
この写真は関西方面から東京に帰る新幹線の車内から、携帯電話のカメラで富士山を狙ったものだ。
シャッターを押した瞬間に障害物(変電施設か何か)が手前にINしてしまったのだが、見事に歪んでいる。
別にフォトショップで加工したわけではない。
シャッターが上から下りてくる間に、手前が大きく移動したせいでこのように斜めに歪む、ということなんだろう。
不勉強なことにこんな現象が起きるとは私は全然知らなかった。
それにしても不思議な光景だ。
他にもこんな。



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この写真は関西方面から東京に帰る新幹線の車内から、携帯電話のカメラで富士山を狙ったものだ。
シャッターを押した瞬間に障害物(変電施設か何か)が手前にINしてしまったのだが、見事に歪んでいる。
別にフォトショップで加工したわけではない。
シャッターが上から下りてくる間に、手前が大きく移動したせいでこのように斜めに歪む、ということなんだろう。
不勉強なことにこんな現象が起きるとは私は全然知らなかった。
それにしても不思議な光景だ。
他にもこんな。


「なぜミスプリントは、プリントアウトしなければ見つけられないのか?」
そんな見出しに興味が湧く人も多かろう。
パソコンで文章を書いて、モニタ上で何度も何度も確認したにもかかわらず、プリントアウトして再読すると誤字や脱字、誤変換などが発見される。
「あれ!? 何で気が付かなかったんだろう!? オレのバカバカ」
データを修正してもう一度プリントする。
「これで大丈夫……じゃないや(泣)」
かくしてさらにデータを修正して……。ああ、紙が勿体ない。
そんな経験は私だけの間抜けさによるわけではないはずだ。
発見してみると、大きな間違いに気がつかなかったのか以外に思える。
まさにこういうエラー。意外だ。
私の場合は、文章に限らず版権もののイラストなどでもそうした事態が頻繁に起こる。
「ありゃ? こんなところにゴミが」
「しまった、素材がバレてた」
「あ、ソバカス描くの忘れてた」
などなど。
なぜそうしたことが起こるのか、これをマクルーハンのメディア理論で説明できるらしい。
私は不勉強なことにマクルーハンを読んだこともなく、せいぜいがメディア理論の人で、「グローバル・ヴィレッジ」という概念を提唱したくらいしか知らない。
P-model「Welcome」の♪ウェルカム・トゥ・ザ・グローバル・ヴィレッジの「グローバル・ヴィレッジ」。
読みたいと思いつつ早数年。お恥ずかしい限りだが、いま読んでいた本にマクルーハンの理論などが紹介されていて、冒頭に引用した見出しもその本の一節。
『有馬哲夫教授の早大講義録 世界のしくみが見える「メディア論」』
有馬哲夫・著/宝島新書
著者は早稲田大学社会学部・大学院教授で、帯には「名物教授の人気講義録」とあり、「メディアが作る「孤独な分衆」」と大書されている。
「現代社会をメディア理論で読み解く
大人のための、新書版教養講座」
確かにその通り。それぞれのメディアの特徴と受け取る側への影響が分かりやすく解説してある。人気講義であるのも頷ける。
この前に読んでいたやはり宝島新書で、同じタイプのこの本も興味深く読んだ。
『橋敏夫教授の早大講義録 ホラー小説でめぐる「現代文学論」』
橋敏夫・著/宝島新書
こちらも早稲田大学の文学部・大学院教授。
いずれも、こんな講義なら聞いてみたいと思わせる。
いや、自分が大学で受けていた講義も、いまその内容に接すれば同様の感想を持つのかもしれない。切実に学びの必要を実感するには、ある程度以上の経験や知識の蓄積、つまりは学びを経ねばならないのだろう。
学びを経なければ、学びの必要性を認識できない。
転倒している構図だ。
学びの重要性を獲得するには、その重要性を知らない段階でまず学ばねばならない、ということになっている。
引用ばかりになるが、先日読んだ『学校のモンスター』(諏訪哲二/中公新書ラクレ)にはこうあった。
「授業を聞いて学ぶ、つまり、「知」を子どもが受け入れなければならない必然性を理解するには、宇宙や世界や人類や歴史をすでに知っていなければならない。それは「知」の習得が終了したときに、もしかしたら可能になるかもしれない難事である。子ども(ひと)は何も知らない段階で学び始めなければならない」
まったくもってその通り。
諏訪哲二さんの本は『オレ様化する子どもたち』を始め、どれも興味深く示唆に富んでいるが、この本も「ドッグイヤー」だらけになってしまった。
仕事場や学校などで触れる若い世代とのギャップの本質がスラスラと分かるような気がした。分かっただけでどう対処して行くかはまだ全然分からないが。
話が横にばかりスライドしている。
さて、冒頭の「なぜミスプリントは、プリントアウトしなければ見つけられないのか?」
この疑問は「マクルーハンのメディア理論のなかの「反射光と透過光」という概念で説明でき」るのだそうだ。
「紙に印刷して読むとき─つまり、反射光で文字を読むとき、私たちの受容モードは自動的に、そして脳生理学的に「分析モード」になり、心理的モードは「批判モード」に切り替わる。したがって、ミスプリントを見つけやすい。」
ははぁ……私の盆暗頭のせいだけではなかったのだ。
一方、透過光とはテレビとかパソコンのモニタのように、発せられる光線が直接映像として網膜に入ってくるもの。
「この場合、私たちの認識モードは、自動的にパターン認識モード、くつろぎモードに切り替わります。」
映画とテレビの違いだ。映画はスクリーンに投影された光の反射光を映像として捉え、テレビはモニタから発する光を直接映像として見ている。
映画を見るときは「分析的」「批判的」なモードになり、テレビを見るときは「パターン認識的」「くつろぎ」モードになるらしい。
道理でテレビの前に長くいると知性が低下しやすいわけだ。くつろぐどころではあるまい。テレビは常にこういうメッセージを流しているように思える。
「馬鹿になれ」
アントニオ猪木の詩集にそんなタイトルがあったっけ。
「パターン認識的」というのは、分析的態度の対極にあって「細かい部分は多少無視して、全体的なパターンや流れを追うような読み取り方」。
興味深い実験が紹介されている。
同じ映画を通常の反射光で上映して見せる集団と、リアプロジェクションで見せる集団に分ける。リアプロジェクションは半透明のスクリーンの背後から映写する方法でつまりはテレビ的な環境になる。
これら二つの集団がどういう反応の違いを見せるのか。
「反射光グループは映画の内容を理性的に分析し、批判する傾向を見せ、これに対して、透過光グループは映画の内容を情緒的に捉え、その内容が好きか嫌いかということ問題にすることが多かったというのです。」
ははぁ……。あり得るような気がする。
テレビの前の人は往々にして次のような超シンプルな反応をするように思える。
「この人超好きぃ、こいつうざい」
「うざい」も今や広辞苑の殿堂入りの日本語になったらしいが、これもメディアの影響が何より大きかろう。
やはり同書で紹介されていた「米良美案の法則」によると……すごい、もののけ的変換だな(笑)
もとい。「メラビアンの法則」によると、人は話している人間のどこに注意を払っているかというと、こういうことになるらしい。
「人は顔の表情に五五パーセント、話し方に三八パーセント注意を向けるのに対し、言葉そのものには七パーセントしか注意を向けていない」
要するに話し方を見ているのであって、ろくに人の話なんか聞いちゃいない、と。
だからテレビ芸人たちの話している内容なんてどうでもいいのであろうし、その見かけや雰囲気が何より視聴対象になるのであろう。
マクルーハンは見事に言い当てていたそうである。
「テレビに向いているのは変人と田舎ものだ」
つまり「バランスのとれた常識人より、癖のあるキャラクターの持ち主」の方がテレビ受けがいい、と。
一国の首相の支持だって同様である。かつて人気の「変人」に投票した人は、そのもたらした結果について少しは考えたって罰は当たらないと思うが、どうか。
先の実験結果が普遍的なら、自宅で映画をDVDで見る場合でも、モニタで見るのとプロジェクタで見るのでは受け取り方に大きく差がある、ということになる。
たまたま先般、『パプリカ』をブルーレイで液晶モニタ、プロジェクタそれぞれで視聴する機会があったが、その違いは実感しなかったものの、プロジェクタに好ましさを感じた。まぁ、画質の好みが大きいのだろうが。
アニメーションを劇場用に作るかテレビ用に作るかにあたって、「透過光と反射光」という違いを考えたことはないが、画面の作り込みの密度の差は結果的にそうした効果に繫がっているのかもしれない。スケジュールに余裕がある分、単純に劇場用の方が画面の密度は高くなるし、構図に込められる意味合いだって格段に高くなる。
劇場用といっても最終的にはDVDでの発売が売り上げの主力になっているわけだし、ブルーレイなどのハイビジョンへの対策と合わせて、次の映画制作ではあれこれ考えてみよう。
ともかく、人は反射光に対しては「分析的」になり、透過光に対しては「パターン認識的」になる。
だから、モニタ上でエラーを発見しづらいということらしい。
じゃあ、私の拙いテキストが誤字脱字誤変換に彩られていてもしょうがない(笑)
版権イラストなどは、データを納品する前に必ずプリントアウトして確認しているが、テキストは趣味にしろ仕事にしろ一々出力はしない。
しょうがないじゃすまないから、せめて仕事で書く文章はこれからプリントアウトして確認するようにしよう。
「透過光と反射光」の違いだけでなく、以前からデータを出力して、一度「物体」とした方が客観的になれるような気はしていた。写真だって、モニタで見るよりプリントアウトした方が重みやありがたみがある。
チェック用のためだけに紙を無駄にしたくはないが、しかしやはり違う意味でも紙は大事なのである。
ふと、思い出した。
アニメーション制作現場にデジタルが急速に普及しつつあった頃。
酒席を共にしていたある制作会社の社長とアニメーターの知り合いが、来るべきデジタル時代を意気軒昂に語っていた。
「これからはもう紙なんて無くなるんだよ!今さん」
「そう!ペーパーレスなの、アニメも!」
わしゃ、「うん」とは言わんかった。
掲示板「KONTACT BOARD 2」に寄せられたご質問に対してテキストを書いていたら、掲示板に書き込むには少々ボリュームが肥大してしまったので、「NOTEBOOK」の一編として乗せることにしました。
まずはその書き込みからご紹介します。
はじめまして、柚南さん。
これはまた厄介な質問をされてしまいました。
柚南さんは、私という絵描きをたいへん高く評価してくれているようですが、私は「森羅万象なんでもリアリティを持って描ける人」でも何でもなく、森羅万象のうちからリアリティをもって描けそうな対象だけを選んで描いているに過ぎません。
剣豪・宮本武蔵の究極の極意は「勝てそうな相手と戦う」という、実に優れた戦略眼にあった、と何かで読んだことがありますが、要するにそういうことです。
「描けそうにないものに手を出さない」
金言です。
が。絵の仕事を目指している若い人や、すでに絵を仕事にしているけれど若い人はこの言葉を鵜呑みにしてはいけません。なぜなら、経験の浅いうちは何が描けそうにないかも分からないはずですし(第一、どんなものだって描きこなせないでしょうし)、描けるものを増やすことに腐心した方が良いと思います。
少なくとも私が「描けそうにないものに手を出さない」という言葉に辿り着くにはここでは紹介できないほどの紆余曲折艱難辛苦がありましたし、少なくない経験とひねくり回した思考に裏打ちされてはおります。
それまでに描いたこともなければ、一見描けそうにもないものを描かねばならないという局面はたくさんあったように思います。そういう時こそ、問題をいかに分解して解決するかを学ぶいい機会でした。もっとも、上手くいくことばかりではありませんでしたが。
また「スエ」さんがちらほら見かけたという噂、「やたら早く描き上げちゃう」というのも自分ではよく分からないです。描いている内容や結果に比すれば決して手が遅いとは思いませんが。
ただ、手が早いかどうかはともかく、判断は早い方だと思います。絵を描いていて、あまり迷ったり考え込んだりはしないです。私の仕事を支えてくれている心強いパートナーは次のような楽観です。
「まぁ、なんとかなるだろう」
が。絵の仕事を目指している若い人や、すでに絵を仕事にしているけれど若い人はこの言葉を鵜呑みにしてはいけません……以下同様にあれこれ。
ともかく。さしたる画力も持たない私にはあまりに難しい問題を差し出されてしまいましたが、この「まぁ、なんとかなるだろう」という精神のもとに私が思うところを書いてみようと思います。
しかし大真面目にかつ緻密に考え始めると、膨大なテキストになりそうなのであまり詳しくは書けそうにありません。疎漏な考えになるかと思いますが、御了承下さい。
まず結論めいたことを言いますが、柚南さんがインターネットでよく見かける「誰がいちばん画が上手いか?」という議論が、私にはあまり意味がないように思えます。
意味がない、というのはそこで導き出される結果(そういうものがあるとしての話ですが)にはあまり意味がない、ということであって、「議論自体を楽しむ」という点には参加者にとって大いに意味があるでしょうから、それを否定するつもりはありません。だいたい他人との会話は結果が大事なのではなくて、経過そのものを楽しむものでしょう。大きく個性が違うもの、比較できないようなものを無理に比較して優劣を決めることに意味を感じない、という意味です。
たとえば、「ピカソとダ・ヴィンチ、どっちが上手い?」とか「作画監督と美術監督を比べてどちらが絵が上手い?」なんて問い自体が馬鹿げているじゃないですか。
「ギターとドラムはどちらが上手い?」
「パスタとうどん、どちらが美味い?」
極端にいえばそういうことじゃないでしょうか。
そうした議論(というには高尚すぎる気もしますが)は、要するに「誰が好きか」という、好みの問題に集約されると思います。
「パスタよりうどんが好き」というようなことなら話は分かります。
ちなみに私はパスタもうどんも好きです。本場香川県で食べた讃岐うどんはとても美味でした。イタリアには残念ながらまだ行ったことがないので本場のパスタを食したことはありませんが、アルデンテで食べるパスタは美味しいものです。柔らかい麺ほど許せないものはないです、私は。だいたい麺類が好きですね。ラーメンもいいが、蕎麦はもっといい。冬の季節は鴨せいろが一層美味しくて、吉祥寺東急の「まつや」の鴨せいろは……おっと。
阿佐ヶ谷から荻窪に仕事場が移ってからというもの、あまり美味しいものを口に出来ないので、ついつい食べ物のことが頭をよぎってしまいます。まったくどうして荻窪には美味しいものが少ないのだろう。
そんなエセグルメの話と同様、テレビを筆頭にメディアの多くは、比べられもしないものを無理矢理比べて優劣ごときものを決めたがるようなので、世間一般にもそうした態度が当たり前でもあるかのように刷り込まれてしまっているのかもしれません。
あるいは話が逆で、比べられないものでも優劣を誰かに決めてもらわないと困る人が多いので、それがメディアに反映しているということかもしれません。
こうした傾向は冗談じゃないのかもしれない。
「いまは何を見ておくのが世間的に正しいのか」
アホみたいな本や映画が爆発的に売れてアホみたいに一極化する背景には、こうしたアホみたいな考え方が刷り込まれているのかもしれません。要するに、流行っているものを見ておけば間違いない、という傾向はいつの世も支配的な傾向なのでしょうけど。さらに。
「見たものにどう反応するのが正しいのか」
感じ方まで誰かに設定してもらわないと困る人も多いようです。情報社会なんて言われて久しいですが、世論を操作するのは簡単な世の中に思えます。実際、そういう世の中みたいですしね。
確かにメディアが好むようなテンベストは一つの指標になるとは思いますが、売り上げや収益の多寡だけで書籍や音楽や映画の内容、文化的な良し悪しを論じられないのは言うまでもありません。お遊びで比較している分にはさしたる害もないでしょうが、もし比べることが土台無理なものを真剣に比べる傾向が蔓延しているとしたら、文化の足を引っ張ることに繋がるように思います。
また、ネット上で交わされるゲキ論のすべてがそうだというわけではないでしょうが、力んで発言しちゃったりなんかしている人の多くが、結局は「本当は自分の方がすごいのだ」「そう認めさせたい」という、ネガティブな匂いを漂わせた自尊心に駆動されているように見受けられる。そうした「オレさま」を誇示したいがために絵であれ映画であれ小説であれ、実際に起こった事件であれ何でも良いのですが、お題である何かにかこつけていることが多い。
「この絵は上手い(と思える私は、その絵の方が上手いといっているキミより優れている)」とか「この映画は良い(と分かっている私は、この映画を面白いと思えないキミよりはるかにものが分かっている)」というような。あるいは絵や映画、小説でも、それそのものに自称批評を加えることで「この作者より本当はオレさまの方が勝っている」とでもいいたいようにも見受けられる。
要するに、実はお題はどうでもよくて、発言者自身の勝ち負けが何より大事、そういうことが多いように感じますね。
それが悪いと言っているのではありません。誰でも自由に意見を述べることはちっともかまわないと思いますし、そうした人達ばかりなわけでもないでしょう。ネットにはたくさんの「大人」だって存在するでしょうしね。
ただ、私はそういう「勝ち負け」が面倒くさいです。「オレさま」はもっと面倒くさい。私の場合は、ネットという便利なものが登場する以前に、居酒屋の席などで幾度も同じ構図を経験してきましたし、私自身もそんなものでした。だから、そういうことを言いたい人達が大勢いることや、なぜそういうことになるかも概ね想像はつくつもりです。
第一、人にしろ作品にしろ、好きではないものをこきおろすのは楽しいに決まってるじゃないですか(笑)
しかし、だからといって理解できないもの、理解したくないものには爆弾を落とせば良い、というどこかの「オレさま」国家に通じるような在り方は嫌です。
ともかく、先のような強烈にバイアスがかかった人達が多い中で、冷静に絵描き(に限らずですけど)を比較できるとは思えない。繰り返しておきますが、そういう意見や感想の交換が悪いとは思いませんよ。好き嫌いは本人の自由ですからね。ただ、好き嫌いを言ってる分にはいいと思うのですが、好きなものがイコール正しい、とか優位であるとする態度や風潮はいかがなものか……というよりは、もう少し積極的に嫌悪します。
とはいうものの。
「画風の違う絵描きさんを比べて、画力に優劣をつけること」は、ある程度なら出来るとも言えます。
話が少しだけ厄介になります。
基礎的な技術とか能力などの高低を比べることは可能です。簡単です。
たとえば音痴なボーカルと正確にリズムを刻めるドラマーを比べれば、どちらが基礎的な音楽能力が高いかは歴然としているじゃありませんか。
そういうことであれば「上手いか下手か」を査定することは至極簡単です。だいたい学校なんてのはそういう場所です。しかし学校の論理が社会に通用すると思っては大きな間違いです。この間違いを続けている人は非常に多いみたいですが。学校の論理を仕事場に持ち込まないでもらいたいものです。たとえば「私なりに努力したから認めて欲しい」といったような。これはまた別の話になりそうなので、それは措くとして。
学校という閉鎖系の査定システムより、社会という開放系の方が厄介なのは、先の例に従えば、音痴なボーカルが、上手なドラマーよりも、より多くの人に感動を与えることも往々にしてある、というような事態です。なので、当然人気があることと上手い下手はまた別な話になってきます。上手い下手と「味がある」「味がない」といったことも、とりあえず分けて考えた方がいいでしょう。
「表現力」という言葉もあります。技術的には上手くても表現力のない絵はよく見かけるでしょうし、あまり上手くなくても表現力のある絵、これもまたよく見かけるでしょう。
レスにあった「漫画家の故・青木雄二氏」のことが思い起こされます。私は青木雄二氏の絵をまったくといっていいほど見たことがありませんが、確か非常に泥臭い絵だったと記憶しています。
冒頭の柚南さんの書き込みに対して、万年エキストラさんはこうレスを書いている。
なるほど、私が思い浮かべている青木雄二氏の絵に間違いがなければ、そう仰る気持ちも分かります。私はとりあえず見る気になれない絵だったので(多分)、この方の漫画は読んだことがありません。
対して、hadachiさんはこう書いている。
なるほど、そういう感想も頷ける。「ナニワ金融道」という言葉から連想される内容に相応しい絵だったように思います。おそらく作者本人が「絵が巧い」と言うのは「描きたいものが描けている」ということなんでしょう(ただ、絵が上手いかどうかは他人が判断することで、もし本人が本気で言っているとしたらいかがなものかとは思われますが)。
万年エキストラとhadachiさん、このお二方の受け取り方の差異は、もちろん大部分が受け取る側の好みに起因するものでしょうが、「描き方」と「描かれたもの」の差でもあるように思われます。万年エキストラさんは描き方が汚いといっているのでしょうし、hadachiさんは描かれたものに力があるといっている、そう換言できる面も多い気がします。この点については後でもう少し考えてみようと思います。
「絵が上手い下手」という場合、得てして「描写力」に力点が置かれる気がします。
特にデッサン力の有る無しくらいならば素人目にも分かることでしょう。
デッサン力は技術の問題といってもいい。対象物の形や量感を紙の上にいかに正確に再現するか、という技術です。
技術ということになると、その範囲内で高低の序列はつけられると思いますし、その人がどの程度対象物を見る目を持っているか、この点もまた観察力洞察力の高低を比べられもするでしょう。より正確に、そのものらしく再現できている方が上手とすることに問題はない。
そうした点に限ってならば、ある程度画風が違ったところで比べられはする。ただしそれも狭い範囲でしか比較は成立はしにくいと思います。
対象物の形を崩して味を出そうとしている絵と、写実的な描写を目指している絵を、描写力において比べられはしませんからね。
だから大雑把に、たとえば「リアルな描写」を目指している絵描きを比べて、その描写力の高低を比較することは、ある程度出来るとは思います(ただ、この「リアル」という言葉も解釈の幅が広すぎて一概には言えないのですが)。
また、いくら画風が違うといっても、たとえば学生さんの絵と最前線で活躍しているプロとでは、やはり画力に歴然と大きな差が見て取れることが多いでしょう。
私が学生さんや素人さんの絵を見るとして、それらに色々な画風があったところで、基礎的な描写力や表現力など総合的な画力の優劣を付けるのはさして難しくありません。これは好みとは関係なく判断できます。
アニメの作画監督と美術監督だって、「どの程度ものを見る力、それを再現する力を備えているか」といった観点でなら、ある程度画力は比べられはします。実際、あるアニメ作品を作るに当たって、「この作画監督とこの美術監督では絵の巧拙において釣り合いが悪い」といったことは考慮され得ます。「格が違う」というやつです。
なので、明解な比較は無理にしても、ある程度は画力の比較は可能ですし、日常的に私も他人の画力を比較していることは多いです。もっとも、アニメーションという集団作業を仕事にしていると、画力という「質」の比較のみならず、どのくらいの「量」をこなせるのか、必要な「対価」や「コストパフォーマンス」、一緒に仕事を出来る「人格」かどうか、といった画力そのものとは別なパラメータもたくさんあるので、さらに厄介なことになります。
大人の世界は難しいものです。
話を戻して「画力」ということ。
さて、この「画力」。あるいは「絵の上手さ」という言葉には、先にも少し触れた通り、色々な意味があると思うのです。
簡単にいえば「描き方の上手さ」と「描こうとしているものの上手さ」は不可分ではあるけれど、分けて考えることも出来るでしょう。
まず「描き方の上手さ」ということ。
これは先の描写力などもここに含まれますが、ごく普通の人が通常絵が上手い下手というのはこの点でしょう。たどたどしく描かれた絵よりも、器用に描かれたものの方が上手く見えることが多い。
しかし、どんなに高い技術で描かれた絵でも、描いてあるものやイメージがつまらなければ、絵が上手いとは言えないじゃないですか。「上手いけどつまらない絵」はたくさんあるでしょう?
勿論、描き方そのものにも魅力が宿るわけですから、描き方の上手下手というのは非常に大切なのは言うまでもありません。よくあるようなイメージでも、その人が描くと魅力あるものになる、そういうケースはよくありますね。
その人の描き方の中に、すでにその人独自の見方やイメージ、描こうとしているものが含まれているわけですから、不可分だと書いたのはそういう意味です。
しかし一口に描写力といっても、これもまた色々あります。「特徴を捉えて描く」能力というのは、必ずしもアカデミックなデッサンと同じではありません。「似顔絵」なんていうのが顕著な例でしょうか。形を正確に再現するわけではなく、その人の人と形(なり)を捉えて簡単な線なんかで表現する能力、これも描写力に含まれますよね。真面目にデッサンして描かれた肖像と、特徴をデフォルメして描かれた似顔絵。往々にして後者の方が伝える力が強いように思えますが、単純に比較できるものでもありません。
また、描こうとしたものに対する到達度、というのも考慮されうる部分です。
「描きこなす」という言葉がありますが、描こうとしたものを「描きこなせている」「描きこなせていない」かは、見る目を訓練した人でなくてもかなり分かるんじゃないかと思います。不自由そうな絵はやはり上手く見えないですね。見ていて苦しいですから。
対象が何であっても自分の絵として描きこなせるような人は、やはり画力が高いと言えるでしょう。しかし、これも平均的に比較できるわけもなく、たとえば何を描かせてもさして上手くないけど、女の裸を描かせたら天下一品、なんてケースはありうるわけですから。
私は他人の絵を見るときに、割りとこの「描こうとしたものに対する到達度」「描こうとしたものをどのくらい実現できているか」という部分に目が行く方です。これはある程度絵を見る訓練をしていない人には難しいと思います。自分の好みをちょっと脇に置いといて、その人が何を描こうとしてどの程度描けているのかに目を向けなくてはなりません。ですが、この「自分の好みをちょっと脇に置く」というのが難しい。自分とは違う考え方や文脈で考えなくてはいけないわけですから。
好き嫌いと優劣を混同している人はここを履き違えていることが多いように思います。
その人が描けたものだけではなく、描こうとしたものまでを見られるようになると、「この人はこういうものを描こうとしている筈なのに、この人の描き方においてこの描写はおかしい」だとか「この人の現状の画力では無理みたいだけど、本当はこういう絵を描きたかったのだろうし、だったらこうすれば良いのではなかろうか」といったことが見えてきます。
こうした見方はもちろん絵に限ったことではなく、映画でも漫画でも小説でも音楽でも書画骨董でも裁縫でも何でもそうですが、その筋の見方を相当養っている人でないと難しいと思います。少なくとも私はこれまであまりそういう人にお目にかかったことはないです。私自身はとてもそんな奥行きのある見方は出来ませんが、そうなれるように見る目を養いたいとは思っています。
この見方を身につけられると、その作者にとっても実になる批評が可能になってくると思いますが、そうした見方を出来る人は本当にひどく稀なようで、多くの人は「好き嫌い」か、あるいは客観的や批評を装っただけの「好き嫌い」でしかないように思われます。
自分の好みをちょっと脇に置いて、自分とは違う考え方や文脈に想像を働かす。
非常に難しいことですが、他人を理解するため、同時に自分の考えや価値観を磨くためにはたいへん重要なことだと思います。
「描き方の上手さ」に対して、一方の「描こうとしているものの上手さ」。これについてはなかなか比較するのが難しいし、比較するようなものでもないとは思います。
「描き方の上手さ」を「どう描くか、その上手さ」という言葉に置き換えると、この「描こうとしているものの上手さ」は「何を描くか、その上手さ」ということになる。
描写なんかは特に器用ではないとか、あんまり感心しない描写なんだけど、力強く印象に残る絵はたくさん見たことがあると思います。イメージがすごい、描いてあるもの自体に力がある、そういうことも画力に含まれる。
だって絵を描く、ということもそもそもコミュニケーションの欲求から生まれたものなんでしょうから、伝える力が強ければそれだけ画力がある、ということになりますよね。
しかし描こうとしたものとかイメージとかは、技術に還元できるものではないので余程歴然とした力の差がある場合ならともかく、比較するのは容易ではないし、比較自体あまり意味がないように思えます。
身も蓋もない言い方をすれば、何に興味を向けるのかは「人それぞれ」ということでしょうから、これはもう好みの問題として捉える性質ではないかと思います。
歴史小説と恋愛小説を比べて、その題材の比較において価値の有る無しは考えられないでしょう? 純文学よりSF小説がジャンルとして劣るなんてあまりに馬鹿げた考え方ですよね(世間的にはいまだに根強く残っているかもしれませんが)。
ただ、題材に対する態度、感受性や着眼点、描写の奥行きといった総合的な判断として、ある歴史小説より、ある恋愛小説の方が優れているといった比較は出来るでしょう。
同様に、「何を描くか」はもちろん画力に含まれますが、これは技術というより感受性とか教養とか描き手の人間的な素養の問題が大きいと思うのです。発想が面白いとか扱う素材がユニークであるとか、扱い方が独自である、対象への考察が深いとか鋭い、とか。
人間としての才能とか能力ということになってくるでしょうね。これもなかなか比較考量するのは難しいですが、そうはいっても「この人よりあの人の方が優れている」「一枚上手」「器が大きい」などと感じることは経験があるでしょう。
それが「ある面において」といった留保がつくことはあっても、人間の才能や能力はやはり比較され優劣が計られ得るでしょうから、同じように「何を描いている(あるいは描こうとしている)」かにおいても能力の高低は、ある程度なら比較されうる。
まぁ、この「ある程度なら」というのが曲者なんですが。
「ある面において」「ある程度なら」というのは、その時々場面に応じて変化する、というよりそれを設定することによって、比較が成立するわけです。
あ。ここまで書いてきて、簡単なことに気がつきました。
もう一度、柚南さんの質問を引用してみます。
「画風の違う絵描きさんを比べて、画力に優劣をつけることはできるんでしょうか?
できるとしたら、なにが基準になるのでしょうか?」
これは話の順序が逆なんですね、きっと。
ある基準を設定するから、その点において比較が成立する、ということでしょう。「優劣を付けるための基準」ではなくて「ある基準によって優劣が生まれ得る」ということじゃないでしょうか。
その基準なんて無数に設定できるわけですし、画力を比べるための一般的で便利な尺度や基準なんかは存在しないと思います。
特に絵を見る訓練をしてない人が絵について議論している場合、極端に言えば「オレ基準でこの人が一番上手い」という人同士が話しているケースが多いんじゃないですかね。そういうのは普通「好み」と呼ばれるでしょうし、だから始めの方で「好みの問題に集約される」と言ったのです。
「何を描くか」「どう描くか」を便宜上分けて考えていますが、実際には「何をどう描くか」という複合的なところにその絵描きが成立しているわけです。
そうした絵描きを比較する場合、まず何を基準にするか、その基準が設定されていないところで比べようとすれば、結局「好み」になってしまうでしょうね。
さらに言えば、基準を設定したところで、その設定の仕方が「好み」のものに有利に働くようになされるでしょうから、すでにそこに好みが大きく作用してしまうわけでしょう。
客観的を装ったところで、結局は好みの問題が大きく作用していると思いますよ。特に鑑賞眼が素人さんのレベルにおいてなら、好みだけといってもいいでしょうし、近頃は批評で金をもらっている人間たちも同じような有様がほとんどに思えます。
まぁ、好きとか嫌いとか、上手だと思う、下手に思える、私にはこう見える、といったあくまで主観によって意見を交わしている分には問題はないと思いますね。
これが客観を装って「良し悪し」や「優劣」を論じられると多少害になるかもしれませんが。
ただ、断っておきますと、「比較する」という行為が良くないと言っているわけではありません。安直な比較で、優劣の序列をつけるということに対して私は否定的である、ということです。
複数の対象を比較することで、それぞれの特性や傾向が顕著になることは言うまでもありませんし、比較考量はものの考え方の基本の一つです。たとえば日本がどういう国なのかを考える場合、日本だけのことを調べたり考えたりするだけでなく、他の国とどう違ってどういう点が共通しているのか、そういう風に考えますよね。だから、比較するという行為は色々な意味でたいへん有用だと思います。
ただ、そこから安直な優劣や序列を導き出すのは危険だと思う。そういうことです。
あまり答えになっていないかもしれませんが、思うところを書いてみました。
さて、「何を描くか」「どう描くか」についてちょっとだけ考えてみましたが、アニメーション映像の演出や漫画を生業にしている私としては、ここにさらに「絵の使い方の上手さ」というものも加えたいと思います。
これについて書き始めると、これだけでも膨大なテキストになりそうな気がしますので、簡単にご紹介する程度にします。
私は近頃、絵の技術的な上手い下手にあまり興味を持てず、絵をどう運用するかといった面に興味が向いています。先の言い方に従えば「どう描くか」ではなく、「何を描くか」の方ですね。それと私が最近、特に興味を覚えるのは実は「絵の使い方の上手さ」だったりします。
この能力を画力に含めるのは少々乱暴な気もしますが、映像の仕事をしているものとしては非常に重要な、ある意味では「描き方の上手さ」なんかより遙かに重要に思える部分です。
「絵の使い方の上手さ」とは、要するに「どこにどんな絵を使うか」「どういう順番で絵を使うか」といったようなことです。
漫画のケースが一番分かりやすいでしょうか。
ある絵の次にこの絵が来るから非常に印象的になる、そんなケースがあるでしょう? さして面白みのない話や場面でも、読ませてしまう見せてしまうという人がいると思いますが、絵の使い方が巧みな人は、そうした絵を使う呼吸とかリズムでも見せられるものです。
「描き方が上手い」人でも、この「使い方」が上手くないと、非常に読みづらかったりする。逆に、さして「描き方が上手ではない」人でも、使い方が上手いと非常に読みやすく、また印象に強く残ります。
ある絵の次にこの絵が来る、というのはつまりは映像の編集です。
編集の能力を画力に入れるには反対する向きも多いかもしれませんが、とはいえ、漫画にしろアニメーションにしろ、絵描き自身がコマを割ったり、コンテを描いたりするわけですから(コンテを描くのが絵描きとは限りませんが)、やはり絵描きの持っている力として考えても悪くないと思います。
ある絵の次にどの絵が来るか、ということは編集のみならず、アニメーションの作画にも言えることです。アニメーションの作画は、止まった絵を繋いでいって一連の動きを作り出すわけですから、止め絵を編集しているとも言える。何でもない動きの中でも、どこにどんな絵を入れるか、その絵の入れ方一つでハッとするようなリアリティや色気が生まれることも多い。
どの絵を取ってどの絵を捨てるか。これは非常にセンスと能力を問われる部分です。映像の編集、漫画のコマ割り、アニメーションの作画にしろ、あるシーンや芝居を描くにあたって同じような結果を得る道筋は幾通りもあり、それこそ無限の可能性が考えられるわけです。
アニメの作画は、どこにどの絵をどういうタイミングで持って来るかによって、結果は千変万化しますし、映像の編集や漫画のコマ割りにおいても、そのシーンを何カットに割るか、どういう角度や構図で捉えるか、どこからどこまでそのカットに収めるかによって、結果はまったく印象が異なるものになります。
同じ絵を使っていても、その絵が置かれる前後の文脈によって、絵の持っている意味は大きく変化するわけです。これが実に興味深く面白い。まるで生ものを扱っているようです。
その一枚だけを見ても、何の変哲もなく特に目を惹くことのない絵でも、前後の文脈によって、非常に印象的な絵になったりする。私にとっての映像の面白さはここにあるといってもいいんじゃないかと思います。何の変哲も衒いもなく、ありふれた構図でありふれた絵だけを繋いでものすごく印象的な映像作品を作れたらどんなにか素晴らしいだろう、とさえ夢想してしまいます。
私はこれみよがしな態度で描かれた絵や力みが露わな絵は好きではありません。そういう絵や、絵の使い方も含めて、何というかチンピラじみていて「品がない」と感じてしまいます。もっとも、一般的には意図も露わに露骨な絵作りが好まれるようです(絵作りに限りませんが)。
だからといって私が品があるとか一般的でないとか特殊であるといっているわけではなくて、私が学んできたもの、それによって形成してきた私の好み(あるいは私の好みによって私が学んできたものかもしれません)が、現在の傾向に上手く対応できないというだけのことだと思います。それに、私が好ましいと思う映像作品だって世の中にはたくさんあるわけですから。
ただ、私が多数派にはいないことは痛く実感しております。勿論、「私は多数派である」ことを自認している人なんて滅多にいないと思いますが、私の場合、作品による収益という、断固として確固たる数字に「多数派ではない」と査定されている気がしてしまうものですから(笑)
(笑)いごとじゃないです。売れないと次が作れなくなるから困ります。
ああ、売れたい。
何だか、妙な話に流れてきてしまったので、初心に返って柚南さんの質問に戻りたいと思います。
先にも少し触れましたが、どうも私は近頃あまり絵に興味がないので、広く絵を見ていません。積極的に見る気が失われたというか、興味の対象が絵ではない部分に向いているみたいです。
なので、私が上げる画力のある人といっても、以前から評価が定まっている人ばかりになるでしょうし、最近目にしている絵と言えばアニメ業界の方の絵ばかりなので、世間的にはそれほど知られていない人になってしまうかもしれません。
また、アニメ業界には直接的間接的かは別にして「知り合い」が多く、画力のある人として特定の誰かを挙げると、あの人もこの人もその人も名前を挙げなくてはならなくなって煩雑になってしまうので、差し控えようと思います。具体的でなくて申し訳ない。
替わりといってはなんですが、ここ何年かで一番衝撃を受けた人としてシルヴァン・ショメを挙げたいと思います。アニメーション監督というか作家ですし、絵描きとして挙げるのは少々外れているかもしれませんが、作品とそのクレジットを見る限り、相当な画力を持った人だと思われます。
最初に見たのは短編「LA VIEILLE DAME ET LES PIGEONS」(「老婦人とハト」)で、これにはものすごい衝撃を受けました。元々はベルギーの漫画家de Crecy(この人もすごい画力です)が参加したアニメーションということで注目したのですが、クレジットによると監督のショメ自身が作画の責任者のように思われますので、ものすごい描き手なのでしょう。感服しました。
もっとも、感服したのは絵そのものもさることながら、アニメーションとしての芝居やものの見方だったりするのですが。恥ずかしながら私も「アニメーション監督」として世間に紹介される立場の人間ですので、ショメの仕事にはとにかく総合的な衝撃を受けたといえます。
ネットで調べたところ、ショメは私と同じ歳(1963年生まれ)なんですね。それだけに私にとって尚のこと刺激的でもあります。
「老婦人とハト」はまだ日本ではDVD等はリリースされていないと思いますが、ショメの新作「ベルヴィル・ランデブー」がじきに公開(12月18日公開予定)になります。彼の劇場用長編アニメーションのデビュー作になるそうです。私はすでに見ましたが、これも非常に面白いので是非お薦めします。
クライマックスのくだりに多くの疑問が残るのですが、ストーリーを楽しむ映画というより人物たちの描写やシーンの面白さにたいへんな魅力がある映画です。卓越した画力は勿論のこと、アニメーションの芝居の面白さも堪能できる作品だと思います。
ちなみに日本での配給元がクロックワークス(「千年女優」の配給会社)のせいか、作品宣伝用にコメントを頼まれました。実際に私のコメントが使われているのかどうかは確認していませんが、私が感じたことを素直に書いているコメントなのでここでも紹介させてもらいます。
「チャーミングな意地悪。鋭いユーモア。雄弁な無口。捻れた魅力と心躍る音楽に溢れた大都会、ベルヴィルの街で会いましょう。」
「ベルヴィル・ランデブー」、面白いです。
思いつくままにあれこれと書いているうちにすっかり長くなってしまいました。自分の画力についても触れようかと思ったのですが、それはまたの機会にでも譲るとします。
絵について文章で書く、というのはなかなか面白いものです。普段、絵を描いたり見たりしていて特に意識しないようなことを、意識化して文章にしてみると、自分の考え方に改めて気付かされることも多い。
年を食うに従って「言葉の力」の重要性に気付かされます。
これまで言葉を粗末にしてきたことのツケを痛感しています。私が絵の仕事を選んだ背景には、言葉や文章による表現を面倒に思う傾向が働いていた一面があると思いますし、絵を描くんだから言葉や文章は特に磨く必要はない、と浅薄な考えをしてしまった面もあるように思います。さらには己の言語力の拙さ未熟さを、「言葉や文章に出来ないからこそ絵で表現するのだ」といった、どこかで聞いたようなもっともらしい言葉を低次元に引用して、隠蔽してきたのかもしれない(無論、絵でしか表現できないことがあるのは間違いありませんが)。
言語が豊かであることは、つまりは豊かな考え方感じ方に繋がるし、言語をシャープにすることでものの考え方もシャープになるわけです。だって、頭で考えるときは言語で考えているわけですから。
ボキャブラリーが少ない、ということは感受性もそれだけ貧困である、ということに繋がると思います。たとえば「寂しい」という言葉があるから寂しいと思うのであって、絶対的な寂しい感情というものが先にあってそれを表現するわけではないですよね。ここを勘違いしては多くのことを履き違えてしまうように思います。
北海道弁には「いずい」という言葉がありますが(説明に難儀する言葉です)、「いずい」という言葉を使わない地域の人間には「いずい感じ」なんて無い。そういう感覚がない、と言える。「肩こり」という言葉や概念がない地域では、「肩こり」は存在しない。英語圏では疲労を表現するにあたって「背中が痛い」とよく言われるようですが、背中が痛いのと肩こりは全然違うだろうし、それらの言葉から生まれるそれぞれの感覚や感情だって別なものになるでしょう。身体感覚だって言葉に定義されている。
言葉があるから認識できるし、そこから感情や感覚や思考が生まれる。だから言葉を磨くことは重要なんだと思います。
言葉を使って絵を考える。今後もこの面白い試みを続けてみたいと思います。暇があればの話ですが。
私には難しい質問が発端でしたが、こうした機会をいただけたことに感謝したいと思います。
ありがとう、柚南さん。
BBSのRさんの書き込みにレスをつけようと思ったのですが、あまりに長くなってしまったので、「NOTEBOOK」にしました。
私は非常に素晴らしい書き込みだと思いまして、これをネタに、というかこれをきっかけにしてあれこれと考えてしまいました。私としてはまるで昔の自分から届いたメールのようでもあり、これも何かの縁だと思ったのです。
Rさん、不本意なようでしたらご一報下さい。先に断ろうかと思いましたが、メールのアドレスが分からなかったのと、時間が経つとアップしなくなりそうだったので勢いで載せてしまいました。
さて、Rさんの書き込みは、大元の発言とは関係のないレスでした。このテキストに関係のある部分だけ再掲載させてもらいます。
実に正しいです。私はRさんを当HPのBBS上でしか知りませんし、どういう方なのかその輪郭すら把握しているわけではありません。しかし、この書き込みはある時期の人間、特にクリエイターと称される人間のある一時期を的確に表現しているように思われました。
私はこの書き込みを取り上げて笑おうとか突っ込みを入れようとかいうつもりはまったくありません。冗談でも何でもなく、とても正しいあり方に思えます。だからといって賞賛するのでもありませんよ(笑)
ただ正しい気がする、と。
こういう風に実感をもって思える人がもっと沢山いてそこから逃げずに持続することが出来れば、世の中にはもう少し良いものが生まれてくるのではないかとすら思えます。
いや、実に正しい。そう思ってこそ先があります。
若いうちから「これで良し」と悦に入っているのは阿呆か天才かのどちらかです。
その「ノタウチ」まわるというのも、年を重ねると出来なくなるんです。自分から逃げるのが上手くなるからですね。
よく「自分だけは誤魔化せない」というような柔なことが言われますが、ウソです。100パーセント、嘘です。
自分は自分を巧みに誤魔化します。質が悪いと言っていいほどに功名に誤魔化します。そんなやつが山ほどいます。沢山見てます。
そうなると「ノタウチ」まわることすら出来なくなる。平たく言うところの「終わり」というやつですな。
目を見張るほどの時期があった人間ならともかく、ろくに始まってすらいない人間も終わりを迎えるのです。目も当てられません。しかも達者な口だけは磨いてきていたりするので、始末が悪い。そんなやつが山ほどいます。沢山見てます。
だいたいそうなった人は自分に都合の良い状況を作り上げるのに躍起になってます。狭い部分でだけでも何とか周囲に対して優位に立ちたくなりますからね。しかも広いところに出て行けないのは自分とは別のもののせいにすり替える。何とも見苦しいというか、気の毒にすらなります。そんなやつが山ほどいます。沢山見てます。
こういう人は他人に意見されることを極度に拒みますから、ある程度物が見えている人からすると、助言のしようはあっても何も言わないようになります。親切で言って怒らせでもしたら面倒この上ないですからね。放っておくしかない。
よって、こういう人は同じところをグルグル回って自信の持てそうなところだけを固めに固めて、二度とその自分の砦からは出てこなくなります。出たら痛い思いをするのも分かっているからです。そんなやつが山ほどいます。沢山見てます。
そうならないように心ゆくまで「ノタウチ」まわって下さい。
他にやりようは無いのですから。
その対処法はある意味簡単です。
周りよりも常に高い審美眼というか価値基準を身に付けてしまえばいいのです。
周囲が見る目よりも自分の目の方が厳しければ良い。同じ目で自分も見る。むしろ他人に対してよりも自分により厳しい目を向ける。
浸透圧みたいなものです。こちら側の方が高ければ周りの評価にへこむことはありません。こちらの方が厳しく己を見ているのですから。
簡単でしょ?(笑)
その代わり、無邪気に楽しめる対象が間違いなく減ります。
その分気に入ったものを深く楽しめるようにはなりますが、その辺は痛し痒しですわ。
そうです。その通りです。私は今、ここぞとばかりに熱弁を振るおうとキーボードを強めに叩いていますが、フォントは冷静ですな。さっきと何も変わらない。
「一番の根源を忘れてるような気が」するというそのことが実感できるのなら、今から自分を知る努力を重ね価値観を磨けば十分に間に合います。まだ学生さんということですしね
ただ「コア」を見つけようというのはラッキョウの皮むきにも似て徒労に終わるかもしれません。某かのコアがあるというよりは、コアを求めて皮を剥いて行く行為にこそコアがあるはずです。それがつまり「ノタウチ」まわることと同義でもあります。
そうですが、そこに技がなければプロではありません。
まとまっている上に興味深いとか面白いとか涙ものであるとか爆笑ものであるとか。
でなければ換金される価値がありません。
まとまるではなくて、まとめる、これも技です。
まとまることもある、では済まされないあたりにも換金される技の価値がある。
「何が言いたいか」を自分でしっかりと把握することも易しいことではありませんが、それを他者に伝えるとなるとさらに難しい。独りよがりが通用するのは素人だけです。HPで好きな絵を描き散らしたり、こうして雑文を書き散らしているだけなら何も問題はありませんが、プロでやる以上敷居は当然高い。最近はめちゃめちゃ低いですけど。
さらに「何が言いたいか」を把握できたところで、その「何」がつまらないものだとおよそ換金などしてはもらえない。
いやぁ、キビシイですなぁ。
自分なりに努力した、とか自分なりの表現などという都合の良い言葉が通用するのは学生というモラトリアム期間だけです。表現する前にそれが表現するに足るものかどうかを考えることが大事です。もっとも、そこばかりを大事にしすぎるとあれもダメ、これもダメ、そっちもダメ……というようなことになって、何も出来ないということにもなります。
私の作品歴が寂しいのはそういう事情です(笑)
時には勢いも大切にしなければなりません。
いや、何も謝る必要などありません。
ついつい言ってしまった「小賢しいコト」というのは、恐らくこの書き込みの前の私に対する「絵?プロだから上手くて当然とは思いますが(笑)」という発言をさしているのでしょう。
そうです。上手くて当たり前です。上手いからプロになったんです。ああ、良かった、少しは才能があって。
悶々として七転八倒して下さい。自分の価値観を疑ったり、自分には何もないのではないか、とか思い切りネガティブなことを考えても良いんです。そうした一見退行に見える状態、先程から言う「ノタウチ」まわるということですが、これは程度の差こそあれ繰り返されるでしょう。それが繰り返されなければ返って不自然なんです。
最初は苦しいはずです。ですがそうやって自分を疑い抜いた先に何か一つ浮かんでくるはずです。
イメージで話します。
ようやく浮かび上がったその一つを大切にして作品にする。
それで細々とではありますが、向こうとこちらに細い通り道が出来る。向こうがどこか、それは意識の底の方、無意識と言えるかもしれませんが、何か源泉といえるようなものです。
そうすると次もうまく行く、というほど簡単ではありません。
折角開いた細い通り道も塞がったりまた細く通じたり、と不安定なものだからです。七転八倒しながら繰り返して行くと、向こうとこちらを結ぶ道も太く確かな物になって行きます。考えやアイディアを汲み上げ、それと自分との関わりを把握して作品に仕立て上げられるようになればしめたものです。
もっとも、さぼっているとすぐに道は塞がるみたいです。そんなやつが山ほどいます。沢山見てます。
自分と自分を取り巻く状況に常に目を凝らし耳を澄ませていなければ、作品を作り続ける、あるいは一線で仕事を続けて行くというのは難しいです。「向こう」とコンタクトを取る術を自分なりに見つけなくてはいけないのです。「向こう」とコンタクトが切れている人は、何をやってもろくな物になりません。これは間違いありません。
「向こう」とコンタクトも取らずに一生懸命頭を悩めて頑張っている人がいますが、砂の上で泳いでいるようなものです。
泳ぐなら水に入らなくてはならないのです。まずは飛び込むことです。一応準備運動はした方が賢明だと思いますが。そして飛び込んだら最初は「ノタウチ」まわる、と。それが順番です。
以上は私の場合、ということですが、思い当たる人は多いと思います。
参考の一つにでもなれば幸いです。
「十年一昔」とよくいわれます。
「十年」というのは社会も個人も、文化も思い出も切りの良い手頃なパッケージになる年月ということなのでしょうか。
つい先日、ある友人が十年来の「ある関係」にピリオドを打った、という話を聞きまして、自分でもこの十年間や十年前ということを折りにつけ振り返ることが多くありました。
一応念のため繰り返しておきますと、「友人がピリオドを打った」という話で、「私がその友人との関係にピリオドを打った」というわけではありません。そんなに荒れた友人関係ではないと思います。まぁ過去にそうした関係になった人たちも沢山おりますが。
昔、知人から「お前は友達を大切にしない」といわれて、「はて、そうかな」と考えたことがありました。どうすることが具体的に「大切にする」ということかはともかく、友達を大事にしていないつもりは毛頭ありませんが、続けるためだけの友人関係にはまったく意味を感じないのは確かです。
人間関係というのも無理矢理に続けるものではなく、その時々に応じて必要な人が現れたり、親密に過ごす時期もあれば袂を分かつことになる日もやむを得ず訪れることもありましょう。
そんなことを思い出すのも過去十年間あるいは十年前を振り返っていたせいかもしれません。
今回の駄文はいつにも増してひどく個人的なことで、誰に向けて書くわけでもない何というか告白めいたものです。時間を無駄にしたくない方はブラウザのBACKボタンを押した方が宜しいです。
十年前。1989年、私は25歳でした。
当時はまだ漫画の短編を思い出したように描いては、時折カットのアルバイトをしたり、漫画のアシスタントなどで日銭を稼ぎつつ、ほぼその日暮らしに近い形で糊口をしのいでいたように思えます。貯金などという美味いものに縁があるはずもなく、預金通帳には寂しい3桁の文字が並んでいることもあったかもしれません。何とも情けない。
当時はバブルも終焉を迎え、いよいよその腐れきって発酵した毒気が弾ける頃だったでしょうか。すでに弾けていた頃かもしれません。そのあたりの記憶が曖昧なのは、どうにもバブルというのが一体何だったのか、まるで実感がないせいでしょうか。多くの国民が躁状態でその栄華を楽しんだそのバブルとやらは、私には参加しようもない憧れの彼岸だったようです。バブルはモニターの向こうにあったように思えます。ですからそこに積極的に参加し、後にしっぺ返しを食った人間たちに共感を覚えるわけもありませんし、むしろ「そらみたことか」くらいにしか思えません。さすがに「ざまぁ見ろ」というほど私も人は悪くありませんが。ウソです。思ってます。ざまぁ見やがれ。
ローンでものを買えば後に支払いがあるのは当然のこと。払えないなら首でも括るのも仕方がない。バブル期における直接的な罪がないにしても、現在中高年の自殺者が増えるのも無理はありませんし、実に気の毒だとは思いますが、トカゲの尻尾切りは世の常です。切られる尻尾にも何の原因がないわけでもありますまい。何はともあれ中央線にだけは飛び込んでもらいたくないものです。
「首を括る」といえば、私はその当時そのことを一生懸命考えたことがあります。繊細で傷つきやすい私の気持ちを周囲のだれも理解してくれず、生きるのにちょっと疲れちゃってぇ……死ぬのも悪くないなぁ……とか思ったりしてぇ。ウソです。何も「自殺」などという空恐ろしいことを考えていたわけではありません。どちらかといえば首よりは「腹を括る」といった方が近いかもしれません。最近ではその括ったはずの腹も少々出っ張ってきましたが。こんな身近にも十年一昔が。太ったな、俺。
当時、私は気ままなその日暮らしを謳歌し、拘束の少ないその生活を「気楽でいいよ」などと満足を口にする一方で、頭の片隅にはいつでも将来に対する巨大な不安がとぐろを巻いていました。
よく考えてみれば、ろくに働きもしないで「将来も贅沢を望まなければそのまま食っていけるかもしれない」などという甘ったれた妄想に取りつかれていたのは、世間を覆っていた集団催眠ともいえるバブルが遠因であったかもしれません。何しろ「フリーター」とやらがもてはやされていたのですから。
その昔「金の卵」ともてはやされた中卒の集団就職もそうでしたが、便利に使える労働力はいつでももてはやされ、要らなくなったら排除するという構図が待っているとは、当事者は夢にも思わないものかもしれません。先にも書きましたがトカゲの尻尾切りはいつの世でも当然の措置なのです。
バブルの当時、「フリーター」という肩書きとも言えないような立場を「会社に拘束されない自由人」という一片のつまらない優越感をもって称していた人間たちは、現在どうなったのでしょうか。今もフリーターとして立派に生活しているのでしょうか。組織という大樹の陰に落ち着いたのでしょうか。それともすでに首でも括ったでしょうか。まだ棲息している立派な第一世代のフリーターという生き物がいたら是非是非連絡をください。ホントにするなよ。
ただしここでいう第一世代フリーターとは、現在の不況下でいうそれではなく「なりたくてなった」フリーターの方です。今よく見かけられるそれは「ならざるを得ない」といった方が正しいでしょうが、当時はおよそ就職するよりはアルバイトの方が儲かるといったお気楽な状態だったようです。
「就職なんてしなくたって食って行ける」
そんなムードが濃厚に世間を覆っていたように思えます。
「就職なんて……」が、いまではすっかり「就職難で……」に変わってしまったことにも十年一昔が際だって感じられます。いつまでもあると思うな親と金、というとおり世に変わらないものなどあるはずもなく、景気はご存知の通り往時と比べるべくもない有様だそうです。それでも「景気が悪くなった」というだけで、決して「景気が悪い」国とはとても思えませんね。物と金に溢れた良い国です。
何の保証もない生活を「気楽」という言葉に単純にすり替えられるのは「若さ」という裏打ちがあるうちだけでしょうか。
そうした気楽な生活を謳歌した人間たちも、周囲で堅い就職をしたり結婚をしたりする人間が出てきたりすると途端に将来に対する不安と弱気が浮上し、それまでの勢いはどこへやら「そろそろ落ち着く」「才能がない」「東京は合わない」などと意味不明の言葉を残し、「安定」の二文字に餓えて櫛の歯が抜けるように一人また一人と「田舎へ帰る」、という今も昔も変わらない都落ちが繰り返されるわけです。
「Uターン」だの「Iターン」などと横文字ですり替えようが、都落ちに変わりはありません。
出て行け。東京は盲目の田舎ものたちの楽天地である。
東京は終の棲家を得るような場所ではなく、才能の商売をする巨大な市場であるという性格は今も変わらないように思えます。売り物にならない才能や能力しか持ち合わせない人間が長く住む場所ではないのです。とはいえ行き場を失ったそうした才能や能力の残骸が東京の巨大な隙間を埋めていることもまた事実でしょう。
いい迷惑なのは、そこを父祖代々の土地として暮らしている人ですが。出入りの激しい田舎者たちの騒々しい存在は実に気の毒です。
「田舎は嫌だ」といって出てきたくせに上手くいかないと安全装置のように作動する「田舎へ帰る」という行為は、稲作中心民族の遺伝子によるものでしょうか。私にはどうにも理解しがたいものです。さらにこの「田舎へ帰る」という行為が安直かつ愚劣な「エコロジー」と一緒くたになると目も当てられません。
「やっぱり育ててくれた大自然に包まれて暮らすのはいいよなぁ」
け。地球環境のために、そういうやからこそいなくなれ。さんざん都会でゴミを撒き散らし、文化的だと思いこんでいる大量消費生活を謳歌し、物に囲まれて上機嫌で暮らしてきた者が、よくも暢気に言やがる。
大体「都会に疲れて田舎に行くと癒される」というその考え方自体がどうにも嫌いだ。田舎を何だと思っている。故郷にはいつまでも変わって欲しくないとか何とか言いやがって、地元に暮らす人間を何だと思っているのだ。田舎は都会の落伍者の収容所ではない。ドラマの「北の国から」とかはもう虫酸が走るほど大嫌いだ。北海道は負け犬の楽天地ではないのだ。くそぉ、段々腹が立ってきた。
さらには過去の過ちは「若さ」という頭の悪い免罪符一つで片づけるその無責任さが嫌いだ。「昔は悪だったが今ではすっかり更正しました」的な人間も、そこに安っぽいチンピラの美学と甘やかしを与える世間も大嫌いだ。かつての不良が更生して真っ当な社会人になったくらいで周りが過度に喜び、下手をすれば讃えたりもする。馬鹿者。その不良時代に犯した罪が、人並みになることで許されると思っているのか。その時迷惑を被った人間に対してそれで済むと思っているのか。馬鹿者。一生罪をあがなえ。ああ、むかつく。
さて「田舎へ帰る」。
帰る田舎がある人はよいでしょうが、しかし帰って一体何をするというのでしょうか。積極的な気持ちで田舎に帰って新しいことを始めるとかいうのであれば、そこに立派な「攻め」の気持ちも生まれるでしょうし、親を案ずる気持ちで故郷に帰らざるを得ないこともありましょう。それはよく分かります。また帰って継ぐような商売などがあればそれも理解できますが、サラリーマン家庭などの人はどうするつもりなのでしょうか。親類縁故を当てにし、毛嫌いしたはずのそうしたしがらみの中に安寧を求めるということなのでしょうか。
パソコンで変換して初めて知りましたが「しがらみ」というのは漢字にすると「柵」となるんですね。まさに字面そのものです。入れ、柵に入って飼い慣らされてしまえ。おとなしく羊として暮らすがいい。
どこに行ったのだ、「干渉されたくない」などと無責任一途で自分勝手な個人主義とやらは。
私も昔はそうした人間たちを嘲笑っていましたが、今では「親元から離れ、華の東京で青春を謳歌するという一時期も人間には必要なんだから……」という優しく肯定的な見方も半分だけするようにしています。ウソです。思い切り嘲笑ってます。
私には札幌の実家がありますが、だからといっていわゆる「帰るべき田舎」といった風のものではありませんし、
「自分のことは自分で何とかしなさい。親を当てにされてもらっては困る」
という式のありがたい親でもあり、大学を出てから今日まで、時折涙が出るほどの親のありがたい支援もありましたが、自分で食うための術を見つけて餓死することもなく、人並みに、いや人並み以上に酒を飲むくらいの生活を続けています。何も自慢しているわけではありません。酒が必要なのは将来に対する巨大な不安を麻痺させるためです。飲まないと不安に押しつぶされそうになるのです。ウソです。ただ好きで飲んでます。数寄に近いかな。
だいたいそんな薬理効果を求める飲み方は酒に失礼です。
ただ十年前にはそれに近い気分はありました。先に「首を括る」ことに触れましたが、そんな時期のことです。25歳の頃のことでしょうか。
猛烈な不安に襲われたことがあります。
当時住んでいた汚いアパート。日の出もほど近い未明に、急に焦燥と不安と心配が三位一体の攻撃を仕掛けてきたのです。無防備だった私の精神の砦はすぐに三の丸も二の丸も落とされ、程なく本丸にも敵が怒濤のように押し寄せました。
仕事が上手くいってなかった時期なのかもしれません。仕事に煮詰まり、明日への鋭気を養うべくベッドに入ったもののまるで寝付かれず、不意に来た黒い不安に四方を囲まれ逃げ場を失いました。
うっすらと明るくなりかけた部屋でベッドに起きあがり、表面はじっとしながら内面はただ焦っている。妙な図です。
将来の姿はいつだって想像がつくものではありませんが、この時は将来はおろか十年後、5年後の自分の状態がさっぱり想像も付かない、といった状態でしたでしょうか。何も浮かばない。希望的観測さえ浮かんでこない。ひたすら不安をうち消そうと考えれば考えるほど明るい材料の一片も浮かんでこない。体を掻きむしりたいほどの焦燥だったでしょうか。
タバコも吸わずに延々と考えるしかできませんでした。
その時、ふと雲間から陽が差すように天啓がありました。
「そうか……首を括ればいいのか」
ちょっと話が飛んでしまいました。これでは私がまるで死を決意したかに思えます。そうではありません。順を追って経緯を考えてみます。
一言でいってしまうと、こんな明日もしれない生活を送っていて、将来人並みに暮らせるのだろうか、という不安があったわけです。月並みかもしれませんが、そうでした。
まずこの不安には根本的な思い上がりと勘違いが濃厚に含有されています。
第一に「自分は人並みに暮らせるはずだ」という思い上がりです。
一体どういうつもりだったのでしょうか。
のんべんだらりとした生活を送っていながら、いつかは人様並の文化的生活を送れるなどと勝手に思いこむとは何とも愚かな考えです。「自分は飛び抜けてはいないが、まぁ中間くらいの位置にはなれる能力がある」というおよそ一片の根拠もない馬鹿げた思い込みです。もっとも、小中高大とさしたる浮き沈みもなく送ってきた者にとっては、それまでの「集団内での位置」がそのまま社会に延長されると血迷った考えを持ってもやむを得ないかもしれませんし、確かに「人並みな暮らし」を手に入れるために、文部省が奨励した枠の中で競争をしてきているわけです。
少なくとも私は高校時代は学校の成績は大変よかったですし、美術系とはいえ大学も一年余分に通ったとはいえ一応卒業もしたわけですから、漠然とこの先もそれなりに人並みな生活を送れるのではないかと思いこんでいたのかもしれません。蒙昧です。
それが何の間違いか、就職という大樹の下に寄ることを拒否して、「フリー」という得体の知れない社会人としてスタートしたわけです。当然月々の収入などあるわけもありませんし、堅実なサラリーマン家庭に育った私としてはイメージにない生活形態に不安を覚えたわけです。選んでおいて「不安」というのも身勝手そのものです。覚悟が足りなすぎたのでしょう。
ちなみに何故就職という二文字を嫌ったかといえば、「十年後の自分が具体的に見える生活」が怖ろしくなったからです。
大学時代にも、よくサラリーマンが居酒屋などで上司の悪口を肴に飲み交わす、という絵に描いたようなシチュエーションを目撃しました。その時ふと思ったのです。彼らがののしり無能をあげつらうその上司とやらに、彼ら自身が何年かの後にはなる筈です。もちろんある程度の運と能力は必要でしょうが。
サラリーマン生活を送るということは、同じ仕事場に何年か後の自分の姿を毎日見続けることになるのではないか、ということに恐れを覚えたのです。自分がののしっていた人間の立場にいつかは自分が座り、陰では部下に同じことを言われ、自分はさらに上の上司の陰口をたたく。その繰り返し。夢も希望も感じられなかったのです。そこにたまらない嫌悪を感じたのでしょう。その分「安定」を売り払ったのは間違いありませんが。
この時売り払った「安定」という株が、現在では世間でも軒並み下がっているのを見るにつけ、ちょっとだけ得した気分にもなります。ウソです。ちょっとじゃありません。ざまぁ見やがれ、です。
ともかく当時の、そして現在でもさほど変わらないのですが、フリーというある部分気楽ながらも実に不安定な生活を送っていると、「人並みな生活」のイメージからはどんどんと離れて行きます。もちろん中には若くして成功し、人並み以上の生活を手に入れる人もいるでしょうが、私の場合は実りも少ない痩せた土地を耕していたに過ぎません。人並みな生活とやらが実るわけもありませんでした。
先に上げた根本的な勘違いとはこのことです。一体なんでしょうか、「人並みな生活」とは。真っ当な暮らし、普通の生活。
そんなものは実は存在するはずもありません。誰もが特殊な部分を抱えているものです。
だというのに多くの人間がイメージしているであろう「それ」は世間を覆っているわけです。だからこそそれに対して「足りない」「それよりは上」といった僻みだの優越感だのを感じられて一喜一憂している、と。
世間的に思われている「人並みな暮らし」の具体的なイメージとはどんなものでしょうか。
「無難に大学を卒業して、倒産の心配のない会社に就職し、そして生涯の伴侶を見つけて結婚。週末にはマイカーでドライブや旅行に出かけ、何年か後には子供が出来、貯えが出来た頃にマイホームの念願を果たし、その後家のローンはちょっと苦しいけれど、子供とペットに囲まれ楽しい我が家。老後も安心幸せ家族」
異論はあれど概ねこんなところが、中位の部類に入る人並みな幸せの価値観というか「幸せの形」みたいなものでしょうか。テレビのコマーシャルは具体的にその「幸せの映像」を垂れ流し、政府が奨励している日本人の目指すべきコースだったはずです。そこに外れさえしなければ形而下の伝声管から「よーそろ」の声が聞こえてくるわけです。自分がどれほどの位置にいるのか常に確認するための指針があるわけで、なるほど手本があるというのは安心できるものなのでしょう。
国民をあまねく覆うような宗教もイデオロギーも存在しない日本では、この「幸せの形」こそが、特に高度経済成長期に発達し定着した「飼い慣らしの方法」だったのかもしれない、などと勝手に思ったりしてみます。皆がそれをわき目もふらず目指すことによって安定した社会秩序が形成される、その飼い馴らしのために押しつけられた価値観です。
情報の刷り込みです。私は当時それが何も絶対的な幸せだとは思っていませんでしたし、「好きなことさえ続けられれば幸せである」というこれもまた借りてきたような価値観を頭で理解してはいましたが、もっと根深いところにこの政府推薦の幸せの価値観を刷り込まれていたのは間違いありません。そこから外れるのは不幸である、と。
その漠然とした幸せのイメージと現実の自分とのギャップに不安を感じるのは当然のあさましい心理ですが、逆にいえばそんなものに囚われているから余計な焦燥だの不安に苛まれることに気が付くくらいの頭は持ち合わせていました。
そんなにバカじゃない。
捨てちゃえ。
そう思った途端にふと少し気が楽になりました。
幸せな結婚とやらも安定した生活も、美味しいものを食べられる幸福も、可愛い子供の笑顔も、広い住居だの夢のマイホームだの、そうしたもの一切合切を捨てることにしました。というより、そんな予定なり漠然とした約束などは「無い」という時点から始めなくてはならないことに気が付いたわけです。もちろんそれが嫌いだから、ということではありません。先に上げた幸せの形はどれ一つとってもあるに越したことがないものに間違いはありません。ただ現実の自分が持つことの出来るものがせいぜい一つか二つしかないのならば、大事なものから取るしかない。このごくごく簡単かつ単純な原理によって私は迷わず「仕事」を取ったわけです。
好きな仕事を続けて行ければそれが無上の幸せである、と。
それ以外のものを捨てることに決めたからといって、簡単に捨てられたわけでもありませんし、そこには辛い結果も伴いましたが、それをここに記すにはあまりに生々しいことでもありますし、控えておきます。
そういえば「絵」についても似たようなことがありました。
「自分は上手いはずだ」というみっともない思い込みを一時捨てようとしたことがありました。こうした思い込みはその筋を志す者にとっては大変重要なきっかけであり、心強いよすがであり最低限の拠り所になっているはずです。それが無ければその筋を目指すはずもないのですから。
ただ、「クラスで一番上手」や「学校で一番上手」であることがそのままプロの世界で通用するはずもありません。何と言っても業界を埋める人々はそれぞれに最初は「クラスで一番上手」や「学校で一番上手」といった人々であるわけです。県大会で一番を取っても、甲子園で優勝できるのは一校だけ、というのと同じです。
当然上には上がいるわけで、更にはプロの世界で洗われるうちに突出した才能を開花させ、およそなまなかな才能では達し得ない領域の、そのさらに上を目指している人間もいるわけです。そうした人間たちを日々見ていると、決して「自分の方が本当はうまい」などとたわけた妄想を保持し続けることは出来なくなりますし、もし自分に才能が思ったほどに埋蔵されておらず、その上努力を怠ったりしようものなら、ただの凡人以下に過ぎなくなります。思ったほどに上手くならないから諦めるのか。そうではありません。
ダメならばそれを認め、そこから始める。ここに立ち至ると気分は楽になり、ものを見る目もいくらか平らになってくるものです。
そして自分の技術や表現するべきテーマや内容も疑ってかかる必要があります。何をするのでも、それこそ当然の定理や公理や常識の一つ一つをも疑ってかかる必要があるでしょうし、そこにこそ工夫も生まれると思いますが、自分自身のそうした既得の技術や考えを疑い、「本当にそれでよいのか」という疑問を持ち続けることが必要ではないかと思ったのです。
ちょっと具体的にいいますと、例えば「人が椅子に座っている」という絵を描くとしましょう。貴方がもしこの課題を与えられたらどのような絵を咄嗟に思い浮かべるでしょうか。その人物は男でしょうか女でしょうか。年寄りでしょうか子供でしょうか。どんな体格でどんな服を着ているでしょうか。楽しいのか悲しいのか疲れているのか元気がいいのか。椅子は4本足でしょうか、スツールでしょうかソファでしょうか。高さはどのくらいで大きさはどれほどでしょうか。その人は椅子に行儀良く座っているでしょうか、斜めに腰掛けているでしょうか、それとも椅子の背を前に回してまたがっているでしょうか。
少し考えるだけでも多くのディテールなり特徴が考えられます。それを一つずつ検証して行き、自分の好みに沿ったものを選んで行けば、およそ最初に思いついたイメージとはかけ離れたものになるはずです。疑うとはそういう意味です。最初に思いついたイメージは、イメージの貧困がわずかに結んだ思い込みなわけです。語彙の少ない人が喋る言葉と同じで実につまらない。語彙もイメージも豊かな方が表現の幅もより広がりますし、またそうした表現を身に付けることで、表現しようとする対象そのものも豊かになるはずです。
私はある時期、なるべく思い込みを捨てて、「出来るはず」を取り払い、まずは「何も出来ていない」というところから再始動してみようとしたわけですが、その効果は間違いなくありました。ただその癖が抜けないせいかいまだに揺るぎない自信の下に決断を下すことが出来ない、という話もありますが。
思いついてことを書き散らしているのでまとまりのないことこの上ない格好になっています。話題を戻します。
私が当時、迷わず選んだ「仕事」というのはいわゆる「食うための仕事」とは少しばかりニュアンスが違います。もちろんそれをも含みますが、一生かかってでも続けたい自分のやりたいこと、という意味でしょうか。「自分そのもの」といってもいいかもしれません。
よく聞かれるセリフに「仕事と私とどっちが大事なの!?」というおよそ愚劣で蒙昧な決まり文句がありますが、ですから私にとってはこの質問はイコール「自分と私のどっちが大事なの!?」ということであり、当然答えは一点の曇りもなく「仕事」であり「自分」ということになります。自分を大事に出来ない人間におよそ他人を大事にすることは能わないとも考えています。
ともかく私の場合は「仕事」を取ってしまいました。そしてこの私が選んだ仕事には「安定」の二文字は付帯しておりませんでした。出来ればそれが付帯している仕事を好きになれば良かったのでしょうが、この仕事を好きになってしまったのだから仕方のないことです。惚れちゃったら後戻りが出来ないのが人の道。
好きなこと、という一番を取ってしまった以上他のものは一度整理してしまおうと思ったわけです。「安定」した生活を望むべくもない現実でしたし、後にそれが付いてくれば良いなぁ、という程度に考えることにしたわけです。
とはいえ、現実の社会生活を維持して行くだけでも大変な金銭が必要です。この点において人の存在は金銭に換算されるといってもいいでしょう。非情な話ではなくごく当然のことです。人間の価値はそうした数値では計れない、というのは学生気分の戯言です。計られます。「自分は本当はやれば出来る」とか「いつかきっと眠っていた才能が……」などという稚拙な妄想は、ひもじさの前には役に立ちません。出来ることだけがすべてです。日本国民として生活させてもらう権利には当然義務も必要ですし、現実的には月々幾ばくかの金銭が必要なのは自明のことです。
生きるためには飯が必要です。しかも人はパンのみにて生きるにあらず、酒も必要です。私は特に。それに衣類も住みかもいるし、仕事をするには道具もいるし交通費も必要になる。税金だって払います。
「好きなことが出来れば」といっても一社会人として全うしなければならないことは山ほどあります。それは「当然出来る」という前提でものを考えていると足をすくわれることすらあるほどです。「出来て当たり前」だからといって、自分もできるとは限らないわけです。それが先程の私の思い込みでもありました。
さてさて。それが出来なかったらどうしよう。
それが未明の焦燥の大きな病根であったわけです。それに対して浮上してきたのが冒頭にも書いた「首括ればいいのか」という至って明解かつ鮮やかな解答だったわけです。まさに雲間から一条の光。どうしてそれに気が付かなかったのか不思議なくらいでした。
「首を括る」
立ち行かなくなったときは、死にゃあ良い、と。
自分の人生くらい好きにしたって罰が当たるものではありません。自殺を礼賛するわけではありませんが、そのくらいの権利は自分にあって当然です。権利という言葉すら当たらないでしょう。そうやたらとポンポン死なれても困りますし、生んでもらったことに大きな感謝の気持ちを忘れてはなりませんが。
「好きなこと」をやって、それで社会的に受け入れられなくて現実生活に大きな齟齬を来たし、恥をさらして生きるくらいなら死ねばよいわけです。恥をさらしてでも生きたければ生きればよい。それはその時考えよう、と。
ともかくやるだけやって駄目なら後悔することもなかろう、という気になったわけです。それは今も変わりません。当時より、少しばかり責任を引き受けてはいますが根底としてはやはり「駄目なら首を括る」という私個人の大原則に変わりはないみたいです。もちろんそんなことを始終考えているわけではありませんし、いってみれば最後の保険みたいなものでしょうか。
一時、世間を騒がせた「ドクターキリコ」事件で、自殺用の薬を買った方がインタビューで「それを持っていると安心して、逆に楽に生きられる」というようなことを語っていましたが、心情としては非常に理解できました。薬という具体的なものに依存するところに多少疑問は感じますが、私の「首を括ればいい」も同じようなものです。
「自殺」だの「死」だのと、快活なこのホームページには不似合いな話題が出たついでに、もう少し考えてみます。
「死」というのは怖いものです。
子供の頃は「死んだらどうなるのか」「死にたくない」といったごく普通の畏れを布団の中で感じてまんじりともせず天井を見上げたものです。それが身近な死を経験したり、大病などで身近に死を考えるようになるうちに、「いつかは死ぬのだな」という諦めでもなく、そうした死に対する「受容」が理性ではなく実感として身について来るもののようです。これは決して鈍化させてはいけないものでしょう。
特定の宗教に帰依していようが無宗教であろうが、年を経るに従って自分の中に宗教観を育ててくると思いますが、死に対しても自分なりの態度が形成されてきます。
私の場合、「いつ死んでもいい」とはとても思えませんが、「いつ死んでも仕方がない」という気持ちが常にあります。それがいいことなのか悪いことなのかはよく分かりませんが、そのある種の諦念と開き直りがないまぜになった実感の上に日常があるお陰で、毎日を少しでも意味あるものにしようという気になれるようです。
「いつ死んでも仕方ない」当たり前のことです。
ただそれを当たり前のこととする理性や知識と、実感として受容することには少しばかり距離があるようです。
日々流されるニュースには災害、戦争、事件、事故、病気、そうした災いによって多くの人間の死が伝えられます。近頃では白昼堂々と通り魔が人を殺しますし、愚劣きわまりない若者がオヤジ狩りと称しては無関係の人間を死に至らしめたりもするわけです。そんなニュースをみて「またか」と精神の鈍化を感じる感想を持ったりもしてしまいますが、しかしそのニュースと自分の間には無関係が横たわっているわけではなく、いつ自分の名前が被害者としてニュースに流れることになるか分からない。その時自分はそのニュースを見ることもないのです。
家を出た途端に車にひかれるかも分かりませんし、寝ているときに飛行機が落ちてくるかもしれない。そうした不慮の事故もあれば、酒の飲み過ぎで劇症肝炎を引き起こしたり、タバコの吸い過ぎで腹だけでなく肺も真っ黒になって肺ガンになるといった自分が原因の死もすぐ隣にあるわけです。意識するなという方が無理です。
だからこそ、それをしっかりと意識して日々過ごした方が毎日が有意義になるような気がしてます。
ここまでお付き合いしてくれている奇特な貴方はどう思われます?
さて、ずいぶんと話題が彼岸の方まで流されてきましたが、十年前の未明に覚えた焦燥とそれに対して「首を括る」という最後の保険に考えが至って以降のことです。
そんな一条の光を得たからといって、劇的に生活が変わるわけもありません。人生はドラマだともいいますが、そうそう人間が都合よく変われるわけもなく、か細い神経が薄い膜でわずかに覆われたに過ぎません。それでもほんの少し楽に生きられるようになったでしょうか。楽をして生きたいとは思いませんが、楽に生きたいとは思います。
劇的な変化はなかったにせよ、好きな仕事に対してわずかながらも粘りが生まれたようで、以後だらだらと仕事を続けております。それもやはり多くの幸せの形とやらを捨ててかかった以上、仕事を全うできなければ元が取れないではないか、というあさましい根性なのかもしれません。ウソです。
ともかく心の余計な負担を減らして、仕事に対する気持ちの割り当てをそれまで以上に増やせたお陰か、仕事そのものをより楽しみ、その時間を何よりの喜びとしたのは間違いありません。
仕事が楽しい、そう思い続けることが出来、しかも首を括ろうと微かにも思わずに済んだ、とりあえずこの十年をありがたいものだと思いますし、願わくばこれからもそうでありたいものです。
思えばあの焦燥の未明以来、仕事における微かな結実を手に入れたり、それ以前にこんな浮き世離れした仕事を続けていられること自体が夢のようでもあります。考えようによっては私が参加することが叶わなかったバブルが、実はこうして薄い膜になって自分を覆っているのかもしれない、などとも思えてきます。私のバブルはいまだに進行中なのかもしれません。この風船が弾けないためには、遅まきながら中身を詰めて行かねばならないな、などと柄になもなくしおらしいことも考えてみたりしています。
それでも弾けてどうにもならなくなったら、括ればいいんですからね。
ご静聴ありがとうございました。以上、青年の主張でした。