VSダーレン

1月18日、「π」のダーレン・アロノフスキー監督と対談してきた。
新作「レクイエム・フォー・ドリーム」の宣伝のため来日しているそうで、私が対談するのもその一環。私の方もやっと完成する「千年女優」の良い宣伝機会というつもりで引き受けたわけだ。
「Esquire」という、雑誌での対談である。「エスクァイア」と表記すればよいのであろうか。辞書によると、
「《名》[通例 Esq. で用いて] …殿, …様」
なんだそうな。
私は一度も買ったことのない雑誌だが、その名前や店頭で見かけた表紙のイメージからは何やらちょっと高級そうな気がしたので、多少私も外見を気づかって行こうと思った。が。いかんせん普段着しか持ち合わせていない。多分写真撮影はあるんだろうから、せめて鼻毛くらい切ってみた。へっくしょん。電動鼻毛切りは便利である。
ちなみに対談の掲載は「レクイエム〜」の公開時期に合わせるということで、まだ先らしい。

外苑前で地下鉄を降りて、地図に従ってホテルに着く。が、入り方がよく分からない。何だこのホテルは、不親切な。会員制のホテルだけあって一般ピープルには入りにくく出来ているのか!と憤りさえ感じていたが、実は私が裏口から入っていただけであった。憤ってすまん。
ロビーで「エスクァイア」の編集者の方と合流して取材場所だというダーレン・アロノフスキーが宿泊している部屋に行く。いい部屋に泊まってやがる。売れないアニメ監督ではビジネスホテルが関の山かもしれない。

スケジュールが過密気味のアロノフスキー監督は、この部屋で缶詰になって取材を受けていたようで、やや疲れ気味の上に体長も万全ではないと聞いていた。実際この日、予定の半分で切り上げた取材もあったという。後で聞いたところによると同じ質問ばかりされて疲れたのであろうとのこと。それはよく分かる。分かる分かる。聞く方は初めてでも聞かれる方も初めてとは限らないのだ。ふっと頭をよぎる。
「実写で撮ろうとは思わなかったのか?」
「パーフェクトブルーというタイトルの意味は?」
うるさい。

アロノフスキー監督のこの日の取材予定は、私との対談がこの日の最後だったのだが、私のすぐ前の対談相手が森本(晃司)さんで、意外な場所で馴染みの人に遭遇してちょっと驚いた。吉祥寺の飲み屋ならいざ知らず、こんな会員制のホテルの部屋なんて。
そちらは「コミッカーズ」という雑誌での対談のようで、アロノフスキー監督は疲れ気味にも関わらず、森本さんとの対談は下品な話題で大いに盛り上がったようである。
下品な話題で盛り上がったと聞いては同じことは出来ない。ウンコの話はやめよう。いやそんな話は端からするつもりはないけど、なるべく下品じゃない方で考えることにする。

アロノフスキー監督は31歳の白人、痩身で少し神経が細そうな感じのする男であった。会うなり「ファンだ」といわれても、私としては日本人得意の曖昧な笑顔で答えるくらいしかできない。「ナイストゥミーチュ」
対談後、食事もご一緒させてもらったのだが、彼は肉は食べられず、酒もほとんど飲まずタバコも吸わない。それでアディクション(中毒)を題材にした「レクイエム〜」を撮っているのはちょっと意外なような気もしたが、案外そういうものかしれない。もっともワーカホリックだそうな。共感しよう。

さて以前掲示板でも触れたが、彼は「パーフェクトブルー」の実写化権を買ったと聞いていた。ゆえに私はこの日次の言葉を彼にぶつけるためにこの対談を引き受けたといっても過言ではなかった。
「たとえアニメーションであれ、すでに映像化した作品をさらに映像化しようなど、一体どういう料簡だ!?」
ウソに決まっている。どのくらい本気なのかちょっと聞いてみたかっただけだ。
が。結果としては契約に至らなかったそうな。

アロノフスキー監督は随分前向きに実現しようとしたようで、具体的な値段の交渉もしていたようだが、「アロノフスキー以外が監督することはない」という条件を盛り込めなかったことなどが原因で契約できなかったらしい。
私としては特に残念でもないが、アロノフスキー監督はなかなか良い人だし私のファンだというし、賢そうな人だし私のファンだというので実写もちょっと見てみたかったような気もした。
「ダーレン、ネタがないならオレが考えてやろうか?」
そんなことは言わない。
彼もすでに次の作品の脚本を進めているようで、その脚本家も一緒に来日していた。アロノフスキー監督のハーバード時代のルームメイト、なんだそうである。「すわホモか!」と邪推が閃光のように頭を走るが、違うらしい。いや別に私はそういう趣味に対する偏見はないので誤解しないでいただきたい。

さて対談である。編集者がとりあえずお題を提供する。
「じゃあ、まず“パーフェクトブルー”について」
何でやねん。「レクイエム〜」の話をしようや。良識を身に付けた大人として私は、今回は相手の新作の宣伝に協力する形で隙あるごとに「千年」の話題に無理矢理つなげる気でいたのに。いいじゃん、もうそんな古い話。
「レクイエム〜」の宣伝担当の方からは「もっと“レクイエム〜”の話を」という目に見えぬ波動を感じる。ちなみにこの「レクイエム〜」の宣伝担当の女性は「パーフェクトブルー」の宣伝でお世話になった方である。そんな縁もあってこの対談である。
縁は他にもあって、「レクイエム〜」と「パーフェクト〜」はまんざら遠い間柄ではない。うちの掲示板の読者の方は覚えておられるかもしれないが、「レクイエム〜」には「パーフェクト〜」に随分影響されたシーンやまるごと真似たカットがある、と以前書いた。
私「“レクイエム〜”にはどこかで見たようなシーンが出てきて、見ていてちょっと気恥ずかしかった(笑)」
ダーレン「あれはオマージュだ」
“オマージュ <1>尊敬。敬意。<2>賛辞。”
おいおい益々いいやつじゃないか、ダーレン。

もっとも顕著なパクリ……いやオマージュの表現は、「パーフェクト〜」で未麻が膝を抱えて湯船に浸かっているところを真俯瞰で映すカット、それに続く水中からのアオリでゴボゴボッと息を吐くカットである。これを「レクイエム〜」では構図も芝居もそのままにジェニファー・コネリーが演じている。
「レクイエム〜」ではまた「赤いドレス」」が重要なモチーフとして登場する。これも「パーフェクト〜」でルミがラストに着る赤い衣装が念頭にあるとのこと。太ってしまった中年女がかつてジャストフィットしていた赤いドレスを無理矢理着た様はまるでルミみたい。
しかしパクリ過……いやオマージュのし過ぎじゃないのか(笑)、ダーレン。

アロノフスキー監督は今でも、というか今だからこそ「パーフェクト〜」を実写でやってみたいと思っているそうな。
聞くところによると最近アメリカではいわゆるアイドル的な存在で売れているグループだかがあるらしい。“なんとかーズ”だったと思うが名前は失念した。
ともかくそういう背景も考えると「今“パーフェクト〜”の実写を作れば絶対受ける」と力説する。アイドル的存在に対して日本ほど免疫のないアメリカでは、まだ彼女たちが「処女かどうか?」が大問題になっているのだとか。
私「日本ではそんな問題は随分前に終わってしまった(笑)現在はもっと歪な形でファンとアイドルの関係が深化している。変態みたいなオタクは沢山いるらしい」
ダ「オタク!!」
「オタク」という言葉にえらく反応するダーレン。
ダ「オタクという言葉が大好きだ。英語でそれに当たるものがない」
確かに「オタク」という単語は「ゲイシャ」「フジヤマ」「スキヤキ」「カラオケ」「ポケモン」に並んで世界で通用する言葉かもしれない。
彼の前作「π」というのが正に「オタク」を扱った映画と言える。
私「“π”はオタクが社会性を獲得して行く話でしょう?」
「まったく違う」と言われたらどうしようかと思いましたが、
ダ「まったくその通りだ」
あの映画で面白いのは天才性を持っていたかもしれないオタクが社会性を獲得することで逆にその才能を失ったかもしれない、という皮肉な点。実際それはよく見られるケースかと思われる。また冒頭、主人公がドアに開けられた小さな穴から外を覗く様や、子供や女性としか、それも薄いコミュニケーションしか取れないあたりは上手くオタクを描いているように思える。

ダ「現在の仕事は?」
私「昨日、“千年女優”という新作の0号試写だった」
ダ「どんな内容?」
私「元女優の婆さんが一代記を語るのだが、そこに彼女がかつて出演した映画の断片がまじってくる。それは遙か中世から近世、近代、現代そして未来までもある男を追いかけて行く女の物語だ」
ダ「面白そうだ。女優の話ということで“サンセット大通り”なんかは意識したか?」
私「いや、意識があったとすれば“スローターハウス5”かな」
ダ「“スローターハウス5”!大好きな映画だ」
そりゃそうだろう。あれが分からないやつは目が節穴だ。
私「ああいう別々な時空間が同時に認識されたり、連続している時間、あるいは他者と自分といった明確な区別が存在しているはずの関係が混沌としてくるような話が好きだ」
ダ「……それは私が次に作ろうとしている映画のテーマに非常に近い」
多分アロノフスキー監督と私の指向が似ているのかもしれないが、こうしたことをテーマとするのは先進国においては同時多発的な傾向に思われる。
ダ「新作の予算はどのくらい?」
私「1億4千万……くらいかな」
ダ「!!アメリカに来てくれたら僕はその10倍以上は軽く集められる。是非やろう」
「軽く」と来たもんだ。「やろう」だとさ。
前作の「π」が制作費6万ドル、約600万円という自主映画に毛の生えたような予算、2作目でその百倍どころかそれ以上の制作費という出世の早さを考えると、確かに「軽く」というのも頷けよう。やるな、ダーレン。
前作の「パーフェクト〜」が一億円、2作目で何とその1.3倍という素晴らしい出世の歩みを考えると我ながら情けなさも感じるが、やはりアメリカと日本の土壌の違いを思わざるを得ない。
私「予算は欲しいな」
ダ「ただし、英語の作品だ」
私「……」
そりゃそうだろうな。しかしこの対談だって通訳越しに交わしているのだ。黒澤の「デルスウザーラ」の例があるとはいえ、言葉がろくに分からないで映画を作れるとは思えない。
私「……セリフ無しにしようかな(笑)」
ダ「サイレントか。音楽だけのアニメーション、それでもいいからやろう」
まったく、アメリカ人は(笑)
しかし必ずしも調子のいい冗談とは言い切れないようだ。
オフレコでちょっと真面目な仕事の話もして、実際、とある仕事をやる気はないか、とも言う。ありがたい話である。もっとちょうだい、オマージュ。

対談後、渋谷のタイ料理屋で一緒に食事をとりながら色々な話をさせてもらったが、例えば「千年」がアメリカで上映される機会があるようなら、
「僕が評論家とか文化人とかに声をかけてスクリーニングをコーディネートしてもいい」
とも言ってくれる。違うな。あまりに状況が違う。逆はあり得ないからなぁ。いくら社交辞令とは言っても私には口に出来ないセリフだ。
なんか情けなくなってきた。オマージュを捧げられてる方が知名度も社会的信用も使える予算も少ないんだから情けない話だ。あああ……食えなくなったらダーレンに仕事をもらおうかな……メールアドレスもらったし……けど社交辞令を信じてバカを見るかもしれないしなぁ……向こうが大売れしちゃったら忘れられてるかもしれないし……頼った挙げ句に言われちゃ叶わないからな…………「?あなたはだーれん?」なんて。

すいません。

違うらしい/その3

前回から随分間が空いてしまって、書いている当人が一体何を書いていたのかすら忘れてしまったほどなので、お付き合いいただいてる皆様においては尚更のことかと思われます。申し訳ない。もっとも、私が謝らねばならぬ程楽しみにしている方がいらっしゃるとは思えませんが、また少しずつ続きを書いてみようかという気になりました。別に仕事が過度に忙しくなって、現実逃避が始まったわけではありません。
前回までの内容を忘れた方のために、簡単に要約しておきますと「“今 敏という人間は怖い”と思われがちだが、実際はもっと怖い」ということです。ウソです。そうしたイメージを払拭するべく本当の私について熱く語っているわけです。尚のこと冗談です。「なぜ怖いと思われるのか」あるいは広い意味で、作品や言動や外見から受けるイメージと実際の人間像とのズレを、不肖私を一サンプルにして考察しているわけです。


「怖い」
はて?一体何をして相手は私を「怖い」と想像していたのであろうか。
これがどうにもよく分からない。よく分からないことを当て推量であれこれと書き連ねるのも不毛な気がするし、当の私に関する認識の問題は、これを御覧の方々の方がよく分かっておられることかもしれない。とは言うものの「怖い」というのは尋常ではない。日常生活で他者に対して「怖い」などと思うことなどそう滅多にあるものではないと思われる。実際、私は他人を怖がったりしない方だ。だから怖がられるのだ、って?的を射ているかもしれない。
無駄な恐れなどは卑屈な自分の裏返しだと思っているので、心に一点の曇りもない私は人を怖がらない、というわけですね。ウソです。
何てことはないのだ。一見恐そうな、というか人格的迫力を持った人間に出くわしても、その人間が一番情けないであろう瞬間を想像するとフレンドリィな気持ちになろうというもの。あれとかあれの瞬間の顔を思い浮かべてやりゃあいいのさ。みんな情けない顔をしているもんだ、といったのは誰の言葉であったろうか。
まぁいい。
逆に考えると「怖い人かと思ってました」ということは、「実際は怖くなかった」という認識があろう。怖いと思っている相手に対して「怖い人ですね」というわけもあるまい。つまり実際の私が与える印象は恐くはない、ということなのでこれをお読みの皆さんもお気軽にお付き合い下さいね。
何が「ね」だ。

最近は仕事絡みだけでなく、オンラインの知り合いにオフラインで顔を合わせる機会も多い。去年の秋、神戸での講演の際には当HPでも登場頻度の多い「朝風呂派」も訪ねてきてくれた。朝風呂派は以前にも会ったことがあるのだが、その日彼が連れてきた友達とは初対面であった。朝風呂派のHPからその場面を引用してみる。
>ダイ(朝風呂派の友人)はただ呆然と「恐そうな人やなぁ・・・」とつぶやいている。
やはりである。面目躍如だ。恐いのである。や〜い、びびれ。
とはいえ実際の私は彼らの飲食費を気前よく払わされていたりする足長オジサンである。
また、少しばかり仕事絡みだがオフラインで人に会った。若い娘さんである。千年HPでは「姫様」として紹介させてもらったミス・ランニングモデルである。撮影終了後の焼き肉屋での打ち上げにおいて、特上カルビと共にまたしてもこのお馴染みの言葉に遭遇したわけである。
「恐そうな人かと思ってました」
やんや。痛快である。
彼女曰く「HPとか掲示板の印象では、恐そうに思える」とのことであった。やんや、やんや、と思っていたら、同席した千年スタッフ一同から、矢のような突っ込みが来た。
「HPの今さんは虚像だから」
何と失敬な。
「俺達の前で見せる顔とはまったく違うじゃないですか」
無礼千万な。
「あれは俺らの知らない今さん」
ええい、そこへ直れ。

実際それ程に本人とHPにおけるイメージにズレがあるのだろうか。私自身は正直一途、裏も表もなく、娑婆でもサイバースペースでも印刷物でもフィルム上でも掛け値無し、唯一の私である。絶対無二の本当の私。と書くとまたぞろ雨のように矢が飛んできそうだが、お構いなしである。他人の目を気にするような卑屈な男ではない。少しは気にしろ?しない。
気にはしないが面白いのでさらに考えてみる。
HPに限らず絵においても「恐そうな描き手」が想像されるとは一体どういうことであろうか。恐そう、のバリエーションで、厳しそう、というのも聞かれた感想である。
厳しそうな絵。
よもや他人に対してだけ厳しそうな絵、ということはあるまい。他人を非難し続ける絵などあったらそれこそ怖い。自分に厳しい感じを受ける絵だから他人にも厳しい人かも、ということか。やっぱり己に厳しい態度で仕事に臨んでいる私の、白刃のように研がれ磨かれた精神が覆い隠しようもなく輝きを放ってしまっているのであろうか。分かった分かった、ウソだよウソ。
実際、とある原画マンは漏らしていたらしい。
「今さんて、もっと厳しい人かと思ってました」
私が自分の誕生日に、早々に仕事を切り上げて帰った、と知ってそう漏らしたらしい。私にも事情がある。それに仕事が遅れているとはいえ、自分の誕生日に美味いものと酒くらい飲んでもバチなどあたらない、と思う程度に緩い頭である。
しかし何故であろうか。単純に絵が細かいからであろうか。細かいことまで気にして絵を描くような人間だから、きっと他人の細かい挙措動作もあげつらうに違いない、ということか。心外である。私は敵に対しては骨になっても戦い、弱いものに対してはあくまでいたわらねばならないという薩摩士道を叩き込まれた不器用な木強者(ぼっけもん)だ。おい。
確かに細かいことに目が行く性格かもしれない。観察される側としては自分の弱さを掴まれるのではないか、という恐れがあるのかもしれないが、実は私は底抜けに陽気なイタリアンである。おい。
しかし、それは私の人格というよりも私に接して恐いと思う人の内面の裏返しであろう。その点私なぞは裏も表もないだけに、誰に接しても恐いなどとただの一度も思ったことは……あるな。あるや。そういえば。

違うらしい/その2

そんな業界噂話はさておき、パーティの席上などで他の漫画家さんと初めて顔を合わせたりする際、双方ともに本人より先にその作品を知っている、というケースが多い。同じ雑誌で仕事をしていれば、熱心な読者とまではゆかなくとも、その絵柄や大まかな内容くらいは知っているものである。
私の場合、編集者に紹介されたものの、さっぱり相手の漫画を知らないという気まずい事態も多々あったが、それでも関わりのある雑誌に連載をしている売れっ子の方の作品は無論知ってはいる。実際お会いしてみると、それ程大きなイメージの差はなかったように思われるが、そのズレを感じられるほどに深くお付き合いさせてもらった経験がほとんど無いせいかもしれない。残念と言えば残念だし、どうでもいいといえばどうでもいい。
お会いしたりお見かけした漫画家さんの範囲では、見るからに作品の印象と違う、という方はいらっしゃらなかったような気がする。
ちばてつや先生は、いわずと知れた「あしたのジョー」の著者であるが、その名前を冠した「ちばてつや賞」(ヤングマガジン主催)に応募したことで、私が漫画家になるきっかけを与えていただいた。授賞式で握手をしていただいたが、大変に丸みのある温かい手で、作品から忍ばれるお人柄そのままのようであった。受賞作を集めた合本に気軽に「ジョー」の横顔を書いて下さった。何年か後、船上パーティでお見かけしたときは、ベロンベロンに酔っ払っていて、挨拶をするのに少々勇気がいった。違う意味で「恐かった」かもしれない。

漫画業界に比べて、アニメーション業界は幾分世間が広い。集団作業を必要とする仕事の性格上、当然である。
アニメーション業界には向上心やら研究心に溢れた人が少なからずいるようで、あるいはすでにプロでありながらファンでもある、というやや幼稚といってもいいようなハイブリッドな人間も多い。
冗談ではなく、とびきり上手な原画マンのゴミ箱を漁る人もいる。下書きをコレクションするらしい。研究熱心なのかいじらしいのかはともかく奇特である。上手い原画のコピーが出回るなど日常茶飯である。それらを参考にする、という真っ当な方も多いが、コレクション自体が目的になっている、という歪なファンもいるようで、スタジオで夜な夜なコピーを取り続けている男を見たことがある。アニメ会社の経費がかさむのも無理はない。その男も近頃「監督」というポジションに座ったと聞く。心配を通り越して気の毒ですらある。本人も周りのスタッフも。
特殊な例では脇目もふらぬ程に「自分のファン」という方もおられる。自分の描いた絵のセルを、我先にコレクションするのだそうな。かつて制作されたとあるアニメーションでは、ビデオ購入者へのプレゼント用のセルが足りなくなるほどに本人がコレクションしたというのだから、見上げたものである。天晴れ。快男児である、ある意味。
仕事上あるいは飲み屋の席上、私はアニメ業界人で初めての方と顔を合わせることも度々あるのだが、相手の方が「今 敏」の仕事を知ってくれていることが多いのに、多少の驚きと気恥ずかしい喜びを覚える。中には仕事ではなく、私の性格だの行状の悪さだけを耳にしてきた方にもお会いしたことはある。迂闊なことが出来ないほどに業界は狭い。桑原桑原。
しかも業界に携わるものは、作話や演出に興味のあるものが多い故、エピソードは色鮮やかに脚色される。つまり話に尾ひれが付くのが滅法早い。最初は「卵」程度だったエピソードが、すぐに尾っぽと手足が生え、3人目に伝わったときには「カエル」になっている程だ。狭いアニメーション業界はその分濃密な空間なのかもしれない。意図的にゆがめられた伝言ゲーム空間だ。

ありがたいことに、私のようなろくに仕事をしない人間の数少ない仕事を覚えてくれている人がおられるというのは、私の才能ゆえに相違ないといえる。冗談だよ。
ことアニメーションに関しては、私の関わってきた仕事が、注目されやすい作品であったと解釈している。私が主な仕事としてきた「設定」「レイアウト」などという制作過程は、フィルム上で、特に絵の素人にとっては取りたてて目立つものではないし、それを覚えていただけるのは「ムック本」の類が出版される作品だったせいかと思われる。
「“パトレイバー2”のレイアウト見ました。勉強になります」とか「“彼女の思いで”の設定、すごいですね」などと、初対面の方から言われるのは、お世辞とは思いつつも無論悪い気はしない。もっと言って。「上手い」とか「すごい」のは自分でもよく分かっているし、既に聞き飽きたのでもっと別な表現をして欲しいものだな。「今さんのレイアウトには魂が入っている」とか「設定のディテールの合間に仏が見えました」とか。ウソだよ。ウソウソ。
彼らは私にとっては初対面であるのに、相手は「今 敏」を多少知っていることになる。正確に言えば「今 敏の仕事」ということになるが、誰であってもその仕事に触れる際には、その仕事をした人間の人格なり性格なりに思いが至るものであろう。私が他人の絵や文章や映像作品に触れれば、作り手の顔を想像するし、それが優れたものであればあるほど、その方の背景に思いを巡らせる。仕事は当人の一部が外在化したものである以上、そこから当人を把握するのは当然である。
そうした把握と実際の人間像のズレについて考えている。
上記の場合、相手だけがなにがしかの先入観を持っている、ということになる。その相手と同じ仕事を続けたり、あるいは飲み屋で共に飲酒量を増やすに従って、冒頭に記した言葉を耳にするのである。
「怖い人かと思ってました」

違うらしい/その1

今回は変則的な連載、というよりは分載という形で載せて行くつもりだ。多分。


もうすっかり慣れっこになっている。
だいたいの人が後で聞くと、そういう言葉を口にするのだ。
「恐そう」
私のことである。いやぁ、照れるなぁ、そんなに褒められ……褒めてないか。
「恐そう」とか「怖そう」、「強そう」あるいは「壊そう」、違うか。いや、存外「壊そう」があたっているかもしれない。
ともかく、どうにも私は恐そうな人らしい。
別にそう言われることを気に病んでいるわけでも嬉しがっているわけでもないし、勘違いを正すべくこの稿において「本当の私」だの「虚像の私」を分かってもらおうなどとたわけたことを記すつもりはない。ただ、「本当」かどうかはともかく、本人が思う当人像と他者が認識している当人像の「ズレ」について考える一サンプルとして、ちょっと自分を例に考えてみたい。
これを御覧になっている皆さんにも、多少なりとも経験がお有りの筈だ。HPやメール、チャット・掲示板、パソコン通信の会議室などで、オンラインで知り合いになり、オフラインで実際にその人と対面したことがある人などはよくお分かりになろう。
「○○さんって意外と……」
「××さんってそういう人だったんですか」
などという言葉に苦笑したことのある人も多いのではなかろうか。
また、長年付き合いのある異性から冷たい視線と共に、
「……そういう人だったのね」
などという胸の痛くなるような言葉を……これはちょっと主旨と外れるか。
ともかく当人が「イメージと違う」という経験は読者諸兄にもよくお有りの筈だ。
何やら「パーフェクトなんとか」というアニメのテーマみたいなことを今更掘り返すようだが、何かと実感することも多いので改めて考えている。考えてもなにがしかの結論も有益な教訓を導き出せるとも思っていないが、現実逃避の一環として……いや、そんなことをネタにしてまたもや愚にもつかないことを垂れ流そうというだけのことだ。
あるいはまた「ホームページを作ろう(笑)」の番外編たりうるかもしれない。

いきなり余談である。
漫画業界にしろアニメーション業界にしろ決してその世間は広いものではない。特に漫画業界などは若くして売れっ子にでもなろうものなら、その世間がおよそ編集者とアシスタントが形成するささやかなものになるのは致し方のないところであろうか。世間が広ければ良いというものでもないが、その限られた世間の中で「先生」として奉られているとなると、どういう大人になるかは推して知るべし、であろう。幼い精神と億の収入のアンバランスに新興宗教の門をたたく人間が出てくるのも無理からぬことであろうし、精神が細く削られて病んだ心になるものまで現れるのも致し方ないことかもしれない。いや、別に誰かを特定して言っているわけではないので邪推しないように。実際そうした人たちがいるという噂だけは耳にしているが。噂はともかく、お金と不幸のあるところに新興宗教の手合いが嗅覚鋭く現れるのは、その本能であろう。引っかかるやつが悪い。
漫画業界の横の繋がりというのは実に希薄なもので、漫画家同士が顔を合わせる機会といえば、出版社主催の年末のパーティくらいであろうか。
私はあまり出席したことはないが、講談社のそれでは豪華なビンゴ大会などが催され、女性漫画家がこの機会を逃すか、といわんばかりに派手なドレスなどで大いに飾り立てた姿でうろついていたり、ミスマガジンがパーティに華を添えたりしてなかなかに盛況である。そんなパーティで今は亡き堀江しのぶという人を見かけたこともある。若くしてガンで亡くなったアイドルだったと記憶している。合掌。
堀江を偲ぶのはこの位にして、さて。

以前、とある編集者に聞いたことがあるが、漫画の編集者は漫画家同士をなるべく会わせないことを良しとするそうである。むべなるかな。概ね「自分が一番」だと思いこんでいる人間が漫画家になっているのだ。付き合いが始まって当初は珍しがって同業者と楽しい時間を過ごしたりもするらしいが、これが一旦ことがこじれると大変にややこしいことになるのも非常に論理的な帰結である。特に女性漫画家さんは感情量も人一倍多いのか、仲がこじれたりすると「あの子の方の(雑誌上での)扱いが良いのが許せない」などといった、噴出する感情論に編集者は痛い目に遭わされたりするのだそうな。実話だ。
よって、漫画家同士の付き合いはごくごく気の合うもの同士の狭い付き合いになる、らしい。あるいはかつてのアシスタントであった漫画家と師匠筋との付き合いであるとか。ともかく狭いことに違いはない。
前置き、というか余談が長くなった。

番外編 – その7

よく見かける構図がある。
アニメでも漫画でも小説でもホームページでも良いのだが、「これを作りたい」と思っているアイディアがあるとする。日々の仕事に追われそのアイディアは実現されないままに時間が過ぎて行くうちに、「あれもできる」「こんなこともできる」とそのアイディアは少しずつ膨らみ、本人の中で傑作として光り輝き始めるであろう。「これがを発表すれば世間は驚くに違いない」くらいの妄想も生じる筈だ。
が。そうしたアイディアが具体的に形になったというケースはあまり聞かない。絶無ではなかろうか。構想を温めるというと聞こえはよいが、大体が本人の実現力の欠乏とアイディアの過大評価に過ぎない。以前にも同じことを書いたかもしれないが、あまりにもよく目に付くケースなので再びこきおろす。
よしんばそれが何かの機会を得て実現の運びになったとしても、本人自らが逃げ出すケースが実に多い。傑作ではなかったからである。具体化されない「傑作になる筈のアイディア」はいざ具体化される段になると、思っていたよりも遙かに不都合な点が多く、傑作は実に小さく凡庸なネタであったことを思い知るのである。けけ、知りやがれ。
両の手の中に溢れるほどに見えた筈のアイディアが、具体化のプロセスで指の間からこぼれて実に小さなものに変わってしまうことに耐えられない、ということらしい。何とひ弱な現代っ子か(笑)
脆弱な神経でものを作れるのなら楽なものだ。
よってこうした連中は、なんら作品の一つもできないままに他人の作品の悪口だけを飲み屋で垂れ流し、次なる「幻の傑作」に思いを馳せることになるわけだ。何と不健全な。
そういう輩は一生モラトリアムで終わってしまえ。お前達のような輩に「遠足」の晴の日なんか来るもんか。ざまぁ見やがれ。遠足の前日だけを嬉々として過ごすして墓場に行っちまえ。
話が少々それた。つまりはこういうことを言いたい。最初に持っている「好きなこと」というのは、およそ借り物であったり、あまりに脆弱なものであったりすることが多く、それをまず吐き出し、裏返った自分の虚ろを見据えつつ、それでもさらに続けて行くうちに生じてくる「気」のようなものこそが、純度の高い表現の欲求である。らしい。多分。私はそうだった。強固な「好きなこと」というのは試行錯誤の末に生じてくるのである。
ただし、溢れる才能の持ち主はこの限りではないだろうし、最初から純度の高い欲求を有しているものもいるし、そんなことを考えもしないで傑作を生み出しうる人間もいよう。そんなやつのことは知ったこっちゃあない。他人の才能に憧れたところで何の益にもならない。益にもならぬ比較など百害あって一理もない。無駄である。素晴らしい才能はただそれを愛でるだけでよい。
ともかく、最初に持っているつもりの「好きなこと」などは、とっとと吐き出してみないことには何も始まらないように思われる。それを吐き出して具体化して自分で客観的に見ることが肝心である。そのとき分かるはずである。いかに凡庸であったか。いかにそれが既製品の借り物であったか。いかに自分の表現技術が未熟であったかを。そこから、である。一度借り物にまみれた精神を更地にするのだ。
精神の爆撃である。
しまった……ふと思い付きだけで書いてしまった。意味が分からないか。こじつける。
成人するまでの間に吹き込まれ、刷り込まれた価値観はその多くが思い上がりに底上げされ、自分なりに何やら特別な価値のあるもののように思われ、さらには可能性は無限であると思わされているはずだ。この状態を戦前の日本と考える。神国日本が負けるはずはないという狂信の態である。若さと狂信は似たようなものであろう。毒にも薬にもなりうる諸刃の刃だ。毒になることが圧倒的に多かろうが。
学業を終えて世間に出るというのは、いわば太平洋戦争である。思い上がりは連合国という世間によって粉砕され、精神という国土は焦土と化す。ごく一般的に見受けられる「世間の荒波」にもまれるという構図である。あった、といった方が正しいであろうか。
世間が既に弱体化している。弾けたバブルに反省の欠片もない世間が荒波を生むことも少ないのではないか。多くの人間が凪いだ海を心地良しとしている。平均化された社会や平衡化した文化の中で新しい物を生み出す「差異」という波打ち際が極端に少なくなっているのも根は同じであろう。
ともかく。格差が少ない社会においては多くの者が荒波にもまれることもなく、脆弱な価値観のまま安穏とした生を続けることも容易であろう。良い世の中とも言える。無論常態が続くことによって生まれた腐臭は濃いが、実際、平和で豊かな良い国である。
この現在良いであろう日本国の出発点は戦後の焼け野原にあった筈だ。更地である。B-29の群がその爆撃によって日本を更地にしたのである。そこから復興し発展を遂げる時期はさぞ力に満ちた世の中であったと想像できる。高度経済成長というやつか。日本よあなたは強かった。
国にしろ個人にしろ、上向きな変化の過程においてこそ力は蓄えられるものである。常態は消費に過ぎない。
個人の成長にも、ある時期爆撃が必要なのではないか。好きこのんで精神を焦土にするほど奇特な者がいるかどうかはともかく、以前ならば世間が与えてくれた爆撃が、世間の弱体化によってその機会を失わしめている。
更地に戻らない。
無論更地とはいっても人間がおいそれとリセットできるわけもなく、それまでの知識体験経験を無駄にするわけではないし、思い込みを疑って否定すべきものは否定するといった程度の意味である。
ともかく更地に戻す機会が失われていると思われる現状では、それを与えるのは己が手による他はないのではあるまいか。自助努力だ。
先に刷り込まれた価値観を「まず吐き出し、裏返った自分の虚ろを見据えつつ」と書いたのはそういうことである。
話が随分と大袈裟になったなぁ。針小棒大が当HPのモットーゆえ我慢しろ。

話を小さなところへ戻す。
ホームページで当初展開するような内容は、吐き出すための助走程度と考えた方がよいのである。先程「続けて行くうちに生じてくる“気”」と書いたが、「気」を生じさせるためには継続される時間が必要なわけで、ホームページという素人と玄人に区別のない広大な公共の場はその格好の舞台だと思われるのである。自慢のコンテンツをネットに上げることによって、結果惨敗することもあろうし、快感を得ることもあろう。ともかくもそこで客の目を意識することで客観性も生まれるであろうし、自分のやりたいことや好きなこととやらが明確になったり、より強固になる。これを娑婆で同じように実践するとなると、おいそれと素人が参加できる余地はあまりに少ないはずである。私のホームページ礼賛は基本的にそこら辺にある。
だからこそ「ホームページを作ろう(笑)」なのであった。……本当かな。

ついでに考えてみる。
「好きなことを仕事にしているのはとても素晴らしい」
よく聞かれる言葉である。確かにその通りである。私なども好きなことが仕事であるという点においてはその端くれであろうか。
昨今の若者の指向などは特にそれを求めているように思われる。「好きなことを仕事にする」ことが幸福の第一条件になっているようで、それが「見つからない」ことが巨大な悩みであり、焦りの原因にもなっているようである。
それはそれで仕方のない面もあろうが、しかしである。自分の例で考えると、確かに好きなことを指向してそれを生業とするようにしてきたのは確かだが、それは後付でもっともらしく思われるだけで、続けているうちに好きになったという側面が大きいのである。
先日ひいきにしている演劇集団のHPを見ていると、その作・演出家の日記に同じ様なことが書かれていた。
最後にこの一文を引用させてもらう。元のページはこちらにあります。
『惑星ピスタチオ「白血球ライダー2000」オフィシャルサイト』内、「N氏の普通日記/10月8日“演劇をやる理由について、ちょっと熱い話。”」

「やりたいと思って演劇を始めたわけではありません」
自分にどんな道が合っているのか、自分がどんな資質を持ち、どんな職種が向いているのか。
そんなことを考えて劇団をはじめたわけではないのだ。強いていえば、ある日突然、演劇をやることに決めたのだ。別に演劇が一生をかけるほど好きだった訳ではない。しかも、演劇の才能は正直ないと思っていた。
僕は中途半端な個性を持った人間で、自分に何が向いているのか、そんなことの答えを探していたら、それだけで何十年も経つに決まってる。「向いていること」を探しているうちに、人生手遅れになる。
だから僕は、自分に合っている道を探すことは最初からせず、もう何でもいいから「これをやる」と決心して、向いていようが向いていまいが、好きだろうが嫌いだろうが、とにかくわき目もふらずに、それを頑張るしかないと思ったのだ。
天職、と思える才能が自分に見つからない以上、一刻も早く、適当でも何でも良いから道を選び、人生の時間の全てをそれにかけるべきである。そうすればきっと、才能がゼロでも、そこそこまで行くんじゃないか。そう思った。
だから今でも正直、演劇が好きかというと、よくわからない。しかし僕は命をかけ、一生をかけて演劇をやると決心している。一生を、命をかけてやるからには、絶対に凄いものを作るしかない。もう、ホント、なにがなんでもそうするしかないのだ。たとえ誰にも理解されず、仲間も得られず、孤独なまま一生を終えようと、やるしかない。僕はその決心をしたのだ。

素晴らしい。見習うべき態度であろう。さすが。なんだか読んでいて嬉しくなった。
実際「好きなこと」を職業で実践しているように見える多くの人も、当初からその仕事が好きで好きでたまらない、というわけでもなく、実際は続けているうちに好きなことになったというケースが多いのではないだろうか。

結局「ホームページを作ろう(笑)番外編」のタイトルからは逸脱したかもしれないが、一通のメールを元にあれこれと話題を展開させてもらった。
当ページを訪れてくれている皆さんの中にも、自身でホームページをお持ちの方も多数いらっしゃるかと思われる。皆さんはいかなる態度で運営されているのでしょうか。是非ご意見をお寄せ下さい。

番外編 – その6

いい加減、飽きてきたのでそろそろ本当の本来の主題に戻ろうかと思う。今となっては何が楽しくてオランウータンの話に精を出していたのか分からないや。
しかしまぁ、これはこれでディテールや作り手の態度などに一工夫も二工夫もすれば、面白くなりそうな気もするのだが、どんなもんでしょ。

ここでいう作り手の態度というのは、作者が一体どういうものの見方をしているかというごくごく基本的なことである。例えば「オランウータンの質問責め」という部分。ここでは男とオランウータンの馬鹿馬鹿しいやりとりが想起されるが、漠然と「笑える会話」ばかりを考えても意味がないわけで、その会話の背景には恐らく人間の文明社会に対する批判や批評、あるいは礼賛といった、作り手の普段の考え方が反映されるであろう。
その作り手は「自然と人間文明社会」という一つのテーマ、この話の場合、それは全編を覆うテーマにもなろうが、それに対してどう考えているのかがこうしたデティールにも問われるわけだ。ここで注意しなくてはいけないのは、迂闊に借り物の考えを引っ張ってくることで、頭の悪いアニメや漫画や映画にはよく見受けられるもっとも愚かしい真似である。それを借りてきたのではまるで意味が無い。
例えばその視点、というか視座を、巷間に溢れる「文明対自然−自然は全き善であり、人間の文明は汚れきっている」といった、聞き飽きた考え方にとってしまうと凡庸の極みになる。というより、そんな衆知のことを人前で発表する意味はないのである。
「みんな知っているか!? 1+1は2になるんだぞ!!」
バカである。
作り手自身が「そのことに対して本当はどう思っているのか」という、ごく当たり前のことを問い直すことが、作品が作品たりうるための大原則である。
まったく、ヨタ話で何をいってるんだか。

念のため断っておくが、これまで記してきたようなやり方が必ずしも私の話作りの方法ではないので、誤解無きように。ネタを育てるごく初歩的なやり方に過ぎない。もう少しばかり複雑なことを考えながら話も演出も考えている。筈。
さらに念のために断るがこのネタを勝手に使わないように。

さてさて航路を戻し、A君のメールである。すっかり航路を外れていたので、簡単にそれまでの経緯を再度紹介しておく。
A君は「インタビューを作品にしようと企て」、友達相手にカメラを向けたものの
「ぎこちないまま時間だけが経って」しまい、話題を転じて「酒のよた話でストーリーを考え」始めたまでは良かったが「思った以上に盛り上がらず、気まずい雰囲気だけが立ちこめて」しまったのだ。

 >たいした発想もでないまま、この企画は自然消滅しまして、変わりに「自分に
>とってのエンターテイメントとは」という話になりました。僕はこの話題が大好
>きなので、「寺山修司は果たしてエンターティナーか」などといった話題に花が
>咲きました。そのあと、たまたまそこに居合わせた三人が三人とも自分のホーム
>ページを持っていたことが影響し、「理想のホームページ論」に話は流れて行き
>ました。

「寺山修司は果たしてエンターティナーか」……書を捨てて街にでも出てみればすぐに分かるであろうか。田園に死んでみれば理解も深まるであろうか。このネタに深入りするのはやめよう。寺山修司にはあまり縁がない。
さてさて「理想のホームページ論」である。
ここにいたってやっと、当初の眼目であった「ホームページを作ろう(笑)番外編」のネタが登場した。一時はどこまで漂流してしまうかと思ったが、やっと辿り着いた。辿り着いたのは良いが、当初何を書こうとしていたのかオランウータン騒ぎですっかり忘れてしまった。何だっけ。

 >この話題は監督の「ホームページを作ろう(笑)」を読んで以来、これまた洗脳
>に限りなく近い形で影響を受けている僕は、いまだ監督にお見せできる形には
>なっていない、ほぼKON’STONEと同じフォームで作られたローカルな僕のホーム
>ページについて、他のふたりはいつか電子の海の覇者となるべくまめな宣伝活動
>を行い、ネットワークで見つけた友達にリンク、リンクで輪を繋ぐ比較的ワール
>ドワイドな彼らのホームページについて、互いに意見をぶつけ合いました。

まったく何が「いまだ監督にお見せできる形にはなっていない」だ。仮にもインターネットは公共の場だぞ。公共の場に出しておいて見せられない相手がいる、というのは矛盾しているではないか。
まぁ、現在では「極寒の朝風呂派万国博」は愛読させてもらっているHPの一つである。

 >監督の仰られた、「基本、俺」のルールに非常に魅力を感じる僕は、他人に媚び
>る事無く、まずやりたいようにやって、それを面白いと思ってくれた人を大事に
>しようという方針なのですが、彼らは「ひとまず、本当にやりたいことは置いて
>おいて、なるべく盛り上がる話題、ポップな壁紙、楽しい掲示板で人を集める」
>のが基本で、その中で徐々にやりたいことをやっていって、他人の反応が悪けれ
>ばやめると言うものすごく他人にやさしいホームページ作りをしています。

実に対照的な意見の対比ではないか。
私の持論である「基本、俺」あるいは「俺流」あるいはまた「俺イズム」についてはおくとして、「他人の反応が悪ければやめると言うものすごく他人にやさしいホームページ作り」というのが笑わせてくれる。いや、何も間違っているとかいう意味での笑いではない。それはそれで正しい気がする。「他人にやさしい」(笑)。良いフレーズだなぁ。
ただ、「ポップな壁紙」が他人に優しいというのは如何なものかと思うが。
コンパに似ているかもしれないな。お気に入りの女子の気を引くために盛り上がる話題を提供するのに躍起になる者が一人くらいはいるものだが、そうしたコンパの盛り上げ役も肝心の女子から見れば「良いお友達」にされてしまうことも多いかもしれないぞ。そういう経験はお有りか。私は…………まぁ、いい。実は私はあまりコンパというものの経験が無い。無いのに例に引くなっちゅうの。
ともかくこの両者の明確な相違は、冒頭に記された「基本、俺」というつまりは書き手側の満足度を優先させるのか、あるいはお客の満足度を優先することで人気者としての地位を確立することに本人の満足度を求めるかの違いであろうか。
しかしインターネット広しといえども、個人のHPでお客に対するサービスのあり方で人気を得ているサイトというのも見当たらないような気もするが。あるのかな。
内輪での人気者や、内輪で受ける冗談も不特定多数相手にはおよそ通じないものである。客の反応など思うに任せないものさね。風向きと一緒でいつ変わるともしれないものに一喜一憂する元気は私には無いな。

 >僕が、「他人の顔色を窺ってやりたいようにやれないなんてホームページの魅力
>が台無しじゃないか」と言うと、彼らは、「せっかく全世界に繋がっているの
>に、やりたいようにやって誰も来ないほうこそネットに乗せている意味がないで
>はないか」と反論してきます。
>その後、けんけんがくがくの討論が3時間程続き、この結果はお互いに袂を分か
>ち、我が道をゆくという形で終結となったのですが、もちろんそのころにはビデ
>オテープもとっくに切れており、後半のやや盛り上がった部分はすべて収録され
>ておらず、前半のぎこちない会話だけが収録されていました。

つ……続くのか3時間も……(笑)しかも酒無しで。活発な若者達である。
しかしまぁ、何というか面白い議論である。出来ればもう少し詳しく教えてもらえると良いのだが、この3時間ほどに及ぶ議論には非常に普遍的な大きな問題が含まれている。大袈裟か。いや、そんなことはない。
どちらの意見が良い悪いと言うことではないが、しかし私などには「ネットに乗せている意味がない」(“ネットに載せている”が正しい気がするのだが)という意見には少々違和感があろうか。少なくとも私はネットを使うこと自体に目的はおいていない。
ネットを使うこと自体ではなく、何をそこに盛るのかという中身がやはり大事に思えてしまう。卑近な例で言えば、アニメを作ること自体に目的があるわけではなくて、どういうアニメを作るかが問題なわけである。客さえ集まればエロアニメでも美少女アニメでも作る、というわけにはいかない、ということと同じである。
かようにこの議論はホームページに限ったことではなく、「作品と商売」という私にとっても非常に身近な問題とその根を同じにしている、実に深遠なテーマではないか。それは大袈裟に過ぎるな。もとい、大きな問題である。
この問題を分かりやすく考えるにあたって、少々極端にイメージを伸張してみる。この両者を「芸術家」と「商売人」とすると、見えることも多かろう。立脚点が違うのである。
もっとも、現実的にはどちらか100パーセントの成分で成り立っている人間もそうそういるものではないし、芸術を気取ってみても飯の種に替えなければならない以上、商売人としての側面も含まれてくるのは致し方のないこと。霞を食って生きられる仙人ではない。商売人といえどもそれぞれに矜持を持っているものであろう。
ともかく芸術家のあり方としては自分の表現したいものを作らざるを得ないということだし、商売人の本質はお客のニーズに応えることであろう。
芸術、というとあまりに気恥ずかしいので表現という風に言葉を改めるが、この表現する者にとっては、自分の感じたことやら思ったことをなにがしかの形に具体化し、自分の表現したかったことが形になったか否かが重大な問題になる。それが出来た上でそれが多くの人に受け入れられたのなら、それは「尚良い」こととなるはずである。
この伝で考えれば、売れることが至上命題の商売側は、売れた後に好きなことをやれば「尚良い」ということになろうか。もっともそうな論理である。しかしそのシミュレーションは疎漏に過ぎる。
その最たる部分は、まず「好きなことは既に有る」という単純な思い込みである。本当にあるのだろうか。「売れた」暁に展開できるだけの自己があるのだろうか。疑いは海より深い。
昨今巷間でいわれるように「好きなことが見つからない」といっている若者ばかりだとは思わないが、実際にはそうした人間が多いはずである。何をやりたいか分からない人間が、「いつかは好きなこと」に憧れて本当に実現できるものであろうか。そんなことがあるはずもない。
「商売」を批判をするつもりで書いているわけではないので注意されたい。
結論からいえば、商売という衣でおおい、お客の価値観を当てにして自分の脆弱で未熟な価値観を隠蔽していては、絶対に好きなことなど実現するはずもなく、地に足を着けた進歩や成長も期待できない、ということである。
アニメでいう。
「美少女を売り物にしないとお金が出ないから」という言い訳めいた合い言葉の下に、粗製濫造の気色の悪い低能なアニメーションが垂れ流される結果となっている。ここでいう美少女とは象徴的な意味合いである。アニメの定番、という程度に考えていただいた方がよい。それが別にロボットだろうが同じことである。
こうした作品、というのも憚られるので、こうした「もの」としておくが、こういう類に携わっているスタッフの中にも「今はこんな作品をやっているけどいつかは好きなこと」に憧れている人間がいる筈だ。多い。しかし彼らが、と一括りにするのもいささか問題があるが、そうした人間が好きなことに辿り着けることはないはずである。
念のため断っておくが、この場合美少女が描きたくてたまらないと思って携わっている人間は健全である。それは正しい。「こんなもの」とか自嘲しながらも、本当は好きで携わっている人間も多かろう。
素直に商売に徹している人間も実に健全である。
ともかく自分を隠そう、あるいは隠したつもりになっている人間が不健全だと思うのである。隠蔽している時間はまったくの無駄である。というより自分なりの表現を得るため、あるいは好きなことに辿り着くことの障害にしかならない。
概ねこうした連中は「やりたいことの一つもないと、クリエイターとして恥ずかしい」くらいのつまらない自尊心から借り物の「やりたいこと」をでっちあげたりしている。クリエイターが聞いて呆れる。
近頃の下らないクリエイター礼賛の宣伝文句もそれに拍車をかけているのかもしれない。

長くなったので、次回に続く。結局ホームページネタからは、縁が薄くなっているが許されよ。

番外編 – その5

少々の無理があるとはいえ、「母親探し」という具体的な目的を設定したのだから、後はそれに伴う困難が必要である。例えばあまりにマンガッぽい発想だが、「オランウータンの母親は暴力団の組長の家で飼われている」とか「大企業のビルの最上階で飼われている」とかそういったことだ。母親の救出にクライマックスをおくとすれば、より困難である方がいいわけだ。さらには話がうまく運びすぎると面白くないの法則も考慮すると、恐らく話の途中で主人公は「オータム」を奪われたり離ればなれになったりする必要もあろうか。しかしそんなことは後で考えれば宜しい。とりあえず話を最後までざっと考えてみる。
母親との感動の再会の後、当然彼は母子をもっとも幸せな形にさせてやりたくなるのが人の道。概ねこの話は常識的に考えて「善」とされる考えに基づいて進めているので、安直に「森へ返す」のが一番の幸せの形になろうか。安直なエコロジーブームと相まって、「善なる作品」として大受けすること間違いない。オランウータンの子供とか言ってる時点で「大受け」するわけがないだろ、というモニター前からのマッハの突っ込みにも省みずに進める。
「森へ返す」ということは「幾多の苦労と危険の末に密輸入してきた」にも拘わらず、最後には「幾多の苦労と危険の末に密輸出してやらねばならない」羽目になると考えても良い。これも一つの「反転」である。
もっとも、「苦労して密輸出」するというのも不自然であろうか。当局に知られる形にすれば、親子共々無事幸せに本国に還れるのだから。おっと。「当局」なんて単語が出てきた。
「当局」。当然、禁制動物の摘発・取り締まりをしている警察当局が存在するであろう。具体的にそれが警察なのか税関に属するものかはよく分からないが、ここでは単に「当局」としておく。
名うての密輸業者である彼は常日頃から「当局」にマークされているはずだ。「母親探し」の途中、彼を付け狙い彼の行動の邪魔だてする存在として「当局」は打ってつけの筈だ。
さてさて。ここまでの登場人物はまだ主人公の彼とオランウータンの子供の二人である。エンターテインメントとして何が欠如しているか、賢明な読者諸氏においてはすでにお気づきの筈だ。
「女」
当局の捜査官は「美人」に決まりで…………何ともまぁ、ベタベタを通り越してただの凡庸である。ま、いい。パターンで考えるのがこの稿の当初の目的だったはずだ。いつそんな目的を掲げたんだよ、というモニター前からの矢のような突っ込みを無視して続ける。
「美人」が登場した以上、主人公とこの美人さんとの間にも「心温まる交流」が生まれて欲しいのが人情。敵対する相手とのロマンスは話に華を添える筈………………やっぱりやめよう。ベタにも程がある。扱いにくそうだし。
こうしよう。「当局」の敵役はやっぱり男にして、エンターテインメントに不可欠な「美女」は「動物学者」みたいな役回りにしよう。ありがちだがいい役回りだ。うん、そうすれば、上手く使えるかもしれない。それにこの「美人動物学者」は仕事に打ち込みすぎて、離婚経験があるというさらにありがちな設定にしておけば、男と女の「心も体も温まる交流」も自然と生まれてくるはずだ……って、冗談話に何を私は本気になっているんだ。
「当局」というのも「困難をもたらす相手」という意味合いだから、考えようによっては、別に「当局」という合法的な組織でなくても構わないし、もしかしたら「密輸業者のボス」とかにしておくのも良いかもしれない。ということは、男がオランウータンのために「組織を裏切った」というケースが想定され、はっきりとした意志と行為を表現できる。それに「人語を解するオランウータンの商品価値」をボス側も知っていても良いことになる。「人語を解する」ことを主人公しか知らないのでは都合が良すぎると思っていたので、ちょうど良い。
「密輸業者のボス」、この方がいいような気もする。「当局」は彩り程度に後退させる。それに場合によっては敵方だったはずの「当局」を、主人公たちがボス側に追いつめられたときの救世主として登場されるパターンも考えられる。絶体絶命のピンチに現れる騎兵隊の役回りだ。ということは「当局」の担当捜査官は人が良くて、憎めない感じのオッサンだな。しかし、これを読んでいる若い読者の方に「騎兵隊の役回り」の意味が分かるのだろうか。言い換えておけば、「カリオストロ」の「銭形」みたいな感じだ。敵の敵は味方である、と。
ともかく、ここまでの考えをまとめる……って、「ホームページを作ろう(笑)・番外編」は一体いつ出て来るんだ。

【悪徳で名高い動物密輸業の男が、密輸入界で絶対的な力を持つマフィアから「お宝」を日本へ運び込む依頼を受ける。その「お宝」は好事家の間ですでに数億の値段が付いているという。
マフィアの依頼を断ることなど出来るわけもなく引き受けた男は、インドネシアに飛びその「お宝」に対面する。禁制動物オランウータンの子供であった。禁制とはいえ、さして珍しくないブツに男が拍子抜けした瞬間、男は自分の耳を疑った。
「ママはどこ?」
何とそれは人語を解する子供のオランウータンであった!
名を「オータム」といった。
男は長く禁制動物の密輸に携わっていたが、無論動物に愛情のかけらも持ち合わせることはなかった。が、現地の警察に追われ、困難の伴う日本への移送の最中、男とオランウータンの間に次第に交流が生まれてくる。
盛んに母を恋しがるオータムに、男はかつて自分が失った愛児の陰をそこに見いだしたのだ。オランウータンの母はすでに日本に密輸されていた。
男はマフィアを裏切ってオータムのために、危険を省みず母親探しの冒険に向かう。
男の裏切りを知ったマフィアは「お宝」を奪還するべく追っ手を放ち、さらには以前から男を密輸でマークしていた「当局」は密輸業者の一斉検挙を目論み大がかりな捜査を開始する。二重にかけられた追っ手の網の中、男はオータムを抱えて東京の街を駆け回る。男の命がけの苦労をよそにオータムは初めて目にする東京の街の様子に浮かれ気味。ビルに、車に、コンビニに、テレビに、オータムは目を見張り、男の背中で「あれは何?」の質問攻撃をマシンガンのように浴びせかける。追っ手とオータムの相手でへとへとになる男。
はしゃいでいたオータムがみるみる元気を失って行く。急激な環境の変化に病気になったのである。窮地に陥った男は一計を案じ、かねて禁制動物密輸糾弾の最先鋒の動物学者に救いを求める。女医であった。
密輸業者の男に怒りながらも女医はオータムに治療を施す。病状は軽く、次第に元気を取り戻すオランウータンの子供。人語を解することに驚愕する女医。オータムを挟んで、犬猿の仲だった男と女医の間にもわずかなコミュニケーションが生まれる。
事情を知った女の協力を得て、再び母親探しを再開。男は密輸業者の仲間のつてを辿って八方手を尽くす。果たして母親オランウータンの所在が判明する。
その時、彼らに追っ手が迫る!!
二人は命を賭して脱出を試みるが、肝心のオータムがマフィアの手に!!………………】

さて、あなたならこの後どうする?

番外編 – その4

前回までのあらすじ。
話がすっかり横道からさらに狭い小路に入り、思いもよらぬハリウッドの喧噪を横切り、アフリカの大地に思いを馳せつつも熱海の温泉に落ち着いたが、別にここが終着点であるはずもなかった。
話を強引に本筋らしき航路に戻す。

【悪徳で名高い密輸業の男が禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解する子供のオランウータンであった。動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる】

というところであった。

さて。折角交流が生まれるのだから、「オータム」が伝えるべき気持ちや事情も考えてやらねばなるまい。「故郷に帰りたい」だの「以前の主人」といった、少々大人の論理にまみれた考え方よりも、やはり真にオータムの気持ちになって考えてやらねばならない。ウソだ。ここも大人の知恵を働かせ従来のパターンをはめてみる。やはり「子供」といえば「母子物」。異論はあるだろうが、そうする。
「オータムは母親が恋しい」
……誰よりも汚い大人の技術にまみれてるな、私。
そのオータムの母親は日本にいる、とすると、もう何をするかは決まってくる。
「日本でオータムの母親探し」
何か、思いっきりベタベタな話だが冗談話だから許されたい。

【悪徳で名高い密輸業の男が禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解する子供のオランウータンであった。動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれ、母を恋しがるオ「オータム」に、男はかつて自分が失った愛児の陰をそこに見いだし、幾多の苦労と危険の末に密輸入してきた日本の地で「オータム」の母親を捜してやることになる】

話めいては来た。面白くない?まぁそう言うな。私も思いつきで書き進めているだけなのだ。
あ……いけない。「密輸される対象は幼体と相場が決まっている」と書いておきながら、母親が密輸されてすでに日本にいる、という状況は想定されにくいな。
あれ、どうしようか(困)

少々リアリティを無視してでも「母親探し」にこだわるか、あるいはもう少しリアリティを考慮に入れて別な目的を探すか。
こういう場合、もし「母親探し」が作品の根幹をなすモチーフであれば、リアリティにこだわるとアイディアは根底から崩れることになる。どうしてもそれを成立させたい場合は、成立するような事情、ある種の「言い訳」を考えてやらねばならない。
例えば、う〜ん……何も浮かばない。だいたい禁制動物の密輸について何も知らないのだから仕方ない。ま、いいや。「若い母子のオランウータンが共にジャングルで捕獲されて母親だけ先に密輸された」ということを登場人物に言わせてしまうことにすればよいか。客に突っ込まれる前に作品内で突っ込みを入れておくのは汚い大人の常套手段だ。あるいは捕獲された後どうなったか分からない母オランウータンの行方を主人公が探る、などとしてしまえばその際、言い訳は何とかなるかもしれない。
ここではリアリティを少々無視して冗談話のご都合主義で進める。よーそろ。

付け加えておけばこうした「リアリティと作劇の都合」のバランスは作品全体のリアリティをどの程度に設定するかという問題でもある。
例えば鉄砲の弾が当たっても「“イテッ”で済む」漫画世界もあれば「脳漿を飛び散らせて無惨に死ぬ」世界もあるわけで、正しい意味での「世界観」はそうしたディテールの積み重ねによって形成される。
良い映画かどうかはともかく「フェイスオフ」という映画なんかは、「顔を取り替える」などという荒唐無稽な爆笑もののアイディアが根幹をなしているが、そこにリアリティを求めれば根底から成立しなくなる。しなくてもいいんだけどさ、別に。
では何故リアリティを求める気にならないかといえば「バカ映画」だからである。ここでいう「バカ」は必ずしも悪い意味ではない。ともかくバカのレベルも一定にしておけば気にならないものだ。隅々にまでバカが横溢していれば、個々のバカは気にならないのは当然である。念のため言っておくが私は「フェイスオフ」を塵ほども面白いとは思っていない。荒唐無稽な内容はともかく、歯切れの悪いアクションに快感は感じられないし、濫用されるスローモーションは見るに耐えない。ペキンパーの方が遙かに格好良かった。「わらの犬」は絶品であったな。この映画では暴力が芸術になっている、ような気がした。スーザン・ジョージがエッチで良いんだな、また。お薦め。
ともかく、どんな作品でもお客に対して気持ちの良い語り方をするためには、些末な事情をくどくどと説明しても仕方がないし、何某かの小さなウソは山ほど必要であろう。よく考えればおかしいことなど、どんな作品にも発見できる。そうしたウソが、ウソに見えない工夫の良し悪しや、小さなウソに目を行かせない大きな話の面白さや人物の面白さが重要であろうか。言い訳に言い訳を重ねる、いわば「穴ふさぎ」ばかりに腐心した作品が面白いはずもない。特に映像作品で説明の多いものは100パーセント、クソである。映像は説明に向かないのである。
これもまた良い映画かどうかは別にして「ハルマゲドン」という映画のエライところは、客に考えさせたり突っ込まれる隙を与えないために、合衆国お得意の物量作戦でエスカレートにエスカレートを重ね、荒唐無稽なアイディアを力技で語っている。あれも一つの手だ。穴だらけのシナリオでも勢い良く走りきってしまえば何となくそれらしく見えるものだ。壊れる橋を渡るには壊れる以上の速度で渡れば良いわけだ。
「ハルマゲドン」には明らかに無くてもよいようなエピソードやアクシデントが沢山盛り込まれているが、それらを矢継ぎ早に投入し、毒をもって毒を制す、ではないがウソのレベルを上つつ話を進行させている。対して同じネタを扱った「ディープインパクト」というのは何とも下手くそな説明をさらに下手くそな説明で塗り固めるというアホな映画であった。
念のため言っておくが私は「ハルマゲドン」を面白いとは思っていない。
そういえばこうした同じネタを扱った別な映画の代表例として「博士の異常な愛情」と「未知への飛行」があった。シドニー・ルメットも才人ではあるかもしれないが、キューブリックと比較されては気の毒であったかもしれない。
下手くそな例をもう一つ上げると、「マトリックス」などが明らかに失敗しているのは、途中でウソのレベルが下がってしまう点にある。ウソのレベルの低下は、さして内容の無い娯楽アクション映画にはもっともタブーといえる。見た方にはお分かりだろうが、CMや予告で使われていたハイスピードで人物が動くスペシャルエフェクトのシーンが出てきたその後のシーンで、その驚異的な動きをした同じ人間が「走ると人並み」になるのである。ウソが下がるにも程があるし、想像力の欠乏が露呈している。
こうした部分にこそ御自慢のCGが生かされるべきであろうに。例えばスローモーションで動く常人達の中を、普通のスピードで走るだけでよいのである。途中の銃撃戦にしても同じことがいえる。すべてがスローで撮られていては「いつもより余分に銃弾を使っております」程度の見せ物であろう。何が面白いのか。「ガントレット」の方が余程銃弾の数は多かったじゃないか。
見せ物という意味では「プライベートライアン」くらいまでやってくれたら十分成立するだろうに。映画としては甚だ粗雑な作りだと思うが、冒頭の戦闘シーンだけで立派な見せ物である。映画にはその出自の時からお客を単純に驚かせるという意味での見せ物の側面もあろう。内容はまったく無くても、見ている最中観客を飽きさせず、遊園地的快楽を与えられればそれも一つの成功である。ジェットコースタームービーといわれる手の映画はその代表であろうか。
いずれにしろ映画において説明することほどつまらない行為はなく、あくまで映画とは「感じさせる」媒体である。やむなく説明が必要な場合もなるべく簡潔に最低限の情報を提示するに留めたいものである。往々にして説明したがる人間は「客に分かりにくい」などともっともらしいことを言うが、ほぼウソである。映画はお役所仕事ではない。ま、お役所のやることにはもっと説明が必要に思われるが。
客の側から極端に言えば「分からなくても面白ければ良い」のである。
度々例に出して申し訳ないが、「マトリックス」であれほど下らない説明セリフを重ねている割には「なぜコンピュータ側が人間達に夢の世界を見せておくのか」という根幹の言い訳はなされていない。あんなに言い訳めいた説明を重ねているのだから大きくバランスを欠いているであろう。ウソのレベルと同様説明のレベルも見かけ上は一定にしてもらいたいものだ。
さらには主人公の「夢の世界に対する不満」の描写が足りないため、どう見てもマトリックスとやらの世界を壊す必要性を感じない。これは説明が足りないと言うよりもっとも大事な「感じ」が足りないといえる。金返せ。まったくテンポも悪いし、いらないシーンばっかりだし。時間を返せ。
話がそれた。
「お話の本質的な部分でウソさえつかなければ、些末な部分でのご都合は許される」というこれまたご都合主義的教条に則り、「母を訪ねて三千里」の話を続ける。よーそろ。

ただの冗談なんだけどさ。

番外編 – その3

またもや更新のネタが転がり込んできた。ありがたい。
前回同様、奇特な読者からの投稿である。アニメ制作という冗談じゃないほど忙しい仕事を抱えるなりたての36歳の身としては、こうした美味しいネタこそが更新への激励となる。
今回は2件もアイディアが寄せられた。前回に引き続き話の発端をもたらしてくれたA君と、そして遙か海の彼方から寄せられた新規投稿である。片やA君という匿名を使ったので、こちらはターンAさんとするか。しない。
Mさん、としよう。まずは「新しいNOTEBOOKを読んで・・・」と題されたそのMさんからのメールをご紹介させてもらう。

Mさんは、海の向こうで当HPを愛読してくれている貴重な読者の一人である。「恥ずかしさも手伝って。直にMailを書きます。(ちょっとどきどきしている小心者。わはは)」と本人が言うことでもあるし、その素性は詳しくは記さないこととする。
ゲーム会社勤務、であるらしい。

最近、ハリウッド映画しか観る機会に恵まれませんので、
私の頭に浮かんだプロットってばもろハリウッド調なのですが。
あのNOTEBOOKを拝見して、こんなプロットが頭に浮かびました。

日本に住んでいてもハリウッド映画しか観ない人も多いのではなかろうか(笑)
かく言う私自身、近頃の日本映画はほとんど見ていない。テレビドラマスペシャル然とした企画モノやら大作を気取った大味そうな映画ではビデオで見るのも時間が勿体なく思われる。面白い日本映画ももちろんあるのだろうが、それを探し出す時間の余裕もない。この話も突っ込んで行くときりがないのでおくとする。

前回の「NOTEBOOK」で最終的に提示されたネタは次の通りであった。

【悪徳で名高い密輸業の男が禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解する子供のオランウータンであった。動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる】

これに対してMさんが寄せくれたアイディアは次の通り。

男は交流を続けていくうちに、ふとあることに気がつく。
オータムを買った時はあまり深く考えなかったが。
「何故オータムは言葉が分かるのだ?」と。
確かにオラウータンは賢い動物である。だが人の手を経なければ
言葉を理解するなどと言うことはまずない。
ならば・・・オータムの前の飼い主は何故オータムを手放したのか?シチュエーション1. ミステリー
シチュエーション2.ホラー
シチュエーション3.SFシチュエーション4.コメディーと繋げたいところなのですが・・・
私の手の内にコメディーは無いので申し訳ないのですが省略。
この分野はタッチA君にタッチ。(笑)

シチュエーション1
オータムのしぐさに一つだけ理解できないものがあった。
どこかへ行きたがっているようだ。が。どこだかはわからない。
「私。行く。」というしぐさを繰り返すばかり。

シチュエーション2
ある夜。オータムがどろんと惚けた目をしていることに気付く。
深夜。何かの気配に目を覚ます男。物音は動物を保管する地下からする。
用心しながら扉を開けるとそこは・・・血の海だった。

シチュエーション3
ある日。家に帰ってみるとオータムは部屋中をちらかして遊んでいた。
叱る男だったが。ふと気がつくことがあった。本を積み木のように重ねて遊ぶ
オータム。この遊びは死んだ息子が好んだ遊びであった。

起承転結考えると、これはまだ「起」の部分。
「承」の部分は・・・それぞれ
1 オータムは自分の昔の飼い主の行き先を告げようとしている。
2 オータムが実はやった。飼い主を殺したのもオータム?
3 オータムは息子の生まれ変わり?
・・・と。いかにもハリウッド映画がとりそうな方向へ持って行く。
が!そこで「転」。どうやって転がしたら良いか。
私的には2が一番転がりやすいですが。

なるほどね。「何故オータムは言葉が分かるのだ?」という点を掘り下げるのももっともな考えか。疑問を発して「なぜなら……」と考えを進め「だから…… する」と解決策を考え出して行くのは西洋近代合理主義精神に正しく則っているのではなかろうか。
さて「人語を解するオランウータン」というアイディアは、何ら科学的根拠も伴わないまったくの思い付きで、ファンタジーの濃度がかなり濃い。
ファンタジーというのは一種の衣、というかガスのようなものである。このガス自体に実体はない。もちろんそれを生み出す実体はある。ファンタジーというガスを生み出すのは人間であり、そのガスの核心とは「なぜその空想が必要であるのか」ということであり、すなわち作者にとって空想の背後にある実に現実的かつ人間的な、言ってみれば作品の根幹をなすテーマでもある。であるから、どんなファンタジーの素材でも、その書くべきテーマとは現実の問題となりうるのである。ファンタジーのためのファンタジーには一片の価値も認められまい。毒にも薬にもならない無意味な駄洒落の方が遙かにその存在価値があろうか。
ともかくガスそのものにはさしたる実体はないに等しい。
良いかどうかはともかく、「E.T.」という映画がある。ご覧になられた方も多いかと思われる。「宇宙人の友達がいたら……」というその発想は実に子供心に発しており、それを大人の智恵と技術で映画としてのリアリティを与えられたファンタジー、といえようか。
さて何故あの主人公が宇宙人と出会い友達になりうるかと言えば、まず単純にいえるのは父親の欠落という条件であろうか。多くの昔話や童話に見られるもっとも類型的なパターンが片親、もしくは両親の欠落である。その欠落に起因する寂しさや歪みが求める代償が、こうした特別な友達、それは宇宙人であったりトトロであったりするわけだ。
「ネバーエンディングストーリー」という映画では、確かいじめられていた男の子がファンタジーの世界に足を踏み入れるのであったろうか。ともかくこうした原因がなければ異世界に足を踏み入れることはないのである。
物語の主人公とは、その当初において欠落を有する人間であり、物語はそれを補うプロセスである。意識的であれ無意識的であれ、なにがしかを求める気持ちを有しない人間では主人公になりにくい。
充足した環境・人間性からは既存のタイプのファンタジーは生まれにくいともいえる。現代が少々複雑なのは、大昔と比べてファンタジーといわれるものが生み出される土壌が変化していることである。物理的に充足した環境の下で浮かび上がってくる欠落は、すなわち当人の空虚な内面に他ならない。そこに発生するファンタジーは肥大した自己愛の臭気を発するのはやむを得ないのかもしれない。と、考えると大時代的なファンタジーでは当然時代にそぐわない、というよりファンタジーのためのファンタジーにならざるをえないのだが、この手のものが何の工夫もないままに営々と作られているような気もする。このことに関して書き始めるときりがないのでここではおく。
「E.T.」に登場した宇宙人にリアリティはない。何故自転車が空を飛ぶか。宇宙人だからである。宇宙人はファンタジー世界の住人である。それ以上分解してもガスそのものに実体はないのである。
「ミリィ」という素晴らしい映画がある。上手なファンタジー、ジュブナイルに分類される映画であろうか。「少年は空を飛んだ」という何とも捻りのない副題がついているが、こちらの方が原題の通り。「The boy who could fly」。
この映画は私の大好きな映画である。何とも実に可愛らしい映画であり、実際主人公役の女の子、ルーシー・ディーキンスは大変可愛い。現在でも映画に出ているかどうか分からないが、この映画の時期の少女の無垢なイメージはすっかり消え去っているのであろうなぁ……などと余計なことをつい考えてしまうが、私のレーザーディスクの中で彼女は年若い姿のままでいつでも微笑んでいる。
お母さん役に「ダイハード」で主人公の奥さん役を演じていたボニー・ベデリア。ちなみに拙作「海帰線」に登場するフジ丸という犬は、この映画に出てきたマックス(本名Jake)がモデルとなっている。
父親を失ったばかりの主人公の少女が、隣の家に住む空を飛べると信じる自閉症の男の子との交流を通じ、その不可能を信じることで自分も心の傷を癒して行く話である。
人が道具の力を借りずに空を飛ぶなどあり得ないことであるが、この映画の中ではそうした描写がある。あるからと言ってそれに対して何ら科学的な説明だの魔法の裏付けなどがあるわけではない。一切の説明はない。ただ、飛ぶのである。
しかしそれが気になる映画ではないし、説明を求める気になるわけもない。飛ぶことを信じること自体が核心である。要するにファンタジーというフィルターを通されてはいるものの、描かれているのは当然人間的現実的問題で、そこがお客に分かるようになっていればファンタジーに対する殊更のいいわけなど不要なのである。言い訳のために割かれる時間は作品の無駄である。
Mさんのアイディアに対するリアクションとしては少々観点がずれた。別にMさんのアイディアがファンタジーのための言い訳だと言っているのではなく、私の考えた「人語を解するオランウータンのネタ」はファンタジーの濃度が濃い性格のものであり、そこに科学的な裏付けや可能性は考えていなかっただけのことである。

さてMさんのアイディアを考察してみる。
まず「オータムの前の飼い主は何故オータムを手放したのか?」という、Mさんのアイディアの基本になっている疑問だが、日本に密輸されるオランウータンは基本的にジャングルで捕獲された野生のものらしい。親子でいる場合は親の方は殺されたりして、幼体が主に密輸対象のようである。もっとも私もニュースの中の特集コーナーでチラッと見ただけなので、実体がどういうものであるかはよく分かっていません。
「オータムの前の飼い主」というのは私の頭には一切なかったのだが、それがどうしても外せない要素であった場合、その時は当初きっかけとなった「密輸の依頼」というアイディアを外して、密輸検挙の際に保護されたのが「人語を解するオランウータン」であっても良いかもしれない。その場合は、主人公を検挙した側の人間にしても良いわけだ。アイディアなど描きたいことのためには変幻自在であらねばならない。

「1 >オータムは自分の昔の飼い主の行き先を告げようとしている」
なるほどそういうきっかけでもって、新たな事件や展開も考えられるかもしれないが、となると「人語を解するオランウータン」が道先案内人的な要素に過ぎなくなってしまう恐れもある。その先に何が待っているか、によるかな。

「2 >オータムが実はやった。飼い主を殺したのもオータム?」
Mさん自身「私的には2が一番転がりやすい」という通り、今回のネタに上手くはまるかどうかはともかく、これはこれで話が出来そうな気がする。つまり「動物による殺人」と考えれば、まったく別の、「人語を解するオランウータン」など不要な、真っ当な(笑)ホラーにでもなり得ようか。もちろん、ただ「動物が人を殺す」ではあまりに芸がないので、もう一ひねりして、例えば「動物が“情”で人を殺す」などとすれば変で良いかもしれない。ここでいう「変」とは無論悪い意味ではない。
「動物による殺人」……そういえば「ソクラテスの殺人」なんて漫画があったな。あすなひろしの短編であったろうか。ソクラテスという人語を解するスズメが出てきたような気がする。最後に仲の良かった主人を葬ってあげるのではなかったか。
例えば「動物による殺人」というネタについて少し考えると、ではその殺人をする動物は何が良いのか、といえばやはり殺人からもっとも遠いイメージの方が良かろう。人を殺すはずなんかあり得ないものが殺人を犯した方がイメージは豊かである。それこそスズメとかうさぎとか。
そういえば動物が犯罪を犯すという意味では「ドーベルマンギャング」というのがあった。調教されたドーベルマンが銀行強盗をする映画であった。子供の頃に見て面白かった記憶があって、もう一度見てみたい気がするのだがレンタルビデオでもテレビでもそのタイトルを見かけないのが残念である。
話が横へ横へとスライドしてばかりで申し訳ない。

「3 >オータムは息子の生まれ変わり?」
う〜ん。これはいけませんね。ファンタジーを二つ重ねてはいけません。
「生まれ変わり」自体は、すでに一般的に受け入れられる程度のファンタジーかもしれませんが、それを使うとしたら「人語を解する」というアイディアは外した方がよいでしょうね。
「死んだ女房が娘に乗り移る」などというアイディアよりは笑えるかもしれませんが。面白いのかな、そんな近親相姦まがいの映画。タイトル忘れたけど。

実はこの「人語を解するオランウータンの話」のテキストは、すでに終わりまで書いてしまっている都合上、第一回アップ後に寄せられたアイディアに対するレスは書き足している形になっている。当初から「お話を作ろう」といった主旨の企画なら、頂いたアイディアを反映して話を進めるということもできたのだが、とりあえずネタを転がす方向はすでに書いてしまったことでもあるし、インタラクティブな作話の企画はまた別な機会にでも譲ることにする。
さらに改めて断る必要もないかもしれないが、元々思いつきで書き始めて展開させてしまった「お話を作ろう(笑)」というこのテキストなので、最終的にまとまった形のお話が出来るかどうかは問題ではない。話を考えるプロセスを簡単に紹介してみようかという意図だけである。

そうしたことを勝手に了承させた上で次にA君から寄せられたアイディアの紹介に移る。

前回送らせて頂いたメールでは、僕なりにない知恵を絞りに絞ったうえで「言語を解する」+「手が長い」=「かるた取り」に行き着いたのでしたが、よくよく考えれば奇をてらいすぎてちょっとさもしかったですね。

「さもしい」の用法が違うのではないのか(笑)

それにしても監督が理路整然と説明されていくのを拝見して、改めてすげぇなぁと思いました。ひとつひとつの事柄に「こうだからこうする」ということがきちんと書いてあるので、スムーズに頭の中に入ってきて、とてもわかりやすかったです。

そうだ。すげぇだろう。わはは。ウソウソ。
分かりやすかったのなら書いた方としても満足しよう。
要するに話を作るとか考える大部分はパターンということだ。既存のパターンを知らなければ、外すこともできないものである。およそ過去のパターンの焼き直しであるにもかかわらず、新しげに見える作品を作って得意げになっているバカをよく見かけるが、そういう輩は単にものを知らないだけなのではないかと少し気の毒にすら思える。知らないことは恥である、という節操の欠片くらいは持ち合わせていたいものである。
「白い砂糖は黒い砂糖から出来る」といったのは秋山真之であったか。温故知新である。秋山真之とは誰かって? 日露戦争の日本海海戦においてだな……年寄りくさいな。ま、いい。

僕はいつも一つの作品を一度そのまま受け止めてしまう人間で、作品をパターンとしてとらえることができないので、動物映画のパターンの話も興味深かったですし、話を作る構造論、ひいては「面白さ」の一つのあり方まで教えて頂いて、ものすごく為になりました。

偉い。何事も当人の望む態度次第で毒にでも薬にでもなるのだ。
話というのはおおかたがパターンで構成されているものだ。新しいパターンというのは考えに考えても出て来るものではない。それは天才でもなし得ることがあるかないかの可能性しかないであろう。
新しいパターンではなく、パターンの新しい組み合わせを考える方が現実的である。そのためにはなるべく数多くのパターンを知っている方が良いに決まっている。これは話に限らず絵でも小説でも芝居でも同じことであろう。繰り返し言うが、無知は諸悪の根源である。さらに自分の無知を野放しにしておくのは、無知無能以下であるゆえ、志のあるものは休まず精進されたい。日々是精進である。私もだけど。

おまけに僕の「オランウータン→オラウータン→オータン→オータム・・・・・。バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ」と短絡的に命名した名前まで採用して頂いて、これはなんとも恥ずかしい限りです。

…………(笑)

さて、「交流が生まれた結果、彼らが何をするのか」ですが、枯渇しきった井戸の底のような想像力で僕なりに考えてみました。

【動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる。次第にうち解けてゆく一人と一匹。しかし男にはどうしても理解できないオータムの表情があった。その表情を見せる原因が何なのかを確かめる為に、裏の世界では有名な研究所に足を運ぶ。そこで男が依頼したのは、「オータムの頭に直接コンタクトを取り、何を考えているのかをダイレクトに知る」ことだった。何十本もの針が内側につけられた銀色のヘルメットをかぶり、銀色の椅子に横になる一人と一匹。博士が電流を上げていくにつれて目の前が明るくなり、完全に白くなった時、オータムの心理世界に男はたどりついた。そこで男が見たものは広大なアフリカの大地だった。そう、いくら心でわかりあえてもオータムは生まれた土地に帰りたかったのだ。
もっと知りたいと思う心と知らない方がよかったという現実の狭間で男は悩み、決断を下す。
数日後、男は一機の飛行機が離陸し、上昇するのを展望台から見送っている。その中には・・・。】
で、オータムを送りかえすのか、それとも一生面倒を見るのかはまだ決めていないのですが、いかがでしょうか?ベタっちゃぁベタですね。

まず基本的なことについて言及しておきたいのだが、オランウータンはアフリカには棲んでいないのではないか。東南アジア、インドネシアとかじゃないのか。
それはおくとしても、やはりこのアイディアもファンタジーの重箱、というか無理な設定が二つ重なってしまうという理由で避けた方がよいかと思われる。
「人語を解するオランウータン」の上に「サイバーな小道具」はまずいであろう。ファンタジーを二つ重ねると、大概がB級の匂いを放ち出す。貧乏くさい発想である。
それに第一、そんなコンタクトの方法が存在する世界ならどんな動物とでもコンタクトが取れるわけだし、最初から「人語を解する」という設定が不要ではないか(笑)
いかんだろう。

もう一つ考えたので、それも書いておきます。
【動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる。その後は「二人(一人と一匹)は仲良く暮らしましたとさ」を地でいくようなハッピーエンドな毎日をしばらく続けるが、1ヶ月経ち、2ヶ月経ち、次第にいつも一緒にいることが当たり前になってくるにつれて、最初は親子の関係だったのが、いまでは夫婦のように二人の間に倦怠期が訪れる。毎晩遅くに仕事から帰ってくる男。両手にはコンビニ弁当とビール、そしてオータムへのバナナの入った袋。部屋に明かりは灯っていない。コンビニの袋を下ろし、鍵を開ける。誰に言うでもなく小さい頃からの癖で「ただいま」とつぶやく。一歩入るとまるで動物園の檻のような臭いがムッと立ちこめる。電気をつけると男の目に見えてくるのは床一面に散らばった食べ物のカスと一匹のオランウータン。そこにいるのが人ではなくオランウータンなので溜め息も人目を憚らないず、つい大きくなってしまう。「はぁ、やるせねぇ・・・」。その言葉を受けて寝ころんでいたオランウータンはちらっとこっちを見るが、さして興味もなさそうにそっぽを向いてしまう。「いつからだろう・・・。俺達がこんな風になってしまったのは・・・。」
いまは亡き息子の面影を感じて売るのをやめたはよかったが、所詮はオランウータンじゃねーか。大家さんにも「こいつは確かに見た目はオランウータンです。でも俺にとっては息子なんです!!」なんて啖呵を切って許してもらったのが今ではものすごく昔のことのように思える。いま売ろうにも下手に悪知恵をつけてしまったから鍵もやすやすとはずしてしまうし、殺してしまうほど憎んでもいない。別にいなくなれとは言わない。せめてあの頃に、「交流が生まれた」あの頃の二人に戻れたらなぁ・・・。そして男はこう口にする。「オータム、温泉でも行こうか」。そして一人と一匹は無くした何かを取り戻す為に真っ赤なオープンカーに乗って、一路熱海に向かったのだった。果たして二人はよりを戻せるのか!?布団は二人で一つなのか!?謎が謎を呼ぶ次号、「混浴だけど猿厳禁」乞うご期待!!】どうでしょうか?なぜ城之崎でも下呂温泉でもなく熱海なのかは自分でもわかりませんが、これでもう打ち止めです。
御指南の方、よろしくお願いいたします。それでは。

ぎゃはははははははは。そりゃ確かに先の読めない展開だ。というか既に「後日譚」のようではないか。一体どういう井戸の底からかようなアイディアが湧出してくるのであろうか。この稿の主旨に沿うアイディアかどうかはともかく、彼はなにがしかの天才を有しているのかもしれない。A君の現実的幸福のために、それが浮き世で金銭に変換されうる天才であらんことを祈る。時折見かけられる「何かの天才であるのは間違いではないのだが、それが何の才能なのか一生分からない人」で終わらないようにな(笑)
私はそういう人を何人か見たことがある。
しかしまぁ何というか、倦怠期を迎えた夫婦の有り様を人間とオランウータンに演じさせるのでは奇抜というより気色が悪くないか(笑)おかしいから良いけどね。
見ていないけど「マックスモナムール」とかいう映画はどうだったんでしょうかね。

しかし何だな。いずれも殺人だのホラーだのSFだの倦怠期の夫婦だとか、よくまぁハリウッドとお茶の間テレビドラマに毒されているようだ。これでは文部省推薦などがもらえるわけもない。欲しくはないけど。とはいえもう少しこう、情に訴えるようなアイディアを考えられないものか(笑)
ということで、では私の考えた展開を紹介させてもらう。が、期待するなよ。

番外編 – その2

思惑通りだ。期待通りに物事が進むとキーボードを打つ指も高らかにリズムを刻むというもの。
リアクションである。
第一回目の「ホームページを作ろう(笑)番外編」で取り上げた、まだ海のものとも山のものとも分からないような「オランウータン」のネタを振ったが、早速リアクションがあったので、すかさず紹介させてもらおう。世はインタラクティブである。
差出人は誰あろう、元ネタとなったメールをくれたA君である。
前回A君の人格について「HPを開設したにもかかわらず私にその所在を明かさないという不義理」と書いたところ、不肖私の誕生日のお祝いの言葉と共に、すぐさまその所在を知らせてくれた。
「金もなければアイデアもない、ないないづくしの僕からささやかではありますが監督に誕生日プレゼント」がそのURLなんだそうで、実に嬉しいプレゼントである。
早速見に行ったが、なかなかテキストが充実したHPで、読んでいて楽しい内容である。興味のある方は是非行かれたい。面白いぞ。

「極寒の朝風呂派万国博」http://www.jttk.zaq.ne.jp/staytune/

……しかし、どういうタイトルなんだ、「極寒の朝風呂派」……。
極寒という厳しい現実に直面した時は心地の良い朝風呂に逃げ込んでどっぷりと浸かる、という現代若者気質を表現しているのであろうか?
しかもそれが「万国博」というんだから、現代のナイーブな若者達が集う楽天地なのだろうか。
冗談だ。

>アドレスにある「staytune」とは監督に以前頂いたメールの題名で、「やりたい
>ことをとにかくやり続けてみろ」という内容だったのがひどく印象に残っていた
>ので使わせていただきました。

ほぉ、感心感心。心がけ非常に宜しい。けど……そんなこと書いたかな、俺。ま、いいけど。
彼のHPを見る限り、特にハンドルネームや変名を使うこともなく、堂々と本名を名乗っているようなので、当ページにおいて特に匿名にする必要もないのかもしれないが、やはり漠然とした匿名性の方が本稿には適切に思えるので「A君」として続ける。

さて、本題である。

>紅茶の席での与太話にもならなかった話題を拾い上げていただいてびっくりする
>やらうれしいやらです。ちょっとした発想の転換なのに、そこが素人には難しい
>んですね。まず形から入ろうとするので尾ひればかりが広がり、肝心なところが
>カラッポになってしまう。>>禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解するオラン
>ウータンであった

>あの場では密輸品そのものばかりを取り上げ、そのディテールは型にはまったも
>のしか思い浮かべられませんでした。もしあの時の僕がこの発想を得ていたら、
>そのオランウータンが逃げだし東京中を逃げ回り一時は八王子を騒然とさせる事
>件に発展させるか、または自己啓発セミナーに入れて自分探しの旅をさせるか、
>はたまたウォークマンのCMに起用し人気の出たところで警察署の一日所長にさ
>せるか・・・・・、あぁ、ダメだ、想像力の限界を感じる・・・・・・。

「想像力の限界を感じる」以前に本気でアイディアを考えているのだろうか(笑)。何はなくともまず笑いを取ろうとするあたりは正統な関西人の遺伝子のなせる技なのか。
上記それぞれのアイディアの中身はひとまずおくとして、具体的な形を取るだけであれこれと思い付きが出てくるわけだ。良い良い。アイディアを出しやすい形にすることも大事なのである。高邁なテーマを掲げようが、アイディアが生まれてこないのでは看板倒れである。
思い付きは冗談でも良いのだ。というより冗談の方が面白い。冗談を重ねてネタに対する距離を縮め、自分を乗せることで発想は楽になり、ネタの間口も広がるというもの。冗談も絡ませられないような元ネタでは、ネタの成長は期待できない。

>そもそも、人語を解するだけでオランウータンはオランウータンなのだというと
>こがポイントですよね。オランウータンと言えば「手が長い」ですよね。ならば
>こういうのはいかがでしょうか。

う〜ん、もっとも肝心な「人語を解する」という唯一手掛かりになりそうなファクターを置き去りにして「手が長い」ことだけに目を向けるとは、人の気を知らない男だなA君は(笑)

>「輸入禁止のはずのオランウータン(名前を仮に『オータム』とします)が脱走
>し、首相官邸に閉じこもる。人語を解するオランウータンは首相を人質に取っ
>た。要求はただ一つ。『西暦2000年に発行される2000円札の透かしにオ
>ランウータンを採用せよ』。混乱するマスコミ、金で解決しようとする官僚達。
>すべてが混乱に包まれ、オランウータンの透かしが避けられない事態になろうと
>した時、オランウータンから一つの妥協案が出された。『オータムにかるた取り
>で勝負し、もし負ければあきらめよう』。「かっ、かるた取り!?」ざわめく国
>民。即刻非常事態宣言が発令され、日本中からかるた取りの名人が集められ、精
>鋭中の精鋭達がオランウータンに勝負を挑んだ。しかしオランウータンは手が長
>い。同じ判断力をもってしても、そのリーチの差によりいつもすんでのところで
>かるたは一枚、また一枚と奪われていく。もはや2000円札に未来はないのか
>と思われたその時、一筋の光がさしこんだ・・・。「次号、『人類最後の切り
>札、マジックハンドという凶器』乞うご期待!!」だめかなぁ・・・。

ギャハハハハ。
時事ネタを絡めればよいというものではないだろう(笑)
いかに冗談とはいっても、作品化することを前提にした冗談を考えた方が面白かろう。現在の旬は完成した先の時代遅れに間違いない。あまたの映画、特に大味な日本映画においてそうした「寒い」失敗も多いように思われる。
それにしても「かるた」じゃなぁ。何ともなぁ……。「だめかなぁ・・・」って、だめだろう、やっぱり(笑)
ただし、例えばここでは「オランウータンは手が長い」ということになるが、登場する者や物の特質をよく検討するのは常套手段である。そうしたことを利用したエピソードや演出は気が利いている。
「人語を解するオランウータンは首相を人質に取っ」て、無謀な要求をするか。育ちそうにもないアイディアだが、ふとあの映画を思い出した。何だっけ…… あ、まずい記憶が欠落……あ、思い出した。「太陽を盗んだ男」だ。知っている若者はいようか。沢田ジュリー研二主演、監督は長谷川和彦であったか。シナリオがレナード・シュレイダーじゃなかったかな。レンタルビデオで見かけたことがないのだが、ビデオ化されてないのであろうか。
高校生の頃に見たのだが、学校の教師がプルトニウムだかウランだかを盗んで手製の原子爆弾を作り、政府に無茶な要求をしたりするのであったか。「巨人阪神線を最後まで放送しろ」とか「麻薬所持で入国できなかったロックバンドを来日させろ」、そんなんだったかな。記憶はいいかげんだが、面白い映画だったと思う。犯人が沢田研二で、それを追う刑事が菅原文太だったか。
ご存知の方はお有りか。
毎度のことながら話が横滑りしっぱなしである。
折角このオランウータンに名付けがされたので、以後は「オータム」としよう。A君がゴッドファーザーである。
しかし何か意味があるのだろうか、「オータム」。オータム、autumn、秋…………飽き?
「飽き」が来るという暗喩か。失敬な。私はまだ飽きてはいないので、こざかしい抗議は無視して続ける。「春夏冬」だ。何か飲み屋の張り紙みたいだな。「春夏冬」と書いて、「秋無い」転じて「商い」とか「飽きない」と読ませるのがよくある。「二合五合」で「マス、マス、半升」で「益々繁盛」、「一升五合」で「一生繁盛」とか読ませるのであったか。何か飲み屋のオッサンだな。ま、いい。

>「NOTEBOOK」に取り上げていただいたのがあんまりびっくり嬉しかったので、思
>わず思いつきを書いてしまいました。

うん。私もリアクションをもらったのが嬉しかったので、思い付きで取り上げさせてもらった。
インタラクティブである。
それはいいのだが、こうして話題をあちらこちらと転じているうちに「ホームページを作ろう(笑)番外編」の本来の航路は遙か彼岸に遠のいてしまった感すらある。いつになったら辿り着けるのであろうか。海流渦巻くテキストの海で漂流しそうである。
さて、「ホームページを作ろう(笑)番外編」の本筋、いや、本筋にまだ辿り着く前の前哨戦、件のヨタ話の続きである。

【禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解するオランウータンであった】

この一文から賢明な読者諸氏においてはいかなる話を想起されるであろうか。よもや「かるた合戦」などが想起される愉快なセンスをお持ちの方ばかりではあるまい。
「人語を解する」というあたりに動物と人間の交流がまず想起される。月並みだが、そうである。暗いムードの作品が好みならばオランウータンの視点で人間が以下に自然に対してひどい真似をしているか、という警鐘と絶望を描くこともできようか。
そうしたことを踏まえつつも、ここは明るく考えて行きたい。
「動物と人間の交流」というパターンである。このパターンは過去の映画にも多くその例を求められようか。「イルカの日」などはその代表か。これも人語を解するイルカが登場する映画であったな。「ベン」はネズミであったか。人間と意思を疎通できるような動物、特に犬が出てくる作品などは特に多かろう。
映画化された作品は観ていないが、デーン・R・クーンツの小説「ウォッチャーズ」には非常に賢しいゴールデンレトリーバーが登場した。やはり映画は観ていないがマイケル・クライトンの「失われた黄金都市」(映画のタイトルは原題通りの“CONGO”)には、手話で人間とコミュニケーションを結ぶゴリラが冒険の水先案内のような役を果たしたように記憶している。映画版の方がどうやってゴリラに演技させていたのだろうか。
ともかく動物との交流は楽しく嬉しい、というのが常らしい。動物なんざ何考えているか分かったものじゃないってのに、人間様は自己中心的かつ呑気なものである。餌をくれるからなついているように見えるだけではないのか。ま、それはいい。私も動物は好きな方だ。
ともかく動物との交流は「善きもの」という認識にする。「心温まる」などというとびきりこそばゆい形容が似合いの筈だ。「心温まる交流」ということになると、それはもうオランウータンは「子供」に相違ない。というより密輸される対象は幼体と相場が決まっている、らしい。
「人間と動物の心温まる交流」が中核をなすモチーフであるとすれば、お話の前半では、まず「それが無い」という状態にしておくのがパターンであろうか。お話作りの簡単な構造論だ。無かったものが生まれれば大きな変化である。
「交流が生まれる」と考えるわけだ。無かったものが発生することで少しばかり話めいてこようか。と、いうことは密輸を頼まれた業者はまず「悪徳」でなければなるまい。
動物との交流など思いもよらないような、動物を単なる金儲けの材料としか考えていない人間を設定する。そんなやつが後に「人間と動物の心温まる交流」をすれば、俗っぽいがドラマチックではあろう。イメージは伸張されなければならない。
エンターテインメント、というよりお話に不可欠なのはこうした「反転」である。先に上げた「変化」といっても良いわけだが、その変化の中でも特に強いのが反転といえる。お話というのは、ある状態のものが別な状態に変化するその過程、あるいはいかに変化しないかという過程を表すものである。その過程が多くの人間を納得させたり、感じ入らせたりすれば「面白い」ということになるわけだ。
もちろんそうしたオーソドックスなパターンを踏まえた上でそれを外して行くのもまた一つのパターンであり、「色々なことがあってなにがしか変わりそうであったにもかかわらず、結局何も変わらなかった」という描き方も出来よう。現実的には人間はそう都合良く変われるものではないのだから、リアルな考え方ともいえる。

さて密輸業者とオランウータン。何故両者に交流が生まれるかといえば、そこは何といっても「人語を解するオランウータン」である。
しかしそれだけでは弱い。金儲け主義の密輸業者はその珍しい個体という、願ってもない幸運を見せ物にするか破格な値段で売りつけるに違いない。どうしようか。これもパターンをはめてみる。主人公の密輸業者がオランウータンとのコミュニケーションを深めざるをえない人物的背景を設定しよう。
男は、そう、悪徳業者の主人公は「男」という設定にしよう、彼は今でこそ悪徳密輸業に手を染めているが、かつては善良な男であり、善き家庭人であり善き父親であった、としよう。根っからの悪人では話が陰惨である。悪人なんだが善い人、というグッドバッドガイである。単に「グッドバッドガイと子供」というパターンを考えるなら、古くはジョン・フォードの「三人の名付け親」も確かそうであったと思うが、多くの映画にもその手本は求められようか。いい年をこいたオッサン、それも悪党と無邪気な子供の取り合わせは、まぁいい素材ではある。オッサンではなくオバサンが、無理矢理子供を押しつけられ辟易した後交流が生まれるというケースではジョン・カサヴェテスの傑作「グロリア」も想起される。近頃この映画がリメイクされたようだが、主演がシャロン・ストーンというのは如何なものか。だったらオリジナルの作品を作るが良かろうに。台無しにしないでもらいたい。

男は過去に何かの事件か事故か病気か何かで、最愛の子供を失ってしまい、それ以後人間がすさんでしまった、とする。幼い一人息子を失った、としようか。この時点で密輸するオランウータンは「オス」に決まる。見え見えの魂胆である。
そして一足早いが、A君によって「オータム」と名付けられた。以後とする。
人語を解するオランウータンの子供「オータム」に、彼が自分の子供を投影するようなシチュエーションを拵えておくわけだ。……ああ、何か汚い「大人の技術」だなぁ。自戒。

【悪徳で名高い密輸業の男が禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解する子供のオランウータンであった。動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる】

どんなものであろうか。
これじゃあ、まだ話の態をなしていない。「交流が生まれる」というのは一見話しめいているが、どちらかといえば演出に近い部分であり、「交流が生まれた結果、彼らが何をするのか」が話の流れになる。設定を積み重ねても話は出来ない。
無論、「交流」そのものに眼目をおいて、そのディテールにエンターテインメントを求めることもできるが、ここはもう少しバカな方向に船を進める。よーそろ。
さて、何をすることにしようか。