親切なお節介

親切なお節介
親切な、というより単にリストに漏らすには惜しいという選び手の事情でもうちょっと上げておく。
クソ暑いこの夏に、ど~んと景気よくぶちまけてみようじゃないか、オッさんくさい趣味を。

『酔いどれ天使』(1948、黒澤 明)

『野良犬』(1949、黒澤 明)
『生きる』(1952、黒澤 明)
『蜘蛛巣城』(1957、黒澤 明)
『隠し砦の三悪人』(1958、黒澤 明)
『椿三十朗』(1962、黒澤 明)
『晩春』(1949、小津安二郎)
『麦秋』(1951、小津安二郎)y
『お早う』(1959、小津安二郎)
『カルメン故郷に帰る』(1951、木下恵介)

『にっぽん昆虫記』(1963、今村昌平)
『赤い殺意』(1964、今村昌平)
『幕末太陽傳』(1957、川島雄三)
『人情紙風船』(1974、山中貞雄)
『荒野の決闘』(My Darling Clementine,1946、ジョン・フォード)
『アパッチ砦』(Fort Apache,1948、ジョン・フォード)
『黄色いリボン』(She Wore a Yellow Ribbon,1950、ジョン・フォード)
『リオ・グランデの砦』(Rio Grande ,1950、ジョン・フォード)
『静かなる男』(The Quiet Man,1952、ジョン・フォード)
『情婦』(Witness for the Prosecution,1957、ビリー・ワイルダー)

『アパートの鍵貸します』(The Apartment,1960、ビリー・ワイルダー)
『あなただけ今晩は』(Irma la Douce、1963、ビリー・ワイルダー)
『北北西に進路を取れ』(North by Northewest、1959、アルフレッド・ヒッチコック)
『めまい』(Vertigo,1958、アルフレッド・ヒッチコック)
『知りすぎていた男』(The Man Who Knew Too Much,1956、アルフレッド・ヒッチコック)
『博士の異常な愛情』(Dr.Strange Love:or How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb, 1963、スタンリー・キューブリック)
『バリー・リンドン』(Barry Lyndon,1975、スタンリー・キューブリック)
『ミラノの奇蹟』(Miracolo a Milano、1951、ヴィットリオ・デ・シーカ)
『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and The Sundance Kid,1969、ジョージ・ロイ・ヒル)
『スティング』(The Sting,1973、ジョージ・ロイ・ヒル)

『激突!』(Duel,1971、スティーブン・スピルバーグ)
『太陽の帝国』(Empire of the Sun,1987、スティーブン・スピルバーグ)
『第三の男』(The Third Man,1949、キャロル・リード)
『マーズ・アタック』(Mars Attacks!,1996、ティム・バートン)
『シザーハンズ』(Edward Scissorhands、1990、ティム・バートン)
『デッドゾーン』(The Dead Zone,1983、デイヴィッド・クローネンバーグ)
『デュエリスト』(The Duellists,1977、リドリー・スコット)
『サイダーハウス・ルール』(The Cider House Rules,1999、ラッセル・ハルストレム)
『シッピング・ニュース』(The Shipping News,2001、ラッセ・ハルストレム)
『ホテル・ニューハンプシャー』(The Hotel New Hampshire,1984、トニー・リチャードソン)

『デリカッセン』(Delicatessen,1991、ジャン・P・ジュネ&マイク・キャロ)
『ヒドゥン』(The Hidden,1988、ジャック・ショルダー)
『トレマーズ』(Tremors,1990、ロン・アンダーウッド)
『バロン』(The Adventure of Baron Munchausen,1989、テリー・ギリアム)
『恋に落ちたシェイクスピア』(Shakespeare in Love,1998、ジョン・マッデン)
『ブラック・サンデー』(Black Sunday,1977、ジョン・フランケンハイマー)
『フィツカラルド』(Fitzcarrald,1982、ヴェルナー・ヘルツォーク)
『マーフィの戦い』(Murphy’s War,1971、ピーター・イェーツ)
『ブリット』(Bullitt,1968、ピーター・イェーツ)
『イージー・ライダー』(Easy Rider,1969、デニス・ホッパー)

『バッファロー‘66』(Buffalo’66 ,1998、ヴィンセント・ギャロ)
『ミスター・ノーボディ』(My Name is Nobody,1975、トニー・ヴァレリー)
『道』(La Strada,1954、フェデリコ・フェリーニ)
『スケアクロウ』(Scarecrow,1973、ジェリー・シャッツバーグ)
『ハリーとトント』(Harry & Tonto,1974、ポール・マザースキー)
『ポセイドン・アドベンチャー』(The Poseidon Adventure,1972、ロナルド・ニーム)
『ラスト・アクション・ヒーロー』(Last Action Hero,1993、ジョン・マクティアナン)
『攻撃』(Attack!,1956、ロバート・アルドリッチ)
『フォレスト・ガンプ』(Forrest Gump,1994、ロバート・ゼメキス)
『ザ・コミットメンツ』(The Commitments,1991、アラン・パーカー)

『ロボコップ』(Robocop,1987、ポール・ヴァーホーヴェン)
『まぼろしの市街戦』(The king of Hearts,1967、フィリップ・ド・ブロカ)
『リオの男』(L’Homme de Rio,1963、フィリップ・ド・ブロカ)
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(Rosencrants and Guildenster are dead,1990、トム・ストッパード)
『ライフ・イズ・ビューティフル』(La vita e bella,1998、ロベルト・ベニーニ)
『遊星からの物体X』(The Ting,1982、ジョン・カーペンター)
『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect,2004、エリック・ブレス&J・マッキー・グラバー)
『ロイ・ビーン』(Judge Roy Bean,1972、ジョン・ヒューストン)
『マホランド・ドライブ』(Mulholland Drive,2001、デイヴィッド・リンチ)
『ストレイト・ストーリー』(The Straight Story,1999、デイヴィッド・リンチ)

『ドクトル・ジバゴ』(Doctor Zhivago,1965、デイヴィッド・リーン)
『ライアンの娘』(Ryan’s Daughter,1970、デイヴィッド・リーン)
『ターミネーター2』(The Terminator:Judgement Day,1991、ジェームズ・キャメロン)
『ミリオンダラー・ベイビー』(Million Dollar Baby,2004、クリント・イ-ストウッド)
『グラン・トリノ』(Gran Torino,2008、クリント・イーストウッド)
『ココシリ』(KEKEXILI:MOUTAIN PATROL,2004、Lu Chuan)
『恋はデジャ・ブ』(Groundhog Day,1993、ハロルド・レイミス)
『パピヨン』(Papillon,1973、フランクリン・J・シャフナー)
『狼たちの午後』(Dog Day Afternoon,1975、シドニー・ルメット)

パクリの語法

間違いなく私の方がずれている。
「パクる」という言葉の用法についてである。

これは私の育って来たごくローカルな環境と密接に関係したかなり特殊と言えることかもしれないが、話や絵作り、演出に興味のある人に多少参考になるかもしれないことなので記してみたい。

まず「パクる」というのは世間一般でいうほど狭義でも否定的ではなく、もっと広義で肯定的意味を積極的に含んだものだと刷り込まれてきた。
いつどこで刷り込まれたかというと、四半世紀前くらい、私が20代前半で、大友(克洋)さんや白山(宣之)さんという「師匠」によってである。
この界隈の会話において「パクる」は日常語といってよく、良い意味でも悪い意味でも区別なく使われていた。もし区別というか使い分けがあるとすれば、「パクリ方が上手いか下手か」という面にあったろう。

たとえば私が「今度、これこれこんなネタでこんな話を漫画の短篇で描こうと思って…」なんて話しをすると、当事の私から見ると(現在もだろうが)山のような既存の映画や漫画の知識を動員してもらい、得てしてこういうようなリアクションが返ってくる。
「ああ、なるほどね…何かアレみたいだけどな」
アレとは映画や漫画の具体的タイトルだったりする。
そして私はだいたいアレを見たこともなく、アレについて教えてもらうと、なるほど私の足りない頭で考えたものよりはるかに上手くできている訳だ。
「パクる元も見てねぇんじゃしょうがねぇよ」といった次第なのである。
良い言葉を選べば「引き出しとその中味をもっともっと増やせよ」ということだが、そこはやや偽悪を気取ってパクリというわけだ。
単純な例をあげれば、たとえば「あるミッションを遂行するために仲間を集める」という枠組みを持った話を考えるのなら「七人の侍」などを筆頭に、それぞれ芸や技術を持ったプロフェッショナルを集める映画くらい見ておくものだよな、というようなこと。

というわけで遅ればせながらアレを見て上手いところを学ぶことになる。
何もそのまま真似するわけではない。それはもしかしたら、人物の配置や話の構成かもしれないし、説明の端折り方かも演出の見せ方かも小道具の使い方しれない。
重要なのはある種のパターンを抜き出して応用する、といったようなこと。パターンを抜き出せなければ真似のままで応用にならない。だからパクリ方がうまければ最終的にはパクリにさえ気づかれないものである。本人でさえ忘れていることだって多いにあるくらいだし。

私は大友さんの漫画にそうした「取り入れ方」(=上手なパクリ方)を学んだつもりである。
「ええ!?この短篇の元ってあの映画なの!?」「あ!このシーンの見せ方ってあれから来てるのか!」みたいな。
それは絵の作り方、背景の扱い方、多い登場人物の捌き方、望遠と標準レンズの考え方、どこで切り返すかといった編集的なこともあれば、もちろんストーリーが展開することや構成といった話の根幹にまつわることまで多岐に渡った。
引用される創作物も映画や漫画に限ったものではないし、小説や写真集、音楽や落語であったり、時には実体験であったりと油断することなど出来ないほど幅広く、そしてこちらは情けないほど幅が狭かったのである。痩せっぽちな体験は貧相なものにしか繋がらない。
だから、せめて仕事場や飲み屋で話題に上がった映画や漫画に目を通すようにしていたつもりだ。いま考えると、あの時以上に学ばせてもらう機会なんて後にも先にもなかったように思う。

凡庸なまとめだが、要するにその頃学んだことを要約するとこういうことか。
どんな些細なことでも自分の作ろうとするものの肥しになれば積極的に取り入れる。

さて話は戻って、自分のネタに対してもらったアドバイスを元に考え直し、自分なりに改善したつもりで第二弾を聴いてもらうことになるのだが、事態は得てしてこうなる。
「下手だなぁ!もっと上手くパクればいいのに」
ええ、ええ、そうでしょうとも。
アレンジしたつもりが「タダの猿真似」つまりは「タダのパクリ」過ぎなかったことを指摘されただけのこともあれば、もっと頻繁に経験したのは次のようなこと。
「ああ、なるほどね…そういやコレ見たことある? 」
アレに続いて今度はコレである。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
そして私はだいたいコレを見たこともなく、コレについて教えてもらうと、なるほど私の足りない頭で考えたものよりはるかに上手く……。

実際にはアレ、コレどころの数ではない非常に多くの作品を参考に紹介され、ろくに消化出来ないまま、格闘していたように思う。そして終わって見れば自分が何の何に影響を受けたのか、何をパクったのかなんてどーでも良くなっているものだった。
意識出来ていることなんてそう多くないものだろう。私はそう思う方だ。
いくらパクリで何かを作るにしたって、ネタモトが2本や3本で一つの世界観が出来るわけもなく、極端に言えばたくさんのネタモトをどう配合し、どんな鋳型に押し込むかでいくらでも新しい装いの物が出来上がると私は思う。
そんなときにパクリ元の一つ一つにどれほど重要性があるでしょう。どうでもいいと思うだろ、普通。
私は配合の仕方や鋳型、どこにその作り手の独創性があったっていいと思うが、オリジナリティ神話原理主義者はそうじゃないのかもしれない。

私は少なくとも例の映画を一般的な意味でのパクリだなんて考えたこともない。増してや話が似ているなんてつゆほども思わない。ただ、日本のTVスポットの編集やコピーには笑えるだけの要素は十分にあったのではないかと思うくらいだ。
敢えて言えばいくつかのイメージやアイディアが小説や映画の「パプリカ」から触発されてそうな気がする、という程度の話である。

誤解や勘違いは別にけっこうだが、このことで役立つ「パクリの効用」が忘れられるのは勿体ないと思った古い世代の懐旧譚であった。

しかしこの程度でもiPadで長文を打つのはけっこう難しいもんだな。

ナベケン

例の映画について書きたいわけじゃないのだが、ナベケンのことを思い出した。
いまやハリウッド御用達日本人スターと言えば渡辺謙さん。
日本人から見るとむしろ日本人離れした顔じゃないかと思うが、陰影のつきやすい顔だちが分かりやすさに通じて好まれるのかもしれない。三船敏郎も同じ傾向だろう。
逆にアジア系の女優なんかは表情が読み取りにくいフラットフェイスの方がエキゾチックに感じるのかも。日本で美人っていうと陰影がつきやすいタイプだと思うが、そのあたりは逆なのかもしれない。
要するにアジア人はアジア人としての役割分担がある、と。
三船とか渡辺謙は例外なのだろうか。というか男優の場合は例外しか取り上げられないのかもしれない。その他の日本人はきっといまだにメガネ出っ歯で十分、みたいな。

4年前、ハワイの映画祭で渡辺謙さんに紹介されたことがあった。
通訳か何かの女性が気を回したがったのだ。ブルンブルン!
「渡辺謙さんを紹介すればさぞや喜ばれて、彼の一生の思い出になるに違いない!」とかそんな感じ。
善意のブルドーザー。「オバチャン」の威力はオアフでも同じ。
紹介された私も困ったが渡辺謙さんだってさぞや困ったろう。
「ええ、どうも、今 敏というアニメーションの監督でして…」
「どうも渡辺謙です!」
どこの馬の骨とも知れぬ相手に、ワザとらしさの微塵もなく握手してくれたその様はスカッと爽やかな人という印象だったな。
大柄というわけでもないのに、画面では存在感があるし、3DCGみたいに陰影の強い顔の人たちに混じっても様になるし。
ハリウッドという夢の世界でもきっと負けないぞ、ナベケンは!
あまつさえ夢の世界を支配することだって夢じゃないさ!

で、何でナベケン呼ばわりかって?
そりゃあだって握手した仲だもん、一生ダチに決まってら。

よく分からないが

他人に影響を受けたことを隠さなくてはならない、という心理規制が私にはよく分からない。
いいじゃん、何に影響を受けようが真似ようが。
滅多なことじゃ盗作になんかならないんだしさ(笑)
オープンにしている方が心身ともに風通しがいいだろうに。
恥ずかしいことなのかね、それ。

二十代のようなチンピラや若僧ならともかく、世間にちゃんと認知され評価されているような人がそうしたことをことさらに隠すという意味が私にはうまく想像出来ない。
どんな表現物だって何か先行するもののアレンジでしかないだろうに。
オリジナル神話の信奉者がいまだ世に蔓延っているというせいもあるだろうけど、例の件については宗主国と植民地の関係も忘れちゃなんねぇべ。

考えるまでもなく、漫画やアニメや日本映画をちゃんと文化として評価しようという気配を感じるのは、先の大戦で仲間側だった国か直接殺し合わなかった国だという気がするもんね。商売になるかどうかは別の話だが。

相変わらずだよね、まったく。
ギブミーチョコレート。
ま、日本のチョコの方がはるかに美味しくなったけど。

即座描く?

去年、読んだ本の中でもとりわけ面白かった一冊が、『単純な脳、複雑な「私」』池谷裕二(朝日出版社)。
二匹目のドジョウを探したら、ちゃんといた。
『海馬 脳は疲れない』池谷裕二・糸井重里(新潮文庫)
単行本は2002年に出ていたようだし、文庫も5年前に出ているので読まれた人も多いことだろうから、今更の話と思われても仕方ない。
こんな面白い本を読まずにいたとは勿体ない。
三匹目、四匹目も楽しみだ。

面倒なのでアマゾンから内容を引用すると、
「脳と記憶に関する、目からウロコの集中対談。いわく、「『もの忘れは老化のせい』は間違い」「30歳を過ぎてから頭は爆発的によくなる」―。記憶を司る部位である「海馬」をめぐる脳科学者・池谷裕二のユニークな発想と実証を、縦横無尽に広げていく糸井重里の見事なアプローチ。脳に対する知的好奇心を満たしつつ、むしろオトナの読者に生きる力を与えてくれる、人間賛歌に満ちた科学書。」
確かに、その通りだった。

「30歳を過ぎてから頭は爆発的によくなる」なんてお手軽な話を文字通りに受け取るかどうかはともかく、これはつまりこういうことらしい。
「つながりを発見する能力は30歳を過ぎてから伸びる」
これだけではよく分からないだろうが、20代までの経験や知識の蓄積から、一見関係のないものの間につながりを発見する能力は30歳を過ぎてから活発になる、というようなこと。
それまでに知っていたことの中に、知らなかった「関係」を発見する能力。
何だよ、まるで演出の話みたいじゃないか。
「シナリオから、シナリオライターさえ知らなかった関係を発見する」
同じだ。
自分によく当てはまると言ってはいささか図々しいとは思うが、しかし30を過ぎたくらいで演出や監督というポジションに付いて、一番感じたのはそういうことだった。
アニメーションの監督という初めての仕事なのに、度々感じたのは「あ、それって何だか「知ってる」」という既視感みたいなものである。もちろん予め経験があったわけでもなく、知っていたわけでもないのだが、初めての局面なのに「どうすればいいのか」アイディアが湧いてくる感じがした。
もっとも、「どうすればいいのか分からない」もそれ以上に多かったし、いまもそれは変わらないが。

ただ、やはりその既視感というか発見みたいなものは、20代までの経験と蓄積から生まれたもので、個々の情報は知っていたのに、しかしそれまではその中に見つけられなかった「つながりを発見」が出来たということなのだろう。
「研究の中で脳を直接見ていると、「二十代が終わるところまでの状態で、脳の編成はだいぶ落ち着いてくる」ということがほんとうによくわかります」「三〇歳を超えるとワインが醸成していくような落ち着きが出てくる。……すでに構築したネットワークをどんどん密にしていく時期に入る」と。
そんなことまで研究としてわかっていることも素直に驚きだったのだが、自分の20代、方向が定まらないような努力もそれほど無駄ではなかったことの方を素直に喜んでおきたい。

後から思えば色々な偶然も必然に見えてくる。
なるほど「つながりの発見」とは上手い言い方だ。
「年齢が上の人のほうが比喩をたくさん思いつくのも「つながりの発見」かもしれないですね」という糸井氏の発言に大きく頷かされる。
話していて面白い人はたとえ話がうまいものだ。
「それって、あれと同じだよね」
「それ」から「あれ」への飛躍。そういう発見に満ちていたいものだ。
地べたを這うような会話はやる気さえ損なうものだ。

その「やる気」がまた興味深いのである。
私が何より面白かったのは「即座描く」……さすがにパソコンで一発変換はしてくれないうえに、仕事を督促されているみたいだな。
「側坐核(そくざかく)」という脳の部位についての話が大変印象的だった。
これは「脳のほぼ真ん中に左右ひとつずつある」そうで「脳をリンゴだとすると、ちょうどリンゴの種みたいにちっちゃな脳部位です。ここの神経細胞が活動すればやる気が出る」ということらしい。
そこを刺激すればやる気が湧いてくるというのだから朗報じゃないか。
ではどうすれば刺激されるかというと。
「やるしかない」
身も蓋もない、というかなんというか、その構図が実に歯がゆくも皮肉で面白い。
「やる気が出ないならまずやれ」
心底誰かに言ってやりたいセリフだ。

実に経験則として、実感としてよくわかる話だ。
「側坐核の神経細胞はやっかいなことに、なかなか活動してくれないのです。どうすれば活動をはじめるかというと、ある程度の刺激が来た時だけです。つまり、「刺激が与えられるとさらに活動してくれる」ということでして……やる気がない場合でもやりはじめるしかない、ということなんですね。そのかわり、一度はじめると、やっているうちに側坐核が自己興奮してきて、集中力が高まって気分が乗ってくる。だから「やる気がないなぁと思っても、実際にやりはじめてみるしかない」のです」
ああ、はいはい!と思われる方も多いのではないか。
去年後半停止していた当ブログなどはまさにこの構図に近い。再開したらやる気が湧いて来るのだから。
「やってみるとやる気になる」というこの現象は、クレペリンが「作業興奮」と名付けているのだそうで、「作業しているうちに脳が興奮してきて、作業に見合ったモードに変わっていく」ということ。
はいはいはいはい、あるあるある。

ふと思い返すと、インタビューなどでこれまで数十回は聞かれたのが次の質問。
「なぜアニメーション監督になられたのですか?」
劇的な答えなど見当たらないので、私はなるべく正直にこう答えるようにしていた。
「やったら面白かったので」
無論「ではなぜ最初にやってみようと思ったのか」を聞きたいのかもしれないとは思うのだが、「やったら面白かった」が本当のところで、その質問と答の齟齬は、「やってみるとやる気になる」「やらないとやる気もしない」の内蔵する歯がゆさにも通じる気もする。
この構図について、この本でたとえとして挙げられているのが、掃除。
「掃除をやりはじめるまでは面倒くさいのに、一度掃除に取りかかればハマってしまって、気づいたら部屋がすっかりきれいになっていた、などという経験は誰にでもあると思います」
はいはいはいはい、あるあるあるある!
なるほどなぁ。実際そうだ。
「なぜそんなに片づけようと思われたんですか?」
「片付けたら面白かったから」
たいていのことは、最初からそうしようと思っていたわけじゃない。

最近、仕事場の引っ越しに伴って私はまさにそういう経験をしていた。
私は毎日の掃除や片付けは苦手だが、大掃除は大好きな方だ。
掃除とか片付けとか、モードがそちらにシフトすると、ずーーーっとそれに集中するし、だからアイディアも湧いてきて止まらなくなるのである。
「やったら面白い」
これが分からない人とは一緒に仕事をしても面白くないに違いない。そう思いません?
「やってることを面白がる」
才能とはそういうことなんじゃないかとすら思う。
もちろん私の場合、片付けに傾倒してその分、本業が疎遠になるのはいけない。それは分かっている。ただ、本業に戻るのが億劫というわけではないが、片づけを続けたいという、それこそ作業興奮が持続してしまう。
「まだやりたい」
ゲームに溺れる子供と変わりないような気もするが、凝り性の人とはその極端なことを言うのだろう。
凝り性の人を知っているので、自分が凝り性などとは決して思わない。私の芸風は所詮「若旦那の芸事」みたいなもんである。粋だという意味ではなくて、真似事程度の趣味から脱せないといったような。
しかし、凝り性の気もない人が、世の中にあってもなくてもいいようなアニメーションなんかに一所懸命になるわけはない……とまでいうと強弁だろうか。多分強弁だろう、社会的には。

いつまでも本業周辺(それも大事なことだが)にばかり傾注しているのはいけないのだが、なかなか本業が手がつかないのは結局、その興奮が快感だからなのだろう。快感には弱い。快感を楽しめないのは才能がない証しだとも強弁したくなる。いや、これは強弁ではない。
というのも本業だって結局同じだからである。
これが一旦、本業に手をつけるとみるみるモードが変わっていくのが自分でもよく分かるのである。
「ええと……消失点はここが無難か……あ、ダメだ、これじゃカット後半の都合と合わないや……まぁ、このあたりにしておくか。あ、違う違う、ここにすればいいんだ。ってことは、ここがこうなるから……あ!じゃあこういう絵に出来るじゃないか!……ってことは、待てよ、前のカットでこういう仕込みをしておけば、もっとこういうイメージを強調できるよな。ってことは……」
そうやって止まらなくなると、こういうことになる。
「片づけなんかもうどうでもいいや」
現金というか極端というか……多分両方だ。
普段、私の仕事場や部屋が片付かないのはこの「作業興奮」という現象のせいに違いない。
だって何しろ何を置いても「即座描く」だもんな。
……いや、そんなつまらないオチで終わりたかったわけじゃないんだけど。

脇役からの野次

当ウェブサイトにおいでになる人なら、ご存知の方も多かろう。
アニメーター本田 雄氏のニセモノ事件のことである。
ことの次第は以下のページなどにあるので省略するが、要するに本田 雄氏の名を騙って女子美術大学と尚美学園大学で講師をしていた本田「健」なる詐欺師がいた、と。

http://gigazine.net/index.php?……da_takeshi
http://khara.weblogs.jp/news/2……-6b19.html

この詐欺行為について、アニメ業界では随分前から話題にはなっていたし、私も何年か前から耳にしていた。女子美の学生からも聞いたし、現在私が一緒に仕事をしているスタッフの中には、当のニセモノに会って話をした人さえいる。
彼によると当時(ちょうど『千年女優』制作中の頃だったらしい)こんな会話が交わされたとか。
「『千年女優』の制作、たいへんなんじゃないですか?」
「あれは監督とトラブルがあって降りた」
何故そこで私が脇役で出てくるのだ。
最近になってこのインチキとうか詐欺がようやくお天道様の知るところとなった、というわけで、「脇役」として野次の一つも飛ばしたくなった次第だ。

この詐欺行為、「女子美術大学での講義」が「2001年4月から2009年1月まで」続いていたというのだから恐れ入る。
おかしいと気づいた学生は少なからずいただろうに。
他愛もないインチキな「人物設定」に騙された人ばかりなのだろうか。
まあ、国やメディアの垂れ流すインチキに騙される人がたいへん多い社会なので、それもむべなるかな……なわけないと思うのだが。

・「本田雄」という名前はワーキングネームである
・『千年女優』制作途中で今敏監督とトラブルがあって降板した
・現在活動中の「本田雄」は自分の弟子であり、名前と経歴は自分が譲った

アホか(笑)
こんなことを信じる人がいるとは、そりゃあ振り込め詐欺の被害が後を絶たないのも無理はない気がしてくる。
アニメ業界に関する知識があるなし以前の常識がないとしか思えないのだがどうであろう。
落語界や梨園じゃあるまいし、襲名なんてものがある業界じゃないことくらい分かるだろうに。
私も武蔵野美大やアートカレッジ神戸の先生として、名乗るか。
「初代今 敏」
二代目以降ありえないけど。

しかしまぁ、このインチキ本田センセー、何故『千年女優』を持ち出したのか。傍迷惑な話だ。
『千年女優』DVDボックス付属のメイキングに、本田“師匠”雄氏が映像として記録されているせいであろうか。
断っておくが、『千年女優』制作中に本田師匠と降板に及ぶようなトラブルがあったという事実はないし、まして降板などという事態はない。「○イル」じゃあるまいし。
私は本田師匠に褒められたことさえあるぞ。
「こぉんなに働く人見たことない」
ありがとよ。

この詐欺行為は法律的にはどういうことになるんだろう。
経歴詐称した政治家なんぞがメディアでやり玉に挙げられて辞職するといったニュースは覚えがあるが、辞職だけで済んでいるのだろうか。それ以上の処分があってもよさそうだが。
横浜市では大卒のくせに中高卒を装って市の職員になっていたという下劣極まりない事件があったと思うが、これには相応の懲戒処分があったのではないか。
インチキ本田センセーは辞職したそうだが(当たり前だ)、それだけで済ませられるものだろうか。
私がもし騙された学生だったらまず学校を訴えたいね。
「金返せ」
だってこれ、立派な詐欺だ。
「本田 雄」だと思ったから講義を受けた学生にとっては(そうでない学生にとっても、だが)、詐欺以外の何物でもないのだから、辞職して謝罪すれば済むものではなかろう。
「本田 雄」に限らず、その仕事で名をなした人間の名前には、それに付随する業績や実績という裏打ちがあり、だからこそ他の人と同じ言葉を発しても、そこにその人物だけが持つ奥行きや信用が生まれる。
そこにこそ名前の価値がある。
それを騙るのは詐欺だ。それを利用した学校も同罪であろう。
もっとも、そんな事態になればどこぞの週刊誌と同じで、きっと学校はこういうに違いないが。
「我々も被害者だ」
詐欺に遭った学生は怒った方がいい。

株式会社カラーのウェブサイト(http://khara.weblogs.jp/news/2……-6b19.html )の方には、文末に女子美大やニセモノからの謝罪文も画像として掲載されていて、これがなかなか興味深い。
インチキセンセーが本田“師匠”雄氏と女子美術大学に当てた文面がイカシテいる。

「学生に対して本田雄様の業績を私の業績と混同させるような言動を行いましたことにより、本田雄様、女子美術大学様に混乱を与え、大変なご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。」

おやおや。学生に対する謝罪が抜けているようだが、いかがか。
第一「混同させるような言動」という物言いが、詐欺行為を行ったという自覚に欠けている。意図的に混同させたものを、「混同させるような」などと曖昧な表現をするのだから、反省が足りていない。混同したのは相手のせいかよ。
まるで立派な「木っ端役人」だ。
私が当事者ならこの謝罪文を「リテーク」にして突っ返すね。

「今後は、このような事は二度と起こさないことを誓い、細心の注意をはらう所存でございます。何卒、寛大な処分のほどお願い申し上げます。」

細心の注意をしなければ起きない事態かよ(笑)
細心の注意を払ったのはインチキ「人物設定」の方だろうに。
それに、元の画像を御覧いただければお分かりの通り、まず注意を払うべきなのは文頭の奇妙な位置にあると思うのだが。

この事件、悪いのはインチキ本田センセーに決まっているが、しかし考えようによっては、学校側の対応の方がもっと根深く、質が悪い気もしてくる。
女子美術大学が本田“師匠”雄氏に当てた「ご報告」にはこうある。

「但し、本学におきましてこれまで本田健氏が担当した授業内容、課題講評、学生指導については、メディアアート学科研究室で検証し、大学として問題なかったと判断をいたしております。」

おいおい。身内の上に犯罪者に「氏」をつけるやつがあるか。
この点だけでも十分に常識のなさを露呈していると思うが、何より奮っているのは「大学として問題なかった」という「判断」とやらである。
表沙汰にしたくない、私たちは悪くないといった典型的な「木っ端役人」だ。
ここには一番の被害者である騙された学生への配慮など欠片もない。保身の化け物め。
教えている内容に問題がなければ経歴詐称はたいした問題ではないとでもいうのであろうか。
だいたいどんな学科なんだ「メディアアート」って。
メディア自体がインチキの固まりだっていうのに……あ。
そうか。
だからインチキセンセーは正しいのか。
身をもってメディアのインチキを実践して見せたのであるから。
や、天晴れ。まさに生きるメディアアート。

追記

思った通り、大学も被害者面なのであった。
http://www.joshibi.net/media/t……90502.html

えー……

えー……世間じゃ連休なんだそうで、今日月曜は成人の日だとか。
きっと全国各地で、目立ちたがりの若者が狼藉を働いていることだろう。
やめちまえばいいのに、成人式なんて。

昨日の日曜日は、私も通常通り休み。
午後になる少し前に起き出し、いつもより遅めの一食目をいただく。日曜にはお馴染みの「棒ラーメン」である。肉とネギをたっぷり入れたラーメンが深い満足を運んでくれる。
ブログ用に雑文を書いてのんびりと過ごしていると、関西から急を要するメールが届いた。
劇団TAKE IT EASY!のプロデューサーMさんより、舞台版『千年女優』に関する御依頼で、公演時のパンフレットに掲載する対談原稿のチェックである。
締め切りは翌日19時までとのこと。
公演初日が金曜日に迫っているのだから、よほどお急ぎの様子と推察される。
折良く、雑文を書いていて脳が「テキストモード」になっていた。
メールを受け取った直後からサクサクと自分の発言に修正を加えて、返送する。
対談は舞台版『千年女優』脚本・演出の末満健一氏と今 敏によるもので、昨年11月に氏がマッドハウスにお越しになった際に収録された。収録といっても、対談用に喋ったわけではなかったので、多少心配していたのだが、原稿のまとめ方のおかげもあって、面白く読める仕上がりになっている。
何より肝心の舞台の方も、Mさんによると「公演前特有のドタバタ感はあるものの、すこぶる順調に作品作りが進められて」いるとのことで、初日が益々楽しみになってくる。
不肖、今 敏も各上演後のトークイベントにお邪魔させてもらうことになっており、各回ごとに設定されるテーマを楽しみにしている。

夕方、晩のおかずを買いに出たついでに駅前の本屋に寄って物色する。
「町山智浩の新刊対談本はまだ出てないんだよな……」
などと店内をぼんやりと見て回る、とピカッと視界に飛び込んできたタイトルがあった。
『志ん生、語る。』(岡本和明/アスペクト ¥2,000)
帯の背には「初の演目を初CD化!」の文字。
付録のCDは勿論のこと、家族や弟子、噺家が語る志ん生という内容が面白そうである。
「書籍やDVDなどは必ず複数で買う」という個人的習慣に則り、他に買う物を探すと、
「あ。諸星先生の新刊」
ということで諸星大二郎の新刊『巨人譚』(光文社)、他に文庫2冊なども合わせて購入する。

帰宅して、早速『志ん生、語る。』を読み始めたら、あまりに面白くて寝るまでに読み終えてしまい、ちょっと勿体ない気さえしてしまった。
あとがきによると、この本は『これが志ん生だ!』(全十一巻・三一書房)の月報からの集成だという。
息子であり噺家でもある八代目金原亭馬生や古今亭志ん朝の語る志ん生や、その子供であるがゆえの複雑な問題を抱えながらの噺家修行の話題、名人が語る志ん生など興味は尽きないが、ひどく印象に残ったのは弟子の古今亭志ん橋が語るエピソード。
見出しの「「咄家になるのに、なんでキャッチボールなんかやってるんだ」って言われたことがあります。」というだけでも面白いのだが(他にも古今亭志ん五の「「ウンコがこわくて、いい百姓になれるか」って怒られたことがあるんです。」というのも素晴らしい)、「「えー……」だけの稽古」という件が実にいい。晩年の志ん生である。
長くなるが引用する。

「お前、しゃべってごらん」
「えー……」
「何?」
「えー……」
「駄目だよ」
「駄目ですか?」
「駄目だよ。えーだよ」
「えー」
「違うよ」
「違います? えー」
「駄目。いいや、また明日だ」
結局、その日はそれで終わって、次の日にはまた同じことを繰り返したの。僕が、
「えー、お笑いを一席申し上げます」
と言うと、大師匠が、
「そうじゃあない、えーだよ」
もう、何がなんだかわかんなくなっちゃってね、
「駄目ですか?」
って聞いたら、
「駄目だよ」
僕もだんだん腹が立ってきて
「同じじゃないですか」
って言ったら、
「馬鹿っ、お前はただ『えー』って言ってるから駄目なんだ。〈これからこいつは何をしゃべるのかな?〉ってのがねえじゃねえか。お前はただ『えー』って言ってるだけじゃねえか」
(『志ん生、語る。』P130、131)

実に、いぃぃぃぃぃぃぃ話である、ッて何もそんなに力入れなくたっていいんだが。
アニメーションの演出も見習わなくちゃならない、たいへん奥行きと含蓄のあるエピソードだ。
落語の「えー……」に当たるのはアニメーションでは何かというと、得てして冒頭に使われる「フェードイン」であろうか。
コンテや実作業では「F.I」と略される。真っ黒な画面からだんだん絵が現れてくるというお馴染みの技法である。
私は通常、コンテの最初にはBL画面を置き、その傍らにF.Iと記す。

「お前、コンテを描いてごらん」
「F.I……と」
「何?」
「F.I……」
「駄目だよ」
「駄目ですか?」
「駄目だよ。F.Iだよ」

なんてことになるのだろうか。

「馬鹿っ、お前はただF.Iって書いてるから駄目なんだ。〈これからこいつは何を見せてくれるのかな?〉ってのがねえじゃねえか。お前はただF.Iって書いてるだけじゃねえか」

そんなアニメの師匠がいたらすごいな(笑)
F.Iならば、まぁどう書いたところでF.Iに変わりはないかもしれないが、それを何秒でどういうカーブにするのかによって、当然奥行きや含意は変わるものだし、F.I一つにだってイメージを持たねばならないのは当たりめぇだ、べらぼーめ、略して「あたぼー」である。
真似してみるかな、今度。
「馬鹿っ、お前はシーン頭にただ長っ細い絵ぇ描いて、横にPAN.って書いてるから駄目なんだ。〈これから何を見せてくれるのかな?〉ってのがねえじゃねえか。お前はただ長っ細い絵ぇ描いてるだけじゃねえか」
とかね。
PANだって元の意味が脱落したケースが実に多く見られるから、全然冗談じゃないのである。
肝に銘じよう。

「役柄」

秋葉原の惨劇でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
残された家族や友人の方々は、悔やもうにも悔やみきれないお心持ちと思われます。
深く哀悼の意を表したいと思います。

火曜日のゼミでも通り魔事件が話題になる。
ゼミ生の一人は当日秋葉原に行ったそうで、犯行に使われたトラックも目にしたのだとか。上野に用があってその後秋葉原に行ったという。行く先の順番が異なっていれば被害者の一人に名前があったかもしれないと思うとゾッとする。
彼は上野で通り魔事件の情報に接したらしいが、その時には「犯人は二人で一人は逮捕。もう一人は逃亡中」という情報だったとか。そんな誤報が流れるところに妙なリアリティを感じてしまう。

私は秋葉原を利用することはほとんどないので、報道の映像を見ても強い実感は覚えないが、それでも日本の「どこかの街」よりは映し出される「背景」に感じるリアリティは大きいし、その分事件の実在感にも重みを感じる。増して、担当する学生の一人が、時間は異なっても当日現地にいたという事実を通じて、事件は不意にその距離を縮めて来たように感じる。
ゼミ生の中には事件後、実家から安否を確かめる電話があったという人も何人かいる。恥ずかしい話かもしれないが、そうした自分の身の回りへの影響を通してしか、事件のリアリティを感じられない。

何より、犯人や犯行の在り方に全然リアリティを感じられない。自分がいつ被害者になっても不思議ではないとは思うが、同じような加害者になることはまったく想像がつかないし、同じ地平にある気がしない。
しかし、犯人と年の近い男子ゼミ生の中には、もし犯人のように社会から落ちこぼれ、精神的に追い詰められたような気になれば「自分もそうなるかもしれない」という想像は自分と同じ地平にはあるように思える、という。そうした想像に恐れを感じられるのは健全なことなのかもしれない。

ゼミ生の一人は、事件についてこう語った。
「今回の犯行は掲示板のアラシに似ている」
この見方には納得させられる。もちろん事件や犯人のことが納得できたという話ではなく、そういう見方をすることで事件全体のイメージをいくらかでも把握しやすくなったというようなことだ。
私はネットの掲示板を利用することはほとんどないので(自分のところの掲示板ですら積極的に書き込んでいないくらいだし(笑))、掲示板でのやりとりやアラシといったものに実感は持てないが、「掲示板とアラシ」という構図は理解できるような気がした。
7人が死亡、10人が重軽傷を負った通り魔事件と掲示板のアラシ行為を一緒にするわけにも行かないかもしれないが、「秋葉原」という「お祭り」へのアラシ行為と考えると、犯行の動機(そんなものがあるとして)の低劣さもアラシと同じ程度なのかもしれないと思えてくる。何より、世代が下るに従ってそれだけサイバースペースでの日常といわゆる現実と呼ばれる日常との垣根が溶解してきているのであろう。

今年になって、通り魔事件はいくつかあった。
記憶に残っているだけでも、似た印象のする事件は「品川、戸越銀座の通り魔事件(16歳の高校生による犯行)」「土浦の通り魔事件(24歳のゲームオタクの男)」、「岡山の突き落とし事件(18歳少年)」などがある。
岡山の事件の犯人はこう供述していた。
「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」
土浦の通り魔も「誰でもいいから殺したかった」、品川の通りも「誰でもいいから、皆殺しにしたかった」。
迷惑千万な「ブーム」である。ブームといって悪ければ「連鎖反応」だろうか。
今年になって硫化水素による自殺が連続したように、これら過去の通り魔事件が「秋葉原の通り魔」を召還する一因になったことは間違いないと思われる。だから今回の事件も「実績」の一つとして堆積し、さらに強力に次の通り魔を召還する可能性が高くなったであろう。
私は年内にもう一、二件、同様の犯行が起こるのではないか、と多少控えめに危惧していたのだが、ゼミ生の一人はこう予言した。
「一週間以内に起こると思う」
私などよりはるかに犯人たちと年齢も近くネットへの親和性も高い学生の言うことなので、妙な説得力を覚える。予言が的中しないことを祈るしかない。
秋葉原通り魔事件に関するゼミ生たちの反応を興味深く聞かせてもらったが、しかしなんと言っても一番の驚きは、この事件を知らなかった人がいるということだったりする。
知らずにいる方が難しいように思えるのだが。

私はというと、正直なところ当日速報に接し、「TVの前の一観客」として思った感想は「またか」だった。ショックはエコーのように遅れて到来したように思う。
先にも記したように今年に入ってから起きた通り魔事件がまだ記憶に新しい。特に犯人の供述が似通っていることが印象的だ。
「誰でもよかった」
これがたいへん象徴的なセリフに感じられる。犯人が言うとおり、被害者は「誰でもよかった」という意味の他にこうも思えてくる。
「犯人もまた誰でもよかった」
犯人の個性とか人格というものが見えない気がする。とりわけ秋葉原通り魔の犯人には、「個」としての特徴というか偏りが感じられず、むしろ「通り魔犯人」として必要な、いや典型的とも言うべき特徴や要件が事後的に貼り付けられた人物像という感じさえする。
語弊はあるかもしれないが、そのくらい「意外性」がない。
安手の漫画や映画に登場する、ありきたりな設定のような感触だ。もっとひどい言い方かもしれないが、現在「通り魔になってしまうような人」のイメージとして、過不足がない。なさすぎる。これは私一人の感触ではないように思う。
「格差社会にあえぐ低所得の契約労働者」「バーチャルなネット世界への過度な傾斜」「ゲームやアニメとの親和性」「過度な自己否定と裏腹に持ち合わせる顕示欲」「親しい者の不在」「社会との断絶」「普段はおとなしい人物であり、かつてのいい子」「秋葉原を選ぶ劇場性」などなど……世間が理解しやすい「通り魔犯人のイメージ」。これはメディアがその本能によって「誰にでも分かりやすい」イメージに仕立てるために取捨選択した、という側面もあるだろうが、そうではなく「元々本当にそういう記号的な人物だった」という面が強く感じられる。
世間に認識されたそれらのイメージに合致する人間だからこそ、通り魔として召還されたのではないか。そのイメージに当てはまるものなら、それこそ「誰でもよかった」という怖さを感じるのである。
益々奇妙で語弊のある言い方だとは思うが、「通り魔犯人とはこのような人である」という認識が世間に行き渡ったことで、それに近いイメージや境遇にある人間のうち、自分の責任すらも世間や社会の責任に転嫁して恨みを抱くような人物に「通り魔をして良いのだな」という選択肢を与えてしまっているのではないか。
それはたとえば「自殺をするときは硫化水素を使えば良いのだな」という認識と同じである。自殺したいから硫化水素という手段を選ぶのではなく、共有された「手段」が「実行者」を召還しているように思えてくる。
だからといって別に私は、競って事件を報道するメディアが悪いなどといいたいのではない。ただそういう倒錯した理路を感じるというだけのことである。

「手段」が「実行者」を召還するという構図が、「犯人もまた誰でもよかった」である。
以前は、既存の事件と類似した事件が起こるたびに「模倣事件」と思っていたが、今回の通り魔事件に接して、そうではないのではないかと強く感じた。
報道やワイドショーから垂れ流される外形的な「情報」が増えるにしたがって、むしろ「無記名性=犯人は誰でもよかった」と思えてくる。
この「無記名性=犯人は誰でもよかった」というイメージに、奇しくも今回の犯人と同年齢だという「酒鬼薔薇」の犯行声明に記されたフレーズが思い出される。
「透明な存在」
たまたま読んでいた『生きる意味』(上田紀行・著/岩波新書)という本に、酒鬼薔薇事件に関する記述があり、その「透明」に対する解釈が、「無記名性=犯人は誰でもよかった」と通底しているように思えた。
この本によると「透明な存在」とは、「自分を出したら必ず嫌われる、いじめられる。だから、何とか自分自身を出さないで生きていかなければならないと考えている若者」が「他者から受け入れられるために「自己透明化」していった人間の「透明」さなのである」という。そうして意識的に自分を脱色、脱臭していった「透明人間たちは交換可能だ」ということになる。
この交換可能な透明性がつまりは「犯人は誰でもよかった」と同じに思える。

そうした透明さだからこそ、通り魔という「役柄」を演じられるのではないか。そう、「役柄」。「通り魔という役柄」であり「硫化水素による自殺者という役柄」である。
先に記した「世間に共有された認識」とは、「役柄」といってもいいようなものだ。
だから、ある状況に追い詰められた(と思いこんだ)者は、それらの「「役柄」を演じるものだ」といった認識が広がり、世間に共有された結果、こうした事件が後を絶たなくなってくるのではないかという気がしてくる。
「手段」が「実行者」を召還すると書いたが、こう換言した方がイメージに近い。
「役柄」がその「演じ手」を配役する。
「劇場型」の犯罪にあまりに妥当してしまう比喩かもしれないが、今回の事件に痛ましさと同時に感じる違和感と恐れはここにあるように思える。
「通り魔」という「役柄」が認知されればされるほど、次の配役を求めるだろう。それが怖い。
自殺においては一時期花形だった「練炭自殺者」という「役柄」は、「硫化水素自殺者」に取って代わられた。
「通り魔」が、いつ「銃乱射魔」や「爆弾魔」に取って代わられるかもしれない。
犯人となる「演じ手」がどうなろうが知ったことではないが、命を奪われる「相手役」にさせられてはたまらない。
ゼミ生の一人がこんなことを言っていた。
「(通り魔犯人となるような境遇でもなく)学校でこうやって勉強していられるだけで運がいいと思う」
確かにその通り。通り魔などといった「役柄」に召還されることもなく、何より不幸な「相手役」に配役されることもなく、自分の「役柄」を続けていられるだけで幸運な気がしてくる。

誰が伝説だって?

昨日買った『アイ・アム・レジェンド』を早速見てみる。通常のエンディングがあまりよろしくないという評判は聞いていたので、まずは「アナザーエンディング版」を見る。
……ふーん、なるほど。これなら悪くないじゃないか。
続けて通常エンディングも見てみる。異なるのは本当にラストの数分くらい。
……ああ、そりゃそうだ。こりゃいかん。
「通常エンディング」の方が撮り直しさせられたバージョンと聞いていたし、どう考えてもこれはアナザーエンディングが元々の脚本に沿ったものであろう。「通常エンディング」は正に「取って付けた」という感でいっぱいである。
「通常」「アナザー」いずれにしても、何が伝説なんだかさっぱり分からないし、全体にまとまりに欠ける気がしてしまったが、「アナザー」の方なら、少なくとも見て損した気にはならない映画ではないかと思われる。いくら何でも「通常」のエンディングは人をバカにしているし、どこかからの「圧力」による「骨折」にしか思えない。うん、通常版は「骨折した映画」と呼んでもいいのではないか。
しかし「圧力」は仕方ないにしても、せめて何故シナリオ段階で判断されなかったのだろう。撮影してから撮り直しでは、制作者のフラストレーションもさぞや大きかったことだろう。気の毒だ。
だって、「通常」と「アナザー」は別の映画である。まったく逆の内容の映画とさえ言える。
ハリウッド映画では、試写の反応次第でラストを変更する、編集を変えるなどはよくあるとも聞くが、この映画の変更はそのレベルのものではないだろう。
個人的には映画そのものより、「通常」と「アナザー」の違いを知りたくて買って見たのだが、内容もそれなりに楽しく見られた。もちろん「アナザー」の方に限るが。
「アナザー」もエンディングだけが別に収録されているわけではなく、冒頭から最後まで「アナザーエンディング版」として収録されている。制作者の意地だろうか。単に両方収録した方がより商売になる、という判断であろう。

店頭でDVDを手にとってパッケージを裏返し、本編尺を見て嫌な予感はした。100分。なにがしか「上手く行かなかった」ことを暗示する尺に思える。
最近の話題作や大作は、総じて尺が長い。以前より映画の尺が伸びる傾向にあるように思える。同じ内容が言えるのなら尺は短いに越したことはないが、最近の映像文体の傾向だと尺は長くなりがちになる。観客へのサービス過剰が当たり前になれば伸びるのは当然だろう。
だから『アイ・アム・レジェンド』のような話題の大作で100分というと、嫌な予感がするのである。一日あたりの上映回数を増すために尺を短くしているのではないか、とか。それだけ内容に自信がないのか、とか。
案の定、エンディングだけでなくあちらこちらにバランスの悪さが感じられる。明らかに尺が足りない。この映画のテンポからすると、せめてもう10分、出来れば20分くらいは必要だったのではないかと思われた。
尺が妙に短い点に関しても、制作者の判断というよりも「圧力」の臭いがする。
おそらくは撮影まではしていて削除されたシーンがかなり多いのではないか。特に後半登場してくる人物に関する描写が相当落とされているのではないかという気がする。化け物に関してももうちょっとエピソードがあったようにも思える。
人の消えた街にいながら普通に電気が来ている点についても、ちょっとした描写くらいあったのではなかろうか。せめて自家用発電機に燃料を補給する、というカットの一つもあれば違和感は緩和されるだろうに。

元々のシナリオがどうだったのかは想像するしかないが、後半の動きの無さは元来の問題なのだろう。どうせリメイクするなら、後半に動きを持たせても良かったように思えるし、その方がハリウッドスタイルに則しているような気がする。
たとえば血清を作るためにはどうしても実験体を運び出す必要があって、街の外への脱出を図り、化け物の中を突破、さらに化け物が追ってきて……といったような。その脱出が主人公の精神的な解放にもつながる、とかなんとか。そういう方がハリウッド好みだと思うのだが。
もっとも、当初の予定であったと思われる「アナザー」を見る限り、制作者の狙いはそういう点にはなかったのかもしれない。
主人公は「アメリカ人」だし。だから「アメリカ人」はそこから「出て行くことは出来ない=行き場がない」という前提で作られていたのかもしれない。
いやぁ、本当に国際社会におけるアメリカそのものが主人公といったイメージの映画である。病原体の発生源を「グラウンド・ゼロ」とか言っちゃってるし(笑)
主人公のアメリカ人が、昼間ライフルを構えてビルの暗闇に入り込んで行くくだりなんか、ほとんどイラクにおけるゲリラ掃討戦そのままのイメージである。
あまりに露骨にイメージを重ねすぎたから「圧力」がかかったのであろうか。
「圧力」をかける側の言い分としては、「主人公のアメリカ人が命がけで開発した血清で人類を救わねばならない」ということだろう。すなわち「民主化」という血清をばらまく布教活動と同じである。これが「通常エンディング」。
「アナザーエンディング」とはいうと、「化け物にも知性や社会があり、主人公のアメリカ人と同様に愛だって持っている」というオチであり、それが制作者の当初の意図だったのであろう。
内容をねじ曲げるにも程がある。

さて、主人公が「アメリカ人」だとしたら、彼に付き従ってる従順な「犬」は何に当たるのだろう。ウィルスに感染して化け物側になってしまい、泣く泣く「アメリカ人」に絞め殺されるあの気の毒な「犬」。
「気の毒な犬」といえば、某国では「父親を犬扱いせよ」というたいへん遂行的なメッセージを含んだ「携帯電話のコマーシャル」がたいへん人気だそうだ。やれやれ。「そういうコマーシャル」を作る無節操な人たちはともかく、それを見て喜んでいる人たちがそんなに多いとは某国も悲しい国である。
だから「犬」というと某国が連想されるが、某国はアメリカ人にとって「犬」ほど大事なポジションにはないので、きっと仲良く侵略に当たったあの国あたりのイメージなのかもしれない。特定するよりも漠然と「アメリカ人」にとっての「犬」にあたる国を想像すればよい。そういう「犬」たちに対して、「もし協力しなくなったら(あっちに感染したら)絞め殺すぞ」というメッセージなのだろうか。
もちろん、これはこじつけであり、しかしあながち冗談とも言い切れないが、そんなことも連想すると興味深く笑えるというものだ。

連想ついでにこんなことも考えた。
「日本を舞台にしたらどうなんだろう?」

近い未来。ある治療薬が原因となって発生したGSウィルス。感染すると、皮膚が白くなり体毛は脱色され、目の色も変わり、怖ろしいほどに欲が深く好戦的なミュータントに変異する。全世界に蔓延するGSウィルスを止める手だてはなかった……。
そんな中、なぜかウィルスへの免疫があった「坊さん」が東京でたった一人、生き残っている。
坊さんは世界に一人という孤独感をも受け入れて質素な生活を送り、夜な夜な襲い来るミュータントたちを大音量のお経を流しては遠ざけ、昼間はミュータントたちを見つけ出しては成仏させながら、苦海からミュータント衆生を済度する方法を研究していた。
欲のない坊さんは、自生する野草などを食し、粗食によって健康を維持するが、大好きなタバコだけは止められなかった。周りに気兼ねなく据える一服は格別だった。一方、欲深いミュータントたちは共食いまで始め、勝ち残ったミュータントは過剰な肉食で日に日に肥満し巨大化して行った。

ある夜、新手のミュータント集団が現れ、坊さんを拉致する。
彼らはミュータントながらも組織化、社会化された新世代であった。ダイエットもしていた。タバコも酒も飲まなかった。勝手な法律を作るのは大の得意だった。

新世代たちは捕まえた坊さんに対し、異様に細かい法律を次々と適用し、様々は罪状を押しつけていく。弁護士はいたが言葉は通じなかった。そして、ついに坊さんに死刑の判決が下される。
「デス!バイ・ハンギング!」
だが、まさに処刑されるようとする坊さんを見る新世代たちの目は恐怖していた。そして坊さんは知るのだ。
自分が彼らにとって「新世代人類が寝静まる頃にお経を唱えて徘徊し、人類をあの世へと成仏させまくるという欲に駆られた存在」、すなわち自分こそが「伝説の怪物」であったことを!

こんなアホなこと考えてないで風呂でも入ろう。

リングザリングリングイネ

「晩御飯のメニューを何にするか」
主婦ならずとも日々ちょっと面倒な問題である。
私は月曜〜土曜は、ほとんど仕事場のある荻窪で外食ということになるが、毎度「何食おうか」が問題になる。もっとも、選択肢はほとんどないので、何を食べるかよりはどこで食べるかという問題にしかならない。
家で晩御飯を食べるのは休日だけだが、よほど食べたいものがはっきりしているときでもない限り、夕方の時分に口をついて出るのはやはり「何食べようかねぇ」である。
昨日は特に食べたいものがなかったので、少々イレギュラーに「駄洒落」でメニューを選択してみた。
「リングイネ」
断面が楕円のパスタである。
どう駄洒落なのかというと、その夜にオリジナル版の『リング』とアメリカリメイク版の『THE RING』を見比べようと思っていたからである。ただそれだけの話(笑)

いまさら『リング』というのも時流と合わないこと甚だしいかもしれないが(どうせいつものことだ)、別にホラー映画や『リング』『THE RING』そのものに興味があったわけではない。
両者を見比べてみたかっただけである。映画ではなく映画の「関係」に興味があった。
というのも、最近読んだ『時計じかけのハリウッド映画』という本がなかなか面白かったからである。

『時計じかけのハリウッド映画−脚本に隠された黄金法則を探る』芦刈いづみ 飯富崇生・著/角川SSC新書¥760

要はハリウッド映画脚本の定型フォーマットを簡単に紹介した内容。基本的な「3アクト・ストラクチャー」などについて知る入門書として良い本ではないかと思われる。
「3アクト・ストラクチャー」というのは、物語の展開の基本といわれる「起承転結」のような考え方で、それが三段階になっている。いわば「序破急」である。「序破急」は広辞苑によれば「能や人形浄瑠璃などで、脚本構成上の区分。序は導入部、破は展開部、急は終結部」ということ。
こうした三つの構成をもう少し細かに定型化したのが「3アクト・ストラクチャー」ということになろうか。
「アクト1」にはイントロダクション、インサイティング・インシデント、ファースト・ターニング・ポイント、「アクト2」はミッド・ポイント、セカンド・ターニング・ポイント、そして「アクト3」はクライマックス、エンディングという具合に区分分けされている。

シナリオ構成について同書をお読みいただきたいが(入門書としても一般的な読み物としても面白く読める)、ともかくこのフォーマットに従って行けば、ハリウッド的オーソドックスな構成が可能になる(らしい)。お話作りを学習しようという人はハリウッドの蓄積されたシナリオ分析や構造を知っておいた方がよいと思う。日本の映画は構造や構成という点で脆弱に思える(おそらく日本語という言語そのものが、英語やそれに類する言葉に比べて構造が弱いせいかもしれないが、だから別な点での強みもあろう)。
必ずしもマニュアルに従う必要はないと思うが、ガイドがあった方が学習はしやすい。要は最終的に鵜呑みにしなければよいのだと思うし(最初はまず鵜呑みにした方が良いだろうけど)、知っていなければ「外す」ことも出来ない。
私は以前、同じようなことをシナリオ術の本を読んで知識としては知っていたが、自分の監督作のシナリオでこうした考え方を実践しようとしたことはないので、知らないに等しい。
不勉強で申し訳ない。
しかし、ハリウッド的脚本構成法を知っている日本の映画関係者は多いだろうに、実際にはハリウッド的な意味でよく出来た脚本という話は聞いたことがないが、どうしてなのだろう。
体質的に合わないのか、うまく実用できないのか分からない。

同書でもっとも興味を覚えたのは、『リング』と『THE RING』の比較である。
両者を比較してその違いを指摘していた第4章「日本映画はいかに翻訳されたか」が面白く、日米の脚本術や文化の差異が浮かび上がっているように思えたので、実際に見比べてみようと思い立った。
私は以前にオリジナル版は見ていたが、リメイク版は見ていなかった。オリジナル版があまり趣味に合わなかったというせいもあるし、基本的に興味のある世界でもない。
だから、内容的なことよりも内容を取り扱う「構成」や「構造」、あるいは「手つき」などに着目して見てみた。
私にとっては「怖いかどうか」は全然関係なく(笑)、「怖がらせ方」の方に興味がある、と言った方が近い。もちろん怖さの演出や何をして怖いと想定するのかというホラー的な面ばかりではなく(それは映画の一要素に過ぎない)、オリジナル版からどういう「筋立て」や「構成」「構造」に変化したのかという全体に興味の重心を持っていた。
ちなみに、そういう見方をしているとホラー映画なのに全然怖くない。少々勿体ないように思う(笑)

シナリオや構成、画面作りも含めてリメイク版はたいへん上手に作られていると思う。
アイディアも満載で、オリジナル版ではかなり気になる「芝居」や「編集」の問題もないので、ツルツルと娯楽を楽しめた。ロジカルになっている分、オリジナルよりホラー的なムードが後退しているという指摘はありうるだろうが、「構造」を見たい私にはあまり関係がない。
オリジナルをもっと大胆にアレンジしているのかと思ったのだが、元の映画(原作は読んだことがないので分からないが)に随分忠実なリメイクであった。その分、差異が際だつので、比較するにはたいへん都合がよい。かなり良いサンプルではないかと思われる。
すでに出来た映画のどの部分に疑問や不満を抱き、どう改善しようとしたのか、リメイクした彼らのやり方がよく分かる。もっとも感心したのは、やはり「一目で分かる」という絵的な発想とその具体化だろうか。
しかし私にとって、具体的にどういう差異が面白かったかは、ここでは記さないことにしておく。
仕事場にいるスタッフで、この比較に興味のある人にも見てもらった上で「酒の肴」にするつもりだし(そのためにもDVDを購入したのである)、今度のムサビのゼミでも触れる予定である。書いてしまうと喋る楽しみが減ってしまう(笑)

まぁ、ウェブを探せば両者を比較したテキストがたくさんあるだろうから、興味のある人は是非そちらを。
本当に両者は、よく似ているだけに違いが分かりやすい映画である。