パクリの語法

間違いなく私の方がずれている。
「パクる」という言葉の用法についてである。

これは私の育って来たごくローカルな環境と密接に関係したかなり特殊と言えることかもしれないが、話や絵作り、演出に興味のある人に多少参考になるかもしれないことなので記してみたい。

まず「パクる」というのは世間一般でいうほど狭義でも否定的ではなく、もっと広義で肯定的意味を積極的に含んだものだと刷り込まれてきた。
いつどこで刷り込まれたかというと、四半世紀前くらい、私が20代前半で、大友(克洋)さんや白山(宣之)さんという「師匠」によってである。
この界隈の会話において「パクる」は日常語といってよく、良い意味でも悪い意味でも区別なく使われていた。もし区別というか使い分けがあるとすれば、「パクリ方が上手いか下手か」という面にあったろう。

たとえば私が「今度、これこれこんなネタでこんな話を漫画の短篇で描こうと思って…」なんて話しをすると、当事の私から見ると(現在もだろうが)山のような既存の映画や漫画の知識を動員してもらい、得てしてこういうようなリアクションが返ってくる。
「ああ、なるほどね…何かアレみたいだけどな」
アレとは映画や漫画の具体的タイトルだったりする。
そして私はだいたいアレを見たこともなく、アレについて教えてもらうと、なるほど私の足りない頭で考えたものよりはるかに上手くできている訳だ。
「パクる元も見てねぇんじゃしょうがねぇよ」といった次第なのである。
良い言葉を選べば「引き出しとその中味をもっともっと増やせよ」ということだが、そこはやや偽悪を気取ってパクリというわけだ。
単純な例をあげれば、たとえば「あるミッションを遂行するために仲間を集める」という枠組みを持った話を考えるのなら「七人の侍」などを筆頭に、それぞれ芸や技術を持ったプロフェッショナルを集める映画くらい見ておくものだよな、というようなこと。

というわけで遅ればせながらアレを見て上手いところを学ぶことになる。
何もそのまま真似するわけではない。それはもしかしたら、人物の配置や話の構成かもしれないし、説明の端折り方かも演出の見せ方かも小道具の使い方しれない。
重要なのはある種のパターンを抜き出して応用する、といったようなこと。パターンを抜き出せなければ真似のままで応用にならない。だからパクリ方がうまければ最終的にはパクリにさえ気づかれないものである。本人でさえ忘れていることだって多いにあるくらいだし。

私は大友さんの漫画にそうした「取り入れ方」(=上手なパクリ方)を学んだつもりである。
「ええ!?この短篇の元ってあの映画なの!?」「あ!このシーンの見せ方ってあれから来てるのか!」みたいな。
それは絵の作り方、背景の扱い方、多い登場人物の捌き方、望遠と標準レンズの考え方、どこで切り返すかといった編集的なこともあれば、もちろんストーリーが展開することや構成といった話の根幹にまつわることまで多岐に渡った。
引用される創作物も映画や漫画に限ったものではないし、小説や写真集、音楽や落語であったり、時には実体験であったりと油断することなど出来ないほど幅広く、そしてこちらは情けないほど幅が狭かったのである。痩せっぽちな体験は貧相なものにしか繋がらない。
だから、せめて仕事場や飲み屋で話題に上がった映画や漫画に目を通すようにしていたつもりだ。いま考えると、あの時以上に学ばせてもらう機会なんて後にも先にもなかったように思う。

凡庸なまとめだが、要するにその頃学んだことを要約するとこういうことか。
どんな些細なことでも自分の作ろうとするものの肥しになれば積極的に取り入れる。

さて話は戻って、自分のネタに対してもらったアドバイスを元に考え直し、自分なりに改善したつもりで第二弾を聴いてもらうことになるのだが、事態は得てしてこうなる。
「下手だなぁ!もっと上手くパクればいいのに」
ええ、ええ、そうでしょうとも。
アレンジしたつもりが「タダの猿真似」つまりは「タダのパクリ」過ぎなかったことを指摘されただけのこともあれば、もっと頻繁に経験したのは次のようなこと。
「ああ、なるほどね…そういやコレ見たことある? 」
アレに続いて今度はコレである。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
そして私はだいたいコレを見たこともなく、コレについて教えてもらうと、なるほど私の足りない頭で考えたものよりはるかに上手く……。

実際にはアレ、コレどころの数ではない非常に多くの作品を参考に紹介され、ろくに消化出来ないまま、格闘していたように思う。そして終わって見れば自分が何の何に影響を受けたのか、何をパクったのかなんてどーでも良くなっているものだった。
意識出来ていることなんてそう多くないものだろう。私はそう思う方だ。
いくらパクリで何かを作るにしたって、ネタモトが2本や3本で一つの世界観が出来るわけもなく、極端に言えばたくさんのネタモトをどう配合し、どんな鋳型に押し込むかでいくらでも新しい装いの物が出来上がると私は思う。
そんなときにパクリ元の一つ一つにどれほど重要性があるでしょう。どうでもいいと思うだろ、普通。
私は配合の仕方や鋳型、どこにその作り手の独創性があったっていいと思うが、オリジナリティ神話原理主義者はそうじゃないのかもしれない。

私は少なくとも例の映画を一般的な意味でのパクリだなんて考えたこともない。増してや話が似ているなんてつゆほども思わない。ただ、日本のTVスポットの編集やコピーには笑えるだけの要素は十分にあったのではないかと思うくらいだ。
敢えて言えばいくつかのイメージやアイディアが小説や映画の「パプリカ」から触発されてそうな気がする、という程度の話である。

誤解や勘違いは別にけっこうだが、このことで役立つ「パクリの効用」が忘れられるのは勿体ないと思った古い世代の懐旧譚であった。

しかしこの程度でもiPadで長文を打つのはけっこう難しいもんだな。

ナベケン

例の映画について書きたいわけじゃないのだが、ナベケンのことを思い出した。
いまやハリウッド御用達日本人スターと言えば渡辺謙さん。
日本人から見るとむしろ日本人離れした顔じゃないかと思うが、陰影のつきやすい顔だちが分かりやすさに通じて好まれるのかもしれない。三船敏郎も同じ傾向だろう。
逆にアジア系の女優なんかは表情が読み取りにくいフラットフェイスの方がエキゾチックに感じるのかも。日本で美人っていうと陰影がつきやすいタイプだと思うが、そのあたりは逆なのかもしれない。
要するにアジア人はアジア人としての役割分担がある、と。
三船とか渡辺謙は例外なのだろうか。というか男優の場合は例外しか取り上げられないのかもしれない。その他の日本人はきっといまだにメガネ出っ歯で十分、みたいな。

4年前、ハワイの映画祭で渡辺謙さんに紹介されたことがあった。
通訳か何かの女性が気を回したがったのだ。ブルンブルン!
「渡辺謙さんを紹介すればさぞや喜ばれて、彼の一生の思い出になるに違いない!」とかそんな感じ。
善意のブルドーザー。「オバチャン」の威力はオアフでも同じ。
紹介された私も困ったが渡辺謙さんだってさぞや困ったろう。
「ええ、どうも、今 敏というアニメーションの監督でして…」
「どうも渡辺謙です!」
どこの馬の骨とも知れぬ相手に、ワザとらしさの微塵もなく握手してくれたその様はスカッと爽やかな人という印象だったな。
大柄というわけでもないのに、画面では存在感があるし、3DCGみたいに陰影の強い顔の人たちに混じっても様になるし。
ハリウッドという夢の世界でもきっと負けないぞ、ナベケンは!
あまつさえ夢の世界を支配することだって夢じゃないさ!

で、何でナベケン呼ばわりかって?
そりゃあだって握手した仲だもん、一生ダチに決まってら。

よく分からないが

他人に影響を受けたことを隠さなくてはならない、という心理規制が私にはよく分からない。
いいじゃん、何に影響を受けようが真似ようが。
滅多なことじゃ盗作になんかならないんだしさ(笑)
オープンにしている方が心身ともに風通しがいいだろうに。
恥ずかしいことなのかね、それ。

二十代のようなチンピラや若僧ならともかく、世間にちゃんと認知され評価されているような人がそうしたことをことさらに隠すという意味が私にはうまく想像出来ない。
どんな表現物だって何か先行するもののアレンジでしかないだろうに。
オリジナル神話の信奉者がいまだ世に蔓延っているというせいもあるだろうけど、例の件については宗主国と植民地の関係も忘れちゃなんねぇべ。

考えるまでもなく、漫画やアニメや日本映画をちゃんと文化として評価しようという気配を感じるのは、先の大戦で仲間側だった国か直接殺し合わなかった国だという気がするもんね。商売になるかどうかは別の話だが。

相変わらずだよね、まったく。
ギブミーチョコレート。
ま、日本のチョコの方がはるかに美味しくなったけど。

振り振り

さっき見るともなく「バンキ○◯」とかいう番組を流して聞いていたら、ナレーションのあまりの気持ち悪さにムカムカした。
折角飲んでいたコーヒーから味が半分奪われた気がした。
「シリアスな振り」もたいがいにして欲しいものだな。
外人の言葉に日本語を被せるボイスオーバー、洋画の吹き替えと同じあのワザとらしさがカワイイものに思えるほどだ。
大事故を面白がるのがTVの遺伝子だろうが、重みなどかけらもないくせに無理矢理深刻ぶった口先の技術で語られては、音響演出の経験があるものとしては何だか録音現場までありありと想像され、具合が悪くなってくるぞ。
「はい、そこもっと悲惨さを煽って!」とかね。
声優にも問題はあるのだろうが、そういう「芝居」を求める演出側の心の無さに改めて呆れた次第だ。
今さら言うことじゃあないが。
久しぶりにTVを見る時間があったので。
見なきゃいいんだよな、ホントに。

坊主頭にする

今 敏と言えばその外見の大きな特徴はすらりと伸びた手足と薄く引き伸ばされた頭髪、毛髪を補うために伸ばしたヒゲにあったが、訳あって先日、坊主にした。
ボウズ。
丸儲けしそうなほどいい響きだ。
これまでに堆積した責任やら無責任、人情や不義理、欲望や重圧を気持ちばかりでもリセットする意味を込めた断髪である。
ジョキジョキ。
バリカンでジーッ。
長く伸ばし放題にして来た髪の毛を刈ってもらっている間、映画「フルメタルジャケット」の冒頭シーンを思い出していた。
そう、新兵と同じように私も生まれ変わるのだ。
スカッとした。
あースカッとした。
長年、成り行きで何となく長髪にこだわってしまっていたような気がするが、いざ切るとなっても取立てて未練や思い入れがある訳でもなかった。
せいせいした。
それに何より。すっかり気に入ったのである。坊主頭。
鏡の中の私の顔はなかなか悪くないと思う。
「職業で言うと何に見える?」
女房に尋ねた。
「う〜んとね…住職」
夢のない演出家の女房の面目躍如である。

お節介ながら

映画やその他表現媒体のためのお話作りについてよく知らない人のために、親切な注釈を一つ付け加えておきたい。
作品や話し作りにおいて「パクリ」は全然悪いことではない。むしろあたり前のことだとさえ言える。
いまだに「オリジナル神話」とやらの信仰者も絶滅してないのかもしれないが。

自作を例にすれば、たとえば顕著なところで「東京ゴッドファーザーズ」はジョン・フォード監督映画「三人の名付け親」のパクリだし、「千年女優」の話の雛型は星野之宣の短編漫画「月夢」だ。そうしたことは隠すまでもなく著書にも記してあるし、インタビューでいくらでも答えて来た。
その他監督作についても「未来世紀ブラジル」「スローターハウス5」などからの影響やパクリが多々あることを、私は喜んで紹介さえしてきた。
なぜなら物を作るというのは無から有を生じさせるようなことではなく、元にあったものをどのように捉え、どう活用し変容させるかといったことにあるからだ。
そんなあたり前のことをコソコソと隠すようなやつを私は滑稽だと思うだけである。
わざわざ言うまでもないことだが、老婆心ながら記しておく。iPadで。

某映画

その映画のTVスポットCMを初めて見たのは公開直前のことだったと思うが、私は見た途端大笑いした。映像的なことにせよセリフにしてもキャッチコピーにしても「あ・ん・ま・り」じゃないか(笑)
すぐに名付けたぞ。
「パクリカ」
でも、別にそれでもいいじゃないか、というか、私にはどうでもいいし。
どうせ植民地なんだしさ。

iPadで文章を書いているとどうも露骨というか、含みの少ないものになってしまうが、ま、それもまた良し。
iPad人格育成中。

そんなに肩書きが必要なのか

日本人はよほど肩書きが好きなのだろうが、だからってNHKのニュースでいちいち「元死刑囚」「元死刑囚」と御丁寧に連呼するのはさすがに不気味を通り越して滑稽にだ。
名刺にも記されているのだろうか、「元死刑囚」。
それでいいならリストラされて無職になったって言い張ることも可能だな。「元会社員」「元大学生」「元高校生」「元児童」…。
あんた誰だよ?

iPadに遊ばれる

つい先日、世間で話題のiPadを手に入れた。
柄でもないが、諸々事情はある。教えないけど。
流行ものに手を出すなんて実に私らしくないし、品薄の人気商品を手に入れる行動力があるはずもないのだが、世の中には不思議なこともあるもので、
「iPadが欲しい!今すぐ欲しい!」
と、駄々をこねたら翌日には手元にあったのである。世の中悪いことばかりじゃないね。

さて、私にはおよそ不似合いなこのニューアイテム、実に楽しいのである。
文章を書くならPCのキーボードの方がよほど便利だし慣れてもいる。画像を見るにせよ、音楽を楽しむにせよ、PCの方が便利なのだが、寝っ転がってそれらを楽しむということになるとこいつは実に打ってつけである。
別に寝っ転がってなくてもいいのだが。
PCは何かを作ったり生み出したりといった能動的なことにはいいたいへん向いているのだが、私はあまり受動的な楽しみは感じたことがない。能動的行為を楽しむのがPC。
その点iPadは、ひたすら受動的な楽しみを享受するのに好都合なのであろう。多分、ある程度の操作上の不自由さも込みで。これ以上便利に扱えると能動的楽しみが大きくなってしまう。

たとえば、私はこれまで色々な海外映画祭やイベントに出かけるたびに、無数にカメラのシャッターを切ってきたが、ろくに見返したことなどなかった。それがiPadにが画像を取り込んでみると、あら不思議。見返して懐かしむ気にもなってくるのである。
これはやはり操作性そのものの楽しみに由来しているように思われる。指で引っ張ったり伸ばしたり。今さら言うな、という話ではあろうが、タッチパネルというのか、こういうインターフェイスのアイテムは初めてだし、何より私は堂々とした保守的人間なのである。自慢することじゃあないが。

そういう人間が喜々として不慣れなキーボードを打つことをこうして楽しみ、写真をめくり、iPodがあるのにわざわざiPadで音楽を楽しもうとするくらいなのだ。
よほど楽しい玩具だ。
安くはないけどね。それに駄々をこねてもすぐ目の前に現われ出ることも普通ないけど。
たまに世間の流行に乗るのも悪くないし、他愛もなく無邪気に玩具に遊ばれてやるのも許そうという気になったので、楽しみついでと練習を兼ねてブログまで更新してしまった次第である。

うん、ほとんど子供に返ってるな、私。

奇妙な偏り・その2

先日、こんな依頼を賜った。
パリで開かれる映画祭で今 敏監督作のレトロスペクティブ上映をするから招待したいという。たいへん光栄なことである。
昨日は、チェコからもご招待を賜った。
こういうお話は時期に関係なく時折いただく。去年もスイスのロカルノ映画祭から招待をいただいた。
こうしたご招待はたいへん嬉しいのだが、たいていの場合こういうことになる。
「いやぁ……行きたいのは山々なんですが、いまそれどころじゃないんです(泣)」
心底ありがたいと思うのだが、しかしレトロスペクティブには気が早いのではないか。
と思いつつも何だか「自分のやって来たことをちゃんと確認しなさい」という意味で先の台湾からのインタビューとも通じるな、という妄想を膨らませたりするのである。
以前当ブログで紹介した『SATOSHI KON−THE ILLUSIONIST−』という本も、ある意味レトロスペクティブみたいなものだ。
「過去を振り返って、未来を考えよ」
そう言われているような気がしてくる。

「過去」という意味では、学生と接していると自ずと自分の学生時代という過去と比較してしまうことが多いので、色々な面で再確認させられて面白い。
武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科の落ちこぼれだった学生が、まがりなりにも「講師」や「監督」という枕詞がつくようになるとは思ってもみなかった。
講師や監督という役職がたいそうなものとは思わないが、いくらか人様からも必要とされる能力を身につけたというわずかな証かもしれない。
最初に「監督」の仕事に就いたのが、33歳だったろうか。大学卒業後約10年。
卒業した頃には全ッ然想像もしていなかった事態だ。卒業したときは売れない漫画家だったし。アニメーションの仕事に縁なんかなかったし。
現在は大学を卒業して四半世紀ほど経ったが、25年後はおろか10年後の状態だって予測もつかなければ想像もつかないものである。
学生と接しているとよくそんなことを考える。
「どうなるかなんて分からないものだよ、本当に」
「いまから10年前、小学生だった頃に武蔵野美大に入る予定なんてなかったでしょ?」
「知らないものに出合うから面白いわけでしょ?」
と、学生には色々な形でそのようなことを伝えるのだが、そう思えるのは経験のなせる技みたいなもので、当の学生はこう思っているのだろう。
「将来どうなるかを少しでも知りたい」
知ると、つまらないぞ。

先月、同じ時期に学生さんが主体となったイベント二つからゲスト出演を依頼された。
それぞれは別に変わった内容でもないのだが、同じ時期に似た感触の依頼が舞い込むというのも不思議な感じがして、両者の態度がまた対照的だったことも何か示唆的な気がした。でも、どちらの女子学生さんもとても物わかりのよいスマートな方だったようで、結果的にはこう思えた。
「世の中そう悪くないね」
巷間よくいわれる話で恐縮だが、特に学生に接していると女性の動きが活発なことが目に付く気がする。自分が学生当時には現役のクリエーターに働きかけるようなアクティブな行為はきっと出来なかったろうな、としみじみ思う。
私はアパートに引きこもっているのが好きだったし。
現代の女性を見ていると活発な上に、何というか男性に比べて「怖いもの知らず」という印象を受ける。逞しいと言うべきか。
さっき、たまたま読んでいた本の中で、養老孟司先生がこんなことを仰っていた。
「かつて男らしいとか女らしいとかいうことを封建的だって全否定したでしょう。それが間違いでね。僕、いつも皮肉で言うんですけど、放っておいたら女の子は元気で活発なお嬢ちゃんに、男の子はおとなしくてよく言うことを聞くいい子ちゃんになっちゃう。だから、教育で男は男らしくってケツを叩いて、女の子はおしとやかに、おしとやかにって頭を押さえるんでしょ? って。そうじゃなきゃ、教育の意味がないでしょう」(『男女の怪』養老孟司・阿川佐和子/だいわ文庫)
なるほど、その通りかもしれない。
私の子供時分はまだ「男のらしく」がいくらかは生きていた。良かったと思う。

さて、いずれも活発と思われる女子学生からの御依頼。この一方に対して返信を書いていて、自分がそんな風に思っていたのかといくつかの点で気づかされた。
まず依頼内容はこういうものである。
「学生のアニメーション作品を集めた学生主催運営によるイベントで作品審査をお願いしたい。イベント出演は3時間半程度。それとは別に事前審査もあり。トークセッションも行う予定。他のゲストは約3名。交通費のみでギャラは無し」
あなたならどう思うだろう?