奇妙な偏り・その1

昨日、たまたまWOWOWでオンエアしていた『地球の静止する日』を見てしまった。
ロバート・ワイズ監督のではなく、リメイクの方。
どうせ巨費を使ってリメイクするなら、ちょっとでいいから頭も使えばいいのに。
笑えもしやしない。

ここ何年も映画館にもレンタルビデオ屋にも行ってないので、何が話題で何が新作なのかもさっぱり分からないが、大仰な空振り映画に接してしまうと益々新作に興味が無くなる。
観ている映画といえば相変わらず古いものばかり。
去年から続いているクリント・イーストウッド監督シリーズは『ホワイトハンター・ブラックハート』『アウトロー』『ルーキー』『ペイルライダー』『ガントレット』と段々ネタが古くなってきているが、それだけ傾向の変化が分かって面白い。
「’77に『ガントレット』を撮ってた人が、31年後には『グラン・トリノ』を撮るようになるのかぁ……へぇぇぇぇ」
元気もらいました。
『ホワイトハンター〜』つながりでジョン・ヒューストンの『アフリカの女王』を観ていたら、「川と船」という組み合わせからヴェルナー・ヘルツォークの『フィツカラルド』と『アギーレ神の怒り』を連想したので、ヘルツォークの比較的新しい『戦場からの脱出(Rescue Dawn)』を観てみた。
若い頃の活力は多少失われているのだろうが、やっぱりヘルツォークである。
『戦場からの脱出』というタイトルから連想されるような「痛快アクション映画!!」では全然ないのだが、DVDのパッケージには派手な映画のような粉飾が施されていた。
「『バットマン』『ターミネーター4』のクリスチャン・ベイル主演の戦争アクション!」みたいな。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
売る方として困った内容だったことは容易に想像できるが、やっぱりこう思った。
「映画を殺す気なんだろうか?」
いい映画なのに。
近頃のCG合成ばかりが目立つ大作に比べて、遙かに「ちゃんとした」映画である。
ヘルツォークは密林を舞台にした映画が多く、それだけ得意としている題材だけに密林の映像がとても魅力的。主演のクリスチャン・ベイルも悪くないが、脇役たちがその顔も含めて存在感がとてもいい。
映画もいいが、付属の特典映像がまたいいのである。
誰よりも率先して自らの映画世界に分け入っていくヘルツォークの姿勢がすごい。まるでヘルツォーク映画の主人公そのまま。
元気もらいました。
俄然、ヘルツォークの映画が観たくなってきた。
が。アマゾンで検索したら、どれも¥4000〜5000でやんの。
デフレとはいえ、欲しいものはいつだって高いのね。

さて、本題。
以前から感じることが多かった経験則の一つはこういうもの。
「仕事が来ないときは全然来ない。なのに来るときはまとまってやってくる」
ご経験のお有りの方も多いのではないか。
仕事に限らず、「何か」が来るときはどうも同じ時期に固まるらしい。
どうしてばらけてやって来てくれないのか、実に不思議だ。
単なる思い込みという側面もあるのかもしれないが、仕事の依頼などの数には時期によって明らかに偏差がある。もちろん世間の好不況といった波とは別の波である。
演出に携わる者として、そうした「いつもと少し違う」状況から自分と自分を取り巻く「物語」をつい読み出そうとすることは、いわば職業病なのかもしれないが、その方が面白いと私は思う。
人間には「物語」が必要なものだろうし、現在進行中の「物語」から「先の展開」を想像することもまた楽しからず哉。
もっとも私の現状からは何だかとりとめのない話しか思いつかない。
そんなことを読まされても困るだろうが、私もとりとめの付かないことをとりとめもなく書き出しているので、とりとめのない話にしかなりそうにない。

ここ最近、当ウェブサイトの「お問い合わせ」を始め、仕事やプライベート、色々なルートで仕事の依頼やら接触がたてつづけに届けられていた。
それまでに比べて急に頻度が跳ね上がったようだ。
映画完成後の宣伝期間などにおいてはこうしたことも納得が行くのだが、現在「今 敏」は世間的にはたいへん無口な状態である。
何もしてないのにリアクションだけがあるような錯覚。
もちろん、どれをとっても過去の仕事や繋がりからのエコーやリターンではあるのだが、どうも実感と結びつかないので、脳内では疑問符が連打する。
「???何でこの時期に???」
この不況の折りに仕事の依頼が舞い込むのであれば嬉しい金切り声の一つも上げたいところだが、仕事というほどでもないような協力とかイベント出演やメッセージ、インタビューなどの依頼がほとんどである。その他、新しい知り合いが出来るとかご無沙汰していた人との接触であるとか。
大きな変化ではないけれど、微妙な変化が連鎖しているとでも言おうか。
いや、大きな変化は別にしっかりとあるのだが、それはここでは措いておく。

以下、その微妙な変化の奇妙な偏りについて列記することになるのだが、一つ一つが長くなりそうなので、簡単にまとめておく。
要するに、この奇妙な偏りにはどういう意味があるのか(あるいは全然意味がないのか)、そこからどんなことが考えられるのか、という私の覚え書きみたいなものでお付き合いいただいても、読まれる方にはあまり実りはないと思われる。
というお断りをした上でとりとめのない話をしてみる。

最初にちょっと妙な気がしたのは、去年の暮れに台湾からいただいたインタビューである。原稿を書いたのは今年になってからだが、いま読み返してみると質問もその答えも何か「示唆的」な気がしてくる。
長くなるが引用しておく。ま、相変わらずの内容だが。
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●Konさんは新しい作品を完成させるたびに、いつも観衆を驚かせています。製作中の最新作 “夢みる機械”についてお話ししていただけませんか?どのような物語ですか?いちばん独特な、或いは革新的な部分はどこでしょうか?

『夢みる機械』は、ロボットたちが冒険の旅をするお話です。
舞台は遙か遠くの未来、地球上からは人間も動物も植物さえも失われており、人間が残した壮大な廃墟だけが広がっている。そこにわずかに残されたロボットたちが、乏しい電気を分け合ったり奪い合ったりしている。そんな世界を、主人公たちが仲間と出会い敵と遭遇しながら、ロボットたちの理想郷を探して冒険をする物語です。
ピクサーが製作した『WALL・E』と設定が似てしまっていて驚いたのですが(もちろん『夢みる機械』を企画したときにはこの映画のことは知りませんでした)、お話は全然違っていて安心しました。それに『夢みる機械』に登場するのはロボットだけで、人間は出てきません。
主人公はいわば少年のロボット。彼は、女の子のロボットと出会うことで、旅に出ます。旅の途中で多くのロボットと出会いながら内面も外見も成長していく。とてもオーソドックスな少年の「成長と冒険のお話」で、もしこの話を普通に人間のキャラクターで作ったらあまり目新しくないかもしれませんが、すべてロボットというところが新鮮味を与えてくれると思います。
見かけはオモチャみたいな可愛いロボットたちの、しかしハードな旅をご期待ください。

●Konさんの芸術世界の哲学(芸術観)についてお話ししていただけませんか?
また、どのようなきっかけでアニメーション産業の世界に没頭するようになったのでしょうか?初めてアニメ産業で働いたときの体験について教えていただけませんか?

一言で言えるような、分かりやすい芸術や創作に対する哲学や価値観を持っているわけではありません。持っていたらさぞや苦労が少なくなることでしょう。
日々、仕事をしながら「ああでもない、こうでもない」と脳の中をウロウロと歩き回って、何か一つでもさっきまでは気がつかなかった領域を発見したり、そこに踏み入ったり出来るようにしたいと思っています。
映画や小説、漫画、音楽など創作物というのは作り手の考えが形になったものですから、作り手の考え方が広がったり深くなればそれだけ創作物にも豊かな陰影が与えられるでしょう。また同時に創作物そのものが作り手に大きく影響を与え、それによって作者の考えも磨かれるものだと思っています。
ただ、作り手と創作物の関係だけで考えてしまうのは「創作の窒息」を意味します。そこには必ず、それを鑑賞する人間が想定されなければなりませんし、さらには自分にもよく分からない「何か」が必要です。もし、自分が作っている映画や物語、登場人物やその世界など、それらの隅から隅まですべてを分かっているという作り手がいるとしたら、その人はさぞやつまらないものを作っていることでしょう。
私は、芸術的な価値というのは創作物そのものにすべてが宿っているわけではないと思っています。芸術的な面を含むあらゆるものは、それが鑑賞されることによって初めてその価値が成り立つものでしょうし、感動というものは創作物と鑑賞者の間に生まれるものです。それこそが創作物の真価ではないかと思います。
だから、創作物に対する感動というのはそれを鑑賞する人間の数だけ種類がある。
映画でたとえれば、感動はスクリーン上にあるのではなく、スクリーンとその観客の間に生まれる。作り手がどういうつもりで作っても、それが意図の通りに伝わるわけではありません。作り手が鑑賞者をコントロールしようとしては、きっと肝心な「何か」が損なわれていくことでしょう。
だから私は、映画そのものに多くの意図や狙いや願望をこめて作りますが、一番肝心なことはそれらそのものを観客に伝えることよりも、それらによって観客それぞれの記憶や想像力、考え方や価値観に働きかけることだと考えています。
私にとって、映画はある種の「鍵」なのです。
もちろん、娯楽として作っているのでそうしたややこしいことは抜きにして、表面上の物語やシーンを楽しめるようにも意図してはいますが、同時に物語やシーン、台詞や映像によって観客それぞれの体験や記憶や想像の一部を「解錠」出来ることを期待して制作に取り組んでいます。

最初にアニメーションに関わったのは、単に「(業界人に)誘われたから」に過ぎません。美術設定という、劇中の舞台となる場所をデザインする仕事でしたが、その仕事の前後左右にも当然、アニメーションを構築する多くの仕事が接しています。
美術設定の仕事をよく知るためには、それら前後の文脈を知る必要がありましたし、その領域を知るとまたそれが面白くなる。
そうやって美術設定を振り出しに、そこからつながるレイアウトや原画、美術や背景、絵コンテやシナリオ、編集や音響と、制作プロセスを一つずつたどって来た結果、つまりはすべてのプロセスに興味を持ち、携わることになってしまった。それで監督というポジションに至りました。
しかし、アニメーションの仕事に関わるようになった当初、現在の今 敏の在り方は想像もしていませんでした。私は元々は漫画の仕事をしており、また漫画を続けるつもりでした。だからアニメーションの監督になる、あるいはなりたいとも思っていませんでしたし、これほど深くこの仕事に関わることになろうとは予測も出来ませんでした。

特に劇的なきっかけがあって、過去から現在につながってきたわけではありません。つまらない話かもしれませんが、日々の積み重ねが現状に至ったとしか言いようがありません。敢えて一言で言えばこういうことです。
「やってみたら面白かった」
どの制作プロセスも「やってみたら面白かった」し、知れば知るほど奥深く面白くなってくる。あらかじめ誰にとっても面白いことが用意されているわけではなくて、自分で興味や面白さを発見しない限り、目の前の仕事は微笑んではくれません。どんな仕事であれそういうものではないかと思っています。
自分が「どうしたいのか?」よりも、私は目の前の仕事が「どうなりたいのだろう?」と考えるように仕事をしてきましたし、現在もそれは変わりません。

問いかければ仕事が私を育ててくれる。
アニメーションの仕事を通じて私が得た一番大きな実感はそういうことかもしれません。

●Konさんがアニメを製作して以来、もっとも難しいと感じたところは何でしょうか?いちばん苦労した経験について教えていただけませんか?そして、そのときKonさんはどのように解決されましたか?

やはり、能力のあるスタッフを集めることでしょうか。
原作やシナリオ、絵コンテといった映画の根幹に関わる部分ももちろん難しいのですが、それらは語弊を承知しつつも敢えていえば個人的な努力で補い得るものです。
アイディアを考えて(原作)、それを面白く育て(脚本)、さらに面白くなるように語ること(絵コンテ)は、実際には他のスタッフとの共同作業にはなりますが、極論すれば個人の守備範囲といってもいい。
しかし、多くの労力を必要とするアニメーションの実作業は、個人の努力で補えるものではありません。とにかく多くの専門スタッフが必要です。作画監督や美術監督、音響監督など各分野の中心となるスタッフは、これまで一緒に仕事をしてきて、私が実力を把握している人に引き受けてもらっています。
アニメーターや背景マンといった、特にスタッフの数を要する部門が常に問題になります。
各分野の監督同様、一部には信頼できるスタッフを集めますが、それだけでは全然足りません。日本のアニメーション業界には優秀な専門スタッフが少なからずおられますが、そうしたスタッフはどこの制作現場でも必要とされていますから、なかなか仕事を引き受けてもらえない。
そうすると、能力が分からない人や我々の望む仕事を期待できないような人も当然混じってきます。もちろん、そのスタッフの適正を出来るだけ有効に配置したいとは思っていますが、演出意図に足りない仕事しかできない人も一定数生まれてくる。
こうした事態は、どうしようもないことだと思っています。
仮に演出意図がうまく伝わってもそれを再現できない出来ない人はいますし、あるいは何らかに秀でた能力を有したスタッフであっても、意図の伝達における不具合でその能力がうまく発揮されないこともあります。
それに、もしも有能で希望する人材ばかりを集めて制作できたとしても、それでも結局、「ではもっとすごいもの」「もっと凝ったもの」「もっと難しいもの」を求めてしまうでしょうから、きっといつだって「足りない」と感じるのではないかと思います。
自分の能力に対しても、いつだって「足りない」と感じているのですから。
しかし、それは贅沢なことではなくて、ものを作るというのは常にそういうことだと思っています。より高く、より遠くへ。
意図と違うものや、レベルに達していない仕事は直す以外にありません。
直すのは、作画監督や美術監督といった立場のメインスタッフです。監督もその一人です。
直すだけですべてが解決するわけではありませんが、直すほかにしようがない。そして少数の人間だけで直すにはその量はあまりに膨大で、どうしても時間がかかる。
商業映画において、制作のための時間というのはイコール予算です。予算ですべてが解決できるわけではありませんが、予算で解決できることはたくさんあります。予算獲得には映画がヒットしてDVDが売れることが一番の近道だとは思いますし、そう願ってはいるのですが、思うようにはいかないのが現実の厳しさですね。

●映画やアニメに関する新しい技術が急激に新しくなっているので、なぜかアニメも多元的な美学を発現しています。“アニメ”について、Konさんはどのようにお考えでしょうか?また、Konさんの映像では、どのような素材を使うことを好みますか?

アニメーションでも実写でも、その他あらゆる表現方法においても、新しい技術が取り入れられるのは必然でしょう。新しい技術を取り入れることは、その分それまでになかった表現が可能になります。
それまで表現しようとしても出来なかったことが可能になるだけでなく、新しい技術に想像力が刺激されることはそれ以上に多い。つまり、その技術でどんなことが出来るのか、を考えることで新たなイメージが生まれ、広がります。
もちろん、どんなことにも弊害は付き物です。たとえば、実写映画などではCGのあまりの普及によって、逆に画面の作りが安っぽくなっているケールも多い。もしも黒澤明の『七人の侍(Seven Samurai)』やフランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)の『地獄の黙示録(Apocalypse Now)』、デヴィッド・リーン(David Lean)の『アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia)』などがCGを交えて作られたら、あの迫力には遠く及ばないことでしょう。どうもCGというのは映画の画面を狭くしてしまう傾向にあるようですからね。
同様に、アニメーションにCG技術が導入されたことによってたいへん便利になった反面、一番重要なはずの手作業によるアニメーションの技術が低下しているようにも思えます。便利なCGに頼ることでアナログな工夫を考え出す機会が損なわれるのかもしれません。
とはいえ、そうした反面を割り引いてもCGなどの新しい技術の導入は、映画やアニメーションに大きなプラスを与えてくれているとは思います。

現在の日本の商業アニメーションは基本的に、線画で描かれた階調をほとんど持たないセル、無段階の階調を持った背景、それと3DなどCGの素材で構成されています。これら異なる手法が同じ画面の中で共存している、そのこと自体を私は好ましいと考えています。飛躍していえば、それは異なる人種、文化、宗教が同じ地域に混在する姿にも通じるものだと思うからです。
いまでは誰も違和感を唱えないとは思いますが、セルと背景というアナログ時代から続く組み合わせも、同じ絵とはいえ両者の表現方法は大きく異なっており、本来は相容れないはずの性格のものです。単純に、背景もセルのような線画で表現された方が、画面の統一性は遙かに高い。一部にはそうした画面のアニメーションもあるでしょうし、開発されるだけの可能性は十分にあるはずの手法なのに、一般的にはなってきませんでした。
そこには、すべて線画にすると情報が均質化してむしろ見づらいとか、見ていて疲れる画面になるといった理由もあると思いますが、それよりもむしろ異なる手法の「間」に生まれる効果や表現、ニュアンスを好ましいと考えるからかもしれません。
社会や文化も同じで、何か一つの主義や価値観に覆われると、息苦しい世の中になります。「禁煙原理主義」「健康原理主義」「経済至上主義」とか何とか。私は大嫌いです。
だから、私が作る画面においては、セルも背景も2Dも3DCGも特に分け隔てはしませんし、それらが調和して共存することを常に目指しています。
もっとも、それらが穏やかかつ自然に調和してくれることが、技術的に一番難しいところでもあるのですが。

● “Perfect Blue”や “Millennium Actress” 、或いは“Paprica”では、登場人物の日常生活のなかで、ファンタジーの世界のエピソードも同時に描き出します。ときどき、主役はとつぜん夢や記憶、或いは妄想の世界に陥ります。Konさんは、なぜこのような世界を用意したのでしょうか?また、このような仕掛けに潜ませているKonさんのメッセージやメタファーは何でしょうか?

現代社会が滑らかに運営されるためには、いわゆる現実と、夢や幻想は区別されなければなりません。現実とされるものは他人と共有する部分であり、夢や幻想は個人内部のものです。そこに区別がなければ混乱の元になります。
しかし、個人の側から見れば、現実とその人にとっての夢や幻想には同じくらいの重みがあると言えますし、時には現実よりも主観の比重の方が重いことだってあります。
私がこれまで監督してきた映画において「夢と現実の混交」というモチーフを好んで描いてきたのは、「世界の中の個人」という見方よりも「個人から見た世界」にフォーカスしてきたからです。というのも、客観と主観、これは意識と無意識と言い換えてもいいと思いますが、現代社会はあまりに意識だけを偏重しており、無意識が過度に抑圧されているように感じているからです。その抑圧の結果が精神疾患の増加であったり、自殺大国とまでいわれる日本の原因につながっているようにも思われる。
もちろん、意識より無意識の方が大事だと言いたいわけではありません。
大切なのはバランスです。
意識と無意識、客観と主観、現実と夢、陰と陽、全体と部分、太陽と月、男と女……そうした対となるものは、両者のバランスと調和が重要なのであり、どちらか一方の比重が極端になっては両者共に壊れてしまう関係にあると考えます。
私が監督してきた映画はどれも、そうした「対」のバランスが崩れた状態から、その調和を回復するプロセスを描いていると言えるでしょう。『パプリカ』やTVシリーズ『妄想代理人(Paranoia Agent)』はその顕著な例です。
『パーフェクトブルー』や『千年女優』も同じ視点で共通点を見い出すことは可能ですが、これらの映画は、もっと個人の主観を強調したものでした。敢えてそれらの主題をまとめれば、ある個人にとっての「真実」というのは、他人と共有する現実だけでなく、夢や幻想も込みで成り立っており、我々はそれぞれの真実という時間を生きているということを描いたつもりです。

●Konさん自身の(性格的・思想的)特徴について述べていただけませんか?(個人的な)性格は芸術作品に影響を及ぼしますか?また、これまでのKonさんの全作品のなかで、どの登場人物がいちばんお気に入りでしょうか?Konさん自身のリアルな生活、或いはKonさん自身の思想や精神を反映させた登場人物はありますか?

自分の性格や考え方、価値観は監督した映画を御覧いただいた通りではないかと思います。アニメーションという多くの人手を要する表現方法にもかかわらず、どうも私の監督した映像は個人的な傾向が強いようです。私がそう思うわけではなく、そのように指摘されることが多いので、「そんなものなのかな」と思っているだけです。
もちろん、私一人で作っているわけではないので、関わったスタッフの個性も十分に反映されているのですが、それでも全体としては今 敏のカラーが強く見えるのかもしれません。
というのも、先にも記したように私は「対」という概念がとても好きなので、対となる両者のバランスを最も重視しています。だから画面内に多くの個性が混じっていても、それらをバランスさせることに監督個人の特徴が出やすいのかもしれません。

監督としては問題のある発言かもしれませんが、実は私の場合、判断や決断が難しい局面において、たいていは「どっちでもいい」と思うことが多いのです。仕事上においても私生活においても、「どうしてもこっちでなければならない」というケースは多くありません。
というのも判断に困るということは、どちらも五分五分に近い状態だから判断に困るわけで、だったらどっちにも長所短所があるわけです。つまりはどっちをとってもそう大差はない。
だったら、どっちでも選んでからその最善を考えてもいいのではないかと思うわけです。
選んだ方を最善に育てるしかない。私はそう考えます。
理想と現実のギャップに苦しむよりは、とりあえず現実を受け入れて、その枠組みの中でどういう最善を実現できるのかを考えることが健全だと思いますし、その方がアイディアも湧いてくる。

そういう意味でこれまで創作、演出した登場人物の中で、比較的自分の価値観が反映しているのは『妄想代理人』の中年刑事、猪狩かもしれません。
現実と大きな齟齬を来していく猪狩が、最終話で現実を受け入れる台詞を口にするシーンは自分でも気に入っています。
「居場所がないって現実こそが俺の居場所なんだ」といった台詞です。
現実の今 敏は「自分の居場所がない」と思うほど寂しい状況にはありませんが、日々メディアが垂れ流す世間の価値観から離れていく感覚は私にも十分あります。
でも、その現実を受け入れてどうコミットしていくかが、重要だと思っています。

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ふーん……つい先月書いたテキストなのだが、読み返していてなかなか面白く、自分に対する「忠告」のようにも思えてきた(笑)
ありがとう、先月の俺。
元気もらいました。
さて、何の話なのかすっかり忘れてしまいそうだが、「奇妙な偏り」についてとりとめのない文章を書いていたのであった。
「新作について」「芸術観」「制作上の難点とその解決」「新しい技術との折り合い」「夢と現実の混交という仕掛け」「監督の性格が作品に与える影響」「自身が反映された登場人物」等々。
質問を整理してみると、これといって目新しいわけではないし、むしろごくごくベーシックな質問に思える(答えにいたってはまるで他のインタビューテキストからのコピーペーストみたいだが、この質問のために新たに書いたものである)。
だから、この時期に上記のような基本的なことを再確認する機会が与えられたことそのものが、私には何か「示唆的」に受け取れるだけなのかもしれない。
確かに、これだけのことだったら「奇妙な偏り」でも何でもないのだが、その後のあれやこれやを考えると、改めて基本的なことを問われたことに少なからぬ「示唆」が感じられる。

この示唆にはもちろん名付けられるような主体はない。
示唆を受ける客体があるだけ。
客体が状況から勝手に読み出すという意味での「示唆」なのだが、人によってはそれを「宗教的」「超自然的」あるいは「精神の変調」というあまりに大雑把な仕分けをされるかもしれない。だが、世間に流通する粗雑なカテゴリーをうっかり借り入れると、脳そのものが雑なものになるので要注意だと私は思う。

奇妙な偏りと名付けた割にはインタビュー一件を紹介しただけだが、長くなってきたので次回に譲る。

さよなら三宮、また来て神戸

今日は節分。
あちこちで追い出された鬼たちが街を徘徊していることだろう。
追い出して済むならそれも良いが、こういう態度も悪くないんじゃないか?
「福は内、鬼も内」
知らない鬼より馴染んだ鬼の方がまだましという気もする。

先週の木曜日から二泊三日、「最後」の神戸出張だった。
短くない年月続けてきた「アートカレッジ神戸」アニメーション学科講師を今年度で辞めることにした。
事情は色々で、世間を呑み込んでいる不況の大波によって学校が変形したことが一番大きいが、私の都合でもある。
まぁ「潮時」というのが相応しいのだろう。
卒業までお付き合いできなかった現一年生にはたいへん申し訳なく思う。
いつか業界で会えることを期待している。

在任中お世話になった教職員の方々に、心から感謝と御礼を申し上げます。
アニメーション学科専任の宮澤先生、どうも長いことお世話になりました。仕事でも飲み屋でも。
特に、やはり長い間懇意にしていただいた元校長、元広報課長におかれましては今後も引き続きストレスフルな状況が続くとのこと。どこかの総理大臣が口にして問題になったという台詞を敢えてそのままお送りしたいと思います。
「どうぞ戦ってください」

思い返せば、『パーフェクトブルー』が縁で同校のパンフレット用に取材を受けた時からだから、12年ほどのお付き合い。
当時「15Rアニメ」で少し話題になっただけのチンピラアニメ監督に声をかけてくれたのは当時25歳独身の広報マン。彼もいまでは37歳既婚のタイ式マッサージ師に成長している。
「専門学校広報マン」→「タイ式マッサージ師」
どんな成長なんだ。

レギュラーで講義の出前に行くようになってからでもすでに9年が経っている。短いようで長いことだったよ。
9代もの卒業生がいるなんて驚きである。
上手い子も上手くない子も面白い子も面倒見のいい子も気配りできる子も不思議な子も熱意の子もおしゃべりな子も無口な子も業界に入った子も田舎に戻った子もその他色々な子たちがいた。
ああ、どの顔も懐かしく鮮明な笑顔で脳裏を過ぎる……と言いたいところだが、私は人の顔を覚えるのが苦手だ。すまない。
みんな元気にしているだろうか。
それぞれの場所でそれぞれ目の前にあることにそれぞれのやり方で一所懸命に取り組んでもらいたい。学校で学んだこと一番重要なことがあるとしたらそのことだったはずだ。
現在業界で仕事に精を出す卒業生も少なくないことだし、関わっていた期間で少なからず学生のレベルもアップしたと思う。
わずかばかりでもお役に立てたのではないかという多少の自負はある。
実際、最後の授業で見せてもらった学生の映像は数年前に比べても格段に上がっていた。たとえば関わり始めた当初の2年生と現在の1年生では、はるかにいまの1年生の方がアニメとしてというか映像としての格好は付いている。
もっとも、レベルが上がったということであって、ハイレベルではないのだが。
学生は毎年入れ替わるのに、それでも確実に何かが伝わっていると思うと、関わった甲斐もあったいうもの。

必ずしも入ってくる学生の質が高くなった、ということではないと思う。
もちろん中にはとても上手な子もいたし、そういう子を中心にしてグループ制作で見栄えのいいものが出来たこともあったが、そういうことではなくて、アベレージが高くなったのは、大袈裟に言えば「伝統」みたいなものかもしれないと感じた。
別に2年生が後輩に指導したというようなことではない。あくまで推測でしかないが、自分たちの直接の先輩が作ったものを目にした後輩は「自分たちもその程度のことは出来る」という信憑の上に課題に取り組むことになるから、先輩の作品のクオリティが上がればその分、後輩のパフォーマンスも上がるということなのだろう。
「同じ学校の先輩」という身近な人たちがなしたことを「自分たちもその程度のことは出来る」と考えることに何か具体的な根拠があるわけではないが、身近な人が出来るのなら自分も出来るような気になるものだろう。何より「自分たちには到底出来ない」と思って取り組むよりは到達度が上がるのは道理に思える。
それまでは無理といわれていたことでも誰か一人が達成すると、次々と他の人間も可能になる、というケースは時折耳にしたことがある。
女子フィギュアスケートの3回転だとか、女子テニスにおけるサーブの高速化とか。
イメージを先取りすれば肉体が後追いできるようになるのかもしれない。
しかし今日日の学生は、マスコミやネットを通じて同世代ですでに自分たちよりはるかにレベルの高い、優れた作品を発表している人を多数目にしているはずで、それが牽引力として効果が薄いということは、よその学校や自分から遠くにいる者が優れた作品を作っていたとしても、それはやっぱり「関係のない人」と映るのかもしれない。
それじゃ上手くならないよ、そこの君。君だよ、君。
アートカレッジ神戸の在学生にはもう一度、是非伝えておきたい。
「自分はとても下手くそだという危機感くらい持ちなさい」
ま、在任中ずーっと言い続けてきたことだけど。

学校内でも様々なことがあったが、学校外を背景にした想い出も数多い。アートカレッジ神戸の仕事だけでなく、アニメーション神戸の用で来たこともあった。『千年女優』を素晴らしい舞台にしてくれたTAKE IT EASY!さんも神戸の劇団。
神戸とは浅からぬ縁である。
私は、釧路と札幌と東京でしか暮らしたことがないが、それ以外でとりわけ愛着が深いのは神戸しかない。
神戸は最初から印象が良かったが、いまでは大好きな街である。
長年神戸に通わせてもらったおかげで。三宮には多少の土地勘も培われた。もっとも、ほとんど飲食屋だけだが。
美味いものを随分食ったことだよ。
「彌(わたる)」のアワビと神戸牛とか「ビフテキのカワムラ」のアワビと神戸牛とか「あぶり肉工房 和黒(わっこく)」のアワビと神戸牛とか……って、そればっかりだが、目の前の鉄板でシェフが加減よく焼いてくれるアワビと神戸牛という組み合わせが、私には鉄壁のフォーメーションであった。
店の名前は失念したが、先の店以外でもあちこちで神戸牛をいただいた。
自費でも食べたしご馳走にもなった。
どうもごちそうさまでした。
おかげで学習しました。
「肉は高い方が美味い」

最初に神戸牛を食した頃はオイリーなロースでも大きなヘレでも堪能できたが、40歳も半ばになってくると、量はたいして要らないし、ヘレをわずかに食するだけで「もういっぱい」というたいへんお得な身体になった。アワビは食べるけど。
アワビ以外の海産物ももちろん美味しく、瀬戸内海の海の幸を始め多くの刺身が舌と胃の腑を喜ばせてくれたことだよ。
気に入った居酒屋もバーも出来たのに、三宮と縁が薄くなるのは少々寂しいことだ。
あえて一言だけ注文をつけさせてもらうと、ラーメンと蕎麦は全体にちょっと物足りなかったのは麺好きとして残念なところ。
いやぁ、本当にまぁ、どうもごちそうさまでした、神戸さん。

土曜日の朝。そんなこんなの想い出を詰めてホテルの部屋を出る。馴染みになったホテルも次に泊まる機会があるのやら。ホテルの部屋にまで御礼を言いたい気分だ。
「どうもお世話になりました」
ゴロゴロとスーツケースを引っ張って、新神戸駅までの緩い坂道を登る。
何度も歩いたこの道も、これでしばらく歩くこともないかと思うと感傷も湧いてくる。
「ようし!たまには感傷にでも浸ってみるか!!」
歩きながら、脳裏をよぎるのはお世話になった学校教職員の方々や学生たちの顔や美味しいものの数々、馴染んだ風景……そして、一軒のコンビニの前にさしかかり、一番印象的だったシーンを思い出す。
「あ!このコンビニだ!ダルビッシュ見たの!でかかったよなぁ!」

東京に戻る新幹線のチケットを買い、新神戸の駅前で煙草を喫しつつ街の風景を眺める。
「いつかまた……来ることがあるだろうか……」
おお、正しい感傷だ。
さわやかな風に流れて消える煙草の毒煙を眺めつつ、ふと思い出す。
「そういえば、最初にこの駅に降り立ったときは確か……」
……。
全然、覚えていないのであった。
自嘲気味の笑いと一緒に煙草をもみ消した。

追記
新幹線の中でふと思い出した。
「そうそう、最初に新神戸駅に降りたのは、あれは夜だった……」
イメージがフォーカスしてくる。
新神戸駅から出て眺めた最初の神戸、その印象はこうだった。
「あ……ラブホテルばっかり」
神戸、それはロマンチックな街。

即座描く?

去年、読んだ本の中でもとりわけ面白かった一冊が、『単純な脳、複雑な「私」』池谷裕二(朝日出版社)。
二匹目のドジョウを探したら、ちゃんといた。
『海馬 脳は疲れない』池谷裕二・糸井重里(新潮文庫)
単行本は2002年に出ていたようだし、文庫も5年前に出ているので読まれた人も多いことだろうから、今更の話と思われても仕方ない。
こんな面白い本を読まずにいたとは勿体ない。
三匹目、四匹目も楽しみだ。

面倒なのでアマゾンから内容を引用すると、
「脳と記憶に関する、目からウロコの集中対談。いわく、「『もの忘れは老化のせい』は間違い」「30歳を過ぎてから頭は爆発的によくなる」―。記憶を司る部位である「海馬」をめぐる脳科学者・池谷裕二のユニークな発想と実証を、縦横無尽に広げていく糸井重里の見事なアプローチ。脳に対する知的好奇心を満たしつつ、むしろオトナの読者に生きる力を与えてくれる、人間賛歌に満ちた科学書。」
確かに、その通りだった。

「30歳を過ぎてから頭は爆発的によくなる」なんてお手軽な話を文字通りに受け取るかどうかはともかく、これはつまりこういうことらしい。
「つながりを発見する能力は30歳を過ぎてから伸びる」
これだけではよく分からないだろうが、20代までの経験や知識の蓄積から、一見関係のないものの間につながりを発見する能力は30歳を過ぎてから活発になる、というようなこと。
それまでに知っていたことの中に、知らなかった「関係」を発見する能力。
何だよ、まるで演出の話みたいじゃないか。
「シナリオから、シナリオライターさえ知らなかった関係を発見する」
同じだ。
自分によく当てはまると言ってはいささか図々しいとは思うが、しかし30を過ぎたくらいで演出や監督というポジションに付いて、一番感じたのはそういうことだった。
アニメーションの監督という初めての仕事なのに、度々感じたのは「あ、それって何だか「知ってる」」という既視感みたいなものである。もちろん予め経験があったわけでもなく、知っていたわけでもないのだが、初めての局面なのに「どうすればいいのか」アイディアが湧いてくる感じがした。
もっとも、「どうすればいいのか分からない」もそれ以上に多かったし、いまもそれは変わらないが。

ただ、やはりその既視感というか発見みたいなものは、20代までの経験と蓄積から生まれたもので、個々の情報は知っていたのに、しかしそれまではその中に見つけられなかった「つながりを発見」が出来たということなのだろう。
「研究の中で脳を直接見ていると、「二十代が終わるところまでの状態で、脳の編成はだいぶ落ち着いてくる」ということがほんとうによくわかります」「三〇歳を超えるとワインが醸成していくような落ち着きが出てくる。……すでに構築したネットワークをどんどん密にしていく時期に入る」と。
そんなことまで研究としてわかっていることも素直に驚きだったのだが、自分の20代、方向が定まらないような努力もそれほど無駄ではなかったことの方を素直に喜んでおきたい。

後から思えば色々な偶然も必然に見えてくる。
なるほど「つながりの発見」とは上手い言い方だ。
「年齢が上の人のほうが比喩をたくさん思いつくのも「つながりの発見」かもしれないですね」という糸井氏の発言に大きく頷かされる。
話していて面白い人はたとえ話がうまいものだ。
「それって、あれと同じだよね」
「それ」から「あれ」への飛躍。そういう発見に満ちていたいものだ。
地べたを這うような会話はやる気さえ損なうものだ。

その「やる気」がまた興味深いのである。
私が何より面白かったのは「即座描く」……さすがにパソコンで一発変換はしてくれないうえに、仕事を督促されているみたいだな。
「側坐核(そくざかく)」という脳の部位についての話が大変印象的だった。
これは「脳のほぼ真ん中に左右ひとつずつある」そうで「脳をリンゴだとすると、ちょうどリンゴの種みたいにちっちゃな脳部位です。ここの神経細胞が活動すればやる気が出る」ということらしい。
そこを刺激すればやる気が湧いてくるというのだから朗報じゃないか。
ではどうすれば刺激されるかというと。
「やるしかない」
身も蓋もない、というかなんというか、その構図が実に歯がゆくも皮肉で面白い。
「やる気が出ないならまずやれ」
心底誰かに言ってやりたいセリフだ。

実に経験則として、実感としてよくわかる話だ。
「側坐核の神経細胞はやっかいなことに、なかなか活動してくれないのです。どうすれば活動をはじめるかというと、ある程度の刺激が来た時だけです。つまり、「刺激が与えられるとさらに活動してくれる」ということでして……やる気がない場合でもやりはじめるしかない、ということなんですね。そのかわり、一度はじめると、やっているうちに側坐核が自己興奮してきて、集中力が高まって気分が乗ってくる。だから「やる気がないなぁと思っても、実際にやりはじめてみるしかない」のです」
ああ、はいはい!と思われる方も多いのではないか。
去年後半停止していた当ブログなどはまさにこの構図に近い。再開したらやる気が湧いて来るのだから。
「やってみるとやる気になる」というこの現象は、クレペリンが「作業興奮」と名付けているのだそうで、「作業しているうちに脳が興奮してきて、作業に見合ったモードに変わっていく」ということ。
はいはいはいはい、あるあるある。

ふと思い返すと、インタビューなどでこれまで数十回は聞かれたのが次の質問。
「なぜアニメーション監督になられたのですか?」
劇的な答えなど見当たらないので、私はなるべく正直にこう答えるようにしていた。
「やったら面白かったので」
無論「ではなぜ最初にやってみようと思ったのか」を聞きたいのかもしれないとは思うのだが、「やったら面白かった」が本当のところで、その質問と答の齟齬は、「やってみるとやる気になる」「やらないとやる気もしない」の内蔵する歯がゆさにも通じる気もする。
この構図について、この本でたとえとして挙げられているのが、掃除。
「掃除をやりはじめるまでは面倒くさいのに、一度掃除に取りかかればハマってしまって、気づいたら部屋がすっかりきれいになっていた、などという経験は誰にでもあると思います」
はいはいはいはい、あるあるあるある!
なるほどなぁ。実際そうだ。
「なぜそんなに片づけようと思われたんですか?」
「片付けたら面白かったから」
たいていのことは、最初からそうしようと思っていたわけじゃない。

最近、仕事場の引っ越しに伴って私はまさにそういう経験をしていた。
私は毎日の掃除や片付けは苦手だが、大掃除は大好きな方だ。
掃除とか片付けとか、モードがそちらにシフトすると、ずーーーっとそれに集中するし、だからアイディアも湧いてきて止まらなくなるのである。
「やったら面白い」
これが分からない人とは一緒に仕事をしても面白くないに違いない。そう思いません?
「やってることを面白がる」
才能とはそういうことなんじゃないかとすら思う。
もちろん私の場合、片付けに傾倒してその分、本業が疎遠になるのはいけない。それは分かっている。ただ、本業に戻るのが億劫というわけではないが、片づけを続けたいという、それこそ作業興奮が持続してしまう。
「まだやりたい」
ゲームに溺れる子供と変わりないような気もするが、凝り性の人とはその極端なことを言うのだろう。
凝り性の人を知っているので、自分が凝り性などとは決して思わない。私の芸風は所詮「若旦那の芸事」みたいなもんである。粋だという意味ではなくて、真似事程度の趣味から脱せないといったような。
しかし、凝り性の気もない人が、世の中にあってもなくてもいいようなアニメーションなんかに一所懸命になるわけはない……とまでいうと強弁だろうか。多分強弁だろう、社会的には。

いつまでも本業周辺(それも大事なことだが)にばかり傾注しているのはいけないのだが、なかなか本業が手がつかないのは結局、その興奮が快感だからなのだろう。快感には弱い。快感を楽しめないのは才能がない証しだとも強弁したくなる。いや、これは強弁ではない。
というのも本業だって結局同じだからである。
これが一旦、本業に手をつけるとみるみるモードが変わっていくのが自分でもよく分かるのである。
「ええと……消失点はここが無難か……あ、ダメだ、これじゃカット後半の都合と合わないや……まぁ、このあたりにしておくか。あ、違う違う、ここにすればいいんだ。ってことは、ここがこうなるから……あ!じゃあこういう絵に出来るじゃないか!……ってことは、待てよ、前のカットでこういう仕込みをしておけば、もっとこういうイメージを強調できるよな。ってことは……」
そうやって止まらなくなると、こういうことになる。
「片づけなんかもうどうでもいいや」
現金というか極端というか……多分両方だ。
普段、私の仕事場や部屋が片付かないのはこの「作業興奮」という現象のせいに違いない。
だって何しろ何を置いても「即座描く」だもんな。
……いや、そんなつまらないオチで終わりたかったわけじゃないんだけど。

要りません

買い物をしていて不快に感じることの一つが、書店の袋に入ってくるチラシ広告である。どうもあれが許せない。
先ほども駅前の本屋で文庫を一冊買った時のこと。
「カバーはかけますか?」
「要らないです」
要りません、と言いたいのだが、気がつくとつい「要らないです」と発してしまっているのが少々不思議だ。
ゴミを増やしたくないので、私はカバーはかけない。世の中には「何の本を読んでいるのか悟られたくない」という過敏な自意識を携えた人も多いらしいが、私は全然気にならない方だ。ただ、本の表紙が汚れるのは気に入らないので、表紙のカバーを外して、本を裸にした状態で読んでいる。
カバーは「要らないです」と伝えたところ返ってきた店員の言葉はこうだ。
「このままでいいですか?」
そのまま持ち歩いたら万引きと間違えるのはそっちじゃないのか?
あいにくカバンを持っていなかったという理由もあるが、この書店では文庫などを入れるにちょうど良い小さく薄手の袋を使っていたはずだ。先日文庫一冊を買った際もその袋に入れてもらった。それに店員のぞんざいな物言いが気に入らなかったので、こう答える。
「袋くらい、ありません?」
そこで登場した来たのが、文庫を入れるにはあまりに大きな袋である。しかも、中にはゴミとしか思えない無駄なチラシが我が物顔にその面積を主張していた。文庫よりはるかに大きな広告が、さらに大きな袋に入れられている。
アルバイトをするには「脳不要」ということになったのだろうか。
そのチラシはその場で返品した。

いつもは、レジで袋入りのチラシに気がつけばその場で伝えるようにしている。
「中のチラシは抜いてください」
何度も、それこそ無駄としか思えないこの要望を口にしているうちに、イライラしてきてついこんな言い方になるときもある。
「中の「ゴミ」は抜いてください」
中には物覚えのいい店員さんもいるようで、買った本を袋に入れる際、何も言わずとも先にチラシを抜いて、足下のゴミ箱に捨てるシーンも目にしたことがある。
ナイスな店員さんだ。
しかし、そのゴミ箱には溢れるほどに同じチラシが捨てられていた。私と同じ思いの同志がそれだけいるのではないかと思うと励まされる気がした……って、別に孤独な戦いをしているわけじゃないのだが。
どうしてあんなゴミを勝手に入れるのだろうか。
どんな広告なのか、目に止めたこともないが、昔「ゴミは要らない」と伝えることさえ思いつかなかった頃には、「素敵な男女の出会い」を目的とする会社の広告なんかを目にした覚えがある。それもまたむかついたものだ。というのもその当時は特に「素敵な男女の出会い」に無縁だったからだ。
いや、広告の中味が問題なのではない。
問題なのは、勝手にゴミが増やされることである。わずかな金をけちりたいわけではないが、今日日ゴミを捨てるにも金を要する。本屋の方は広告に協力することで何らかの見返りがあるのかもしれないが、客はいい迷惑である。
ゴミ箱に捨てるにも分別が必要だし、紙なら束ねるにも労力が要る。自分の意志でもらってきた物ならともかく、配る側の都合で勝手に押し付けられたゴミの始末を何故しなくてはならないのか。
本屋の袋に入ってくるチラシだけでなく、ポストに勝手に入れられるチラシもゴミ以外の何物でもない。下手をすれば、そんなゴミ広告がこんなことを謳っているかもしれない。
「エコ」

勝手なチラシを迷惑に思っている人が少なからずいることは、書店レジの内側に見たゴミ箱からも窺える。そう思うあなたなら、次からは是非言いましょう。
「要らないです」
違った、「要りません」。

『SATOSHI KON−THE ILLUSIONIST−』

何も私が自分で「イリュージョニスト」だと名乗っているのではない。
Andrew Osmondさんがそう仰っているのだ。
その形容がSatoshi Konに相応しいのかどうか私には分からないが、映画やアニメーションといった表現手法は元来手品的、奇術的な「見せ物」としてこの世に誕生したことを考えると、「イリュージョニスト」と冠されるのは名誉なことだろう。
だいたい静止画をつなげて動いているように見せかけるなんて、手品や奇術そのものである。
そういえば何年か前、パリで取材を受けたときのこと。写真撮影に際して、カメラマンは私にこういう注文をつけた。
「カメラに向かって、両手を大きく広げて見せてください」
「絵描きとしての手」がどのようなものかを見せろ、ということかと思ったのだが、どうもそういうことではなく、あとで何かを合成する都合なのだという。
後に記事が掲載された雑誌が送られてきたら、カメラに向かって大きく広げた私の両手から、トランプのようなカードが無数に飛び出しており、その一枚一枚は確か『パプリカ』の本編画面になっていた、と記憶している。
要するに、それもまた映像における手品師みたいなイメージであった。
その雑誌は仕事場のどこかに置いてあったはずだが、あいにく見あたらない。なかなか笑える写真であったと思うので残念だ。
その取材当日も多分、どうせ黒っぽい服装だったのだろうし(たしか黒のアルマーニにちゃんとネクタイもしていたはずだ)、髭にメガネに広いおでこに少ない髪の毛を束ねたその様は、フランス人の目にはきっとこう映ったに違いない。
「東洋のインチキ手品師」
私だってそう思う。

「東洋のインチキ手品師」から「イリュージョニスト」とはまた随分出世させていただいたものである。紹介が遅れたが、『SATOSHI KON−THE ILLUSIONIST−』とは本のタイトルだ。

illusionist

アメリカで出版された、すべて英文によるSatoshi Konに関する評論本のようだ。「ようだ」というのが情けないが、英語を解読するのが億劫なので内容をパラパラと眺めるだけである。
著者紹介によると、Andrew Osmondさんはイギリス人のフリージャーナリストで、主に映画やアニメーションについて15年に渡って書いておられる方。
今 敏監督作を取り上げていただき、どうもありがとうございます、Osmondさん。
ページにはびっしりとアルファベットが並んでいるが、カラーページが多く本編画像などの図版はすべてカラーで収録されている。
定価はUS$18.95(アマゾンでは新品¥1,614となっていた)。これまでに今 敏が監督したアニメーションがそれぞれ詳細に論じられている、ようだ。
目次は以下のようになっている。

Introduction
Kon on Kon
Perfect Blue・Psycho Pop
Millennium Actress・The Running Woman
Tokyo Godfathers・A Christmas Story
Paranoia Agent・We’re All Mad Here
Paprika・Dream Goddess
Postscript

『パーフェクトブルー』を「サイコポップ」と一言でまとめるセンスがなかなか素敵だ。
「Kon on Kon」は監督以前の仕事について書かれているようで『海帰線』(リニューアル版)や『ワールドアパートメントホラー』(イタリア版)の表紙、『老人Z』や『機動警察パトレイバー2』海外版DVDのジャケットが掲載されている。しかし……どうして海外版DVDジャケットのビジュアルはどれも格好悪いのだろう。当地の人には「日本版ビジュアルよりこの方が断然いい」と思えるのだろうか。いつも不思議に思うことの一つだ。
キービジュアルなどが文字が乗らない状態で掲載されているのが少々不思議。イラストのみのデータをどうやって入手したのだろう。
パラパラめくりながら目に付いたところだけ解読しているだけでも、随分と丁寧に取材されているようだと感心していたら、「Introduction」の最後にこう記してあった。

Finally, my deepest thanks go to the subject of this book, Saoshi Kon, for giving up his time to answer my question in person, and for generously sending me follow-up answers by email, all of which made this a far better book than it could ever have been otherwise.

すっかり忘れていたが、この書籍の制作に当たって私はインタビューを受けていた、ようだ。
己の杜撰な記憶力に恐れ入る。
せめて「Introduction」くらいは解読してみようと思って読み始めたら、なかなか興味深い描写にいきなり出くわした。

I first saw Japanese animation director Satoshi Kon in a Venice fetival cinema, at the world premiere of his fourth film, Paprika. With his immaculate black suit and beard, Kon cut a precise, slender, slightly satanic figure as he accepted the festival audience’s standing ovation.

……少し悪魔みたいな姿……。
タイトルと合わせて考えると今 敏は「悪魔じみた外見の奇術師」か。
何か……いい死に方しそうにないな、そんな奴(笑)

去年観た映画・その3

昨日はユザワヤに寄って窓を半分塞ぐためのボードを物色して出社。
監督部屋は喫煙スペースでもあるので、周囲から隔絶されたいわば金魚鉢みたいな状態になっている。仕切りの上側がガラス窓になっているのはいいのだが、あまりに周囲が見えると仕事中に落ち着かないので、窓の下側をボードで塞ぐことにした。
何だかんだと、いまだに仕事場の設定は終了せず工作したり物を移動したり、新しいアイテムなどを追加している。

先週はほとんど毎日、¥100ショップに寄ってはちょっと気の利いたものなどを買い込み、新しい仕事場の足しにしていた。
灰皿に使う焼き物、金槌、ドライバーセット、ドアストッパー、ツールボックス、ブックエンド、缶切り、スプーンやフォークを立てるためのマグカップ、電卓、ファイル収納ケース、麻紐、コーヒーの粉の計量スプーン、とんがりコーンなどなど。
たいへん重宝する。
「こんなものまで¥100で!?」
そう素直に感心したりもするし、物色していると実に楽しかったりももするのだが、作り手のことを思うと少々複雑な気持ちにもなる。
というのも、こんなことをつい想像してしまうからだ。
「¥100で買えるアニメ」
そういうものを作るのは……ちょっとな。

金曜日、吉祥寺ヨドバシカメラでコーヒーメーカーを買って出社。溜まっていたヨドバシのポイントで交換する。
得をしたような、単に売る側の思惑に乗せられているだけのような……多分後者。
私はあまり得をするのは好きじゃない。
ポイントカードとかは面倒なだけに感じる。
だいたい、巷間声高にアピールされる得なんてろくなもんじゃないに決まっておる。
私なりの処世訓の一つはこう。
「得をしようとさえしなければひどい目に遭うことも少なかろう」
これなら詐欺にも詐欺まがいのやり口にも被害に遭いにくい。
たとえば振り込め詐欺。大枚をだまし取られる被害者は気の毒ではあるが、得をしようとした結果だとも言える。最近の手口は知らないが、表沙汰になれば犯罪になるかもしれない身内の不祥事などを、金で解決して得をしようとするから詐欺の被害にも遭うのではなかろうか(あてはまらないケースもあるだろうけど)。

ヨドバシから駅に行こうと新星堂の中を通ると、DVDのワゴンセールが目に付く。
「3枚で¥3000」
ありゃま。在庫整理なんだろうけど、随分安いじゃないか。
得しちゃうぞ。
このところ続けて観ているイーストウッド監督の映画を手にとって、他に何を合わせようかと思って物色していると、
「あ、『アフリカの女王』」
つい先日、イーストウッド監督の『ホワイトハンター・ブラックハート』を見たばかりで、『アフリカの女王』を見返したいと思っていた。まさに渡りに「船」(「アフリカの女王」とはこの映画に登場する船の名前である)。
なぜその両映画が関係するかというと、『ホワイトハンター・ブラックハート』の主人公は、映画監督ジョン・ヒューストンをモデルにした人物で、劇中で制作されている映画が先の『アフリカの女王』なのである。
得しちゃった気分。
しかしね。名作映画がCDよりも安い¥1000で買えるなんて。正規の値札には¥3,990と記されているし(でも、確か『アフリカの女王』って¥500の廉価版も見かけたこともあるが)。
レーザーディスクが1枚¥7800とか安くても¥4800した頃が遠い過去のようだ……って、20年以上前のことだから実際遠い昔なんだけど。
ソフトが安く手に入るのは実に嬉しいのだが、なんだか少しばかり後ろめたい気にもなる。

さて、去年観た映画のこと。
不勉強なことに、これまでポール・マザースキー監督映画をほとんど観たことがなかったが、去年『ハリーとトント』を見返して、その会話の上手さに感動。続けて、『結婚しない女』『グリニッチ・ビレッジの青春』を観た。ああ、面白い。

『結婚しない女』 家内曰く「『セックス・アンド・ザ・シティ』ってほとんどこれだ!」。あいにく私は『セックス・アンド・ザ・シティ』は見たことはないが、なるほど、都会に暮らす中年女性たち4人の関係や、下ネタ含有度の高い赤裸々な会話シーンはその手のドラマの嚆矢なのかもしれない。
冒頭、亭主と娘が出かけた後で、ジル・クレイバーグがリビングで一人踊るシーンだけで「この映画は面白いに違いない」と思った。この映画の主題を予感させるたいへん象徴的な意味合いと同時に、滑稽さも合わせて表されている。映画冒頭、夫婦二人でジョギングするエピソードも、二人の関係を簡潔に切り取っており、上手い導入部を見ると映画への期待が膨らむものだ。
ランチの後で亭主に泣きながら浮気を告白された主人公が、街角で不意に吐き気を催すシーンを見たら「もう傑作!」。最後まで観たらやはり傑作だった。
が、DVDジャケット裏の惹句は別の意味で笑わせてくれる。
「自由に生きるか、抱かれるか。今、寂しさを乗り越えて、女が一人旅立っていく。」
……って、そりゃそうだろうけど(笑)、これじゃ観たくなくなるよ、私ゃ。
主人公の恋人役アラン・ベイツって、どこかで聞いた名前だと思ったらフィリップ・ド・ブロカ監督の傑作『まぼろしの市街戦』の主役だった。

『グリニッチ・ビレッジの青春』 青春映画にはとんと縁がないが、多分この映画には青春映画に必要な要素はすべて揃っているんじゃないかと思われる。親からの自立とか恋愛にまつわるいざこざだの貧乏だの挫折だの希望だのその他色々、若い時期について回るようなあれやこれやの事々。
俳優にして映画監督ポール・マザースキーの自伝的要素が強いそうで、エピソードにリアリティが貼り付いている感じがする。
主人公が通う演劇教室での芝居を巡るやりとりも興味深いし、若き日のクリストファー・ウォーケン、ジェフ・ゴールドブラムの顔や芝居もいいのだが、「ユダヤ人の母」を演じるシェリー・ウィンタースの芝居がとにかく強烈。主人公が見る悪夢のような幻想シーンは爆笑する。

『ハリーとトント』 笑えて泣ける大傑作。でも随分昔に(確かTVで)見たときはそんなに笑えなかったと思う。多分『結婚しない女』も若い時分に見てもあまり面白がれなかっただろう。
歳を食うのは楽しいものである。
DVDジャケット裏の惹句は、
「老人と猫の旅を通して人生の哀歓が情緒豊かに描出される名匠ポール・マザースキー監督の傑作ロード・ムービー」
確かにその通りだが、だからといって情緒に流されすぎることはなく上質のユーモアに裏打ちされている。とにかく会話の上手さは絶品。アメリカの一般の人がどういう会話をしているのか知らないが、この映画を観ていてつい思ってしまった。
「こんな上等な会話をしている人がそんなにいるのか?(笑)」
そんなわきゃないだろうけど。
老人性痴呆ににかかった、かつて憧れた女性とダンスするシーンが白眉だが、旅の途中で訪れる娘や息子、知り合う人物もそれぞれ個性的で印象に残る。家出娘やヒッチハイクで車に乗せてくれる娼婦、牢屋で一緒になるネイティブアメリカンなどなどユーモア溢れるエピソードを提供してくれる。実に素敵なロードムービーなのである。

卒業制作お疲れさまでした

昨日土曜日は、武蔵野美術大学映像学科の卒業制作講評会。
卒制を終えられた皆さま、本当にお疲れさまでした。
講評は木曜日から三日間行われていたようだが、私は「今ゼミ」学生の発表がある昨日だけの出席とさせてもらった。申し訳ないが、さすがに三日間通しで観る余裕はない。しかし、昨日の発表を見たらちょっともったいないことをしたとも思った。こういうと失礼かもしれないが、学生作品が思いのほか素直に「面白かった」からである。

完成や発表が危ぶまれた今ゼミの学生たちも、あらかじめ卒制提出を辞退した一人を除いて無事発表に至ることが出来た。
火曜日にゼミがあり、その段階ではほとんど映像にはなっていなかった子も立派に(と言っていいくらい)映像作品になっていた。随分長い間顔を見ていなかった気がする学生も、無事発表に漕ぎ着けてくれた。
とりわけ、先日のブログでも触れた学生の短編アニメーションは非常に良い出来で、他の先生方にも評判は上々。
内容は、「自分が何色なのか分からなくなってしまった絵の具のチューブたちが、絵の具の持ち主である子供がいない間に、それぞれの色を回復する」というもの。真っ黒になったチューブは、小人へと姿を変じて自分の色を取り戻すべく走り回る姿がたいへん可愛らしい。
1秒当たりの動画枚数がちょっと少なめので、動きはややぎこちないものの、止めがほとんどなく動き回るし、作品内容に似合っている動きとも言える。
よく動くだけでなく、ちゃんと芝居をしているのが好ましい。
台詞は一切ないが、話は勿論のこと、キャラクターたちが何をしているのか、その心情なども絵と芝居だけで十分伝わる。
それぞれの色を回復するためのアイディアもバリエーションに富んでおり、アイディアがたくさん詰まっている。
音楽は既成のものだが、曲と映像のシンクロも取れていてたいへん心地よい。
タイトルは「あみだしむくきもちはあき」(間違っていたら申し訳ない)と少々変わっている(だからなかなか覚えられないのだが)。これは、12種類の絵の具の色、その頭文字を並べたもの。

フル3Dで制作された短編アニメーション「おとぎ話が生まれるところ」も、これまた力作で、キャラクターの造型やお話も優れた出来である。途中経過をほとんど見ていなかったのだが、「よくぞここまで」と思わせてくれる。
「夜の海、大きなカメラの甲羅に乗って釣りをしている少女が、月に見える白く美しいウサギを釣り上げようとしている」というなかなかシュールなシチュエーションの作品。そして少女がついに釣り上げるのは……。
少女と亀の会話は、奇妙な音声によって交わされ、その内容は字幕で示されるのだが、説明を排し必要最低限に絞られた台詞もうまく選ばれている。

今ゼミはシラバス上は一応「アニメーション」を対象としているのだが、昨年度は漫画もあったし、今年度は実写もイラストを使ったインスタレーションもあり、結局「何でも有り」のゼミと化している。
「アイヌ」と「芸者になりたい男」という非常に難しい題材の上に、にわかには何だかうまく想像できない取り合わせに挑んだ実写「黎明は脈々」も無事に上映を迎えられる。
この作者が最もゼミ出席率が高く、シナリオから撮影、編集の進行状況を随時報告してもらっていたのだが、その制作過程における艱難辛苦、紆余曲折、続発するアクシデントや相次ぐマシントラブルを耳にしていただけに、無事上映に至りエンドロールまで見られたというだけでも感動であった。
音響への配慮が足りないせいか、あいにく台詞があまり聞き取れなかったのが残念だが、どういう話なのかは十分伝わったし、山場ではシュールとさえ言えるショットも出て来る。編集にも格闘の後が伺え、好感が持てる。

街の中に住む奇妙な生物「イートマン」を題材にした短編アニメーションは、言葉足らずというか、素材が間に合わなかったというのか、予定した映像の達成には至ってはいないのだろうが、意図したイメージは何とか具体的な形に定着していたと思われる。奇妙な生物が動く様が可愛く描けていたし、発想そのものが面白く、作者をよく反映しているように思われた。
他には「仮死状態の幻視」や「溶け合う双子」を題材にしたもの、「動くイラスト」とでも言うべき可愛らしいアニメーションなど、いずれも「すっかりなくしてしまった時間」の中で何とか形にしたようである。
中には「わずか○日間!」で仕上げてきた強者もいた。さすがに落ちこぼれだった私でも、卒制でそこまで無茶なことはしなかったぞ。
健闘をたたえたい。

経過はともあれ、とにもかくにも「今ゼミ」の映像発表は無事に終了(あと一人、イラストを使ったのインスタレーションが控えているが)。指導担当としてもホッとした次第である。
指導担当といっても、たいしたことが出来るわけでもなく、ましてや実制作には全然かかったわけでもないのだが、一年間伴走してきた者としては、やっぱり「完成」の二文字は自分のことのように嬉しいものだ。
皆さん、本当にお疲れさまでした。

いずれの作品も、商業的に見ればまた全然違う批評も出来ようが、「他ならぬその作者」にとっては立派な「卒業作品」になっているものが多かったことがとりわけ喜ばしい。
私は作品そのものももちろん重視するが、作者と作品の関係はそれ以上に重視しているかもしれない。
ゼミにおいて学生と多岐に渡ってあれこれ話をして来ているので、学生の置かれた状況や人格もある程度知っている。だから「他ならぬその作者」だから作り得たものなのかという面も重要なのである。何せ「映像表現」なのであり、表現されるのは作者の考え方や見方であろう。
そういう事情もあるので、他のゼミの学生作品を観るのはなかなか難しい面もある。プロの仕事なら作品だけで批評、評価するのも真っ当な在り方だとは思うが、学生や素人作品はどうしても言葉足らずだったり独りよがりだったりすることが多い(だからこそ学んでいるのだし)。
もちろん、いずれの作者だって「作品だけで勝負」と思ってはいるのだろうが、コメントする側としては「それだけじゃちょっと難しい」ということだってある。

今ゼミの学生作品の上映が終わったあと、引き続き他ゼミの学生の作品もいくつか見せてもらった。中には、この日の上映ではないにもかかわらず、休憩時間にわざわざ私に見せてくれた二人の学生もいた。ありがとね。
いずれも力作で、印象に残るものが多かったが、中でも私が「受けに受けた」作品と出会えたのは幸運であるとさえ思った。
タイトルを正確に覚えておらず申し訳ないが(その後の飲み会の席で作者自らに確認したのに申し訳ない)、60分に至る実写大作である。
これが滅茶苦茶面白い。
もちろん商業作品として見れば「たるい」点や配慮が足りない点は多々あるし(録音用のマイクが画面に写っているショットがあったのはご愛敬)、上映が始まってしばらくは私も「学生の長尺……見るのがしんどいな」「退屈かなぁ……」と少々侮っていたのだが、映画の調子が分かってくるにつれて俄然面白くなってきた。後半に至っては一人爆笑の連続。
傑作である。

一つの部屋をシェアして暮らす二人の女性の奇妙な関係を描いた映画だ。
登場人物たちの関係が醸し出すムードが何より魅力の映画なので、ストーリーを記してもその面白さは伝わらないとは思うが、こんな感じの話。
「片や几帳面、片や奔放で少々「不思議ちゃん」という若い女性二人が、小さなトラブルを抱えつつも一つ部屋で暮らしているのだが、ある日ひょんなことがきっかけで「不思議ちゃん」が消えてしまう。「清々した」という反面、残された女性はある種「自分の半面」でもあった「不思議ちゃん」を、ある手がかりを元に探し出そうとする……」
そんなあらましではあるのだが、だからといって「いなくなった彼女を捜し出す」という筋立ての映画ではない。日常描写がとにかくリアリティがあって面白いのである。構図も随所に上手さがあり、たいへん優れた演出力だと言っていいし、登場人物とほとんどイコールだという役者の芝居もたいへん自然で良い。
商業映画やTVドラマには、その登場人物の住む部屋にしろ交わされる会話にしろ、作り物にしか見えない若者の生活ばかりが映し出されるように思うが、この映画にはたいへんなリアリティを感じた。
だって、観ているうちに自分が過去に経験した「痛み」だの「こっぱずかしさ」だのが引き出されてくるのだから(笑)

講評の際、こんなことを伝えた。
「「若いって面倒くさい!」ってことが久々に実感をもって思い出されるくらいのリアリティがあり、私には爆笑の連続だった」
実際、上映中に笑い声を抑えるのに苦労したくらいなのだが、上映会場が笑いに包まれたわけではない。
あの映画、若い子には笑えないかもしれない。特に男子学生には。
上映後の打ち上げで聞いたところによると、聴講していた3年生の女子も笑えはしなかったと口にしていた。
若い女性の作者が若さをある意味突き放して見ている映画である。まだ自分の若さと距離が取れない当の若者には、笑いが生まれにくいことは容易に想像できる。
でも、私はオッサンだし。
いまとなっては若い頃に経験した若さゆえの恥ずかしさを笑えるくらいの距離は生まれてしまっている。
で、スクリーンに映し出されるその「若さゆえの恥ずかしさ」が、「ツボ」なのである。
「ぎゃははは、有る有る!そんな感じ!」

主人公である二人の女性にはそれぞれボーイフレンドがいる。
几帳面な女の子とボーイフレンドが二人きりでいるシーンのリアリティがいいのである。だるい空気とか、男のマヌケな台詞だとか。「あ〜あ、言っちゃったよ(笑)」みたいな。いまもきっとどこかのアパートの一室でこんなシーンが「演じられて」いるんじゃないかと想像できる。
「不思議ちゃん」のボーイフレンドがまたいいのである。
ここから先はわずかにネタバレも含むので、この映画を観る予定の人、観たい人にはお薦めしない。

「不思議ちゃん」が突如消えてのち、アパートに不思議ちゃんこと「ウタコちゃん」の「彼氏」が訪ねてくる。ウタコちゃんは彼氏との連絡も絶っているわけだ。
ルームメイトに前触れもなく出て行かれた女と、出て行った女の彼氏が一つテーブルを囲んで気まずい奇妙な時間を共有する。これだけでもなかなか演出しがいのあるシチュエーションなのだが、さらにおかしくなるのは、ここに新たな人物が訪ねてくるところ。
ピンポーン。
出ると若い男性が一人。
「ウタコさんと付き合っていた、いや付き合っている者ですが……」
「彼氏」に続いて「付き合っている者」だ。
先のただでさえ奇妙な空間に、さらにウタコちゃんを巡っての三角関係が持ち込まれる(笑)
いなくなったルームメイトの「彼氏二人」に挟まれるという、実に気まずくも何だかよく分からないことになっている空気の中でも、ちゃんとお客にお茶を出したりする主人公の几帳面さもいいのだが、男二人の会話もまたすこぶるぎこちなくていいのである。
正確には覚えていないがこんな感じ。
「いつから付き合って……?」
「……二年……いや、二年半かな……」
見ているこちらの座り心地が悪くなるくらい気まずくも爆笑できる。

ムードが魅力の映画だが、後半に入ると、行方をくらました彼女を捜すという展開が起動してくる。ここからがまた面白い。基本的に室内シーン中心だった画面が、屋外に出るという「転調」が効果的。
いなくなった彼女からはある日、手紙が届けられていた。中には元気そうに笑顔を浮かべる彼女の「写真」とルームシェア分の家賃が現金で入っている。
写真の中で微笑む彼女の背後には、場所を特定する上で顕著な特徴となる高架の道路か何かが写っている。この写真と部屋に残されていた「将棋盤」(不思議ちゃんと将棋という組み合わせもまた絶妙なのだが)から得た手がかりを元に彼女を探しに行くことになる。手がかりの発見の仕方も気が利いていて良いのである。
そしてついに二人は再会する。その際、ウタコちゃんがまとっていた不思議さが一瞬破れるところがいいのである。
二人が迎えるエンディングシーンもまた気まずいようで、でもかなり「とんちんかん」にも見えるぎこちなさとよじれるようなユーモアに彩られているのだが、それは是非見てのお楽しみ。
興味が湧かれた方は武蔵野美術大学卒業制作展に足をお運びください。
あるいは、今年度の全卒制作品を収録したDVDが出るのをお楽しみに。
私は周りの「大人」に是非見せたいと思っている。

去年観た映画・その2

寒い日が続いている。こういうときにこそ地球温暖化の会議を催すのが良かろうに。頭が冷えて宜しいのではないか。

月曜日は、世間では成人式だったそうだが、出社して相変わらず仕事場の構築と本業を少し。
新しい仕事はようやく落ち着いてきた気がするものの、もう一つしっくり来ない。しっくり来るためにはそれだけの時間を必要とするのだろうが、しかし個人的にはこれまで席を置いてきた仕事場の中で最も快適に思える。
実際の場所であれ漫画やアニメーションの画面の中であれ、ディレクションが必要ということなんだろう。以前の仕事場はほとんど他人任せにしたのは大失敗であった。
現実にものを配置したり収納したりすることと、画面のレイアウトには何の違いもないもんだな、と改めて思わされた次第。
火曜日は武蔵野美大レギュラーのゼミ。翌日が提出締め切りだというのに、卒制の状況はかなりまずい。ある女子の弁が象徴している。
「……もうダメかも」
そういわずに最後まであがいてみてください。卒業制作は大学時代の一つの結果ではあるけれど、その制作の体験や結果は今後の糧にもなるのだから最後まで諦めてはいけない。何事も次へのリレーという面がある。
ゼミに出てこない学生の状況がどうなっているのかさっぱり分からないが、指導担当として私も力不足と責任は感じつつ(ゼミに出てこない人は指導できないんだけど)、講評時に何が見られるのか期待と不安がてんこ盛り。
ゼミで完成品を見せてくれたのは一人だけ。だがこれが実にいい作品に仕上がっていた。とても面白く見られる可愛い短編アニメーションである。
一足先にここで評価しておこう。
「たいへん良く出来ました」

さて映画のこと。
近作以外では、去年前半はヒッチコック、後半はクリント・イーストウッド監督作を中心に観ていた。
ヒッチコックは『ハリーの災難』『見知らぬ乗客』『ロープ』『間違えられた男』『サイコ』『めまい』『鳥』『フレンジー』『逃走迷路』『トパーズ』『見知らぬ乗客』『泥棒成金』『知りすぎていた男』の13本。ほとんどは一度観たことがあったが、内容は記憶の彼方だったので初めてのように楽しめた。一昨年の暮れには『裏窓』『北北西に進路を取れ』も観ているので、ちょっとしたヒッチコック特集期間だった。
今さら言うことではないが、サスペンスを視覚化する、一目で分かるようにするって「そういうことだよなぁ」と思わせてくれるのがヒッチコック。
中でも、私にはやはり『鳥』と『サイコ』、それと『泥棒成金』のグレース・ケリーの美貌が絶品。
『泥棒成金』の劇中、ホテルロビーの客がグレース・ケリーに振り返るシーンがあるが、「そりゃそうだよな」と思わせるほどかっこいい。
ちなみにファンタジー映画の佳作『ミリィ 少年は空を飛んだ』で、ミリィと友達がTVで見ているのがこの『泥棒成金』。口づけするケーリー・グラントとグレース・ケリーのバックに、その情熱が爆発するかのように花火が次々と打ち上がる。『ミリィ』では単に引用するだけではなく、その映像がちゃんと伏線になっているのが好ましかった(当たり前のことだけど)。
そう言えば、この「情感の比喩としての花火」は『妄想代理人』最終話で拝借したアイディアでもあった。

クリント・イーストウッド監督の映画はほとんど観たことがなかった。
その昔、『ファイヤーフォックス』とか『ダーティハリー4』などを観て思った。
「……こういうのは、いいや」
だから時が経って後、話題になった映画も観ようという気がしなかったのだが、仕事仲間に薦められて観た『父親たちの星条旗』がとても良かったので、続けて『硫黄島からの手紙』『トゥルー・クライム』『ミスティック・リバー』『目撃』『グラン・トリノ』『チェンジリング』『ミリオン・ダラー・ベイビー』『バード』『ハートブレイク・リッジ』『許されざる者』『スペース・カウボーイ』と計12本観た。
全体に、ベタなハリウッド映画とは一線を画しつつ、アベレージが高く安定している印象で、受け取り方が難しいものも多い。

『父親たちの星条旗』 英雄として晴れ舞台に担がれながらも、虚実の落差に内面が荒れていく若者たちについ感情移入してしまい、泣けた。

『硫黄島からの手紙』 「『父親たちの星条旗』と合わせて観る」ことそのものが面白い。ただ、岩山に穴を掘り巡らして立てこもる日本兵が、まるで現在アメリカが「戦争」をしていると主張する「テロリスト」みたいに見えて仕方なかった。まぁ、そうなんだろうけど。
見えて仕方なかったといえば、主役級の日本人の若者がどうにもたけし軍団の柳ユーレイみたいに見えてしまい、「その方がらしかったのに」とさえ思えて仕方なかった。頭の悪い軍人代表とでもいうべき役の中村獅童は実にはまっていたが、何より良かったのは実は裕木奈江だったんじゃなかろうか。

『ミスティック・リバー』 ラストのパレードのシーンは色々な意味でドキドキさせられる。どう考えればいいのか、複雑な気持ちになる。ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコンがそれぞれ「はまり役」で、演技合戦が見物。特にショーン・ペンの芝居が絶品。

『ミリオン・ダラー・ベイビー』 いい映画を見せていただきました。役者が刻む画面の存在感がたいへん印象的。イーストウッドとモーガン・フリーマン。濃い。

『グラン・トリノ』 これまたいい映画を見せていただきました。年寄りになって尚も変わろうとする在り方が素晴らしい。きっとイーストウッド本人もそういう人なんだろうと思わせてくれる。
「銀残し」のような画面も涼しげでとても心地良い。コントラストは高いが、彩度が低いので目に優しい。目にどぎついばかりのどっかのアニメとは大違いである。
観た範囲のイーストウッドの映画では制作順に『トゥルー・クライム』『ミリオン・ダラー・ベイビー』『グラン・トリノ』と、神父あるいは牧師が重要な局面において登場するが、順にその扱いが変化しているのも興味深い。聖職者に対して「軟化」しているみたいだ。
特に『ミリオン・ダラー・ベイビー』『グラン・トリノ』において顕著なのは、実に判断が難しい決断に際して聖職者が登場する。「この問題を宗教の立場ならどうするんだ?」という突きつけ方で、それを越えて判断せざるを得ないイーストウッドは正に「父性」であり「主人公」なのであろう。

『許されざる者』 アメリカという国の自画像にしか見えないところが面白い。「昔は女子供まで皆殺しにする悪党だったが妻によって改心し、今では子供たちの将来を思いやる老ガンマン(イーストウッド)」、そのかつての相棒は「ネイティブアメリカンを妻に持つ黒人(モーガン・フリーマン)」、対するは「原理主義的正義の保安官(ジーン・ハックマン)」。役者も濃いね、また(笑) これより先に『ミリオン・ダラー・ベイビー』を見ていたので、イーストウッドとモーガン・フリーマンが出て来て、ボクシングでも始めそうな気がしてしまったが。
人物の設定を抜き出すだけでも、アメリカという国を象徴していることがよく分かるのではなかろうか。これまた観た者がどう受け止めるのかを問われる複雑な映画で、そこが何より素晴らしい。イーストウッドの映画にはそういう意味で難しいものが多い気がするし、そこが「ちゃんとした映画」を撮る、撮ろうとしている監督だと思わせる。
割り切れる話ほどつまらないものはない。

去年観た映画・その1

土曜日で概ね仕事場のセッティングは終了。
一週間もかかってしまったが、何も自分の机周りにそんなに時間を要したわけではなく、共有スペースまで合わせて、私がなるべく好ましいようにしていたからである。
早く絵を描けよ、という気もするが、それらを片付けないことには絵も描けない。そういうもんだ。
スタッフルーム内に出来るだけ「不審なスペース」や「中味不明の荷物」がないように、なおかつスチール棚とカラーボックスと原画机で構成された風景とはいえなるべく見栄えが貧乏くさくならないように、さらには居心地を快適であるようにするためには、アイディアと時間が必要なのであった。何より重要な前提は「金をかけずに」だし。
ああ、疲れた。
明日から本来業務に戻ろう。

去年の8月から、結果的に一旦ブログをお休みしていたので、月ごとに書いてみようかと思っていた「雑食」の雑感が頓挫してしまった。
私は毎年「雑食日誌」という覚え書きを付けている。
読んだ本、観た映画などのタイトルを記すだけのもので、感想など特には記していないが、こうしたメモを付けておかないと何を読んで何を観たのかさっぱり思い出せないことになる。別に思い出さなくてはならない理由もないが、タイトルを眺めていると自分の最近の傾向を俯瞰できる気もするし、年にどのくらいの数、本や映画を消化しているのかが分かり、ちょっとした励みにもなる。
何しろ私は若い頃に読書にあまり親しまなかったので、今になってその「空白」(と感じられる)を少しでも埋めようと思っているらしい。
「雑食日誌」は読み終える度、見終える度に記しているのだが、新年早々「雑食日誌2009」のデータをうっかり上書きしてすべて消してしまった。嫌な年明けだ。
悔しいので、記憶と断片的に残されたデータを元に99%は回復したものの、いつ消化したものかは分からないままになってしまったのは少々残念であった。

観た映画は確か63〜4本だったと思うが、回復した記録は61本。月に5本程度観ていたことになるので、近年としては割と数を観た方かもしれない。
映画館で観たものは一本もない。試写の招待や鑑賞券をいただくことはあるが、出かけるのが億劫で、ついついDVDで観ることになる。もっともそのDVD鑑賞も旧作がほとんどで、新作にはあまり縁がない。
去年観たうちで、近作と言えるようなものは13本。それも、いただきものや借りてみたものが大半である。
近作の中で、色々な意味で印象に残ったもの雑感を記してみる。

『ノーカントリー』 何が面白いんだろう?この映画。上手くないなぁ……という印象で、殺し屋も冷酷無比として描いているはずが、時折あまりにちゃちな演出がなされてどうにも興ざめするのだが、「アカデミー賞」なんだしそれでいいのか。

『スラムドッグ・ミリオネア』 あの面白い原作はどこに消えたのでしょうか? インドの人が描いたすこぶる面白い原作「ぼくと1ルピーの神様(原題「Q&A」)」が旧宗主国であるイギリスの人たちによってチンピラ映画みたいになって、それがアカデミー賞始め白い国々で多数受賞する。劇中の格差よりも悪質な構図が鮮明に浮かび上がって気がするのだが、いいんでしょうか。

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 数奇な運命を背負ったつまらぬ男だっているわな。

『崖の上のポニョ』 目が痛くなる配色はテレビが壊れたわけではなくて良かったが。

『ウォーリー』 子供向けだからってあまりのインチキはいけないんじゃないのか。

『戦場でワルツを』 本当にいい映画を見せてもらった。アニメーションによるドキュメンタリー映画。アニメーションの技術的な面では特筆することはないと思うが、取材対象である人物の実写映像から、どの部分をアニメーションの芝居として抽出するのか、そのエッセンスが興味深く、特に視線や手の芝居に目を引かれた。

『ザ・バンク 堕ちた巨像』 話はともかく、切れそうなほどシャープな画面は心地よかった。グッゲンハイム美術館での銃撃戦には萌え。

『トロピック・サンダー』 ロバート・ダウニー・Jrの「黒人」芝居だけでも○(笑)

『その土曜日、7時58分』 失礼ながらシドニー・ルメットが健在だとは思わなかった。1924年生まれで2007年にこういうある種「若者風の構成」の映画を撮っているとは驚き。フィリップ・シーモア・ホフマンの芝居もいいが、イーサン・ホークが「ダメな男」にはまり役で印象的。

『選挙』 想田和弘監督による笑えるドキュメンタリー映画の傑作。絶妙なカメラポジションだけで雄弁なメッセージとなっているし、日本の風景が正しく映し出されているのもいい。同監督の新作『精神』のDVD化が期待される。想田監督が『精神』制作から公開までの紆余曲折を記した単行本『精神病とモザイク−タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)』(中央法規)もたいへん興味深い内容だった。

年賀状のレシピ・その2

昨日も引き続き新しい仕事場のセッティング。
この日は共有スペースにある打ち合わせ場所周りを中心に開梱作業とTVやパソコンの配線。
これまで監督したアニメーションのDVDやらビデオ、資料用映像、その他映画祭やイベントや、知り合いからもらった作品集など多くのDVDなどを箱から出して並べ、人形やオモチャ(立派な資料なのだが)に窓辺を彩ってもらう。
続いて打ち合わせスペースに鎮座する大型テレビ周りの配線。パソコン、DVDプレイヤー、ビデオデッキをTVにつなぐ。
開梱作業中に少なからぬDVテープも発掘されたので、これらも見られるようにするべく、現役を退いていたDVカメラもTVにつないでみる。
「お。まだ動くぞ」
試しに「『千年女優』スタジオ初期」と記されたテープを再生すると、阿佐ヶ谷芝萬ビルの片隅に出来たばかりの『千年女優』制作班の様子が映し出される。現在と同様、おそらく引っ越してからまだ間がない頃だ。
「ひゃあ、懐かしい」
何しろ12年前の映像である。
美術監督の池さんは現在より一回り「小ぶり」で、監督もはるかに細身で何より毛髪量も少なくなく、白髪もほとんど見えない。
使用しているパソコンもMACのG3で、えらく古いように思える。
しかし干支が一回りする時間が経っても、アニメーション制作現場の風景はあまり変わっておらず、TVモニタの中も外も原画机とスチール棚、段ボール箱が構成する景色は同じである。
DVも再生できるようになったので、ついでに監督部屋からラジカセもここに加える。CDとMDとカセットまで再生できるという便利だが現在では何の役に立つのか分からない私物。以前は、声優さんのボイスサンプルがカセットやMDで届けられることもあったので、その再生用に仕入れたもの。現在ではCDかMP3なのでラジカセの出る幕はないので、体のいい厄介払いだ。
新旧の機械とフィギュアと書籍に囲まれた打ち合わせスペースは、こぢんまりとしているが、なかなか快適な空間……というよりとも何だか子供が作った「基地」みたいでもある。

さて話は少しさかのぼって、年が明けた元旦のこと。
ゆっくり寝ていればいいものを、普段と変わらない10時過ぎには目が覚める。
描きかけの絵があると、楽しいと思うらしい。布団の中で年賀画像着色の段取りをあれこれ考える。真面目だね、まったく。
それに正月とはいえ、遅くまで寝ているくせを付けない方が好ましい。今年は、荻窪から新中野へと仕事場が遠くなったし、終電の時間も早くなるので、これまでと同じ仕事時間を確保するには、生活時間帯も少し前倒しにしなければならない。
今年の起床は目標9時半。それでも一般の会社員に比べれば十分遅い起床だろうが、毎日終電まで働くのである。

まずは煙草を吸ってコーヒーを飲み、さてデジタル作業である。
パソコンの作業は気が楽で宜しい。
まずはスキャンした素材の掃除から始める。年末の大掃除からこっち掃除ばかりしている気がする。
線を補正してゴミ取り。
正式な版権イラストでもないので、アニメのセルと同じに線は2値化して彩色作業を簡単にする。
分からない人のために一応解説しておく。
鉛筆で清書した線は、黒い線といってもスキャンすると単なるグレーの階調であり、白い紙もそのわずかな汚れやたわみなども読み取るためにうっすらとグレーになる。これをレベル補正して、なるべく白黒のはっきりした画像にする。このままでも塗りの作業はもちろん出来るのだが、いくらか手間が余分にかかるので、これを2値化する。と、グレーの階調は失われ、白黒だけのデータになる。線の滑らかさは失われ、小さな正方形のブロックが集積した線になる。折角の線がジャギジャギになってしまうがが、こうしておくと線で括られた面積内をペイントツールでとても簡単に塗ることが出来る。クリック一つでサッと塗ることが出来、後から色を変更することも簡単。同じ色なら一括で変換も出来る。
もっとも、超簡単に塗れるようにするための仕込みや修正に手間がかかるのだが。
大量にセルペイントを必要とする通常の商業アニメーションにおいては、作業簡便化のためにセルはすべてこうして塗られている。この年賀画像では影やハイライトなどは別素材で作成しているが、通常のセルは実線と一緒に同じ紙に書き込みになる。
2値化したままでは勿論線がジャギジャギで見るに堪えないので、このデータに「スムージング」とか「アンチエイリアス」といった処理を施すと、ジャギジャギが平準化され滑らかな線になる。
説明が足りないかもしれないが、概ねそういうことである。
上記のことを親切にも図に示すと次のようになる。

004.jpg

実線と同様、影とハイライトの色トレス線にも2値の処理を施して、塗るための下ごしらえは完了。
後はペイントツールで色を流し込むだけである。
ロビンの基本色はすでに決まっているので、以前に描いた設定のデータをパレットにして、ここから色を拾ってヒョイヒョイと移植。
新規に色を決めなくてはならないのが「虎の手袋と耳、顔のペイント」だけだが、どうということもない。虎の記号的な色は黄色と黒でロビンの固有色と相性が良すぎるくらいだ。というか、ロビンが黄色いから虎の扮装をさせたのだ。
ちょっとだけ迷ったのは、「虎柄」という記号で考えるか、本物の虎に準ずるか、というくらい。
耳にせよ手袋にせよ、黄色に黒の縞を入れれば記号的に分かりやすいが、その分ファンシーという不愉快な彼岸に近づく。リアルな虎に準じるなら、耳の裏は黒いものだし、手先に縞はない。だが、その分虎の記号が後退する。下描き段階でも考えた問題だが、ファンシーに近寄るのはやっぱり嫌だ。
虎の扮装パーツは無難な色で収めておく。

これで塗りは終わり。超簡単。
後は『夢みる機械』キャラ定番の「金属処理」。ロビンの場合はグレーのパーツがその対象。この部分のハイライトにのみフレアが出る処理を施す。
当該部分の色を選択して別レイヤーとして、ぼかしなどの処理を加えてレイヤーモードを変えて重ねると、こんな案配になる。

005.jpg

さらに胸のライト部分などに光の処理を施す。と、アニメの本篇画面でならばこれで完成ということになるが、一枚絵なのでわずかに「特効」を加える。
頭部や胸元、足先などにブラシとグラデーションツールで階調を伴ったハイライトを入れて作業は終わり。
完成した画像にさらに定番の処理を加える。画像をコピーしてぼかしたものをソフトライトで重ねて完成。この効果により、単なる塗りよりも湿度が加わる……ような気がしている。やりすぎると「ベチャベチャ」になるので、濃度は控えめにしておく。
これでイラスト部分は完成。
単なる塗りと比較すると、いくらか違いがお分かりいただけようか。

006.jpg

さて、このイラストをどのように配して年賀状に仕立てるか。
イラストだけでは年賀状としての機能に欠ける。
だからといって背景用に新たな素材を作るのは億劫だ。
面倒は嫌い。
ちょうど『夢みる機械』の「仮ロゴ」が円形で、これをアレンジすれば「日の出」に見えないこともあるまい、と思って流用することにした。
この仮ロゴは去年の4月に私が作ったものである。本番のロゴが出来るのはまだまだ先だが、制作期間中にも「旗印」が欲しいと思って作った。
こちらがその仮ロゴ。私はグラフィックデザイナーではないので、至らぬ点はあるが気に入ってはいる。

007.jpg

この仮ロゴの背景を赤から黄色へのグラデーションに変え、年賀状に相応しい「日の出」に見立てる。
これを先のイラストのバックに配置して完成。

008.jpg

お手軽に作った割には悪くない、と思っていたのだが作画監督の板津くんに指摘されてしまった。
「今さん、ロビン間違ってますよ」
ありゃ。
ロビンの下半身に付いている「オムツ状」のパーツ、これの曲線の向きが逆だった。「∪」ではなく、上に向かって「∩」となるのが正しいのであった。
元は自分でデザインしたくせに、ああ情けない。
ま、それもご愛敬ということで。