし、仕事に対する意志や意欲、向上心があれば過酷な期間も乗り越えられるはずだ、という考え方にも道理はあると思うが、とはいえ、精神力だって経済力の側面支援がなければ痩せ衰えるのが当たり前である。
希望が見えなければ目の前の些細な問題にすら大きなダメージを受けることは多々ある。

いかん。
最初から夢のない話ばかりで夢見るジャパニメーションには似つかわしくないことこの上ない。
多少フォローしてみるか。
精神的・経済的に低調を強いられる谷間において同僚・友人など「横の繋がり」が励ましにはなるし、「みんなも同じようなもの」という状況は確かに救いになるだろうが、どうやったってアニメーターの場合は自分の机以外に本質的な救いはない。
「上手くなる」
それだけのことであるし、それ以外にない。
それが有効なのだからこの業界はまだ健全であるともいえる。
ものすごく有能なのに芽が出なかった、ということはまずない。
主観的には別だろうけど。
「認められないオレ様」を抱えている人たちは掃いて捨てるほどいるかもしれないが、それは業界という世間の方に問題があるのではなくて、主観の方に問題があるだけのことだろう。
だいたい、アニメーションの仕事は、ごく一部の役職を別にすれば「他人の絵を描く」仕事である。主観が肥大したオレ様にはたいへん不向きに決まっている。
というより、相手の要請に応えることから「しか」始まらない仕事である。
これは絵描きでもそれ以外の職種でも同様である。
相手の都合を考慮できない「オレ様」は、不向きというより失格なのである。失格の人間が、ご希望に添った世間からの評価を得られる道理はないのである。
そういう意味で正しくアニメーションの仕事を身体化しつつ、技術やセンスを養えば、それだけのリアクションは得られる業界だと私には思える。
「正しくアニメーションの仕事を身体化しつつ」という点がミソだ。
最初から職人的仕事を希望する人には大きな障害にはならないかもしれないが、「アーチスト」指向の人にはここが我慢できないところかもしれない。
だったら最初からアニメーション業界に来なければいいのに、と思うのだが(笑)、教育機関の惹句には「個性」の二文字が垂れ流しになっているし、その奔流の中を流されてきた若者に、「騙されたキミが悪い」というのは酷ではある。
しかし、動画にしろ背景にしろ、その仕事における新人教育の要諦とはつまりこういうことなのである。
「まず個性を捨てなさい」
ひどいことを書いている気もするが、私がそう思っているということではなくて、「そういうもの」なのである。
何か、また夢がなくなってきたな。
しかしこれは、アニメーション業界の「通過儀礼」みたいなものであり、それを受け入れて身体化しない限り、どれほど才能や技術や能力があったとしても、それはアニメーションの仕事として馴致されない種類のものと見なされる。
それはいわば「規格外の才能」であり、それはスタッフワークに向かない。だって規格品を作っているんだから。
はみ出したい人は一人でアーチストにでもなった方がお互いのためである。まぁ、はみ出すための元の枠組みがもっともっと広い分野で芽が出るほどの才能なら幸いなのだが。
とはいえ。業界にとって新しい、これまでにないといった新規なイメージを得るには、そうしたこれまでの規格の外にあるセンスや才能も必要なのである。
安い言葉で申し訳ないが、そのためには「個性を捨てるな」ということになる。
矛盾したことを書いているわけではない。どっちも本当である。
どうすればいいのか?
私が知るわけがない。
私なんて何度も発言しているように「やりたいことなんて特にない」し、個性なんてものにも無縁だと知っている。売り物になるくらいの技術は多少あるだろうけど。
ま、年寄り風にいえば、一度捨てたくらいで失われるような個性とやらなら別にたいしたものじゃないわい、わっはっは。
あるいはこういう言い方も出来る。
出来るだけ相手の要請に応えるという仕事の仕方をしていながら、それでも現れてくるものが個性というものじゃ、わっはっは。
本当の話。

「評判悪い」

月曜日、近所のセブンイレブンで待望の『傷だらけの天使』DVD-BOX1と2を受け取る。ネットで注文したものである。
なぜ今頃になって『傷だらけの天使』なのかというと、先日読んだ矢作俊彦の新刊『傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを』に懐かしさを刺激されたからである。ついついネットで検索してBOXがあることを知り、ついつい「カートに入れる」をクリックしてしまった。ついついはついついを呼ぶ。
さらに物が届くまでの間、萩原健一の自伝『ショーケン』を一気に読んでしまった。TBSラジオ「ストリーム」で吉田豪が紹介していて、これがまたたいへん面白そうだったのである。いやぁ、実際楽しめる一冊だった。
松田優作とジーパンと『探偵物語』には思い入れはないが、ショーケンとマカロニと『傷だらけの天使』に思い入れのある人には是非お薦めしたい。
いそいそとDVDBOXを持って帰り、早速1、2話を見る。
オープニングの音楽がたまらなく懐かしい。
懐かしくも新鮮で、面白くも情けなく、悲しくもおかしい。
しばらく楽しめそうだ。

火曜日はムサビでレギュラーのゼミ。
少なくない学生が「流出騒動」をすでに知っている。こうしたことは若い耳の方が敏感であろう。中にはネット上のキャッシュで住所などが「黒塗り」されていないデータを見たという子もいる。
旬の話題なので、この件についてもう少し考えてみたい。

まず「流出騒動」には、大きく分けて3つの問題が含まれている。
まずデータが流出したという「データ管理」の問題が一つ。
リストの作成自体に問題はないだろうが、その「内容」の是非という点が二つめ。
そして三つめは、不祥事にはお定まりともいえる「対処」の仕方、という問題である。
Bさんのウェブサイトではこう「釈明」されている。

————————————————-
@uploader.jpサイト内「自由にアップ↑フリーアップローダー」等に「○○○○○(社名)」等と題名が付せられた、弊社の管理情報であるかのような体裁で、弊社スタッフの個人情報等が含まれたエクセルファイルがアップロードされておりました件につきましては、弊社社内調査の結果、弊社内で同様のフォーマットで管理している情報は存在せず、社内管理情報ファイルが流出したものではないことを確認致しております。従いまして、同ファイル内のスタッフの属性等に関する記述に関しましても、弊社内の資料でなく、第三者が誹謗中傷等を目的として作成・公開したものと判断致しております。
以上の次第でありますので、同ファイルのインターネット上へのアップロード行為は、リストに記載されたスタッフの皆様、当社および当社のスタッフの信用・名誉等を毀損する悪質な行為であり、現在弊社において行為者の特定の為の調査を行っているところです。行為者の特定が出来次第、厳正な対応を行う予定でおります。

株式会社○△▽ 代表取締役 □□□

————————————————-
この釈明によるとデータの「作成・公開」はいずれも第三者による「悪質な行為」ということで、第一の問題であるデータの管理に不備はなかったし、第二の問題である「あのような」リストも作成していない、と。
この文言を鵜呑みにして同社の潔白を信じる人間ばかりだとしたら、世の中はよほどシンプルに出来ている。まるでアニメのように平板な世界だ。
私が聞く範囲では流出騒動について、リスト内容ももちろんだが、何よりこの「釈明」に対するリアクションの方が印象的だ。
ある制作の人間は「驚きましたね……」といって呆然と間を置き、こういった。
「あれは、ダメですよ」
そう思う。ダメだよ。
まるで筋立てがなっちゃないもの。
この釈明に対する「評価」はこうだろう。
「評判悪い」
ニュースですっかりお馴染み、組織の不祥事への対処、その雛形を借りて細部を変換しただけのように思えてしまう。
「ミートホープ」や「船場吉兆」、枚挙にいとまがない産地偽装、その他諸々種々雑多の不祥事が発覚した組織のお定まりの態度と同じように思える。
繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、その隠蔽工作が失敗に終わり、恥と罪の上塗りをしてきた実例が山のように積み上げられてきたにもかかわらず、敢えて同じような真似をするとは、あるいはもしかしたら万が一ことによったらひょっとしたら本当に仰るとおりなのかもしれないし、あるいはこういうことかもしれない。
「チャレンヂア」?
もちろん、同社には責任がないと言っている以上、上記のような釈明が導き出されるのだろうが、この状況でそれが相手に「信用されるかどうか」という客観的な視点が欠落していることが、何より問題である。
ここには「自分の言いたいこと」があるだけで「相手に伝えたいこと」や伝えようという意志などまったく感じられない。
せめてプロデューサーとか監督、演出という職種にある人間は、他人を騙す技術の一つくらいは身につけておいて欲しいではないか。
あの釈明では、まるで下手くそな演出みたいだ。
私は別に流出リストによる被害者ではないし、Bさんやその代表取締役さんに対して、個人的な感情など何もない。Bさんの仕事はしたこともないし、利害関係があるわけでもない。
だが、同じ業界の一人としてこの態度にはさすがにこういう危惧を抱くのである。
「やばいかも」「難有り」
Bさんと仕事で関係のあるアニメーターの娘さんは、引用した釈明をこのように嘆いていた。
「謝罪になっているんですかね、あれ……」
なってないさ。謝罪じゃないもん。
あの文言はつまりこういうことだよ、娘さん。
「私も被害者なんですゥ」
Bさんの釈明の通り落ち度がなかったとしても、Bさんがきっかけとなった「被害者」は間違いなく存在する。同社の責任ではなかったとしても、常識的に考えれば一言くらい詫びるものではなかろうか。
だって、被害者はBさんの「取引先」なのである。
中には正式な「社員」も含まれているかもしれないが、400に近いリストにある名前の大半は「被雇用者」ではなく、フリーランスという「取引先」のはずだ。
Bさんが雇用する社員だけが迷惑を被ったのなら、「社内の問題」として上記の態度も「有り」だと思う。褒められた態度ではないが「社員思いじゃない会社」というだけのことである。
しかし、フリーランスは社員ではないし、それぞれが自営業であり、Bさんにとっては原則的には「取引先」という形である。
もしこれがスポンサーやテレビ局、配給会社などといった「取引先」の担当者リストが流出したとしたらどうか。
もそれが自社の責任ではなかったとしても、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」では済まない程度の謝罪はあって当然と思われる。
そのお詫びの一言もないということは、これは制作会社がアニメーターを「使ってやっている」という態度の現れと考えて差し支えなかろう。

これは例のリストに見られる態度と同じである。
曰く、「使えなかった」「扱いづらい」「コイツはクビ」
なるほど。
これはアニメーションを制作する「主体」は誰か、ということにもつながる根深い問題であろう。
株主や投資家がその存在を大きく主張するようになってから「会社は誰のものか」といった論議が目立つようになったが、同じような話である。
制作会社がそのアニメーションの「主体」であることに異論を挟むつもりはないが、しかし、それを公に表すかどうかは制作会社の能力と密接に関係すると言える。
というのも、制作部門の側から考えても、現場を円滑に運営するためには(それが制作の仕事だ)、絵を描くスタッフの生産性を高めなくてはならない。
「1カット描いたら¥4500くれてやるから早く描け」
そういう態度で生産性が上がると思う制作いたら、このような評価が下されるであろう。
「性格難有り」「終わってる」「コイツはクビ」等々。
こうした態度は絵描きにとっても、制作部門の人間自身のためにもならないことは自明である。
仕事とその対価に変わりがなかったとしても、そのプロセスによって生産性は大きく左右される。
まして趣味が高じて仕事をするようになった者が多いだけに、絵描きは一般的に内閉的な傾向が強く、仕事へのこだわりが大きい。自尊心がこじれている人も多い(笑)
だから、納期や契約、報酬などといった社会通念を楯にして交渉や催促をしたところで、あまり有効ではない。当たり前のことだ。
だって、会社員じゃないんだし。
不愉快な場所ならさっさとよその会社に流れる人たちなのである。
それとも何か?
制作だけでアニメーションが作れるとでも言うのだろうか。だとしたら監督の立場としてはどんなにか心強い(笑)
流出リストには興味深い記述があった。
ある「監督」の項目にはこうある。
「人脈無さすぎ」
この「人脈」とはおそらくアニメーター等の制作スタッフを指しているはずだが、スタッフを連れてくるのは制作の重要な仕事であり、監督の人脈の無さをなじるのは筋が骨折している。
身近な制作の人間に聞いた話によると、流出騒動を受けて数人のアニメーターはこう漏らしていたそうだ。
「Bさんの仕事はもうしない」
そりゃあ、そういう人も出てくるだろう。当然だろう。
若い娘さんのこんないじらしい話も聞いた。
「……Bさんに履歴書出してしまった……」
仕事相手にいやな気持ちをさせて利益になるわけがないのは誰にとっても変わりはないが、特に制作にとっては障害が大きいはずだ。
アニメ制作現場における諸々の状況が昨日今日生まれてきた訳じゃあるまいし、制作やアニメーターに代表される絵描きのスタッフなどの人間関係、その機微は制作の仕事の一つとして織り込み済みでなくてはならない。というより、仕事をする以前の前提なのである。それが分からない制作は「ド素人」である。
だから先に引用した釈明は、まるで業界の素人が書いたものに思えてしまうのである。
その点、流出したリストの方が、人間関係に対する気遣いはいくらか垣間見える、と言ってもいい。
ほら、「○○さんの彼女」とか「○氏元カノ」「○○さん元嫁」「○○さんとデキてる」とか何とか。
そういうところだけは肌理が細かいのか(笑)
制作現場の生産性を高めるためには、互いに不快になる接し方は避けた方がよい。制作としては絵描きのスタッフに対して「仕事をしてもらう」という態度が「有効」なのである。これはあくまで制作の仕事としてのノウハウの話であり、腹の底が裏腹でも全然かまわない。
平たく言えば、絵描きに気持ちよく仕事をさせた方が結果的に制作自身の利益になるということだ。そうした点に制作の能力はあると思うのだが、これは私が絵描きの側であり、フリーランスという立場だからそう思うのかもしれない。
しかし、絵描きのスタッフだって同じことで、制作の欠陥をあげつらい、「仕事をしてやっている」という態度で接するよりは、「仕事をさせてもらっている」という節度を携えておく方が結果的には自身の利益につながる。
ま、あくまで理想ではあるが。
理想ついでに少々格好を付けた言い方をするならば、制作側が絵描きなどのスタッフに対して「仕事をしてもらう」、絵描きの側が制作に対して「仕事をさせてもらう」という、双方が譲り合ったそのあわいに制作主体が現れるのでは……うん、これではきれいすぎる(笑)
きれいにまとめると気持ちが悪いので、身も蓋もない言い方もしておく。
乱暴を承知で言わせてもらえば、制作の仕事を一言で言えばこういうことだ。
「人に頭を下げること」
断っておくが、監督の仕事も同じである(笑)
制作であれ監督であれ、中間管理職の色合いが濃いポジションはそうならざるを得ないと思われる。
会社員やフリーランスが混じり合った制作現場で共通言語にしなくてはならないものは、「礼儀」に他ならない。お前が言うなと仰る向きもあろうが、そういうものである。
繰り返すが、何も心底の礼儀を尽くすべきだと言っているのではない。形だけ、見かけだけでも「礼儀」が仕事上必要なのである。
互いの腹の底が分かりきっていたとしても、それはあくまで想像のうちにとどめるべきことであり、決してエクセルのファイルにしてはいけない。
制作側と絵描き側の間にある溝は、以前からその大きな存在感を主張している。それを埋めるための先の青臭い理想論もひとまず措くとするが、思うにあの釈明はこう言っているに等しい。
「謝ったら負けだ」
「世界が認めるジャパニメーション」を制作しているのだから「グローバルスタンダード」とやらの態度が相応しいのかもしれない。
どこかの大国や困った国なんかにそっくりだな。
フリーランスのスタッフに対して、雇用者面をするのが当たり前になっているのだろう。上の人間がそうなら下っ端だって態度を真似るのが組織の常だ。
ま、そりゃあそういう気にもなろう。同じ程度に使えない新人であっても、制作は固定で十数万、アニメーターは単価仕事で10万にも満たない額がやっとである。
現代の世を覆う価値観に従って考えてみよう。
「ギャラが高い方が偉い」
それでよろしいなら、私はたいていの制作を見下してもいいことになるが(笑)、少なくとも私はそうは思わない。
「仕事が出来るかどうか」
それだけが評価の対象になっているからアニメ業界は住み心地が良いのである。無論、その仕事の評価には対人関係の能力も含まれる。
流出リストの言うとおり、極度に「性格難有り」の人はたとえそれ以外の能力が高くても、結果的にスタッフワークのパフォーマンスを引き下げるのであれば評価は低くなるだろう。
ローカルスタンダードが当たり前だったアニメ業界にも、一般的な傾向が浸透してきているのかもしれない。アニメ業界の文明開化か。ふん。それも仕方あるまい。
リストが流出したことが曲がりなりにも問題になるくらいなんだから、それはそれで商業アニメーションや業界に対する認知の表れなのかもしれない。
しかし、「一般社会」にはまだまだ遠いと思わせてくれるのは、「YAHOO」のニュースにおいて、今回の流出騒動を知らせる見出しが載っていたのが、一般的な記事を扱う「国内」というカテゴリーでも、「エンターテインメント」のカテゴリーでもなく、「コンピュータ関連」というカテゴリーだったことだろう。
つまり「流出」だけが問題だった、と。
以前、確か某航空会社の「スチュワーデス評価リスト」といった存在が明るみに出て、その内容がスッチーの「容貌」などに及んでいたため問題になったことがあった。あの時は少なくとも、社会面としてのニュースになったように思える。
あの事件はその後どうなったのだろう。
今回の「流出騒動」も、そのうちすぐにうやむやにされて、被害者「だけ」が残されるような気がする。
考えてみればよい。
あのリストによる実害がどの程度に及ぶのかはともかく、あのようなリストがあれ「だけ」の訳がない、と思うのが常識的な反応だ。今後、ああしたリストが明るみに出ようが出まいが、「きっとあるに違いない」と思わなくてはならなくなったことは大きな被害であろう。

釈明によると、「行為者の特定が出来次第、厳正な対応を行う予定」ということだそうだが、なるべくうやむやに、なるべく早く忘れ去られてほしい、というのが正直なところだろう。
私が入手した情報によると、当該制作会社内部の人間はこう言っているそうだ。
「犯人はほとんど特定出来ている」
そりゃそうだろう。
某制作会社だって、かつてセルを横流ししていた制作部門の人間がいたし、当然犯人は特定されていた。だが、その犯人を特定して困るのは、犯人だけではない。
犯人が所属する組織そのものも迷惑を被る。
犯人を特定・発表したら困る人ばかりなのだから、犯人が出てくることなど、期待できるわけがないのである。

流出騒動

以前、某制作会社の予算表が流出して話題になったが、今度は別な制作会社から「アニメーター評価リスト」が流出して話題になっているとか。
私は今日、仕事仲間から情報を入手し、早速400名近いリストの画像をもらってプリントアウトしてみた。
「名前」「TEL.」「携帯」「備考」「ランク(ABC、及び×)」「状況」「etc.」「住所」の欄がある。
私が目にしたデータは「TEL.」「携帯」「備考」欄がすでに黒塗りされており、住所の記載もない。
さて、どれどれ。

あ。こりゃ、ひどい。
本当は「あ。こりゃ、ひどい(笑)」と書きたいくらいに稚拙で下世話な内容のリストだが、とはいえ、どこの仕事場でも日常的に交わされているような内容ではある。
実際、リストを見ながらついつい笑ってしまった。
「遅筆注意」「性格難あり」「電話に出ない」「ダメだった」「扱いづらい」「荒くて使えなかった」「終わってる」「おじいちゃん?」「おばあちゃん?」「仕事とりすぎ」「やばいかも」「戦犯」「会社の癌」「評判悪い」……等々、まぁ、業界の日常会話みたいなものだ。私なんざ時々もっとひどいことを口にすることだってある。時々? いや、しばしば。
ただ、制作会社の作成したと思しきリストに、単純な脳による寸評が「バカ丸出し」になって残っているのはまずい。これがまったくの他人事なら笑って済ませられるかもしれないが、同じ業界の失態、というより醜態を朗らかに笑う気にはなれない。知り合いの名前も散見されるし。
だから笑いもついついねじれて陰影を帯びる。
「ええ?あの人がBランク!?素人かよ、こいつ」
問題のリストに記載されたアニメーター(一部演出家)それぞれに対する三段階評価には首を傾げるところが随分ある。まぁ、当該スタジオの制作部門にとって使いやすいかどうか、頼みやすいかどうかといった点がかなり加味されているのだろう。
業界人としてこういうリストの存在は全然不思議ではないが、アニメーターの技術的能力的な評価ならいざ知らず、「○○の彼女」だとか「○○の元カレ」、「○○さんとデキてる」といった情報の記載は許されまい。
制作の人間にはそうした人間関係も含めて重要な情報であることは理解するが、残る形にするのは言語道断である。それにしてもまったく、仕事の声をかけるためだか、粉をかけるためなんだか。
こんなリストは絶対に流出させてはならないものだが、しかし今時多少の想像力があれば、「絶対流出しない」なんてことはあり得ないことくらい分かるだろうし、作成すること自体が迂闊というしかあるまい。
リストを読む限り、制作個人の覚書ではなく、別な人間と共有するためのリストだから、流出する危険性は端から高い。というか、流出するに決まっている。
こんなリストを人目にさらしてしまう脳機能の低い制作のリストが欲しいところである。密かに。

流出元とされる制作会社の対応にも首を傾げる。
「当社への名誉を毀損(きそん)する悪質な行為」だそうだ。
エ?
あんな詳細なリストを仕事以外でわざわざ作るほど暇な人間がいるものか(笑)
どう考えたって、制作部門の内部情報であろう。
「同様のフォーマットで管理している情報は存在せず、社内のファイルが流出したものではないと確認した」……って、おいおい、何の根拠にもなっていなかろうに。
その程度のシナリオは制作するアニメの中でだって説得力がなかろうに。
もう少し対応をお考えになった方がよろしいのではないですか、Bさん。

あ、ちなみにこのイニシャルは「制作会社ABCランク」のBではありません、念のため。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/07/news050.html

世の新人たちに贈る

新作のシナリオと格闘する毎日。
映画制作の仕事にとりかかると、どうにもそれ以外の仕事や用事への意識が極端に薄れるのは困ったものである。
仕事に集中するとか没入するというと聞こえはいいのかもしれないが、単にバランスが悪いというか大人げがないというか。楽しいことを見つけるとそれ以外を放り出してしまうのはまったくもって子供である。
分かっちゃいるが全然矯正できない。
仕事場の整理もまだまだ残っているし、某映画のコメントを依頼されているのにまだその映画を見られていないし、返信しなければいけないメールも溜まる一方だ。不義理をかけている方々、たいへん申し訳ない。
見たいはずのDVDも未開封ばかりが溜まるし、読みたい本も自宅と仕事場にその嵩を増すばかり。自室の整理もしたいのに。そのくせ酒を飲むことだけは忘れないし。どうしてこう要領が悪いのか。単にだらしないということか。
さらに来週からは武蔵野美大の映像学科で担当するゼミが始まるし、アートカレッジ神戸にも出前に行かなくては。
こんな調子で大丈夫なんだろうか(笑)
いや、いつだってそんな調子だったんだから、何とかなるだろう(このお気楽さが自分の首をギューギュー絞めることになるのはよく分かっている)。
事前にそれが「出来るかどうか」を熟考することも大事であろうが、私は生来優柔不断の傾向が大なので、まず事態に飛び込んでから格闘する方が能力の拡張には役立つように思える。

「「できるか」と聞かれたらいつでも、「もちろん」と返事をすることだ。それから懸命にやり方を見つければよい」ルーズベルト

私は別にルーズベルトのファンでも何でもないが、時にはこうした態度が必要であろう。
それを原則にする気はないが(笑)
ニーチェはこう言ってるらしい。

「あなたがたの実力以上に有徳であろうとするな! できそうもないことをおのれに要求するな!」

はい。

最近、かように「名言」づいているのは仕事上必要で読んでいる本の影響だ。
長い時間に耐えて生き残ってきた「名言・格言」を読んでいると、実に味わい深く、そして面白い。笑い出すほどおかしい。
確かギリシアの名言だったと思うが、こんなものがある。
「何でも覚えている奴と飲むのはごめんだ」
それ、名言なのか(笑)

さて、そんな古来の叡智には全然縁遠い話。
3年前の4月、マッドハウスの新人に向けて何か「一言」書いてくれという依頼があった。
以前にも紹介したかもしれないし、さして役にも立たないかもしれないが、入社や入学の時期らしいので改めて紹介する。
以下、長い「一言」である。

「「郷」の新人」 今 敏

「郷に入っては郷に従え」という俚諺があります。
広辞苑によれば「人は住んでいる土地の風俗・習慣に従うのが処世の法である」とあります。より快適な生活を送る上で実に含蓄のある言葉です。
和英辞書によれば同様の諺が英語にもありました。
「When in Rome, do as the Romans do.」
英語にもあるということは、この箴言が伝える叡智は洋の東西を問わず普遍性があるのでしょう。
新人の皆さんはいわばアニメーション業界という「郷」に入ってきたということになります。もっと広い意味で「日本の市民社会」という「郷」に入ったともいえるでしょう。
「日本の市民社会ならすでにその一員であった」と主張する方もいるかもしれませんが、学生・未成年というのは市民社会のフルメンバーとはいえません。何しろ学生というのは社会人になるための養育期間であり、色々な面で社会からの保護に包まれているのですから。
市民社会の一員となるということは、その保護が失われるということです。
「学生割引が利かなくなる」
そんな可愛いものじゃないことくらいは想像に難くないでしょう。
どういう面で保護が無くなるのか、それは皆さんがこれから仕事などを通じて体験し実感されることです。その時初めて自分を取りまいていた社会からの保護という皮膜が何であったのかが分かる。
裏返せば、皆さんはどういう形で自分が保護されているのか、現状では理解していないということです。保護された状態が20年前後に渡って続いてきたわけですから、当たり前のことです。

その保護されていた状態というのが、昨日まで皆さんが快適に過ごされていた「郷」です。その住み慣れた「郷」を出て新しく入るのが市民社会という「郷」です。
両者のルールは随分違います。
当然、市民社会の方が断然厳しいルールです。
これまで皆さんを優しく覆ってきた「学生」「未成年」といった緩衝材がなくなり、剥き出しの「個」として社会に参加するわけですから。
学生という皮膜に包まれているうちは、多少の失敗に対しても周囲の大人は「子ども(学生)のやることだから」というフィルタを通して見てくれますが、市民社会の一員となったからには、そういう優しい目で誰も皆さんを見てくれません。
かつての心地良かった「郷」のルールはここでは通用しない。
皆さんが何かトラブルに遭遇したとする。その時に「そんなルールは聞いていません」と抗ってみても返ってくる言葉は次のようなものです。
「あ、そ。でもここではそういうルールだから」
ルールとは言い換えると価値観で、つまりは昨日までの価値観が通用しなくなる、ということです。
新しいルール、価値観を一から学ぶつもりでいてください。

皆さんの中には、すでに社会人としての経験があるという人もいるかもしれません。あるいは学生時代にアルバイトなどを通じて社会経験があるという人も多いでしょうが、あいにくここは過酷と噂のアニメーション業界です。噂じゃなくて本当に過酷です。
でも仕方ありませんよね。皆さんが望んで入ってきたのですから。
それに、慣れると結構快適な業界です。私はこれまでのところすこぶる快適です。
どんな業種であれ、それぞれの業界には一般社会のルールとはまた異なるローカルルール(規範・常識・倫理観・風俗・習慣等々)が数多に存在します。
アニメーション業界という「郷」には他の業種とは異なる際だったローカルルールが存在すると思われます。それがどんなものなのか、長年この業界で呼吸してきた人間にとっては、それがあまりに当たり前すぎて意識もされません。
新人の皆さんは、上司や先輩からこの業界の「当たり前」を一から学ばなくてはならない。
しかも、先人たちは誰も懇切丁寧にその当たり前を教えてくれるわけではありません。
だって「当たり前」のことなんですから。「当たり前」のことを一々説明していては仕事にならないでしょ?
なので、皆さんは上司・先輩の仕事の態度ややり方、交わされる言葉の端々などを通じて、この「当たり前」を伺い知り、そして自分のものとして身につけなくてはいけないということになります。学校という保護のもとならば「分からない」といえば、誰かが「教えてくれる」ことになっているのですが、市民社会では「自分で学ぶ」ということになっています。
そりゃそうですよね。会社にいる上司や先輩は新人のための親でも先生でもなく、それぞれの仕事を抱えている人間なのですから。
教えてもらうのではなく「自分で学ぶ」。その学ぶための第一歩、よりよく学ぶためのもっとも重要なことはなんでしょう?
それは「自分は無知である」と覚知することにあります。
これ以外にありません。

ひどい言い方に聞こえるかもしれませんが、皆さんは「無知無能」です。
よく知りもしない41歳のアニメーション監督から無能呼ばわりされる覚えはない、という人がほとんどでしょうが、それは仕方ありません。だって皆さんはまだ何も仕事が出来ないんですから。
仕事の出来ない人間は「無能」といわれても仕方がない。それがルールです。
たとえば「制作」というセクションにおいては普通運転免許証が必須です。なので「私は車の運転が出来る」と主張する人もいるでしょう。ですが車の運転は出来てもよその制作会社や外部スタッフの場所を知らなければ、仕事が出来るとは言えません。
外回りの先なんて、まだ知らないでしょう?
車を運転できても行き先が分からないんじゃ仕事になりませんよね。だから教えを乞うて学ばなくてはならないということになります。
作画の新人なら「私は絵が描ける」とか「上手いと言われてきた」など主張したいことはあるでしょうが、仕事として通用する絵が描けるということはまったく水準が異なります。というのも、趣味ならば自分が描きたい絵を描くことが出来ますし、得意な絵だけを描いていれば済みますが、仕事で絵を描くということは自分以外の要請によって絵を描く、ということが大半だからです。
それに第一「絵が描ける」とか「上手いと言われてきた」ばかりが集まっている業界なんですから、そんなささやかな自尊心など誰も考慮してくれません。いっそ早いところ捨てた方が、業界で生きるにははるかに有利じゃないかと思います。

これまで手厚い保護のもと、誰にでもあるような気にさせられてきたであろう「無限の可能性」も「輝ける将来性」も、ここでは誰も認めてくれません。何せ先人たちは自分の仕事が忙しいですからね。誰も一々かまっちゃいられません。
そういう「輝ける未来像」や「いつか才能の翼を広げて無限の大空を飛翔するオレ様像」を捨てた方がいいとまでは言いませんが、それぞれの心の奥のタンスの一番下の引き出しのずっと奥の方にでもしまって厳重に鍵をかけておいて下さい。しばらくの間、そんなもの使いませんから。あると邪魔にさえなります。使う日が来るといいな、くらいに思っていて間違いありません。
その輝ける未来像を一生箪笥の肥やしとしてしまわないための第一歩は先にも言いましたように、「無知」を肝に銘じることです。
自分が無知だと分かれば、後は学ぶだけですからね。
ですが、人間というのは自尊心という度し難いものを携えているのでなかなか頭では理解しても自分が無知無能だと認めにくいものです。
だから、皆さんが制作現場という新しい郷で最初に学ぶべきこと、教えてもらうべきことは「私はいかに無知無能であるか」ということです。
無知無能を覚知すること、より正確に言えば覚知し続けることこそが有能に繋がると私は思います。

冒頭に記した「郷に入っては郷に従え」「When in Rome, do as the Romans do.」という箴言が、業界や仕事の「当たり前」を学ぶことと同じだということは理解されたと思いますが、もう一つ老婆心ながら付け加えておきます。
それは「どのローマ人を選ぶか」という問題です。
ローマ人なら誰でもいい、というわけにはいかないことくらいは誰にでも想像がつきますよね?
「ローマ人」の中には立派な人もいれば犯罪者だっているでしょうし、働き者も怠け者も優しいのもずるいのも含めて色々なのがいる。
同様に、学ばない方がいいような先人、上司や先輩が必ずいます。
どのような先人に学び、どういう人の真似はしない方がいいのか、それを判断するのは皆さん自身です。ということは誰を模範にするか、誰に学ぶのか、その「ローマ人」を選択する時点で皆さんの才能が測られることにもなります。
宜しくない人や行為を模範として選択してしまう、ということはすでに失敗なのです。
宜しくない人を見習えばそれ以下の宜しくない人になるだけですからね。もっとも、宜しくないように見える人を反面教師にする、というアクロバティックな方法もありますが。
いずれにせよ、何をもって模範とするかは重要な選択であり、しかもその選択をする時点において皆さんはまだ仕事や業界のことを知らない「素人」です。
素人なのに、何がプロフェッショナルなのかを判断しないといけない。ここには大きな矛盾があります。でも仕方がありません。そういうものですから。
では皆さん、模範に足る「ローマ人」を嗅ぎ分け、死なない程度に身体をこき使って頑張って下さい。

最後にもう一つ。
年寄りというのは話がくどいものですが、実はここからがミソです。
このテキストもいわば一つの「郷」というか「郷」の出張所みたいなものです。ですから、このテキストにも私である今 敏(41歳アニメーション監督)のローカルルールが反映しています。
まぁ、私個人のルールなので、学ばなくてもいいし、拒否したってかまわないんですが。
このテキストからも分かるように(ここまで読んだ人がいればの話ですが)、私はあまり優しい人ではありません。どちらかというと意地悪に属するかもしれません。
その証拠にこのテキストにはすでにいくつかの罠が仕掛けてあります。
皆さん、冒頭にある「俚諺」や「箴言」という単語は読めましたか? 途中で出てくる「数多」を正しく読めましたか?
高校や専門学校、大学を出ている皆さんでしょうし、難しい漢字ではありませんから、読めた方が多いでしょうか。
それぞれ「りげん」「しんげん」「あまた」と読みます。
私がテキストを書くにあたっては、ごく普通に使用する単語です。つまり私の「当たり前」です。読めない人もいるのではないかと思いましたが、何せ私の「当たり前」ですから、皆さんに合わせることはしません。
つまりは「読めないやつは自分で勉強しろ」という態度です。仕事も同じです。
「出来ないやつは自分で勉強しろ」という態度が「当たり前」です。これが業界のルールです。
読めない言葉に接して、すぐに辞書に当たった人、読み終わったら辞書に当たろうと思った人は進歩の兆しがあります。少なくとも己の無知に自覚的であるといっていいですからね。
しかも私は、読めない人が多いであろうと予想した「俚諺」という言葉を提示しておいて、その直後に「広辞苑」「和英辞書」という単語を使用しています。
これには「演出的」意図があります。
読めた人には関係ありませんが、「俚諺」という言葉が読めなかった人に対して「広辞苑」「和英辞書」という文字を提示して、「読めない字+辞書=自分で調べる」という連想をしてもらおうと思ったわけです。いわば文字によるモンタージュです。演出家はそういうことを考える仕事なのです。受け取る側がどう反応するか、こちらの意図がどう伝わるかといったことを常に考えながらなされるのが演出で、私は未熟ながらも「監督」という立場で演出を生業としている者です。決して意地悪でこんな罠めいたことをしたわけではありません。
このささやかな演出が通じた人がいるかもしれませんが、「全然考えもしなかった」という人もいるでしょう。さして上手な演出でもありませんしね。
しかし、そういう人はかなり出遅れていると言っても良い。
自分の無知に無自覚ということなんですから。
「私は無知でも無能でもない。色々なことを知っているし出来る」と気色ばむ人もいるでしょうか。
「私にはあれとかこれが出来る」「それとかあれとかを知っている」といった、「〜
が出来る」といったアピールや「いかに自分が正しいか」という主張「だけ」を並べる人たちを、「ちゃんとした」大人は信用しません。得意になってそれを吹聴し頑なに己の正しさを主張しているような人を、「ちゃんとした」大人は「バカだな」と思うことになっています。
バカじゃない人、真に知性的な人というのは自身の「〜が出来ない」「〜を知らない」という部分に照準している、己の無能や無知に敏感な人を言います。
知性として必要なのは自分の正しさを主張する態度ではなく、自分が正しいと思っていること、その信憑を疑うことにあります。「自分は大変な間違いをしているかもしれない」という果敢な臆病さを常に携えることが進歩や成長に繋がります。
たとえば先の読めない字に接した際、「いままで習ってないから読めなくても仕方ない」「普通使わない」といった感想を持つ人は、いわば己の無知に気が付かない人です。
「いままで(習っていない)」「普通(使わない)」というのは皆さんが勝手に思い込んでいるルールに過ぎません。そのルールを新しいルールに書き換えることを冒頭に紹介した古諺は伝えているのです。
肝に銘じましょう。

勘のいい人なら「古諺」は正しく読めたでしょう。
そうです、「こげん」と読みます。
その調子で頑張って下さい。