お節介ながら

映画やその他表現媒体のためのお話作りについてよく知らない人のために、親切な注釈を一つ付け加えておきたい。
作品や話し作りにおいて「パクリ」は全然悪いことではない。むしろあたり前のことだとさえ言える。
いまだに「オリジナル神話」とやらの信仰者も絶滅してないのかもしれないが。

自作を例にすれば、たとえば顕著なところで「東京ゴッドファーザーズ」はジョン・フォード監督映画「三人の名付け親」のパクリだし、「千年女優」の話の雛型は星野之宣の短編漫画「月夢」だ。そうしたことは隠すまでもなく著書にも記してあるし、インタビューでいくらでも答えて来た。
その他監督作についても「未来世紀ブラジル」「スローターハウス5」などからの影響やパクリが多々あることを、私は喜んで紹介さえしてきた。
なぜなら物を作るというのは無から有を生じさせるようなことではなく、元にあったものをどのように捉え、どう活用し変容させるかといったことにあるからだ。
そんなあたり前のことをコソコソと隠すようなやつを私は滑稽だと思うだけである。
わざわざ言うまでもないことだが、老婆心ながら記しておく。iPadで。

某映画

その映画のTVスポットCMを初めて見たのは公開直前のことだったと思うが、私は見た途端大笑いした。映像的なことにせよセリフにしてもキャッチコピーにしても「あ・ん・ま・り」じゃないか(笑)
すぐに名付けたぞ。
「パクリカ」
でも、別にそれでもいいじゃないか、というか、私にはどうでもいいし。
どうせ植民地なんだしさ。

iPadで文章を書いているとどうも露骨というか、含みの少ないものになってしまうが、ま、それもまた良し。
iPad人格育成中。

そんなに肩書きが必要なのか

日本人はよほど肩書きが好きなのだろうが、だからってNHKのニュースでいちいち「元死刑囚」「元死刑囚」と御丁寧に連呼するのはさすがに不気味を通り越して滑稽にだ。
名刺にも記されているのだろうか、「元死刑囚」。
それでいいならリストラされて無職になったって言い張ることも可能だな。「元会社員」「元大学生」「元高校生」「元児童」…。
あんた誰だよ?

iPadに遊ばれる

つい先日、世間で話題のiPadを手に入れた。
柄でもないが、諸々事情はある。教えないけど。
流行ものに手を出すなんて実に私らしくないし、品薄の人気商品を手に入れる行動力があるはずもないのだが、世の中には不思議なこともあるもので、
「iPadが欲しい!今すぐ欲しい!」
と、駄々をこねたら翌日には手元にあったのである。世の中悪いことばかりじゃないね。

さて、私にはおよそ不似合いなこのニューアイテム、実に楽しいのである。
文章を書くならPCのキーボードの方がよほど便利だし慣れてもいる。画像を見るにせよ、音楽を楽しむにせよ、PCの方が便利なのだが、寝っ転がってそれらを楽しむということになるとこいつは実に打ってつけである。
別に寝っ転がってなくてもいいのだが。
PCは何かを作ったり生み出したりといった能動的なことにはいいたいへん向いているのだが、私はあまり受動的な楽しみは感じたことがない。能動的行為を楽しむのがPC。
その点iPadは、ひたすら受動的な楽しみを享受するのに好都合なのであろう。多分、ある程度の操作上の不自由さも込みで。これ以上便利に扱えると能動的楽しみが大きくなってしまう。

たとえば、私はこれまで色々な海外映画祭やイベントに出かけるたびに、無数にカメラのシャッターを切ってきたが、ろくに見返したことなどなかった。それがiPadにが画像を取り込んでみると、あら不思議。見返して懐かしむ気にもなってくるのである。
これはやはり操作性そのものの楽しみに由来しているように思われる。指で引っ張ったり伸ばしたり。今さら言うな、という話ではあろうが、タッチパネルというのか、こういうインターフェイスのアイテムは初めてだし、何より私は堂々とした保守的人間なのである。自慢することじゃあないが。

そういう人間が喜々として不慣れなキーボードを打つことをこうして楽しみ、写真をめくり、iPodがあるのにわざわざiPadで音楽を楽しもうとするくらいなのだ。
よほど楽しい玩具だ。
安くはないけどね。それに駄々をこねてもすぐ目の前に現われ出ることも普通ないけど。
たまに世間の流行に乗るのも悪くないし、他愛もなく無邪気に玩具に遊ばれてやるのも許そうという気になったので、楽しみついでと練習を兼ねてブログまで更新してしまった次第である。

うん、ほとんど子供に返ってるな、私。

奇妙な偏り・その2

先日、こんな依頼を賜った。
パリで開かれる映画祭で今 敏監督作のレトロスペクティブ上映をするから招待したいという。たいへん光栄なことである。
昨日は、チェコからもご招待を賜った。
こういうお話は時期に関係なく時折いただく。去年もスイスのロカルノ映画祭から招待をいただいた。
こうしたご招待はたいへん嬉しいのだが、たいていの場合こういうことになる。
「いやぁ……行きたいのは山々なんですが、いまそれどころじゃないんです(泣)」
心底ありがたいと思うのだが、しかしレトロスペクティブには気が早いのではないか。
と思いつつも何だか「自分のやって来たことをちゃんと確認しなさい」という意味で先の台湾からのインタビューとも通じるな、という妄想を膨らませたりするのである。
以前当ブログで紹介した『SATOSHI KON−THE ILLUSIONIST−』という本も、ある意味レトロスペクティブみたいなものだ。
「過去を振り返って、未来を考えよ」
そう言われているような気がしてくる。

「過去」という意味では、学生と接していると自ずと自分の学生時代という過去と比較してしまうことが多いので、色々な面で再確認させられて面白い。
武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科の落ちこぼれだった学生が、まがりなりにも「講師」や「監督」という枕詞がつくようになるとは思ってもみなかった。
講師や監督という役職がたいそうなものとは思わないが、いくらか人様からも必要とされる能力を身につけたというわずかな証かもしれない。
最初に「監督」の仕事に就いたのが、33歳だったろうか。大学卒業後約10年。
卒業した頃には全ッ然想像もしていなかった事態だ。卒業したときは売れない漫画家だったし。アニメーションの仕事に縁なんかなかったし。
現在は大学を卒業して四半世紀ほど経ったが、25年後はおろか10年後の状態だって予測もつかなければ想像もつかないものである。
学生と接しているとよくそんなことを考える。
「どうなるかなんて分からないものだよ、本当に」
「いまから10年前、小学生だった頃に武蔵野美大に入る予定なんてなかったでしょ?」
「知らないものに出合うから面白いわけでしょ?」
と、学生には色々な形でそのようなことを伝えるのだが、そう思えるのは経験のなせる技みたいなもので、当の学生はこう思っているのだろう。
「将来どうなるかを少しでも知りたい」
知ると、つまらないぞ。

先月、同じ時期に学生さんが主体となったイベント二つからゲスト出演を依頼された。
それぞれは別に変わった内容でもないのだが、同じ時期に似た感触の依頼が舞い込むというのも不思議な感じがして、両者の態度がまた対照的だったことも何か示唆的な気がした。でも、どちらの女子学生さんもとても物わかりのよいスマートな方だったようで、結果的にはこう思えた。
「世の中そう悪くないね」
巷間よくいわれる話で恐縮だが、特に学生に接していると女性の動きが活発なことが目に付く気がする。自分が学生当時には現役のクリエーターに働きかけるようなアクティブな行為はきっと出来なかったろうな、としみじみ思う。
私はアパートに引きこもっているのが好きだったし。
現代の女性を見ていると活発な上に、何というか男性に比べて「怖いもの知らず」という印象を受ける。逞しいと言うべきか。
さっき、たまたま読んでいた本の中で、養老孟司先生がこんなことを仰っていた。
「かつて男らしいとか女らしいとかいうことを封建的だって全否定したでしょう。それが間違いでね。僕、いつも皮肉で言うんですけど、放っておいたら女の子は元気で活発なお嬢ちゃんに、男の子はおとなしくてよく言うことを聞くいい子ちゃんになっちゃう。だから、教育で男は男らしくってケツを叩いて、女の子はおしとやかに、おしとやかにって頭を押さえるんでしょ? って。そうじゃなきゃ、教育の意味がないでしょう」(『男女の怪』養老孟司・阿川佐和子/だいわ文庫)
なるほど、その通りかもしれない。
私の子供時分はまだ「男のらしく」がいくらかは生きていた。良かったと思う。

さて、いずれも活発と思われる女子学生からの御依頼。この一方に対して返信を書いていて、自分がそんな風に思っていたのかといくつかの点で気づかされた。
まず依頼内容はこういうものである。
「学生のアニメーション作品を集めた学生主催運営によるイベントで作品審査をお願いしたい。イベント出演は3時間半程度。それとは別に事前審査もあり。トークセッションも行う予定。他のゲストは約3名。交通費のみでギャラは無し」
あなたならどう思うだろう?

奇妙な偏り・その1

昨日、たまたまWOWOWでオンエアしていた『地球の静止する日』を見てしまった。
ロバート・ワイズ監督のではなく、リメイクの方。
どうせ巨費を使ってリメイクするなら、ちょっとでいいから頭も使えばいいのに。
笑えもしやしない。

ここ何年も映画館にもレンタルビデオ屋にも行ってないので、何が話題で何が新作なのかもさっぱり分からないが、大仰な空振り映画に接してしまうと益々新作に興味が無くなる。
観ている映画といえば相変わらず古いものばかり。
去年から続いているクリント・イーストウッド監督シリーズは『ホワイトハンター・ブラックハート』『アウトロー』『ルーキー』『ペイルライダー』『ガントレット』と段々ネタが古くなってきているが、それだけ傾向の変化が分かって面白い。
「’77に『ガントレット』を撮ってた人が、31年後には『グラン・トリノ』を撮るようになるのかぁ……へぇぇぇぇ」
元気もらいました。
『ホワイトハンター〜』つながりでジョン・ヒューストンの『アフリカの女王』を観ていたら、「川と船」という組み合わせからヴェルナー・ヘルツォークの『フィツカラルド』と『アギーレ神の怒り』を連想したので、ヘルツォークの比較的新しい『戦場からの脱出(Rescue Dawn)』を観てみた。
若い頃の活力は多少失われているのだろうが、やっぱりヘルツォークである。
『戦場からの脱出』というタイトルから連想されるような「痛快アクション映画!!」では全然ないのだが、DVDのパッケージには派手な映画のような粉飾が施されていた。
「『バットマン』『ターミネーター4』のクリスチャン・ベイル主演の戦争アクション!」みたいな。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
売る方として困った内容だったことは容易に想像できるが、やっぱりこう思った。
「映画を殺す気なんだろうか?」
いい映画なのに。
近頃のCG合成ばかりが目立つ大作に比べて、遙かに「ちゃんとした」映画である。
ヘルツォークは密林を舞台にした映画が多く、それだけ得意としている題材だけに密林の映像がとても魅力的。主演のクリスチャン・ベイルも悪くないが、脇役たちがその顔も含めて存在感がとてもいい。
映画もいいが、付属の特典映像がまたいいのである。
誰よりも率先して自らの映画世界に分け入っていくヘルツォークの姿勢がすごい。まるでヘルツォーク映画の主人公そのまま。
元気もらいました。
俄然、ヘルツォークの映画が観たくなってきた。
が。アマゾンで検索したら、どれも¥4000〜5000でやんの。
デフレとはいえ、欲しいものはいつだって高いのね。

さて、本題。
以前から感じることが多かった経験則の一つはこういうもの。
「仕事が来ないときは全然来ない。なのに来るときはまとまってやってくる」
ご経験のお有りの方も多いのではないか。
仕事に限らず、「何か」が来るときはどうも同じ時期に固まるらしい。
どうしてばらけてやって来てくれないのか、実に不思議だ。
単なる思い込みという側面もあるのかもしれないが、仕事の依頼などの数には時期によって明らかに偏差がある。もちろん世間の好不況といった波とは別の波である。
演出に携わる者として、そうした「いつもと少し違う」状況から自分と自分を取り巻く「物語」をつい読み出そうとすることは、いわば職業病なのかもしれないが、その方が面白いと私は思う。
人間には「物語」が必要なものだろうし、現在進行中の「物語」から「先の展開」を想像することもまた楽しからず哉。
もっとも私の現状からは何だかとりとめのない話しか思いつかない。
そんなことを読まされても困るだろうが、私もとりとめの付かないことをとりとめもなく書き出しているので、とりとめのない話にしかなりそうにない。

ここ最近、当ウェブサイトの「お問い合わせ」を始め、仕事やプライベート、色々なルートで仕事の依頼やら接触がたてつづけに届けられていた。
それまでに比べて急に頻度が跳ね上がったようだ。
映画完成後の宣伝期間などにおいてはこうしたことも納得が行くのだが、現在「今 敏」は世間的にはたいへん無口な状態である。
何もしてないのにリアクションだけがあるような錯覚。
もちろん、どれをとっても過去の仕事や繋がりからのエコーやリターンではあるのだが、どうも実感と結びつかないので、脳内では疑問符が連打する。
「???何でこの時期に???」
この不況の折りに仕事の依頼が舞い込むのであれば嬉しい金切り声の一つも上げたいところだが、仕事というほどでもないような協力とかイベント出演やメッセージ、インタビューなどの依頼がほとんどである。その他、新しい知り合いが出来るとかご無沙汰していた人との接触であるとか。
大きな変化ではないけれど、微妙な変化が連鎖しているとでも言おうか。
いや、大きな変化は別にしっかりとあるのだが、それはここでは措いておく。

以下、その微妙な変化の奇妙な偏りについて列記することになるのだが、一つ一つが長くなりそうなので、簡単にまとめておく。
要するに、この奇妙な偏りにはどういう意味があるのか(あるいは全然意味がないのか)、そこからどんなことが考えられるのか、という私の覚え書きみたいなものでお付き合いいただいても、読まれる方にはあまり実りはないと思われる。
というお断りをした上でとりとめのない話をしてみる。

最初にちょっと妙な気がしたのは、去年の暮れに台湾からいただいたインタビューである。原稿を書いたのは今年になってからだが、いま読み返してみると質問もその答えも何か「示唆的」な気がしてくる。
長くなるが引用しておく。ま、相変わらずの内容だが。
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●Konさんは新しい作品を完成させるたびに、いつも観衆を驚かせています。製作中の最新作 “夢みる機械”についてお話ししていただけませんか?どのような物語ですか?いちばん独特な、或いは革新的な部分はどこでしょうか?

『夢みる機械』は、ロボットたちが冒険の旅をするお話です。
舞台は遙か遠くの未来、地球上からは人間も動物も植物さえも失われており、人間が残した壮大な廃墟だけが広がっている。そこにわずかに残されたロボットたちが、乏しい電気を分け合ったり奪い合ったりしている。そんな世界を、主人公たちが仲間と出会い敵と遭遇しながら、ロボットたちの理想郷を探して冒険をする物語です。
ピクサーが製作した『WALL・E』と設定が似てしまっていて驚いたのですが(もちろん『夢みる機械』を企画したときにはこの映画のことは知りませんでした)、お話は全然違っていて安心しました。それに『夢みる機械』に登場するのはロボットだけで、人間は出てきません。
主人公はいわば少年のロボット。彼は、女の子のロボットと出会うことで、旅に出ます。旅の途中で多くのロボットと出会いながら内面も外見も成長していく。とてもオーソドックスな少年の「成長と冒険のお話」で、もしこの話を普通に人間のキャラクターで作ったらあまり目新しくないかもしれませんが、すべてロボットというところが新鮮味を与えてくれると思います。
見かけはオモチャみたいな可愛いロボットたちの、しかしハードな旅をご期待ください。

●Konさんの芸術世界の哲学(芸術観)についてお話ししていただけませんか?
また、どのようなきっかけでアニメーション産業の世界に没頭するようになったのでしょうか?初めてアニメ産業で働いたときの体験について教えていただけませんか?

一言で言えるような、分かりやすい芸術や創作に対する哲学や価値観を持っているわけではありません。持っていたらさぞや苦労が少なくなることでしょう。
日々、仕事をしながら「ああでもない、こうでもない」と脳の中をウロウロと歩き回って、何か一つでもさっきまでは気がつかなかった領域を発見したり、そこに踏み入ったり出来るようにしたいと思っています。
映画や小説、漫画、音楽など創作物というのは作り手の考えが形になったものですから、作り手の考え方が広がったり深くなればそれだけ創作物にも豊かな陰影が与えられるでしょう。また同時に創作物そのものが作り手に大きく影響を与え、それによって作者の考えも磨かれるものだと思っています。
ただ、作り手と創作物の関係だけで考えてしまうのは「創作の窒息」を意味します。そこには必ず、それを鑑賞する人間が想定されなければなりませんし、さらには自分にもよく分からない「何か」が必要です。もし、自分が作っている映画や物語、登場人物やその世界など、それらの隅から隅まですべてを分かっているという作り手がいるとしたら、その人はさぞやつまらないものを作っていることでしょう。
私は、芸術的な価値というのは創作物そのものにすべてが宿っているわけではないと思っています。芸術的な面を含むあらゆるものは、それが鑑賞されることによって初めてその価値が成り立つものでしょうし、感動というものは創作物と鑑賞者の間に生まれるものです。それこそが創作物の真価ではないかと思います。
だから、創作物に対する感動というのはそれを鑑賞する人間の数だけ種類がある。
映画でたとえれば、感動はスクリーン上にあるのではなく、スクリーンとその観客の間に生まれる。作り手がどういうつもりで作っても、それが意図の通りに伝わるわけではありません。作り手が鑑賞者をコントロールしようとしては、きっと肝心な「何か」が損なわれていくことでしょう。
だから私は、映画そのものに多くの意図や狙いや願望をこめて作りますが、一番肝心なことはそれらそのものを観客に伝えることよりも、それらによって観客それぞれの記憶や想像力、考え方や価値観に働きかけることだと考えています。
私にとって、映画はある種の「鍵」なのです。
もちろん、娯楽として作っているのでそうしたややこしいことは抜きにして、表面上の物語やシーンを楽しめるようにも意図してはいますが、同時に物語やシーン、台詞や映像によって観客それぞれの体験や記憶や想像の一部を「解錠」出来ることを期待して制作に取り組んでいます。

最初にアニメーションに関わったのは、単に「(業界人に)誘われたから」に過ぎません。美術設定という、劇中の舞台となる場所をデザインする仕事でしたが、その仕事の前後左右にも当然、アニメーションを構築する多くの仕事が接しています。
美術設定の仕事をよく知るためには、それら前後の文脈を知る必要がありましたし、その領域を知るとまたそれが面白くなる。
そうやって美術設定を振り出しに、そこからつながるレイアウトや原画、美術や背景、絵コンテやシナリオ、編集や音響と、制作プロセスを一つずつたどって来た結果、つまりはすべてのプロセスに興味を持ち、携わることになってしまった。それで監督というポジションに至りました。
しかし、アニメーションの仕事に関わるようになった当初、現在の今 敏の在り方は想像もしていませんでした。私は元々は漫画の仕事をしており、また漫画を続けるつもりでした。だからアニメーションの監督になる、あるいはなりたいとも思っていませんでしたし、これほど深くこの仕事に関わることになろうとは予測も出来ませんでした。

特に劇的なきっかけがあって、過去から現在につながってきたわけではありません。つまらない話かもしれませんが、日々の積み重ねが現状に至ったとしか言いようがありません。敢えて一言で言えばこういうことです。
「やってみたら面白かった」
どの制作プロセスも「やってみたら面白かった」し、知れば知るほど奥深く面白くなってくる。あらかじめ誰にとっても面白いことが用意されているわけではなくて、自分で興味や面白さを発見しない限り、目の前の仕事は微笑んではくれません。どんな仕事であれそういうものではないかと思っています。
自分が「どうしたいのか?」よりも、私は目の前の仕事が「どうなりたいのだろう?」と考えるように仕事をしてきましたし、現在もそれは変わりません。

問いかければ仕事が私を育ててくれる。
アニメーションの仕事を通じて私が得た一番大きな実感はそういうことかもしれません。

●Konさんがアニメを製作して以来、もっとも難しいと感じたところは何でしょうか?いちばん苦労した経験について教えていただけませんか?そして、そのときKonさんはどのように解決されましたか?

やはり、能力のあるスタッフを集めることでしょうか。
原作やシナリオ、絵コンテといった映画の根幹に関わる部分ももちろん難しいのですが、それらは語弊を承知しつつも敢えていえば個人的な努力で補い得るものです。
アイディアを考えて(原作)、それを面白く育て(脚本)、さらに面白くなるように語ること(絵コンテ)は、実際には他のスタッフとの共同作業にはなりますが、極論すれば個人の守備範囲といってもいい。
しかし、多くの労力を必要とするアニメーションの実作業は、個人の努力で補えるものではありません。とにかく多くの専門スタッフが必要です。作画監督や美術監督、音響監督など各分野の中心となるスタッフは、これまで一緒に仕事をしてきて、私が実力を把握している人に引き受けてもらっています。
アニメーターや背景マンといった、特にスタッフの数を要する部門が常に問題になります。
各分野の監督同様、一部には信頼できるスタッフを集めますが、それだけでは全然足りません。日本のアニメーション業界には優秀な専門スタッフが少なからずおられますが、そうしたスタッフはどこの制作現場でも必要とされていますから、なかなか仕事を引き受けてもらえない。
そうすると、能力が分からない人や我々の望む仕事を期待できないような人も当然混じってきます。もちろん、そのスタッフの適正を出来るだけ有効に配置したいとは思っていますが、演出意図に足りない仕事しかできない人も一定数生まれてくる。
こうした事態は、どうしようもないことだと思っています。
仮に演出意図がうまく伝わってもそれを再現できない出来ない人はいますし、あるいは何らかに秀でた能力を有したスタッフであっても、意図の伝達における不具合でその能力がうまく発揮されないこともあります。
それに、もしも有能で希望する人材ばかりを集めて制作できたとしても、それでも結局、「ではもっとすごいもの」「もっと凝ったもの」「もっと難しいもの」を求めてしまうでしょうから、きっといつだって「足りない」と感じるのではないかと思います。
自分の能力に対しても、いつだって「足りない」と感じているのですから。
しかし、それは贅沢なことではなくて、ものを作るというのは常にそういうことだと思っています。より高く、より遠くへ。
意図と違うものや、レベルに達していない仕事は直す以外にありません。
直すのは、作画監督や美術監督といった立場のメインスタッフです。監督もその一人です。
直すだけですべてが解決するわけではありませんが、直すほかにしようがない。そして少数の人間だけで直すにはその量はあまりに膨大で、どうしても時間がかかる。
商業映画において、制作のための時間というのはイコール予算です。予算ですべてが解決できるわけではありませんが、予算で解決できることはたくさんあります。予算獲得には映画がヒットしてDVDが売れることが一番の近道だとは思いますし、そう願ってはいるのですが、思うようにはいかないのが現実の厳しさですね。

●映画やアニメに関する新しい技術が急激に新しくなっているので、なぜかアニメも多元的な美学を発現しています。“アニメ”について、Konさんはどのようにお考えでしょうか?また、Konさんの映像では、どのような素材を使うことを好みますか?

アニメーションでも実写でも、その他あらゆる表現方法においても、新しい技術が取り入れられるのは必然でしょう。新しい技術を取り入れることは、その分それまでになかった表現が可能になります。
それまで表現しようとしても出来なかったことが可能になるだけでなく、新しい技術に想像力が刺激されることはそれ以上に多い。つまり、その技術でどんなことが出来るのか、を考えることで新たなイメージが生まれ、広がります。
もちろん、どんなことにも弊害は付き物です。たとえば、実写映画などではCGのあまりの普及によって、逆に画面の作りが安っぽくなっているケールも多い。もしも黒澤明の『七人の侍(Seven Samurai)』やフランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)の『地獄の黙示録(Apocalypse Now)』、デヴィッド・リーン(David Lean)の『アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia)』などがCGを交えて作られたら、あの迫力には遠く及ばないことでしょう。どうもCGというのは映画の画面を狭くしてしまう傾向にあるようですからね。
同様に、アニメーションにCG技術が導入されたことによってたいへん便利になった反面、一番重要なはずの手作業によるアニメーションの技術が低下しているようにも思えます。便利なCGに頼ることでアナログな工夫を考え出す機会が損なわれるのかもしれません。
とはいえ、そうした反面を割り引いてもCGなどの新しい技術の導入は、映画やアニメーションに大きなプラスを与えてくれているとは思います。

現在の日本の商業アニメーションは基本的に、線画で描かれた階調をほとんど持たないセル、無段階の階調を持った背景、それと3DなどCGの素材で構成されています。これら異なる手法が同じ画面の中で共存している、そのこと自体を私は好ましいと考えています。飛躍していえば、それは異なる人種、文化、宗教が同じ地域に混在する姿にも通じるものだと思うからです。
いまでは誰も違和感を唱えないとは思いますが、セルと背景というアナログ時代から続く組み合わせも、同じ絵とはいえ両者の表現方法は大きく異なっており、本来は相容れないはずの性格のものです。単純に、背景もセルのような線画で表現された方が、画面の統一性は遙かに高い。一部にはそうした画面のアニメーションもあるでしょうし、開発されるだけの可能性は十分にあるはずの手法なのに、一般的にはなってきませんでした。
そこには、すべて線画にすると情報が均質化してむしろ見づらいとか、見ていて疲れる画面になるといった理由もあると思いますが、それよりもむしろ異なる手法の「間」に生まれる効果や表現、ニュアンスを好ましいと考えるからかもしれません。
社会や文化も同じで、何か一つの主義や価値観に覆われると、息苦しい世の中になります。「禁煙原理主義」「健康原理主義」「経済至上主義」とか何とか。私は大嫌いです。
だから、私が作る画面においては、セルも背景も2Dも3DCGも特に分け隔てはしませんし、それらが調和して共存することを常に目指しています。
もっとも、それらが穏やかかつ自然に調和してくれることが、技術的に一番難しいところでもあるのですが。

● “Perfect Blue”や “Millennium Actress” 、或いは“Paprica”では、登場人物の日常生活のなかで、ファンタジーの世界のエピソードも同時に描き出します。ときどき、主役はとつぜん夢や記憶、或いは妄想の世界に陥ります。Konさんは、なぜこのような世界を用意したのでしょうか?また、このような仕掛けに潜ませているKonさんのメッセージやメタファーは何でしょうか?

現代社会が滑らかに運営されるためには、いわゆる現実と、夢や幻想は区別されなければなりません。現実とされるものは他人と共有する部分であり、夢や幻想は個人内部のものです。そこに区別がなければ混乱の元になります。
しかし、個人の側から見れば、現実とその人にとっての夢や幻想には同じくらいの重みがあると言えますし、時には現実よりも主観の比重の方が重いことだってあります。
私がこれまで監督してきた映画において「夢と現実の混交」というモチーフを好んで描いてきたのは、「世界の中の個人」という見方よりも「個人から見た世界」にフォーカスしてきたからです。というのも、客観と主観、これは意識と無意識と言い換えてもいいと思いますが、現代社会はあまりに意識だけを偏重しており、無意識が過度に抑圧されているように感じているからです。その抑圧の結果が精神疾患の増加であったり、自殺大国とまでいわれる日本の原因につながっているようにも思われる。
もちろん、意識より無意識の方が大事だと言いたいわけではありません。
大切なのはバランスです。
意識と無意識、客観と主観、現実と夢、陰と陽、全体と部分、太陽と月、男と女……そうした対となるものは、両者のバランスと調和が重要なのであり、どちらか一方の比重が極端になっては両者共に壊れてしまう関係にあると考えます。
私が監督してきた映画はどれも、そうした「対」のバランスが崩れた状態から、その調和を回復するプロセスを描いていると言えるでしょう。『パプリカ』やTVシリーズ『妄想代理人(Paranoia Agent)』はその顕著な例です。
『パーフェクトブルー』や『千年女優』も同じ視点で共通点を見い出すことは可能ですが、これらの映画は、もっと個人の主観を強調したものでした。敢えてそれらの主題をまとめれば、ある個人にとっての「真実」というのは、他人と共有する現実だけでなく、夢や幻想も込みで成り立っており、我々はそれぞれの真実という時間を生きているということを描いたつもりです。

●Konさん自身の(性格的・思想的)特徴について述べていただけませんか?(個人的な)性格は芸術作品に影響を及ぼしますか?また、これまでのKonさんの全作品のなかで、どの登場人物がいちばんお気に入りでしょうか?Konさん自身のリアルな生活、或いはKonさん自身の思想や精神を反映させた登場人物はありますか?

自分の性格や考え方、価値観は監督した映画を御覧いただいた通りではないかと思います。アニメーションという多くの人手を要する表現方法にもかかわらず、どうも私の監督した映像は個人的な傾向が強いようです。私がそう思うわけではなく、そのように指摘されることが多いので、「そんなものなのかな」と思っているだけです。
もちろん、私一人で作っているわけではないので、関わったスタッフの個性も十分に反映されているのですが、それでも全体としては今 敏のカラーが強く見えるのかもしれません。
というのも、先にも記したように私は「対」という概念がとても好きなので、対となる両者のバランスを最も重視しています。だから画面内に多くの個性が混じっていても、それらをバランスさせることに監督個人の特徴が出やすいのかもしれません。

監督としては問題のある発言かもしれませんが、実は私の場合、判断や決断が難しい局面において、たいていは「どっちでもいい」と思うことが多いのです。仕事上においても私生活においても、「どうしてもこっちでなければならない」というケースは多くありません。
というのも判断に困るということは、どちらも五分五分に近い状態だから判断に困るわけで、だったらどっちにも長所短所があるわけです。つまりはどっちをとってもそう大差はない。
だったら、どっちでも選んでからその最善を考えてもいいのではないかと思うわけです。
選んだ方を最善に育てるしかない。私はそう考えます。
理想と現実のギャップに苦しむよりは、とりあえず現実を受け入れて、その枠組みの中でどういう最善を実現できるのかを考えることが健全だと思いますし、その方がアイディアも湧いてくる。

そういう意味でこれまで創作、演出した登場人物の中で、比較的自分の価値観が反映しているのは『妄想代理人』の中年刑事、猪狩かもしれません。
現実と大きな齟齬を来していく猪狩が、最終話で現実を受け入れる台詞を口にするシーンは自分でも気に入っています。
「居場所がないって現実こそが俺の居場所なんだ」といった台詞です。
現実の今 敏は「自分の居場所がない」と思うほど寂しい状況にはありませんが、日々メディアが垂れ流す世間の価値観から離れていく感覚は私にも十分あります。
でも、その現実を受け入れてどうコミットしていくかが、重要だと思っています。

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ふーん……つい先月書いたテキストなのだが、読み返していてなかなか面白く、自分に対する「忠告」のようにも思えてきた(笑)
ありがとう、先月の俺。
元気もらいました。
さて、何の話なのかすっかり忘れてしまいそうだが、「奇妙な偏り」についてとりとめのない文章を書いていたのであった。
「新作について」「芸術観」「制作上の難点とその解決」「新しい技術との折り合い」「夢と現実の混交という仕掛け」「監督の性格が作品に与える影響」「自身が反映された登場人物」等々。
質問を整理してみると、これといって目新しいわけではないし、むしろごくごくベーシックな質問に思える(答えにいたってはまるで他のインタビューテキストからのコピーペーストみたいだが、この質問のために新たに書いたものである)。
だから、この時期に上記のような基本的なことを再確認する機会が与えられたことそのものが、私には何か「示唆的」に受け取れるだけなのかもしれない。
確かに、これだけのことだったら「奇妙な偏り」でも何でもないのだが、その後のあれやこれやを考えると、改めて基本的なことを問われたことに少なからぬ「示唆」が感じられる。

この示唆にはもちろん名付けられるような主体はない。
示唆を受ける客体があるだけ。
客体が状況から勝手に読み出すという意味での「示唆」なのだが、人によってはそれを「宗教的」「超自然的」あるいは「精神の変調」というあまりに大雑把な仕分けをされるかもしれない。だが、世間に流通する粗雑なカテゴリーをうっかり借り入れると、脳そのものが雑なものになるので要注意だと私は思う。

奇妙な偏りと名付けた割にはインタビュー一件を紹介しただけだが、長くなってきたので次回に譲る。

要りません

買い物をしていて不快に感じることの一つが、書店の袋に入ってくるチラシ広告である。どうもあれが許せない。
先ほども駅前の本屋で文庫を一冊買った時のこと。
「カバーはかけますか?」
「要らないです」
要りません、と言いたいのだが、気がつくとつい「要らないです」と発してしまっているのが少々不思議だ。
ゴミを増やしたくないので、私はカバーはかけない。世の中には「何の本を読んでいるのか悟られたくない」という過敏な自意識を携えた人も多いらしいが、私は全然気にならない方だ。ただ、本の表紙が汚れるのは気に入らないので、表紙のカバーを外して、本を裸にした状態で読んでいる。
カバーは「要らないです」と伝えたところ返ってきた店員の言葉はこうだ。
「このままでいいですか?」
そのまま持ち歩いたら万引きと間違えるのはそっちじゃないのか?
あいにくカバンを持っていなかったという理由もあるが、この書店では文庫などを入れるにちょうど良い小さく薄手の袋を使っていたはずだ。先日文庫一冊を買った際もその袋に入れてもらった。それに店員のぞんざいな物言いが気に入らなかったので、こう答える。
「袋くらい、ありません?」
そこで登場した来たのが、文庫を入れるにはあまりに大きな袋である。しかも、中にはゴミとしか思えない無駄なチラシが我が物顔にその面積を主張していた。文庫よりはるかに大きな広告が、さらに大きな袋に入れられている。
アルバイトをするには「脳不要」ということになったのだろうか。
そのチラシはその場で返品した。

いつもは、レジで袋入りのチラシに気がつけばその場で伝えるようにしている。
「中のチラシは抜いてください」
何度も、それこそ無駄としか思えないこの要望を口にしているうちに、イライラしてきてついこんな言い方になるときもある。
「中の「ゴミ」は抜いてください」
中には物覚えのいい店員さんもいるようで、買った本を袋に入れる際、何も言わずとも先にチラシを抜いて、足下のゴミ箱に捨てるシーンも目にしたことがある。
ナイスな店員さんだ。
しかし、そのゴミ箱には溢れるほどに同じチラシが捨てられていた。私と同じ思いの同志がそれだけいるのではないかと思うと励まされる気がした……って、別に孤独な戦いをしているわけじゃないのだが。
どうしてあんなゴミを勝手に入れるのだろうか。
どんな広告なのか、目に止めたこともないが、昔「ゴミは要らない」と伝えることさえ思いつかなかった頃には、「素敵な男女の出会い」を目的とする会社の広告なんかを目にした覚えがある。それもまたむかついたものだ。というのもその当時は特に「素敵な男女の出会い」に無縁だったからだ。
いや、広告の中味が問題なのではない。
問題なのは、勝手にゴミが増やされることである。わずかな金をけちりたいわけではないが、今日日ゴミを捨てるにも金を要する。本屋の方は広告に協力することで何らかの見返りがあるのかもしれないが、客はいい迷惑である。
ゴミ箱に捨てるにも分別が必要だし、紙なら束ねるにも労力が要る。自分の意志でもらってきた物ならともかく、配る側の都合で勝手に押し付けられたゴミの始末を何故しなくてはならないのか。
本屋の袋に入ってくるチラシだけでなく、ポストに勝手に入れられるチラシもゴミ以外の何物でもない。下手をすれば、そんなゴミ広告がこんなことを謳っているかもしれない。
「エコ」

勝手なチラシを迷惑に思っている人が少なからずいることは、書店レジの内側に見たゴミ箱からも窺える。そう思うあなたなら、次からは是非言いましょう。
「要らないです」
違った、「要りません」。

去年観た映画・その3

昨日はユザワヤに寄って窓を半分塞ぐためのボードを物色して出社。
監督部屋は喫煙スペースでもあるので、周囲から隔絶されたいわば金魚鉢みたいな状態になっている。仕切りの上側がガラス窓になっているのはいいのだが、あまりに周囲が見えると仕事中に落ち着かないので、窓の下側をボードで塞ぐことにした。
何だかんだと、いまだに仕事場の設定は終了せず工作したり物を移動したり、新しいアイテムなどを追加している。

先週はほとんど毎日、¥100ショップに寄ってはちょっと気の利いたものなどを買い込み、新しい仕事場の足しにしていた。
灰皿に使う焼き物、金槌、ドライバーセット、ドアストッパー、ツールボックス、ブックエンド、缶切り、スプーンやフォークを立てるためのマグカップ、電卓、ファイル収納ケース、麻紐、コーヒーの粉の計量スプーン、とんがりコーンなどなど。
たいへん重宝する。
「こんなものまで¥100で!?」
そう素直に感心したりもするし、物色していると実に楽しかったりももするのだが、作り手のことを思うと少々複雑な気持ちにもなる。
というのも、こんなことをつい想像してしまうからだ。
「¥100で買えるアニメ」
そういうものを作るのは……ちょっとな。

金曜日、吉祥寺ヨドバシカメラでコーヒーメーカーを買って出社。溜まっていたヨドバシのポイントで交換する。
得をしたような、単に売る側の思惑に乗せられているだけのような……多分後者。
私はあまり得をするのは好きじゃない。
ポイントカードとかは面倒なだけに感じる。
だいたい、巷間声高にアピールされる得なんてろくなもんじゃないに決まっておる。
私なりの処世訓の一つはこう。
「得をしようとさえしなければひどい目に遭うことも少なかろう」
これなら詐欺にも詐欺まがいのやり口にも被害に遭いにくい。
たとえば振り込め詐欺。大枚をだまし取られる被害者は気の毒ではあるが、得をしようとした結果だとも言える。最近の手口は知らないが、表沙汰になれば犯罪になるかもしれない身内の不祥事などを、金で解決して得をしようとするから詐欺の被害にも遭うのではなかろうか(あてはまらないケースもあるだろうけど)。

ヨドバシから駅に行こうと新星堂の中を通ると、DVDのワゴンセールが目に付く。
「3枚で¥3000」
ありゃま。在庫整理なんだろうけど、随分安いじゃないか。
得しちゃうぞ。
このところ続けて観ているイーストウッド監督の映画を手にとって、他に何を合わせようかと思って物色していると、
「あ、『アフリカの女王』」
つい先日、イーストウッド監督の『ホワイトハンター・ブラックハート』を見たばかりで、『アフリカの女王』を見返したいと思っていた。まさに渡りに「船」(「アフリカの女王」とはこの映画に登場する船の名前である)。
なぜその両映画が関係するかというと、『ホワイトハンター・ブラックハート』の主人公は、映画監督ジョン・ヒューストンをモデルにした人物で、劇中で制作されている映画が先の『アフリカの女王』なのである。
得しちゃった気分。
しかしね。名作映画がCDよりも安い¥1000で買えるなんて。正規の値札には¥3,990と記されているし(でも、確か『アフリカの女王』って¥500の廉価版も見かけたこともあるが)。
レーザーディスクが1枚¥7800とか安くても¥4800した頃が遠い過去のようだ……って、20年以上前のことだから実際遠い昔なんだけど。
ソフトが安く手に入るのは実に嬉しいのだが、なんだか少しばかり後ろめたい気にもなる。

さて、去年観た映画のこと。
不勉強なことに、これまでポール・マザースキー監督映画をほとんど観たことがなかったが、去年『ハリーとトント』を見返して、その会話の上手さに感動。続けて、『結婚しない女』『グリニッチ・ビレッジの青春』を観た。ああ、面白い。

『結婚しない女』 家内曰く「『セックス・アンド・ザ・シティ』ってほとんどこれだ!」。あいにく私は『セックス・アンド・ザ・シティ』は見たことはないが、なるほど、都会に暮らす中年女性たち4人の関係や、下ネタ含有度の高い赤裸々な会話シーンはその手のドラマの嚆矢なのかもしれない。
冒頭、亭主と娘が出かけた後で、ジル・クレイバーグがリビングで一人踊るシーンだけで「この映画は面白いに違いない」と思った。この映画の主題を予感させるたいへん象徴的な意味合いと同時に、滑稽さも合わせて表されている。映画冒頭、夫婦二人でジョギングするエピソードも、二人の関係を簡潔に切り取っており、上手い導入部を見ると映画への期待が膨らむものだ。
ランチの後で亭主に泣きながら浮気を告白された主人公が、街角で不意に吐き気を催すシーンを見たら「もう傑作!」。最後まで観たらやはり傑作だった。
が、DVDジャケット裏の惹句は別の意味で笑わせてくれる。
「自由に生きるか、抱かれるか。今、寂しさを乗り越えて、女が一人旅立っていく。」
……って、そりゃそうだろうけど(笑)、これじゃ観たくなくなるよ、私ゃ。
主人公の恋人役アラン・ベイツって、どこかで聞いた名前だと思ったらフィリップ・ド・ブロカ監督の傑作『まぼろしの市街戦』の主役だった。

『グリニッチ・ビレッジの青春』 青春映画にはとんと縁がないが、多分この映画には青春映画に必要な要素はすべて揃っているんじゃないかと思われる。親からの自立とか恋愛にまつわるいざこざだの貧乏だの挫折だの希望だのその他色々、若い時期について回るようなあれやこれやの事々。
俳優にして映画監督ポール・マザースキーの自伝的要素が強いそうで、エピソードにリアリティが貼り付いている感じがする。
主人公が通う演劇教室での芝居を巡るやりとりも興味深いし、若き日のクリストファー・ウォーケン、ジェフ・ゴールドブラムの顔や芝居もいいのだが、「ユダヤ人の母」を演じるシェリー・ウィンタースの芝居がとにかく強烈。主人公が見る悪夢のような幻想シーンは爆笑する。

『ハリーとトント』 笑えて泣ける大傑作。でも随分昔に(確かTVで)見たときはそんなに笑えなかったと思う。多分『結婚しない女』も若い時分に見てもあまり面白がれなかっただろう。
歳を食うのは楽しいものである。
DVDジャケット裏の惹句は、
「老人と猫の旅を通して人生の哀歓が情緒豊かに描出される名匠ポール・マザースキー監督の傑作ロード・ムービー」
確かにその通りだが、だからといって情緒に流されすぎることはなく上質のユーモアに裏打ちされている。とにかく会話の上手さは絶品。アメリカの一般の人がどういう会話をしているのか知らないが、この映画を観ていてつい思ってしまった。
「こんな上等な会話をしている人がそんなにいるのか?(笑)」
そんなわきゃないだろうけど。
老人性痴呆ににかかった、かつて憧れた女性とダンスするシーンが白眉だが、旅の途中で訪れる娘や息子、知り合う人物もそれぞれ個性的で印象に残る。家出娘やヒッチハイクで車に乗せてくれる娼婦、牢屋で一緒になるネイティブアメリカンなどなどユーモア溢れるエピソードを提供してくれる。実に素敵なロードムービーなのである。

去年観た映画・その2

寒い日が続いている。こういうときにこそ地球温暖化の会議を催すのが良かろうに。頭が冷えて宜しいのではないか。

月曜日は、世間では成人式だったそうだが、出社して相変わらず仕事場の構築と本業を少し。
新しい仕事はようやく落ち着いてきた気がするものの、もう一つしっくり来ない。しっくり来るためにはそれだけの時間を必要とするのだろうが、しかし個人的にはこれまで席を置いてきた仕事場の中で最も快適に思える。
実際の場所であれ漫画やアニメーションの画面の中であれ、ディレクションが必要ということなんだろう。以前の仕事場はほとんど他人任せにしたのは大失敗であった。
現実にものを配置したり収納したりすることと、画面のレイアウトには何の違いもないもんだな、と改めて思わされた次第。
火曜日は武蔵野美大レギュラーのゼミ。翌日が提出締め切りだというのに、卒制の状況はかなりまずい。ある女子の弁が象徴している。
「……もうダメかも」
そういわずに最後まであがいてみてください。卒業制作は大学時代の一つの結果ではあるけれど、その制作の体験や結果は今後の糧にもなるのだから最後まで諦めてはいけない。何事も次へのリレーという面がある。
ゼミに出てこない学生の状況がどうなっているのかさっぱり分からないが、指導担当として私も力不足と責任は感じつつ(ゼミに出てこない人は指導できないんだけど)、講評時に何が見られるのか期待と不安がてんこ盛り。
ゼミで完成品を見せてくれたのは一人だけ。だがこれが実にいい作品に仕上がっていた。とても面白く見られる可愛い短編アニメーションである。
一足先にここで評価しておこう。
「たいへん良く出来ました」

さて映画のこと。
近作以外では、去年前半はヒッチコック、後半はクリント・イーストウッド監督作を中心に観ていた。
ヒッチコックは『ハリーの災難』『見知らぬ乗客』『ロープ』『間違えられた男』『サイコ』『めまい』『鳥』『フレンジー』『逃走迷路』『トパーズ』『見知らぬ乗客』『泥棒成金』『知りすぎていた男』の13本。ほとんどは一度観たことがあったが、内容は記憶の彼方だったので初めてのように楽しめた。一昨年の暮れには『裏窓』『北北西に進路を取れ』も観ているので、ちょっとしたヒッチコック特集期間だった。
今さら言うことではないが、サスペンスを視覚化する、一目で分かるようにするって「そういうことだよなぁ」と思わせてくれるのがヒッチコック。
中でも、私にはやはり『鳥』と『サイコ』、それと『泥棒成金』のグレース・ケリーの美貌が絶品。
『泥棒成金』の劇中、ホテルロビーの客がグレース・ケリーに振り返るシーンがあるが、「そりゃそうだよな」と思わせるほどかっこいい。
ちなみにファンタジー映画の佳作『ミリィ 少年は空を飛んだ』で、ミリィと友達がTVで見ているのがこの『泥棒成金』。口づけするケーリー・グラントとグレース・ケリーのバックに、その情熱が爆発するかのように花火が次々と打ち上がる。『ミリィ』では単に引用するだけではなく、その映像がちゃんと伏線になっているのが好ましかった(当たり前のことだけど)。
そう言えば、この「情感の比喩としての花火」は『妄想代理人』最終話で拝借したアイディアでもあった。

クリント・イーストウッド監督の映画はほとんど観たことがなかった。
その昔、『ファイヤーフォックス』とか『ダーティハリー4』などを観て思った。
「……こういうのは、いいや」
だから時が経って後、話題になった映画も観ようという気がしなかったのだが、仕事仲間に薦められて観た『父親たちの星条旗』がとても良かったので、続けて『硫黄島からの手紙』『トゥルー・クライム』『ミスティック・リバー』『目撃』『グラン・トリノ』『チェンジリング』『ミリオン・ダラー・ベイビー』『バード』『ハートブレイク・リッジ』『許されざる者』『スペース・カウボーイ』と計12本観た。
全体に、ベタなハリウッド映画とは一線を画しつつ、アベレージが高く安定している印象で、受け取り方が難しいものも多い。

『父親たちの星条旗』 英雄として晴れ舞台に担がれながらも、虚実の落差に内面が荒れていく若者たちについ感情移入してしまい、泣けた。

『硫黄島からの手紙』 「『父親たちの星条旗』と合わせて観る」ことそのものが面白い。ただ、岩山に穴を掘り巡らして立てこもる日本兵が、まるで現在アメリカが「戦争」をしていると主張する「テロリスト」みたいに見えて仕方なかった。まぁ、そうなんだろうけど。
見えて仕方なかったといえば、主役級の日本人の若者がどうにもたけし軍団の柳ユーレイみたいに見えてしまい、「その方がらしかったのに」とさえ思えて仕方なかった。頭の悪い軍人代表とでもいうべき役の中村獅童は実にはまっていたが、何より良かったのは実は裕木奈江だったんじゃなかろうか。

『ミスティック・リバー』 ラストのパレードのシーンは色々な意味でドキドキさせられる。どう考えればいいのか、複雑な気持ちになる。ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコンがそれぞれ「はまり役」で、演技合戦が見物。特にショーン・ペンの芝居が絶品。

『ミリオン・ダラー・ベイビー』 いい映画を見せていただきました。役者が刻む画面の存在感がたいへん印象的。イーストウッドとモーガン・フリーマン。濃い。

『グラン・トリノ』 これまたいい映画を見せていただきました。年寄りになって尚も変わろうとする在り方が素晴らしい。きっとイーストウッド本人もそういう人なんだろうと思わせてくれる。
「銀残し」のような画面も涼しげでとても心地良い。コントラストは高いが、彩度が低いので目に優しい。目にどぎついばかりのどっかのアニメとは大違いである。
観た範囲のイーストウッドの映画では制作順に『トゥルー・クライム』『ミリオン・ダラー・ベイビー』『グラン・トリノ』と、神父あるいは牧師が重要な局面において登場するが、順にその扱いが変化しているのも興味深い。聖職者に対して「軟化」しているみたいだ。
特に『ミリオン・ダラー・ベイビー』『グラン・トリノ』において顕著なのは、実に判断が難しい決断に際して聖職者が登場する。「この問題を宗教の立場ならどうするんだ?」という突きつけ方で、それを越えて判断せざるを得ないイーストウッドは正に「父性」であり「主人公」なのであろう。

『許されざる者』 アメリカという国の自画像にしか見えないところが面白い。「昔は女子供まで皆殺しにする悪党だったが妻によって改心し、今では子供たちの将来を思いやる老ガンマン(イーストウッド)」、そのかつての相棒は「ネイティブアメリカンを妻に持つ黒人(モーガン・フリーマン)」、対するは「原理主義的正義の保安官(ジーン・ハックマン)」。役者も濃いね、また(笑) これより先に『ミリオン・ダラー・ベイビー』を見ていたので、イーストウッドとモーガン・フリーマンが出て来て、ボクシングでも始めそうな気がしてしまったが。
人物の設定を抜き出すだけでも、アメリカという国を象徴していることがよく分かるのではなかろうか。これまた観た者がどう受け止めるのかを問われる複雑な映画で、そこが何より素晴らしい。イーストウッドの映画にはそういう意味で難しいものが多い気がするし、そこが「ちゃんとした映画」を撮る、撮ろうとしている監督だと思わせる。
割り切れる話ほどつまらないものはない。

去年観た映画・その1

土曜日で概ね仕事場のセッティングは終了。
一週間もかかってしまったが、何も自分の机周りにそんなに時間を要したわけではなく、共有スペースまで合わせて、私がなるべく好ましいようにしていたからである。
早く絵を描けよ、という気もするが、それらを片付けないことには絵も描けない。そういうもんだ。
スタッフルーム内に出来るだけ「不審なスペース」や「中味不明の荷物」がないように、なおかつスチール棚とカラーボックスと原画机で構成された風景とはいえなるべく見栄えが貧乏くさくならないように、さらには居心地を快適であるようにするためには、アイディアと時間が必要なのであった。何より重要な前提は「金をかけずに」だし。
ああ、疲れた。
明日から本来業務に戻ろう。

去年の8月から、結果的に一旦ブログをお休みしていたので、月ごとに書いてみようかと思っていた「雑食」の雑感が頓挫してしまった。
私は毎年「雑食日誌」という覚え書きを付けている。
読んだ本、観た映画などのタイトルを記すだけのもので、感想など特には記していないが、こうしたメモを付けておかないと何を読んで何を観たのかさっぱり思い出せないことになる。別に思い出さなくてはならない理由もないが、タイトルを眺めていると自分の最近の傾向を俯瞰できる気もするし、年にどのくらいの数、本や映画を消化しているのかが分かり、ちょっとした励みにもなる。
何しろ私は若い頃に読書にあまり親しまなかったので、今になってその「空白」(と感じられる)を少しでも埋めようと思っているらしい。
「雑食日誌」は読み終える度、見終える度に記しているのだが、新年早々「雑食日誌2009」のデータをうっかり上書きしてすべて消してしまった。嫌な年明けだ。
悔しいので、記憶と断片的に残されたデータを元に99%は回復したものの、いつ消化したものかは分からないままになってしまったのは少々残念であった。

観た映画は確か63〜4本だったと思うが、回復した記録は61本。月に5本程度観ていたことになるので、近年としては割と数を観た方かもしれない。
映画館で観たものは一本もない。試写の招待や鑑賞券をいただくことはあるが、出かけるのが億劫で、ついついDVDで観ることになる。もっともそのDVD鑑賞も旧作がほとんどで、新作にはあまり縁がない。
去年観たうちで、近作と言えるようなものは13本。それも、いただきものや借りてみたものが大半である。
近作の中で、色々な意味で印象に残ったもの雑感を記してみる。

『ノーカントリー』 何が面白いんだろう?この映画。上手くないなぁ……という印象で、殺し屋も冷酷無比として描いているはずが、時折あまりにちゃちな演出がなされてどうにも興ざめするのだが、「アカデミー賞」なんだしそれでいいのか。

『スラムドッグ・ミリオネア』 あの面白い原作はどこに消えたのでしょうか? インドの人が描いたすこぶる面白い原作「ぼくと1ルピーの神様(原題「Q&A」)」が旧宗主国であるイギリスの人たちによってチンピラ映画みたいになって、それがアカデミー賞始め白い国々で多数受賞する。劇中の格差よりも悪質な構図が鮮明に浮かび上がって気がするのだが、いいんでしょうか。

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 数奇な運命を背負ったつまらぬ男だっているわな。

『崖の上のポニョ』 目が痛くなる配色はテレビが壊れたわけではなくて良かったが。

『ウォーリー』 子供向けだからってあまりのインチキはいけないんじゃないのか。

『戦場でワルツを』 本当にいい映画を見せてもらった。アニメーションによるドキュメンタリー映画。アニメーションの技術的な面では特筆することはないと思うが、取材対象である人物の実写映像から、どの部分をアニメーションの芝居として抽出するのか、そのエッセンスが興味深く、特に視線や手の芝居に目を引かれた。

『ザ・バンク 堕ちた巨像』 話はともかく、切れそうなほどシャープな画面は心地よかった。グッゲンハイム美術館での銃撃戦には萌え。

『トロピック・サンダー』 ロバート・ダウニー・Jrの「黒人」芝居だけでも○(笑)

『その土曜日、7時58分』 失礼ながらシドニー・ルメットが健在だとは思わなかった。1924年生まれで2007年にこういうある種「若者風の構成」の映画を撮っているとは驚き。フィリップ・シーモア・ホフマンの芝居もいいが、イーサン・ホークが「ダメな男」にはまり役で印象的。

『選挙』 想田和弘監督による笑えるドキュメンタリー映画の傑作。絶妙なカメラポジションだけで雄弁なメッセージとなっているし、日本の風景が正しく映し出されているのもいい。同監督の新作『精神』のDVD化が期待される。想田監督が『精神』制作から公開までの紆余曲折を記した単行本『精神病とモザイク−タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)』(中央法規)もたいへん興味深い内容だった。