おお

『日本人の脳に主語はいらない』という本をちょうど読み終わって、内田先生のブログを見たら同書が取り上げられていた。
『日本人の脳に主語はいらない』月本洋・著/講談社選書メチエ¥1600+税
私も読みながら「内田先生の書いておられることと拍子が合っているなぁ」と思っていた。
この本は毎日新聞の書評で知った。以前から「日本語話者は虫の音や風の音を左脳で聞く(一部の言語を除いてほとんどの言語の話者は右脳で聞く)」という説に興味があったので買ってみた。
そうした興味の点でも、人間の成長において模倣がいかに重要であるかなど、新作のシナリオの参考になる点も多く、たいへん面白く興味深い本だった。
その魅力については「内田樹の研究室」ブログ「御影駅からリッツカールトンにゆく途中で考えたこと」を是非。

アイディアの体力

夕べはマイケル・ムーア監督の『シッコ』を見る。特典映像も含めてたいへん興味深く見た。興味深いという意味でも面白いし、単純におかしいという意味でもおもしろかった。
日本もよほど「金カネかね」の拝金主義が覆う世の中になっているようだが、いやいやまだまだ後進国である。さすがアメリカ。先進国はもっともっと先を行っている御様子。
見習いたい人はさぞや日本にも多かろう。

さて、前回のつづき。
「アイディアが浮かびやすくなる身体」にするという、誰もが知りたくなるようなことを偉そうに前振りしてしまったが、別に全然たいしたことではない。
話は簡単だ。自分がこれから作ろうとしているアイディアや話、それに類する映画や小説などの創作物をたくさん見る、というだけである。
何だ、と思われるだろう。私もそう思う。
つまりは「参考作品を見る(読む)」ということと思うだろうし、学術論文を書く際に多くの先行研究に当たるのが当然なことと同じと思われよう。
確かにそれと同じ面もあるのだが、参考や研究を目的として見るわけではないのである。
たくさんの参考例を見る、というより、自分がこれから作ろうとしている世界に慣れる、馴染むといった方が適切な在り方だ。

この方法(ともいえないようなものかもしれないが)も、私が20年前にある人から教わったものである。
「それに類する映画(その他の創作物)をたくさん見て、ムードに浸るんだよ」
「ムードに浸るんだよ」である。たいへん分かりやすい言葉だ。
たいへん理解しやすいご指導をいただいたものの、その「効用」を実感するにはずいぶん時間がかかった気もする。その後、漫画やアニメーション制作において自分なりに少しずつ実践してきて、いまならなるほどその通りだと思える。
良い参考例ではないが、『東京ゴッドファーザーズ』のプロットやシナリオ制作当時、気分に浸るための資料として読んだ本と見た映画を上げてみる。

書籍/『ダンボールハウスで見る夢』『“死んでもいいや”症候群』『東京遺跡』『霊園はワンダーランド〜ホームレスと過ごした一年間の記録』『新宿段ボールハウスの人々』『ホームレス日記“人生すっとんとん”』『スーツホームレス』『ホームレス自らを語る』『山谷崖っぷち日記』『友がみな我よりえらく見える日は』『ホームレスになった〜大都会を漂う』『東京ホームレス事情』『新約聖書を知っていますか』『僕らの広大なさびしさ』『ヤクザに死す』『“少年犯罪”の正体』『ヤクザという生き方』『新宿 歌舞伎町 マフィアの棲む街』『タクシードライバー日誌』『偶然の一致はなぜ起こるのか』『男でもなく女でもなく』『二丁目からウロコ』『タクシードライバー・一匹狼の歌』『こじき大百科』『ホームレス入門』『現代ヤクザ録』『21世紀のヤクザ基礎知識』『ホームレス作家』『新宿ホームレスの歌-“放浪歌人”の70余年』

映画/『真夜中のカーボーイ』『ザ・ストレイト・ストーリー』『ミッドナイト・ラン』『サイダーハウス ルール』『マイライフ アズ ア ドッグ』『ブラス!』『フルモンティ』『バグダッド・カフェ』『都会のアリス』『ジョンズ』『ガープの世界』『ホテルニューハンプシャー』『三人の名付け親』『スリーメンアンドベイビー』『サイモンバーチ』『オールアバウトマイマザー』『バードゲージ』『プリシラ』『永遠と一日』『フローレス』『トーチソングトリロジー』『3人のエンジェル』『GO』『赤ちゃん泥棒』『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』『スローターハウス5』『アタックナンバーハーフ』

この時期、他にも読んだ本や見た映画はあるし、それらからも多分に影響は受けているはずだが、上記の作品は直接的な狙いで消化してもの(と思われる)。また、作画作業に入ってから目を通したものやビジュアル参考としての資料はここには含まれない。
本の方が直接的資料の傾向が強く、映画の方がムードやキャラクターの気分といった傾向のようだ。
あまり関係がなさそうなものも混じっているが、おおむねタイトルを見ての通りキーワードは「ホームレス」「ゲイ」「ロードムービー」「皮肉な話」が主で、その他「貧乏」「赤ん坊」「ヤクザ」「タクシー運転手」などなどだろうか。
話をこしらえる段階では、直接的な資料や参考は別として、極端な話何を見れば適当なのかもよく分かっていない。
だからといって手当たり次第に目を通すわけにも行かないので、関係のありそうなものやたまたま目についたものをチョイスしている。「たまたま」という縁も大事である。

繰り返すが、参考になるアイディアや上手な参考例を手に入れるために見たり読んだりするわけではない。
むしろ、つまらない映画や出来の悪い映画を見ているとアイディアが浮かんでくることも多い(笑)
「こうすればいいのに」「私ならこうする」といったトレーニングはアイディアを出す訓練にとてもよい。これはこれでたいへんな効用であるが、そんなに理解しやすいことに一番の眼目があるわけではない。
自分がそれらに触れて、何を見ているのかは自分にも実はよく分からないことの方が大事である。
意識的に吸収する部分もたくさんあるが、どちらかというと自分の無意識に、これから自分の作りたいものにまつわりそうな種々雑多なものを「ロード」するといったようなことが主な狙いである。何せ無意識に見せているのだから、そこで何が発酵して何が出力されてくるのかは私には予測がつかないことになる。
そこが一番面白いところである。
自分がこの先何を考えるのか分かっていたら全然面白くない。

私が知りたい、得たいというアイディアを意識的に探すのではなく(そんな都合のいいものは滅多にない)、意識よりももっと広大かつ深淵な無意識に色々なものを投げ込んで「考えてもらう」のである。
そこからいつか到来する閃きやアイディアは私の意識が知らないものであり、まるでよそからやって来たように思えるものだ。
だから私は自分の無意識であっても、そこから受け取ったアイディアは「私が考えた」ではなく「出てきた」という言い方をする。「creation」(創造)というより「generation」(発生)である。実際、それが実感にもっとも近い。
最も近い他者、それが無意識。ホントに。
何やらもっともらしいことを書こうとしても、浅知恵と知識の無さが露呈するだけなので、平たく書くと要するに、ネタやアイディアを探すためではなく、それらによって触発され、自分が取り組んでいる問題に関して脳を活性化させたい。そういうことだ。
その「自分が取り組んでいる問題に関して脳を活性化」がつまりは「アイディアが浮かびやすくなる身体」ということである。
そういう状態を持続することが実りにつながる。

多くの創作物や先例に当たってアイディアやパターン、ノウハウをストックすることも勿論大事である。しかし、アイディアやノウハウをいくらストックしたところで、制作中にいつも逢着するのはストックでは解決できない問題なのである。
第一、それまでのストックで解決できるものなら問題とは言わないし、「答えが分かるくらいなら問いではない」とソクラテスだって言っている。
また、ある人はこんな名言を残している。
「100のノウハウを身につけたところで101番目の出来事には対処は出来ない」
言ったのは私だ(笑)
101番目の事態に直面したときに、「その場でアイディアを生み出す」ことが出来るかどうか。
アイディアが必要になったときや困った問題を前にしたときに、アイディアを生む体力を養うことがもっと大事なのである。
「いつでもオンデマンドにアイディアを」
下手なコピーみたいだが、そういう人になりたいものである。
若い方(に限らないが)には、「アイディアの体力」をこそ養って欲しいと思う。
身体のトレーニングと同じで、普段から身体を動かしていればそうでない場合に比べて身体は動きやすいものであろうし、体力も養われる。同様に普段から「アイディアが浮かびやすくなる身体」をこころがけていれば、自然と「アイディアの体力」も養われるのではないだろうか。

また話が長くなった。
ゼミではこの後、ストーリーの考え方などを紹介し、コンテの話に入る前に、残りはすでに15分くらいとなってしまった。中途半端になってしまうので、コンテ解説は次回とする。
気がつくと次回とその次の回もGWの休みで休講だ。それじゃ休みすぎだ。

制限の友

「オハヨウ」の解説は、まずその企画の由来から話し起こし、具体的な予算を紹介しつつ、これまでの監督作の分単位の予算比較を交えながら、切ない台所事情も披露する。
「オハヨウ」の制作費は予算は200万円(税込み)。
この予算を最大限有効に使うために、まず私のギャラを最大限に圧縮した。
無報酬でもいいのだが、それでは「仕事」とはいえなくなるので、最終的に「5万円」という冗談みたいな数字にした。そうでもしないと、スタッフへの報酬を確保できないのだから仕方ない。この5万円は打ち上げの費用となって消えた(笑)
ちなみに、1分で200万円(ただし音響費は別枠でNHK持ち)という制作費がどの程度のものなのか、素人さんには分かりにくいだろうからこんな数字も紹介しておく。
単純にテレビや劇場の1分あたりの予算は、概算で以下の通り。

TV1分  70万
劇場1分 290万

あくまで「当社比」である(TVは『妄想代理人』、劇場は『パプリカ』)。
予算の大きなTVシリーズなら上記の1.2〜1.3倍、中には2倍ということもあろうし、劇場なら倍から数倍の数字で制作されるケースもあるだろう。ジブリさんなら10倍くらいだろう。
この比較から1分200万は悪くない数字に思えるかもしれないが、いくら短編とはいえ「一本は一本」である。キャラクターデザインや美術設定、美術ボードも色彩設計だって必要になる。
短いながらも一本としての姿形を整えるための準備などを考え合わせると、せいぜいTVより少しましという程度であろう。せいぜい頑張って「プチ劇場」程度。そう、ちょうど『千年女優』くらい(笑)
『千年女優』で思い出したが、『千年』制作当時こんなことがあった。
当初のイメージでは「ここだけはどうしても雪が降っていなければならない」と思っていたシーン(冬の京都で千代子が鍵の君と一瞬出会うあたり)も、制作終盤を迎えて時間的人的余裕が失われてきたことによって、監督はこう判断せざるを得なくなった。
「よし、止める」
そういうものである。
そりゃあ勿論、雪が舞うあのシーンは見たかったし、その方がはるかに情感は豊かになっただろう。
しかし、出来ないことにいつまでも関わっていたら他のシーンが犠牲になりかねない。どうしても譲れないことならば何としても実現せねばならないが、重要なシーンは他にもたくさんあるのだから、クオリティを維持したまま実現可能なことを確実に獲得した方が全体としては実りが多い。
予算的人的配分を考えるのも演出の一つである。
もっといえば、私がやりたいことを考えるのではない。当の制作物がなりたがっているように世話をするのが演出というものであろう。

私の監督する制作現場では得てしてこんな調子で、外的な条件によって判断している。
確かに不本意なことも少なくはないが、私は自分のやりたいことが条件や制限に「阻害されている」とは考えないし、むしろそうした枠組みに判断を「助けてもらっている」と考えている。
どうせやるべきことが同じなら、気分良く実行した方が精神衛生上健康にも、それが反映する画面にとっても望ましい。
こうした私の考え方はともかく、外部から見ればこのような内情はどうやったって「やりたいことがやりたいようにやれている」といった状況ではないことくらいお分かりいただけるかと思う(笑)
敢えて言えば、私は「やりたいことがやれている」のではなく、「やりたいことがやれていると解釈するようにしている」だけのことである。

学生に「アニ*クリ15」すべてを鑑賞してもらったところで休憩時間。
10分という短い休憩は喫煙所で2服。
ああ、タバコが美味いこと。

授業再開。
発想から流れを作り、シナリオまでの経緯を紹介しながら、アイディアの出し方や育て方のヒントになりそうなことを伝える。
あくまで私の経験上獲得したやり方でしかないが、間違った態度ではなかろう。
そのうち、特に重要と思えるのは二つ。
一つは「枠組みと仲良くする」。
もう一つは「アイディアが生まれやすい身体を作る」。

まず、アイディアを考えるにあたっては条件や制約という枠組みと仲良くすることである。
枠組みが創作を大きく助けてくれるものなのである。
ルールが面白ければゲームが楽しくなるのと同じことだ。
これを考えられないといつまで経っても「やりたいことがやらせてもらえない」といった不平を口にし続けることになる。
具体的に言えば、まず制作のための枠組み、初期条件をきちんと洗い出すことである。
制作にかけられる期間、自分の能力と作業量、使用可能なハードやソフトなどなど、事前に考えられることはすべて検証する。
それらによって、制作可能な尺やカット数も導き出されるであろうし、ということは盛り込める量も自ずと決まってくる。
その見立ては経験がないと難しいだろうが(あってもたいへん難しいし、私は失敗ばかりである)、予測を立てて実践し、予測と実践のズレや失敗を次に活かすことが知性ある態度だ。
学ぶべきはノウハウではなく、そうした方法や態度であろう。

我々実際の制作現場の場合は、誰が参加してくるのか分からないところで作業量や質を考えなくてはならないが、学生の場合、個人制作か少人数のグループ制作なので、期間内の各人の作業量は予測しやすいだろう。
個人制作のアニメーションを例にして考えると、作画にかけられる期間を想定して、その時間でどれだけの枚数を描けるのか、リアルに考えてみればよい。
この時、何より重要なのは「あまり自分を信用しない」ということだ。
「いざとなったらすごい力を発揮できるはず」だとか「毎日こつこつやれば出来る」といった、それまでの自分の能力からとても想定されない事態を夢想するべきではない。私は今でもついしちゃうけど(笑)

あれこれシミュレーションしたところで、現実には想定通り上手くことが運ぶことはないし、むしろ破綻することの方が多いだろうが、最初に考えないよりは遙かに現実的である。
枠組みを考えられれば、それによってアイディアだって限定されてくる。
出来ないことまで一々考えていては、出来るはずものまで実現不能な事態に陥りかねない。

たとえば「オハヨウ」の場合、尺が1分と決められているのだから、「歴史大河ドラマ」や「スペースオペラ」なんてアイディアは端から考えなくて良い。もちろん敢えてそういう冗談を狙うなら別だが。
1分ということは、物語やストーリーという大袈裟なことは盛り込めない。せいぜいが流れみたいなものである。もちろんその流れの中にストーリーめいたものはあるのだが。
要するに、「伏線とオチ」があれば話になるのである。これは、私が20年ほど前にある方から聞いた名言である。
確かにその通り。ここでいう伏線とは、いわゆる「伏線の張り方が上手い」といった、「ほのめかし」というより、因果関係とか原因と結果、頭とお尻といった方が適切である。そう理解はしているが、「伏線とオチ」の方がピンと来るのでこの用法のまま進める。
全体のボリュームが小さいものなら(それが映像なら尺、漫画ならページ数)そこに盛り込める「伏線とオチ」の関係は一つが限度だろうし(4コマ漫画などはその最たる例だ)、ボリュームが増えるに従って、「伏線とオチ」の関係を増やしてその編み方に変化をつけることになる。
編み方の変化というのは、伏線からそれを回収するオチまでの「距離」に変化をつけるといったことで、たとえば話の冒頭で振った伏線を中盤で回収し、その途中に出てくる伏線は最後になるまで回収しない、といったような。あまりにも伏線ばかりが多くなって、回収までの時間がかかりすぎると、お客の方は飽きてしまったり、伏線そのものを忘れたりもするので、長めの「伏線とオチ」関係の間に短めに回収されるケースも編み込んだ方がお客に親切というものである。
「オハヨウ」の場合は、「眠たくて頭が半分しか起きない」という状態を文字通り分裂する身体として表すというアイディアである。「分裂」がいわば伏線なのだからオチとしては「合体」ということになる。「オハヨウ」はそれだけの映像である。それだけだからこそ、色や光の変化といった画面の「伏線とオチ」や、構図の工夫、ディテールの描写が重要になってくるのだが、それはまたコンテの解説の際にでも話すことにする。

最初に考える枠組みとしては、スタッフによる条件や限定ということだって大いに役立ってくれる。
「オハヨウ」はそのアイディアを決める以前に、作画を頼むアニメーターは鈴木美千代さんに決まっていた。彼女は今となってはアニメーション業界で私が最もつきあいの長くなった原画マン(『ジョジョ』の初演出以来『パプリカ』まで、すべてにおいてメインスタッフとして原画をお願いしている。『妄想代理人』1、2、13話と9話「O・H」では作監も担当)。
尺が短くカット数も少ないから、作画は彼女が一人で担当する。
ということは、彼女に向いたものという枠組みを設定できる。つまりメカや爆発はない方が本人も楽しかろう、と(笑)

作画同様、美術背景もあらかじめお願いする人が決まっていた。『パプリカ』でたいへんいい仕事を量的にもこなしてくれた東地和生さん。
ありがたくも私の仕事をしたいと仰ってくれていたので、短編とはいえ美術をお願いすることにした。そういう事情で美監レギュラーの池さんは「オハヨウ」はお休み。
東地さんは普段から背景をもっと勉強したい、と奇特なことを真剣に口にされていたので(勉強したいと口にする「だけ」の人なら業界には掃いて捨てるほどいる)、そうした条件も念頭において美術背景のコンセプトを考えた。具体的にいえば、「身の回りのものをきちんと再現する」ということ。これはつまりデッサンということであり、背景であれ作画であれ、基本中の基本。
「身の回りのもの」さえ上手く再現できないのであれば、アニメお得意の未来世界もファンタジー世界も再現できるわけがない。見たものさえ描けない者が、見たことのないものにリアリティを与えられる道理はなかろう。
同じように、作画担当の鈴木さんも、この時期人物のデッサンを強化したいという希望をお持ちだったので、人物中心の内容が宜しかろう、と。そしてデッサンの基本といえば女性の身体。主人公は女性しかあるまい。

こうした自分以外から生まれる枠組み、他者から到来する要請といっても良いが、これらはたいへん重宝する。「何でも有り」で考え始めると、時間が無駄になる。内発的な動機を何より問われる(のであろう)「アート」や「芸術」とは私は無縁な方だ。
だって私は「やりたいことなんか特にない」のである。
自分以外から到来する様々な条件や制限といった枠組みを考慮していったところで、ようやく「私」がやりたいことも「じゃあ……」ということで少しは生まれてくるというもの。
これを逆に、「私」から考え始めると後から出てくる枠組みとコンフリクトを生じるのは当然であろうし、無駄が累積する上に「私」の不本意も増大する。
「私」なんか最初に捨てた方が結果的に「私」の実りも多いものだ。
「私ありき」で育ってきた人、特に「オレ様」世代の方には共感いただけないとは思うが。
しかし、お釈迦様はこう仰っているそうだぞ。

「幸福は愛他精神から生まれ、不幸は自己本位から生まれた」

「枠組みと仲良くする」という話に続いて、もう一つ私が創作にあたって実践している「アイディアが生まれやすい身体を作る」方法を紹介するが、それはまた改めて。

何で文章が毎回こうも長くなるのだろう。

やりたいことシンドローム

暫定税率復活でガソリンスタンドに車がたくさん並んでいる光景をニュースで見かける。
そこに並んで得られる「得」(あるいはしないで済む「損」)と、並んで失う時間による「損」(あるいはその時間で出来たかもしれない別の「得」)。
その損得を比べても並びたいと思うものなのだろうか。
とても疑問だ。

昨日の続き。
近年、4年生大学で映像やアニメーション・マンガを専門とする学科がたくさん作られている。新たに増えた学校もあるだろう。こうした特殊な分野に限らず、教育機関そのものが増えている印象さえある。大学院なんかも増えたのではないか。もちろん淘汰されていることも多いようだが。
少子化なのに教育機関が増設されているというのは奇妙な話に思えるが、実際は少子化だから増えていると考えるべきだろう。
要するに子どもの頭数が減った分、同じような収益を上げるためには「単価」を上げればよいということ。単価といっても授業料や入学費を値上げするという意味ではなく、教育に必要とされる期間を延長すれば、その分確実にお金を吸い上げられることになるわけで、一人からの「収穫量」を上げようという狙いにしか思えない。

だから世の中には「夢の実現」やら「自己実現」の言葉が垂れ流され、まだ夢もやりたいことも見つからない(と思いこまされた)若者はそれを探すための期間と場所を求めるし、夢ややりたいことが見つかった(と思いこまされた)若者は学校に行けばその実現のノウハウを得られるだろうと期待させられるし、その親たちも「やりたいことを仕事にするのが一番の幸せ」と思いこまされているから、教育費には財布の紐も緩くなる。
そういうことなんじゃなかろうか。
「夢だのやりたいことなんかなくたって大丈夫」
そういうメッセージでは金儲けの種にならない。だから言われないのであろう。
「メタボ解消には食事を減らすのが一番」
消費を減少させるようなことは推奨されないのと同じであろう。メディアにはとにかく金を使わせるためのメッセージしか流通しないものだ。
他ならぬ大学のゼミで上記のようなことを喋るのもどうかと思うが(笑)、世の中にはそうした構図が溢れており、自分の意思だと思っていることだって実は「思わされている」ということに少しは自覚的になった方が、創作の上で実りがあるではないかと思える。

私はだいたい「私にはやりたいことがある」なんていう言葉をあまり本気では信用しない。そう口にする人間に実際「やりたいこと」をさせたところで、たいして「やりたいこと」なんて無かった、というのがオチである。あるいはそれを認めたくないがゆえに途中で頓挫させたり、未完成で終わるとか。
少なくとも私はそんなものだったし(笑)、それに気がつけたことはたいへん大きな収穫であった。
だから私自身「やりたいことなんて別にない」のである。
飛躍した言い方だが、「やりたいことがある」と思ってしまうから、「やりたいことが阻害される」という事態に陥るのである。
私には「やりたいことなんて別にない」から、目の前の仕事を何とか「やりたいこと」にしてしまうのである。
そういう意味では確かに私は、やりたいことしかやっていない。
それは監督というポジションについたからではなく、その前からずっとやりたいことをやっている。
漫画だって頼まれもののイラストやカットだって、アニメの美術設定やレイアウト、脚本・コンテ・演出だってどれもやりたいようにやっているが、しかしそれは単に仕事として与えられた「やるべきこと」を「やりたいこと」として思えるように、自分の側を調整し、時には変形してきたからである。
決して「やりたいこと」が先にあったわけではない。
私の趣味には「エジプトの街で学生服の若者たちが、膝にハートマークをあしらった男と、背後霊を出し合って超能力バトルを繰り広げる」なんて話があるわけがないし、「B級アイドルと変態ファン」だって無縁だった。
でも、どちらもとても楽しい仕事だったし、不満もなかったし、やりたいことはやった気がする。
理由は簡単だ。どちらもそれらが「やりたいこと」として受け入れられるように、自分の側を変形しただけである。もし私に「やりたいこと」があるとしたら、自分を変形し続けたいといったことかもしれない。

フランスの格言に曰く。
「つまらぬ職業はない。つまらぬ人がいるだけだ」

昨日のブログに紹介したメールから、「今 敏はやりたいことを実現した人の一人と想定されている」と書いたが、業界人からも真面目にそう思われているらしいことにかなり驚いたことがあった。最近のことである。
業界人の飲みの席があり、そこには他の監督や演出家が何人かおられて口々にこのようなことを仰っていた。
「自分はやりたいことをやらせてもらえてない」
ありゃま。
そして、こうまで仰る。
「今さんはやりたいことをやっている」
歪な冗談でも流行っているのかと思った(笑)
いや流行しているのは「やりたいことシンドローム」ともいうべきものか。
たまたま最近仕事の必要があって世界の名言や格言に目を通しているので、ついつい引用したくなる。

イギリスの格言に曰く。
「幸福は自分の家庭にあり、他人の庭で探すものではない」
フランスからも一つ。
「幸福を自分の家で見つけるのは困難であるが、これをよそで見つけ出すのは不可能だ」

日本流にいえば、要するに先の発言は「隣の芝生は青い」ってだけのことなんじゃないのか(笑)
他人に憧れるような考え方や言葉遣いをしている限り、いつまで経ってもそれこそ「やりたいことの実現」なんてものにたどり着かないのではないのか。
ある意味、それらは構造的な「不発」や「不満」を呼び寄せかねないと思うのだが。

たとえばの話。アニメーションの演出を目指す素人さんから見れば、テレビシリーズの監督というポジションはすでに「やりたいことがやれている人」と想定される。にもかかわらず、実際にそうした人間が「やりたいことをやらせてもらえない」といった愚痴をこぼすのである。
またたとえばこんな。武蔵野美大の学生は、美術大学という特殊性から、他の一般大学の学生から見れば、おそらく「やりたいことを持っている人」「やりたいことが実現できている人」と見られがちであろう。しかし実状はどうか。それほど確たるものを持っている人がいるわけでもなかろう。少なくとも私はそうだった。
これら二つの例から容易に考えられるストーリーはこうだ。
アニメ業界を目指す素人が、業界に入ればそれで一つの「夢は叶う」ことになる。しかし勿論それで満足できないから憧れの演出や監督を目指す。さあ、その夢も叶ったとしよう。だがその演出も監督も「やりたいことをやらせてもらえない」と愚痴をこぼし、他の「やりたいことがやれている」人をうらやむ。
では、その愚痴をこぼす演出家や監督が、思うようにやれる環境を手に入れたとしよう。どうせ口にすることは同じだ。
「これじゃ足りない」
これが構造的な不満の最たるものだ。
こんな名言がある。

「我々は他人の幸福を羨み、他人は我々の幸福を羨む」
ププリリウス・シルス「格言集」(前一世紀)

だからといって、現状に常に満足するべきだというわけではないし、わずかずつでも改善を心がけるのは当然であるが、しかし少しばかり「足を知る」という心がけも持ち合わせた方が、毎日の精神衛生には良いのではないか。

アリストテレス曰く。
「幸福は自足する人々のものである」

ちょっと考えれば分かることだろうに。
他人から見れば「やりたいことをやっている」と想定される人間が、主観的には「やりたいことをやらせてもらえない」と思うのであれば、その関係を延長して考えると、当人から見て「やりたいことをやっている」ように見える人の内情が決してそういうものではないことくらい想像はたやすいはずだ。
それが出来ないとしたら、想像力の欠如と言われても仕方ないのではないか。
自分を含む関係を想像できなくて、目の前にいる登場人物やその関係の何を演出できるのだろう?

主観的には「思うようにやらせてもらえない」と思うことはあるにせよ、見方を変えれば、いますでに自分はやりたいことがやれている状態にあるとも言えるわけだし、そのことを少しくらい自覚しても良さそうな気がする。
外部を経由した視線がないということは、子どもである。
子どものいうことはいつも同じだ。
「もっともっと」
あるいはこんな。
「他の人は持っているのに」
自分が持っているものは勘定に入らないのが子どもである。当然、自分を勘定に入れた他人との関係を考えられるわけもない。
そして他人をうらやむのだ。
以前にも書いたが、使う言葉によって考え方が強化促進される。
だから、他人をうらやむような言葉を吐けば吐くほど望む自分は遠ざかるものである。
やめた方がいいぞ。

「やりたいことがやりたいように出来るか」どうかは、ポジションや環境によるものではないし、実力や知名度によるものではない。いま目の前にある問題に対する取り組み方によって決まるものである。
いま取り組んでいる問題を、我がこととして引き受け、それを「やりたいこと」にしてしまえば、理論的にはいつでもすべてが「やりたいこと」になる。
それだけのことではないのか。
もしもやりたいことがやれるといった才能や能力があるとしたら、眼前の問題をやりたいことに変容させられる力をいうのではなかろうか。それは同時に自分を変形することも含んでいる。
変形といって語弊があるなら、拡張といっても良い。当の仕事によって自分を拡張してもらうのである。仕事は師匠だ。
いつか、あるいはどこかに行けば「やりたいことがやれるようになる」と思っている人、というよりそう思わされている人は、いつまで経ってもお望みの事態を迎えることはないと申し上げてもよかろう。
私が言っているのではない。古来有名な物語もそのことを的確に言い表している。
「青い鳥」

あれ。ゼミの話がどっかに行ってしまった。

「夢」商い

昨日は枕話だけで終わってしまった。
どうもコンスタントな更新が出来ない。去年のウェブリニューアルを機に少しはまめな更新をと思っていたのだが、いまだにブログの更新が日課には組み入れられていない。
何事も、日常の行為や仕事として定着するには時間がかかるし、時間をかけても定着しないこともある。ブログなどは単なる趣味だから滞ったところでさして実害はないが、仕事となるとそうもいかない。
今年度から始まったムサビのゼミも先週が2回目。一週間なんてあっという間に過ぎるもので、一回目が終わったと思ったらすぐに次回の準備が待っている。ペースに慣れるまでは少々時間がかかりそうだ。本来なら今日が三回目のゼミの筈だが、あいにく「昭和の日」でお休みである。来週も振り替え休日で休み。困ったな。
先週からはアートカレッジ神戸の月一の出張講義も始まった。
シナリオは思いの外進まず、まだ三分の二くらい。思うに任せないものである。

映像学科のゼミは短編「オハヨウ」を題材にして、そのメイキングを紹介することで、各々の卒業制作の参考にしてもらおうという狙いである。
「オハヨウ」の出来がどれほどのものかはともかく、一演出家が何とか「普通に見える映像」を作ろうとするのに、一体どのくらいのアイディアの量と労力をかけているものか、少しは想像してもらえるのではないかと期待している。
メイキングに触れる前にまずは雑談。
ゼミの二日ばかり前に見た映画『グエムル』と『アポカリプト』を紹介しながら、編集について少し触れる。
『グエムル』はケーブルテレビでかかっていたのをたまたま見た。韓国映画を見るのは多分初めてではなかろうか。
面白いとか面白くないという以前に、たいへんガッカリしてしまった。
期待して見始めたわけではないのだが、韓国本国ではヒットしたと聞いていたので興味は持って見ていたのだが、内容的なことではなく「映画術」という点で残念に思った。
あまりに編集に難があるのではないか。
もっともっと編集すれば(無駄と思えるシーンやカットを切れば)、もう少し気持ちよく見ていられるのではないかと思えるのだが、この映画がヒットしたといわれる本国の観客は、あのテンポを快適と感じるのだろうか。甚だ疑問だ。
私はイライラするだけであった。

どうにもテンポの気持ちの悪さだけが残ってしまったので、その後続けてDVDで『アポカリプト』を見てみた。生け贄の扱い方などにおいて、よその文化に対する視点として「いかがなものか」と思わされる部分はあるが(町山智浩さんのポッドキャスト「アメリカ映画特電」に詳しい)、アクション物としてとても面白く出来ている。
語弊はあるが、「普通のことが普通に出来ている」というのはたいへんなことなのだな、と改めて認識させられた。続けてみたせいで、ついつい『グエムル』と比べて見てしまったせいもあるのだが。
ちなみに、DVDに収録されているアメリカ版と日本版のトレーラーを見比べると、編集という点でたいへん興味深い。日本版がひどく説明的だったのはとても残念な気がした。

ゼミの前日に舞い込んだ2通のメールを紹介しつつ、雑談を続ける。
外務省所管の、とある独立行政法人から「北欧三カ国(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド)でアニメに関するレクチャー・ワークショップ」を担当して欲しい旨の依頼があった。
海外の映画祭やアニメーションイベントにご招待をいただくことはこれまでに何度もあったし、そうした場所でのレクチャーなどの依頼も時折ある。実際、他にもニューヨークのリンカーンセンターでの「今 敏レトロスペクティブ上映&展示」に出席して欲しいという依頼もあれば、広島国際アニメーションフェスティバルに関連する講演も予定されている。
しかし先のお誘いは国内の公的機関から海外に向けた「日本文化紹介」の一環として依頼したいということである。
おいおい、アニメーションはいつの間にそういう扱いになったのだ。あんなに「日陰者」扱いだったはずなのに。

同じ日に届けられたもう一通は、「様々な職業のトップランナーとしてご活躍の方々に取材」しておられるという方からで、「世界を舞台に活躍なさることの生きがいや意義について、また、ご自分の夢を実現するまでのエピソード、夢の持ち方、若者へのメッセージなど」について話を聞きたい、とのこと。キーワードは「夢探し」ということらしい。
同じ日に届いたというだけで、両者に何か共通点があるわけではないが、少々考え込んでしまった。
2通のメールを合わせると、つまりこういうことを言っている。
「日本を代表する文化であるアニメーションの世界で、国際的評価も高い今 敏は夢を実現しているトップランナーの一人である」
私がそう思っているわけではない。
どうもそういう風に「想定されている」らしいという話である。
冗談だろ(笑)

ある程度そうした想定があることは理解しているが、実感は全然持ち合わせていないし、私が「夢を実現した人」とは思ってもいない。
何だか、たちの悪い冗談が透けて見える。いまに始まったことではないし、感じる違和感は年々度合いを増している気がする。ある意味『パーフェクトブルー』は予言的だったかもしれない(笑)
要するに昨今の風潮は次のような考えが先にあって、それに当てはめて人を見ているのではないか。
「世の中には夢を実現した人がいるはずだ」
そうした想定が先にあって世の中を見渡した結果、イチローや松井選手などを始めとしたたいへんわかりやすい例に始まり、そこまでは行かないが海外でも注目されている人たちを掘り起こし、さらにその末端に位置するらしき今 敏程度にも依頼が来るのではなかろうか。
少なくとも私は子どもの頃からの夢だの若いときの夢を実現した結果「アニメーション監督」になったわけではない。たまたま「なっちゃった」だけの人間である。
なにがしかその筋で有名になる人は、まず夢があって、それを実現した結果その名前が人前に出るようになった、というストーリーが勝手に設定されているとしか思えない。
なぜそういう設定がなされるのか。
まず、このストーリーはたいへん遂行的なメッセージを含んでいる。
「夢を実現せよ」
そして、これを逆から考えて「何かを成し遂げるには夢が必要である」ということにすり替えているように思える。「誰が」とはいわないが。
その結果、若者に「夢を持て」と「脅迫」しているような構図さえ浮かび上がってきている気がするのは私だけだろうか。
「夢を持っていない君は変だ」
そういう脅迫。いやな恫喝だなぁ。
この「夢」は「やりたいこと」と同義である。
そんなもの持ってなくたって全然かまわないはずなのに、「夢探し」「夢の実現」「自己実現」「自分探し」などの単語で若者(に限らないが)を煽り立てるのは一体どうしてなんでしょう。
若者の未来のため?(笑)
まさかそんなお人好しはそうそういるまい。
それによって受益する人がいない限りそんな言葉遣いが垂れ流され続るわけもなかろう。
人々の危機感を煽り、操作することで生まれるのは飽くなき「金儲け」以外にない。
金儲けが悪いわけでは勿論ない。しかし、人の不安を煽り笑顔で恐喝するようなやり口がどうにもいやらしくて気に入らない。私もそこに加担しているだけにどうも気分が悪い(笑)
その風潮に乗せられる方は気の毒だが、しかし疑いもしない人が多いのはどういうわけなんだろう。

国内の不安を煽りたてれば戦争だって簡単に出来るようになるのはどこかの国でお馴染みだし、メタボや病気の不安を煽れば健康食品やらスポーツメーカー、医療関係などの売り上げは増大するし、環境問題を煽り立てて新たな消費を無理矢理に生み出すのはお手の物らしい。それが環境にさらによけいな負荷をかけることになるかもしれないなどとは疑いもせず、「正しい」と思いこまされた人々による善意と笑顔の暴力が広がっているように思えて来る。
気のせいじゃないだろう。
「夢探し」や「自分探し」も同じく金儲けのためのマジックワードに他ならない。
もちろん、真面目にそうした問題に取り組んでいる人たちを批判するつもりはないし、無駄な不安の解消のために活動されている方もおられるだろうから、微力とはいえ協力もしたいとも思う。
ただ、それがどういう目的や態度であれ、たとえそれらを批判や否定するためであっても「夢探し」「夢の実現」「自己実現」「自分探し」といった言葉を使ってしまうことは、結果的にそれらを広めることに加担することになるのだし(実際、このテキストもそうだ)、それらを促進する傾向に棹差すことになるのではないかという気もしてしまう。
かくして夢商いがさらに拡大してしまうのだろう。

また長くなってきたので、続きは明日。

ブーム

いまブームといえば硫化水素。
かつては練炭がブームだったが、自殺方法にも流行廃りがあるのはたいへん日本的な感じがする。
「じゃあ、私も(僕も、俺も)」
この言葉を口にする機会が多い日本人はさぞやたくさんいることだろう。
口にされる機会が多いから、この言葉によって物の考え方そのものがさらに「じゃあ、私も」的な傾向を強化促進してきたに違いない。
思考や感覚は言葉によって規定されて行くものだ。

「硫化水素」が流行りだしたその発生源はインターネットの掲示板だそうで、「練炭より確実に死ねる」という触れ込みが「功を奏した」らしいが、ネットに限らずテレビや新聞で「硫化水素」の文字に触れる機会が増えれば増えるだけ、同様の手口による自殺が増えて行くのであろう。
メディアはまさに広告効果そのものである。
4月26日16時18分配信の毎日新聞の記事によると、
「硫化水素自殺は、1月ごろからインターネットの掲示板で手口が紹介されるようになった。3月ごろから自殺件数が増え、メディアも大きく扱うようになった。4月に入って激増し、中旬以降はほぼ連日発生。3月以降に少なくとも39件47人が死亡した」
一大ブームである。付和雷同という言葉さえ連想する。
中には硫化水素中毒によって家族が巻き添えになって死亡したケースもあるようだし、避難を余儀なくされた付近住民の映像をニュースで見た。まったく気の毒である。

死にたい人は勝手に一人で死ねばよろしい、と私は思う方だが、自殺するということの是非はともかく、周囲を巻き添えにするのは迷惑なことこの上ない。
なぜ自殺くらい一人で上手に出来ないのだろう。
飛び降り自殺を図って通行人を巻き添えにした者もいたし、最近では走行中の新幹線のぞみから飛び降りた迷惑男もいたし、拳銃自殺した警官もいた。
拳銃の弾が一発いくらなのか知らないが、税金で賄われているものには違いないのだから、警官の拳銃自殺は業務上横領みたいな罪になるのではないか。
自殺の仕方によっては、死後も「たいへんかっこ悪い」ことになるということを報道した方が、よほど自殺の歯止めになるような気もしてくる。しかし、人に迷惑をかけることが目的の自殺もあるだろうから、そうなるとやはり「死んで一花咲かせたい」などという「たわけ」が大量発生するのかもしれない。

先の記事にはこうも書かれている。
「報道が自殺の連鎖を誘発する場合があることは知られており、日本自殺予防学会は今月18日、報道機関に▽詳しい方法を紹介しない▽相談機関などについての情報提供を併せて行う−−などの配慮を求める緊急アピールを出した」
以前何かの本で読んだが、自殺者を多数出していた北欧のある国が、やはりこうした報道規制協力をメディアに呼びかけ、メディア側の自主的な協力によって自殺の方法や遺書の紹介などを行わなくなったところ、実際自殺者数は劇的に減少したそうである。
こうしたアピールに、日本のメディアは応えるだろうか。まさかね。
一方、厚労省の通達には笑ってしまった。
薬局や薬店など小売店に対して、「不審な人物」に洗剤を販売しないよう通達するとか、通達を検討中とかといった記事を目にした。
無駄じゃないのかもしれないが、しかし「不審な人物」って……。
投げやりな通達である。「一応対策はしています」という木っ端役人的ポーズにしか見えないし、それ以外でもなかろう。
だいたい、そんな報道があれば、自殺志望者は出来る限りせめて不審に見えないように努力するのではないか。
どんな目的であれ、報道すればするほど同様の手口での自殺が増えるのであろう。
ブームが去るのを待つしかないのだろうか。

硫化水素ブームの報道で少々笑ってしまったのは、自殺発生現場を発見した人や迷惑を被った近隣住民の複数がこう証言していたことだ。
「卵が腐ったような臭いがした」
硫黄のような臭い、ということなのだろうが、しかし「卵が腐った臭い」なんて嗅いだことがあるのだろうか。少なくとも私は嗅いだことがないと思う。卵を腐らせたことならあるが、そんなに劇的な臭いはしなかったような気もするし、したような覚えもある。その記憶は曖昧だ。
しかし私は情報として、「卵が腐ると硫黄みたいな臭いがする」ということは知っている(本当にそういう臭いがするかどうかは分からないが)。
おそらく温泉場など硫黄くさい場所に行った際、誰かが口にした「卵が腐ったような臭い」という表現によって記憶されたのではなかろうか。
ひょっとして、「硫黄の臭い=卵が腐った臭い」という知識から、実際はそれほど臭いを感じなかったはずなのに、かつて卵を腐らせた実体験の記憶に、「情報としての臭い」が書き加えられたのではないかという気もしてくる。
言語ではもっとも伝えにくいと思われる臭いさえも言葉に規定されている、と実感させられる次第だ。

もしかして、硫化水素で自殺する人の中には、その死を迎えるとき、薄れてゆく意識の中でこう思う人もいるのではないか。
「……これが……卵が腐った臭いだったのか……」
嫌だな。
この自殺ブームを抑止するためにもこうアピールするのはどうか。
「卵が腐った臭いを肺いっぱいに吸い込んで死にたいですか?」

久しぶりのブログ更新の枕話と思って書き始めたら長くなってしまった。
本題はまた改めて書くことにしよう。

そういうことか!

ブログの更新が間遠になっている。
「十年の土産」が終わって放心していたわけでは無論なく(そんな暇はない)、せっせと新作の準備をしていた。というと言い過ぎ。地道にシナリオを書いている。
マッドハウスの新人歓迎を兼ねた花見やら飲み会、Hくんの結婚パーティやら飲む機会は相変わらず多い。「多くしたい」という欲求による面が大きいとは思うが。

うちの制作班にも新人が配属された。
偏屈な監督の少々風変わりなスタッフルームゆえ、これまで多くの新人が顔と名前も覚えるほどの間もなく離脱していった。顔と名前を覚えても脱落した人もいるが(笑)
中にはこんなひともいた。
「是非今監督の仕事をしたかった!」
彼は三ヶ月ほどでやめた。
さらには上がいる。
「是非今監督と仕事をしたい!」
入る前にやめた(笑)
『若者はなぜ3年で辞めるのか?』という本が売れたそうだが、3年も保つなんて羨ましい限りである。劇場映画一本の制作期間はせいぜい2年だから、仕事を教える方としても「見返り」は期待できる。
新人は何も出来ない。だからあれこれ教える必要があるのだが、仕事を覚える前に辞めるので、教えた方としてはその時間がまったくの無駄になる。
辞める方が自分の都合で時間を無駄にするのは勝手だが、こちらの時間をただ泥棒して行くのは甚だ迷惑である。どうせ、そんな相手の都合や事情を考える思考の習慣など持ち合わせない人たちなんだろうけど。さすが「オレ様」世代。
そうした「先人たちの業績」によって、後から来る人たちだって迷惑を被ることも十分あるのだが、きっと「オレ様」たちは「知ったこっちゃない」なのであろう。
私なんかは新人たちを見ればすぐにこう思うようになった。
「いつまでいることやら」
辞めるかもしれない人を相手に親切に教えるのは、「泥棒に追銭」という気がしてくるが、私はなるべくこう思うことにしている。
「しょうがない」
新人には頑張って欲しいものである。
世の新人たちのために44歳のアニメーション監督から一言アドバイスをしておく。
「仕事とは他人の都合でするものである」
「オレ様」の出番はいつか来るかもしれないが、それまでは押し入れの奥深くにしまっておく方がきっと精神衛生上にもよろしかろう。

さて、新人の話から一足飛びに中年の話になる。
以前、このブログで「40の坂」について書いた。
http://konstone.s-kon.net/modu……chives/123
以前から、なぜそれまで「上手といわれた人」たちが、急速に能力を低下させるのか(実際に低下することもあるが、成長がなくなった分、相対的に低下して見えることが多いということ)たいへん不思議に思っていたのだが、そのことについて実に適切な解説の一つを目にした。
「内田樹の研究室」4月7日のブログ、「原則的であることについて」である。
http://blog.tatsuru.com/2008/0……7_1315.php
長いが引用する。

【「ブレークスルー」は「向上心」とは次元が違う。
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなるというのが「ブレークスルー」である。
ところが、「原則的な人」はこのような経験を受け容れることができない。
自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち、罵倒し、冷酷に断罪することにはずいぶん熱心だが、その強権的な原則そのもの妥当性については検証しようとしない。
原則の妥当性を検証する次元があるのではないかということに思い及ばないのである。
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである。
そのようにして「原則的な人」はしばしば全力を尽くして自分自身を「幼児」段階に釘付けにしてしまう。】

さすが内田先生! そうですそうです! 私が言いたかったことはまさにそれです(多分)。
「全力を尽くして自分自身を「幼児」段階に釘付け」の何と多いことか。
身の回りにそのサンプルを見出すのはまったくもってたやすいし、自分もその落とし穴にはまらぬよう心がけなくてはならないと思うことしきり。
さらにこう続く。

【「原則的に生きる人」はある段階までは順調に自己教化・自己啓発的であるが、ある段階を過ぎると必ず自閉的になる。
そして、どうしてそうなるのか、その理路が本人にはわからない。
これだけ努力して、これだけ知識や技能を身につけ、これだけ禁欲的に自己制御しているのに、どうして成長が止まってしまったのか。それがわからない。だから、ますます努力し、ますます多くの知識や技能を身につけ、ますます自己制御の度合いを強めてゆく。
そして、知識があり、技能があり、言うことがつねに理路整然とした「幼児」が出来上がる。
若い頃にはなかなか練れた人だったのだが、中年過ぎになると、手の付けられないほど狭量な人になったという事例を私たちは山のように知っている。】

いやぁ、まったく仰るとおり。まさに「私たちは山のように知っている」(笑)
そして、将来そういう人の仲間入りをしないために、ここから以下は是非、中年にさしかかる前の若者や、いずれは中年になる新人たちにも肝に銘じて欲しいところ。

【彼らは怠慢ゆえにそうなったのではなく、青年期の努力の仕方をひたすら延長することによってそうなったのである。
これを周囲の人の忠告や提言によって改めることはほとんど絶望的に困難である。
本人が自覚するということも期しがたい。】

「青年期の努力の仕方をひたすら延長することによってそうなった」である。いつでも本人なりの努力を積み重ねている。にもかかわらず成長は止まり、それが全力で「幼児」にとどまることにつながる、と。
『ブリキの太鼓』じゃないんだから(笑)
努力の仕方は本人の成長と共に「シフトチェンジ」が必要なのは、多少の想像力さえあれば分かることだろう。
受験や学校のテストで良い点を獲得する方法と、仕事場でノウハウを身につけるやり方が同じでないことくらい経験しているはず。
学生さんならば、小学校と高校で学習の仕方が異なるくらいは想像は可能だろう(もっとも、小学校も高校も良い成績を収めるための方法に実は変わりはないのだが、それは社会に出てみなければ分からない)。
同じ落とし穴にはまらないことを期待する。

一方、すでに「そうなってしまった人」たちに対して、我々はどういう対処をすればいいのか。
やはり、さすが内田先生である。
このような態度をご披露くださっている。

【そういう人を見たら、私は静かに肩をすくめて立ち去ることにしている。
けれども、たまに相手をすることもある(なにしろ無原則だから)。】

見習おうっと。

記録格差

先日このNOTEBOOK「年末年始・その7」に、正月3日に友人一家が来宅され楽しい一時を過ごした、ということを記した。
そのことについて、当の友人からこんなメールをもらった。

「素晴らしい友人一家と可愛い娘さんを
ハートフルに描いてくれてありがとうございます。
いや、ほんと。
あれは将来、娘も喜ぶね。」

描写がハートフルだったかどうかについて自信はないが、それより注目したのはここだ。
「将来、娘も喜ぶ」
将来?
自分に子どもがいないせいもあるだろうが、恥ずかしながらブログなどをそういうタイムスケールで考えたことがなかった。
もちろん、当ウェブサイトも開設からすでに10年が経過しており、自分で過去の文章を読み返すこともある。自分が監督したアニメーションを見ると胸が痛くなることしきりだが、文章はなぜか他人事のように読めるのが不思議。しかも、読んで面白い(笑)
「そうそうそうそう、そうだよね」
昔の自分の言ってることに共感してしまうのは、当然というべきか進歩がないというべきか。
34歳からの10年間、私にも小さくない変化は勿論多々あるし多少の進歩も実感できるが、30過ぎの人間が10年間で経験する価値観の変化は、コンピュータのOSにたとえればバージョンアップといったところだろう。おそらく今後10年、20年の変化にしても、OSが根底から書き換えられるといったことは考えにくい。
おそらく、生きていれば20年後も現在の私が書いたテキストを読み返しながら、こう思っているに違いない。
「まだまだ若いが、けっこういいことも言っておるのう」
未来においてこのウェブサイトに記されている内容は、それなりに財産になっていると思われる。それが昔を懐かしむためであれ、過去を知り未来に繋げるためであれ、糧になってくれると思いたい。
ま、ただの無駄話であっても全然かまわないが。
書いているいまが楽しいだけで十分以上のお釣りが来るというもの。

だが、誕生から10年、20年といったひどく劇的な変化を迎える人たちにとって、現在記録され続ける多くのブログやウェブサイト、そこに含まれる画像などは別の意義をもたらすように思える。
生まれたときからインターネットやブログ、携帯電話やデジタルカメラ、デジタル映像やハイビジョンなどなどが揃っている人たちに、それらが将来的にどういう影響を与えるのか。それは成長期の劇的な変化と同じくらいに予断を許さないもののように思える。
大きな影響の一つは自分の成長の記録を垣間見る機会が増えることであろう。
「あれは将来、娘も喜ぶね。」
まさにこの言葉に要約されている。
先に引用したメールに対して、私はこのような内容を返信した。

「食い意地の張ったブログと化しているが、たしかにどんなブログであれ「将来」という意義は少なくないのかもね。ブログが流行し始めてからまだ数年というところだろうけど、生まれたばかりの子どもが文字を読んで理解できる年頃になるくらいの年月が経てば、ブログの効果もまた変わってくるだろう。
我々が自分の子ども時代を思い起こすには写真くらいしかないけど、これから大きくなる人たちは、劣化のないデジタルの写真画像や映像、ブログなどのテキストなど色々な形で成長過程の断片を垣間見ることが出来る。
それが人格形成に与える影響は小さくないだろうが、少なくとも悪いことじゃないだろう。
記録を残してもらえなかった人は、そうでない人との比較で思うところはあるだろうけど。
まぁ、我々世代でも家が金持ちでハイカラだったら、8ミリの映像が残っているわけだし、格差はいつもあるわな。
しかし、これから出てくるんじゃないか。
「記録格差」
数年後には教育現場で問題になったりして。」

メールにもあるように、私が自分の子ども時代を客観的に振り返るためには、写真だけがよすがである。それらも色彩の劣化が著しいし、ごく子どもの頃は白黒写真だったりする。
たとえばこんな。

2yearsld

これは私が2歳の時の写真である。じき2歳になる、というくらいか。
昭和40年、札幌の中島公園内で撮影されたものらしい。
他に手元に残されている写真の数はわずかなもので、ましてやビデオなどの映像記録手段は無かったし、8ミリカメラなどは金持ちの物と決まっていた。子ども時代の自分の動く映像を見ることは出来ない。
自分が不能な赤子だったときの映像、両親に抱かれている映像などをいま見たらどんな風に思うのだろう。
さて、私が何気なく思いついた記録格差という考え方に対して、先方よりこんな返信があった。

「確かに我々世代でも写真の数の差だのなんだの
あったけれどもその比じゃないね。
しかも、誰もが動画の成長記録を持っている時代、
今は貧富の差よりも親の資質というか
やる気の差が記録格差の大きな要因になっていると思う。」

確かにあった。写真の数の差。
特に兄弟姉妹がお有りで、第2子以降に誕生された方はよく実感できるのではないかと思われる。
「兄ちゃん(姉ちゃん)に比べてどうして自分の写真は少ないのだろう」
うちもそうだった気がする。
だからといって私は別にいじけた覚えはないが、現在ほど記録媒体の種類が増え、記録される量も膨大になってくると、そこに生まれる格差は子どもをいじけさせるには十分なほどではないかとも思える。
量的な変化は質的な変化をもたらすものだ。
すでに家庭用ビデオカメラが普及して20年近く経っているのだから、そうした格差はすでに生まれているのかもしれない。どうなんだろう?
「今は貧富の差よりも親の資質というかやる気の差が記録格差の大きな要因」
なるほど。子を持つ親である彼の指摘は鋭いと思う。
貧乏で8ミリは買えなかった、という話ではない。誰でもが動画記録の媒体を使い得るし、デジタルカメラなら携帯電話にさえ付いている。現像・プリントの手間がかからないデジタルカメラは枚数を気にせずいくらでも撮っておけるだろう。
ということは、成長記録は「あって当然」ということになってくるのではないか。
もし記録があまり残されていない場合、子どもに感心がなかった親と判断される可能性は高い。無論、記録の量が親の愛情に比例するとは限らないが、世の大半はそうは思うまい。
ある子どもが、もしその成長記録があまり残されていなかった場合、どう思うかは想像に難くないだろう。

多くの成長記録を持つことが本当に重要なことかどうか、よく分からない。
私は「人格形成に与える影響は小さくないだろうが、少なくとも悪いことじゃないだろう」と安直なことを記しているが、自分の記憶の他に客観的な膨大な「記憶」を持つことが果たして本当に好影響だけなのかどうか、私にはうまく想像できない。
だって持ったことがないんだもん(笑)
しかしたとえば、反抗期で荒れた感情の時も、過去の記録映像や画像がその一服の抑制剤になることも考えられる。
「私は大事にされていたのだな」
そう思える物的証拠、というか外部記憶を持つ人とそうでない人では、たとえば反抗期のあれ方が抑制されるかどうか、極論すれば犯罪につながるかどうかという面などもで差が生まれるのではないか。
いまでは下火になっているのかもしれないが、若い人の間でプリクラが流行していた。友達同士である、という小さな記録がびっしりと敷き詰められたノートや手帳などを目にしたことがある。
あれは、のべつ幕なしに打ち続ける携帯メールやところかまわず喋り続ける携帯電話と同じで「トモダチとつながっている」という確認のための、ともすると強迫神経症みたいな印象も受けるが、自分の過去とのつながりだって重要にならないとは限らない。
そうした影響を考えることは非常に興味深いことだが、「あって当然」という世の中になったときの持たざる人が受ける影響が気にかかる。
何せ現代は「格差」ブームである。
収入の格差は教育の格差によって固定されて行くということで、「格差は遺伝する」とまで言われるほどだ。(将来読み返すかもしれない年寄りの私に向かって補足している。平成19〜20年はそういう時代だったのです、今老人よ)
記録の格差はそういう意味で教育の格差に似ているかもしれない。
親が社会的に成功を収めている場合、その多くは教育の重要性を知っているということになる。下世話に言えば勉強が出来たから自分はそれなりの暮らしが出来るようになった、だから勉強することは大事である。よって子どもの教育にもそれだけのリソースを投じられる。その子どもはおかげで学業優秀となって、高い収入を得られるポジションを獲得できる。
貧乏人の方は、子どもの教育に投じられるリソースでかなわないことも大きな問題かもしれないが、より大きな問題は教育や学習の重要性そのものを認識していないケースだろう。
それが「貧富の差よりも親の資質というかやる気の差が記録格差の大きな要因」という指摘に重なってくるように思える。
教育の格差が経済的な格差の固定につながるように、親の「やる気の差」が「記録格差」につながる。記録の量がもしも人格の豊かさにつながるとしたら、「人格格差」みたいなことも生まれうるのかもしれない。
そんなものは生まれないことを願いたいが、私はなんだか低周波のように影響してくるのではないかという気もする。
ここでさらに一枚の写真を紹介する。
先の写真から40年経ったこんな姿だ。

42yearsold

これは一昨年、2006年のヴェネチア映画祭に行った折、サンマルコ広場で撮影されたものである。じき42歳になるという頃だから、先の写真からちょうど40年後である。
何を食って私はこんなにでかくなったのだろう。
さて、先の写真と合わせてこれら2枚の写真を「原画」と考えると、この間には40年分の中割りが「動画」として入ることになるが、その記録=動画は最初から存在しないか、あるいは大半が失われているわけで、つまりは貧相な数の動画しか入らないことになる。
アニメーションにおける動きの豊かさは、動画枚数の豊かさに比例する傾向にあることを考えると、やはり間をつなぐための記録は豊かであった方がそうでない場合より、何かいいような気がしてくる。
やはり記録格差が人格格差につながるように思えてくる。

ドカンッドドドドバンッバンッグアッ!!

先日、DVDで『ダイ・ハード4.0』を見た。
ヒット作には縁がない方だが、ドカンドカンした映画を見たい気分だったのである。
内容はまさにドカンドカンで表題通りの映画。大笑いできてたいへん楽しめた。
TVの予告を見た限りでは『ダイ・ハード』というより、シュワルツェネッガーの『トゥルーライズ』みたいだと思っていたのだが、まったくその通りだった(笑)
もっとも、シュワルツェネッガーに比べると、ブルース・ウィリスの外見やキャラクター設定がしょぼくれている分だけ、アクションに冗談が生まれる。
ファンタジーとしての落差で言えばこちらの方が遙かに大きい。

その昔、ある人から聞いた『ダイ・ハード』に相応しい邦題はこうだった。
『死ぬのはつらいよ』
秀逸だ。
『4.0』にまで達すると、ダイ・ハード=なかなか死なない、というより、絶対死なないというお約束による「ジョン・マクレーン祭り」みたいで、それはそれとして見せ場が敷き詰められていて飽きない映画であった。
まぁ、『2』も『3』も同じようなものだが、『4.0』はハイテクやメディアへの警戒感、世代の対比といった共感を得られやすい要素が配慮され、より安定した娯楽になっているように思える。アクションの面白さはいうまでもない。

今回の「敵」は「オッサンには分からない言葉を操る若者世代」というようなイメージだろうか。
アナログのオッサン世代から見た「デジタルを駆使する若者世代」の特徴がくっきりと表れているのが笑えるほどいい。
悪玉の若いやつらなんてほとんど非人間的な、サイボーグとかアンドロイド的な扱いじゃないのか。瞬きしないし。
「人間じゃない」という扱いならブッ殺しても気は引けないということなのか。何しろ「敵」が必要である人たちには、いい解釈かもしれない。
デジタルで情報を操られたり、至るところでカメラに監視されたりしているような現状に不快を覚えている人は多いだろうし、だから素直にアナログ側に共感できる、という構図であろう。
キャラクターの魅力だけではなく、そうした背景を織り込むのは基本的な作劇に忠実な作りで、近頃流行りの日本映画の多くに感じられない部分ではないか。
「鞘に収まった」映画ばかりに見受けられる。

引き起こされる犯罪の規模に比べて、その動機が希薄なのも現代風といえようか。一応、巨大な金が絡んでいるが、どちらかというと「自尊心を傷つけられた」という理由の方が大きいあたりが当世風。
うん、何よりボクちゃんが大事な世の中だ。
アメリカもそういうことになっているのか。
「ハイテクを駆使する若者世代」、その代表の一方が「オタク」で、これは主人公の味方側になる。
何だかんだ言ってもこちらの方がオッサン世代からはまだ近いというか、コミュニケーション出来る、ということになっているのが笑えた。「オタク」の株が上向いているのは海の向こうでも見られる傾向なのだろうか。
幅広い世代に受けようということかもしれないが、娯楽大作としては大事なサービスだ。
しかし何と言ってもサービスはアクションシーンであろうし、過ぎるほどに用意されている。アクションシーンの多くはあまりに荒唐無稽だが、荒唐無稽のレベルを一段ずつ上げていってくれるので白けることもない。
ジェット戦闘機まで登場するあたりはもうアクションギャグ。
合成技術の進歩に驚きつつ笑えた。
しかしあの戦闘機、すごいな。F35というそうだが、ホントにあんな動きが出来るのか。
人殺しのための知恵には事欠かない国だよ、まったく。
でもアクションで一番面白かったのは、軽業師みたいな敵が襲い掛かるところだった。アニメもびっくりのアクロバット。
どうやって撮るのか素直に不思議だが、アクションのバリエーションを考え出す、アイディアのタフさみたいなものに素直に感心してしまった。

劇中、ジョン・マクレーンが口にする「ワシントンD.Cへ犯人を護送するだけだったのに」という泣き言は、映画『16ブロック』のセルフパロディだそう。こちらの映画もコンパクトに面白く出来ているので、これから『ダイ・ハード4.0』をご覧になる方は先に『16ブロック』を予習しておくのもいいかもしれない。
見る順番が逆にすると、荒唐無稽のレベルが下がって物足りなさを覚えるだろうから、両方見たい方は順番を間違えないように。

追記
『ダイ・ハード4.0』が面白かったので、『ダイ・ハード』シリーズを買ってみた。
1から3の本篇と特典ディスクを含む「トリロジーパック」。たったの¥3490。
1作目は既に持っているが、あまりに安いので気にせず購入。昔、1作目を買ったときはこのトリロジーパックよりも高かったのに(笑)
DVDも安くなったものだ。
早速1本目を見返してみた。
今年ロスに行った際、1作目の舞台となった「フォックス・プラザ」(劇中では「ナカトミ・ビル」)を間近に見上げたこともあって、余計に楽しめた。
銃をバンバン撃ちまくったり、ドカンドカン爆発する映画もいいわね、やっぱし。
こういう映画を見たときに言うのか。
「元気を分けてもらった」

『トゥモロー・ワールド』

昨日、久しぶりに映画を見た。といってもDVDで、だが。
映画館なんぞ、仕事以外ではもう何年も行ってない。
DVDを見るのも今月初めて。今年も全然映画を見ていない。

以前ポッドキャスト「町山智浩のアメリカ映画特電」で紹介されて以来、見たいと思っていた『トゥモロー・ワールド(Children of Men)』(アルフォンソ・キュアロン監督/2006イギリス・アメリカ映画)をやっと見た。
DVDショップで探していたのだが、たまたま入った「BOOK・OFF」で中古のDVDを手に入れた。売ってくれた人、ありがとう。
映画は非常に面白かった。というより「すごい」といった方が適切か。
ウィキペディアから引用すると、
「子供が生まれなくなった西暦2027年の英国を舞台に、シリアスでショッキングなサイエンスフィクションとして、紛争・少子化・宗教対立・テロ・人種問題などを一人の男の視点から描く」
という内容。
「興行的には苦戦したが、その映像は革新的・衝撃的で、カルト的人気」とのこと。なるほどその通りであろうと思われる。
この映画の顕著な特徴である、長回しの1カットの威力が「すごさ」に直結している。
「映画冒頭の爆破テロシーン(約51秒)」「乗用車襲撃シーン(約4分07秒)」「終盤の戦闘シーン(約6分16秒)」。
いずれも1カットという緊張感がたまらない。約4分07秒という「乗用車襲撃シーン」はシーンの情感の落差を上手く利用していて、長回しの効果が倍増している。
何よりクライマックス近くの約6分16秒という戦闘シーンが驚異的。撃たれて死ぬ人間のあっけなさや着弾の臨場感がすばらしい。カメラに血が飛び散っているのも悪くない。
1カットの長回しとは言っても、CGによる合成も多いようだが、基本的に長時間1カットで撮影したものをベースにしているようで、驚異的であることに間違いない。
長回しだけでなく、撮影は基本的な画面も素晴らしく、彩度を抑えた色調が大変美しい。画面を見ているだけで心地よい。
抑制の利いた温度の低い画面も緊張感の演出に大きく貢献している。
映画を見ていて緊張感を味わったのは久しぶりである。
いいものを見せてもらった。眼福眼福。

話も面白いと思うが、娯楽映画の過剰な親切をお好みの方には向かない作りかもしれない。そこが「興行的には苦戦」に繫がるのだろうか。現代が抱える諸問題が圧縮されて提示されるので、目を背けたい人も多いであろう。
だからいい映画だと思うのだが。
これといった強い意志を感じない主人公もまた娯楽をお好みの方には頼りなく見えるのだろう。だからいいんだけど。
ハリウッド的予定調和的展開が少なく、くどい説明がないので展開が読めないのもまたいい。重要な人物はあっけなく消えるし、脇役の一人もあっさり消えてしまってフォローはない。そこがまた妙に現実的な感じもする。非常時において人が消えて行くのはそんな呆気ないことなのかもしれない。
ラストシーンについて書くとネタバレになるかもしれないので控えておくが、特典映像に収録されているスラヴォイ・ジジェクのラストシーンに対するコメントがいいので、DVDで見られる方は特典映像も是非ご覧いただきたい。

しかしまぁ、売るためとはいえ、DVDパッケージ裏の文章が笑わせてくれる。
「人類の未来を変える攻防! 近未来SFアクション巨篇!!」
全然違うって(笑)
このDVDを「BOOK・OFF」に売った人は、このコピーみたいな映画を見たかったのだろうか。だったら気の毒である。